傍聞き(長岡弘樹)
「いつの間にか大晦日ですね」
「いや、ホント早いもんで」
「今年はこれが最後の感想になるよ」
「だからこんな、ショートショートなのか何なのか分からないような文章を書いてるんですね」
「まあそうだな。っていうかまあ、ショートショートを書くのがもうめんどくさいからなんだけどな」
「まあ何でもいいですよ。今年一年はどうでしたか?」
「今年は、どうもこれっていう本が少なかった気がするなぁ。もちろん面白い作品はたくさんあった。けど、ずば抜けているようなのはなかった印象だなぁ」
「そうなんですか」
「それと後は、小説以外の作品をかなり読んだ気がするかな。数学・物理系の本で非常に面白いものが多かった」
「なるほど。読む趣味も結構変わってきているみたいですしね」
「それは確かにあるな。外国人作家の作品も割と読むようになったし」
「時代小説はまだまだですけどね」
「あと落語ってのは今年の収穫かな。そんなに数としては読んでないけど、落語を扱った本が結構面白かった」
「昔はミステリばっかりだったのに、大分変わりましたね」
「まあそうだ。しかしいつも思うけど、このブログを読んでくれる人には感謝だね」
「ホントそうですね。今年は突然ショートショートなんてのを始めてね。つまんない作品ばっかり山ほど載せてね」
「それでも初めの方は結構頑張ってたんだぞ。三ヶ月もすると息切れしてきて、半年もすると適当になってきたけどな」
「ダメじゃないですか。でも何とか無理矢理ながら一年続いたんだから大したもんだと思いますけどね。来年はどうするんですか?」
「来年はもうショートショートはやりたくないからなぁ。今考えてるのは、本屋の仕事の話をいろいろ書こうかなとは思っているけどね。何が売れてるとか、こんなチャレンジをしてみたとか、後は本屋はよく使うけど本屋についてはよく知らないみたいな人に初級本屋講座みたいなのを適当に書いてみたりね」
「なるほど。まあそれはいいかもしれないですね」
「本屋の仕事だったらまあいろいろ書けるだろうから、何とか一年ぐらい持つんじゃないかな」
「まあ来年って言っても明日からですからね。まあ頑張ってくださいよ」
「言われなくても頑張るよ」
「ではではこの辺で終わりにしましょうかね」
「そうしようか。今年も一年、こんなつまらないブログを読んでくれてありがとうございました。来年もまた一つ、よろしくお願いいたします」
一銃「皆さんよいお年を」
というわけで最後はめんどくさくなったのでショートショートを止めて年末の挨拶みたいな感じにしてみました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は四編の短編が収録された短編集です。
「迷い箱」
刑務所から出所した人を支援する更正施設の施設長である設楽結子は碓井という男のことが気になっていた。過失とは言え人を殺してしまった55歳。飲酒により健康状態もよくないし、特別な技術があるわけでもない碓井の再就職はやはり困難で、出来れば頼りたくなかった飯塚製作所に頼むことにした。
頼みたくなかった理由は、近くに川があるからだ。
碓井が飯塚製作所の寮に入った日は、ちょうど被害者の命日。その日から碓井は家電量販店や飲み屋へへ顔を出すようになるのだが…。
「899」
消防署員である諸上将吾は、近くに住む新村初美のことが気になっている。出勤のタイミングを合わせて会話をしたり、働いているそば屋に顔を出したりと努力をしている。
ある日初美の近所で火災がおき、諸上に出動命令が掛かった。初美の家まで延焼していたが、恐らく誰も部屋にいないだろうと諸上は思っていた。
しかし現場近くに来た初美により、赤ちゃんが中に残されていることが分かった。必死で探すも、諸上には見つけられない。後輩が見つけて事なきを得たが…。
「傍聞き」
強行犯係所属の刑事である羽角啓子は、担当ではないがすぐ近くで起きた居空き事件を耳にし、気に掛ける。啓子自身は連続通り魔を追っているのだが進展がない。
娘が啓子に対して怒っていて、それを郵便葉書を経由して伝えることが多くて、最近でもそれがまたあった。しかも内容は、窃盗犯ばかり追いかけて家を留守にしていることに対しての不満らしく、娘らしくないと感じる。
一方で、啓子の近所で起きた居空き事件の犯人だと思われている男から面会に来るように言われる。行く必要もないだろうと思った啓子だったが…。
「迷走」
救急救命士として救急車に乗っている蓮川潤也は、もうじき義理の父親になる室伏光雄隊長と共に仕事をしている。男が刺されたという一報があり現場に駆けつけると、そこには室伏の知り合いらしい男が倒れていた。
被害者の素性を知ると蓮川は怒りが込み上げてきた。被害者は、蓮川と室伏の敵とも言っていい人物だった。
被害者の搬送先が決まらない中、室伏はもう一人の敵とも言える男へ連絡するよう蓮川に言った。その男は医者だったが、蓮川は連絡をしなかったのだ。
その医者との連絡が突然途絶えて以降、室伏の様子がおかしくなった。病院に着いたのに被害者を下ろすことなく、サイレンを鳴らしたまま救急車を走らせ続ける…。
「傍聞き」という短編が、今年度の日本推理作家協会賞短編部門で受賞したようです。これは、横山秀夫「動機」、光原百合「十八の夏」、伊坂幸太郎「死神の精度」などが受賞しているもので、選考委員が満場一致で決定したと帯にあります。それで気になって読んでみることにしました。
四篇共に、非常に出来のいい短編だと思いました。短い話ながら、ミステリとして完成度が高いと思います。
どの作品も、刑事や消防士と言った社会貢献度がより高い人々を扱っています。生死に関わるような話だったり、人の人生が関わるような話だったりするわけで、設定がまずなかなかいいなと思いました。
「迷い箱」は、最後のオチは早々分かってしまいましたが、いい話だと思いました。碓井という不器用な男が、何故奇妙な行動に出たのか、そして何故「あれ」を実行に移したのがあの日ではなかったのか、というところが謎となっていきます。
「899」は、子供を亡くしたばかりの諸上の部下と、火災現場で何故子供が見つからなかったのか、という点が凄くうまく組み合わされていて見事だと思いました。子供を亡くしたばかりの部下の行動が正しいのかどうか考えてみて欲しいと思います。僕は、危険だったけど、正しかったんじゃないかなと思ったりします。
「傍聞き」は、メインとなる謎が二つあるんだけど、その内の一つについては大体分かりました。割と早い段階で気づきましたけど、それでもなるほどこれはうまいなと思いました。
もう一つの謎の方がメインになると思うけど、これはまさにタイトル通りなんですね。15番と呼ばれる男がどうしてそんな謎めいた行動をしたのか、という点が重要になってくるんですけど、なるほど面白い話だなと思いました。
「迷走」が僕は一番好きかもしれないですね。これは本当に最後まで、どういうことなんだろうと思って読みました。被害者に対して個人的な恨みを持っているはずの隊長がする一連の奇妙な行動。まるで被害者に対して復讐をしているようにしか思えないその謎の行動が、実はあっと驚くような理由によって行われていることを読者は知り驚くことでしょう。これは本当にお見事だなと思いました。
どの話も、主人公は何らかの誤解をするんですね。裏切られた、見落とした、襲われる、復讐をしているに違いない、と。しかし実際はまったく違っていて、主人公の解釈が間違っていたということが分かるわけです。その過程で、人間同士の深い関わりみたいなものを浮き彫りにしていくので、面白いです。まだデビューして間もない新人みたいですが、大いに期待できるなぁ、と思います。
非常にレベルの高い短編集だと思います。是非読んでみてください。
長岡弘樹「傍聞き」
「いや、ホント早いもんで」
「今年はこれが最後の感想になるよ」
「だからこんな、ショートショートなのか何なのか分からないような文章を書いてるんですね」
「まあそうだな。っていうかまあ、ショートショートを書くのがもうめんどくさいからなんだけどな」
「まあ何でもいいですよ。今年一年はどうでしたか?」
「今年は、どうもこれっていう本が少なかった気がするなぁ。もちろん面白い作品はたくさんあった。けど、ずば抜けているようなのはなかった印象だなぁ」
「そうなんですか」
「それと後は、小説以外の作品をかなり読んだ気がするかな。数学・物理系の本で非常に面白いものが多かった」
「なるほど。読む趣味も結構変わってきているみたいですしね」
「それは確かにあるな。外国人作家の作品も割と読むようになったし」
「時代小説はまだまだですけどね」
「あと落語ってのは今年の収穫かな。そんなに数としては読んでないけど、落語を扱った本が結構面白かった」
「昔はミステリばっかりだったのに、大分変わりましたね」
「まあそうだ。しかしいつも思うけど、このブログを読んでくれる人には感謝だね」
「ホントそうですね。今年は突然ショートショートなんてのを始めてね。つまんない作品ばっかり山ほど載せてね」
「それでも初めの方は結構頑張ってたんだぞ。三ヶ月もすると息切れしてきて、半年もすると適当になってきたけどな」
「ダメじゃないですか。でも何とか無理矢理ながら一年続いたんだから大したもんだと思いますけどね。来年はどうするんですか?」
「来年はもうショートショートはやりたくないからなぁ。今考えてるのは、本屋の仕事の話をいろいろ書こうかなとは思っているけどね。何が売れてるとか、こんなチャレンジをしてみたとか、後は本屋はよく使うけど本屋についてはよく知らないみたいな人に初級本屋講座みたいなのを適当に書いてみたりね」
「なるほど。まあそれはいいかもしれないですね」
「本屋の仕事だったらまあいろいろ書けるだろうから、何とか一年ぐらい持つんじゃないかな」
「まあ来年って言っても明日からですからね。まあ頑張ってくださいよ」
「言われなくても頑張るよ」
「ではではこの辺で終わりにしましょうかね」
「そうしようか。今年も一年、こんなつまらないブログを読んでくれてありがとうございました。来年もまた一つ、よろしくお願いいたします」
一銃「皆さんよいお年を」
というわけで最後はめんどくさくなったのでショートショートを止めて年末の挨拶みたいな感じにしてみました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は四編の短編が収録された短編集です。
「迷い箱」
刑務所から出所した人を支援する更正施設の施設長である設楽結子は碓井という男のことが気になっていた。過失とは言え人を殺してしまった55歳。飲酒により健康状態もよくないし、特別な技術があるわけでもない碓井の再就職はやはり困難で、出来れば頼りたくなかった飯塚製作所に頼むことにした。
頼みたくなかった理由は、近くに川があるからだ。
碓井が飯塚製作所の寮に入った日は、ちょうど被害者の命日。その日から碓井は家電量販店や飲み屋へへ顔を出すようになるのだが…。
「899」
消防署員である諸上将吾は、近くに住む新村初美のことが気になっている。出勤のタイミングを合わせて会話をしたり、働いているそば屋に顔を出したりと努力をしている。
ある日初美の近所で火災がおき、諸上に出動命令が掛かった。初美の家まで延焼していたが、恐らく誰も部屋にいないだろうと諸上は思っていた。
しかし現場近くに来た初美により、赤ちゃんが中に残されていることが分かった。必死で探すも、諸上には見つけられない。後輩が見つけて事なきを得たが…。
「傍聞き」
強行犯係所属の刑事である羽角啓子は、担当ではないがすぐ近くで起きた居空き事件を耳にし、気に掛ける。啓子自身は連続通り魔を追っているのだが進展がない。
娘が啓子に対して怒っていて、それを郵便葉書を経由して伝えることが多くて、最近でもそれがまたあった。しかも内容は、窃盗犯ばかり追いかけて家を留守にしていることに対しての不満らしく、娘らしくないと感じる。
一方で、啓子の近所で起きた居空き事件の犯人だと思われている男から面会に来るように言われる。行く必要もないだろうと思った啓子だったが…。
「迷走」
救急救命士として救急車に乗っている蓮川潤也は、もうじき義理の父親になる室伏光雄隊長と共に仕事をしている。男が刺されたという一報があり現場に駆けつけると、そこには室伏の知り合いらしい男が倒れていた。
被害者の素性を知ると蓮川は怒りが込み上げてきた。被害者は、蓮川と室伏の敵とも言っていい人物だった。
被害者の搬送先が決まらない中、室伏はもう一人の敵とも言える男へ連絡するよう蓮川に言った。その男は医者だったが、蓮川は連絡をしなかったのだ。
その医者との連絡が突然途絶えて以降、室伏の様子がおかしくなった。病院に着いたのに被害者を下ろすことなく、サイレンを鳴らしたまま救急車を走らせ続ける…。
「傍聞き」という短編が、今年度の日本推理作家協会賞短編部門で受賞したようです。これは、横山秀夫「動機」、光原百合「十八の夏」、伊坂幸太郎「死神の精度」などが受賞しているもので、選考委員が満場一致で決定したと帯にあります。それで気になって読んでみることにしました。
四篇共に、非常に出来のいい短編だと思いました。短い話ながら、ミステリとして完成度が高いと思います。
どの作品も、刑事や消防士と言った社会貢献度がより高い人々を扱っています。生死に関わるような話だったり、人の人生が関わるような話だったりするわけで、設定がまずなかなかいいなと思いました。
「迷い箱」は、最後のオチは早々分かってしまいましたが、いい話だと思いました。碓井という不器用な男が、何故奇妙な行動に出たのか、そして何故「あれ」を実行に移したのがあの日ではなかったのか、というところが謎となっていきます。
「899」は、子供を亡くしたばかりの諸上の部下と、火災現場で何故子供が見つからなかったのか、という点が凄くうまく組み合わされていて見事だと思いました。子供を亡くしたばかりの部下の行動が正しいのかどうか考えてみて欲しいと思います。僕は、危険だったけど、正しかったんじゃないかなと思ったりします。
「傍聞き」は、メインとなる謎が二つあるんだけど、その内の一つについては大体分かりました。割と早い段階で気づきましたけど、それでもなるほどこれはうまいなと思いました。
もう一つの謎の方がメインになると思うけど、これはまさにタイトル通りなんですね。15番と呼ばれる男がどうしてそんな謎めいた行動をしたのか、という点が重要になってくるんですけど、なるほど面白い話だなと思いました。
「迷走」が僕は一番好きかもしれないですね。これは本当に最後まで、どういうことなんだろうと思って読みました。被害者に対して個人的な恨みを持っているはずの隊長がする一連の奇妙な行動。まるで被害者に対して復讐をしているようにしか思えないその謎の行動が、実はあっと驚くような理由によって行われていることを読者は知り驚くことでしょう。これは本当にお見事だなと思いました。
どの話も、主人公は何らかの誤解をするんですね。裏切られた、見落とした、襲われる、復讐をしているに違いない、と。しかし実際はまったく違っていて、主人公の解釈が間違っていたということが分かるわけです。その過程で、人間同士の深い関わりみたいなものを浮き彫りにしていくので、面白いです。まだデビューして間もない新人みたいですが、大いに期待できるなぁ、と思います。
非常にレベルの高い短編集だと思います。是非読んでみてください。
長岡弘樹「傍聞き」
父からの手紙(小杉健治)
ラブレターなんていうのはもう古いのかもしれないけど、彼女に想いを伝えるにはラブレターしかない、と思った。
一目見た時から惚れ込んでしまった。彼女に対する溢れんばかりの言葉が、僕の内側で行き場を求めている。
そうとなればすぐさま行動しないではいられない。僕はさっそく文房具店に行き、便箋を買って来て書き始めた。
しかし、便箋に何枚書き続けても、溢れる言葉は一向に尽きる気配がない。もう8枚目に突入しているが、まだまだ書けそうな気がする。
そこで僕はまた文房具店に行き、大学ノートを買ってきた。とりあえず溢れ出る言葉をここに書き綴ろうと思ったのだ。もちろん書いた文章をすべて送っては迷惑だろうけど、自分の中にある言葉を全部とりあえず出し切ってしまわないと気持ちが悪いのだ。
とりあえず風呂に入り、夕食を食べた後でまた書き始めた。
ものすごいスピードで文章を書いているのだけど、手が止まることはまったくない。次から次へと言葉が溢れてくる。彼女のことを想うだけで何百何千という言葉が奔流となって飛び出してくるのだ。
僕は時間の感覚も忘れて書き続けた。空腹も覚えず、眠気も感じなかった。夢の中の世界にいるようにフワフワした感覚の中で、僕はとにかくひたすらに手を動かし続けていた。
ようやく書き終わった時には、もう朝になっていた。大学ノート二冊分がびっしりと埋まっていた。さすがに疲れを感じて伸びをし、新聞を取りに郵便受けを覗くことにした。
郵便受けを見て僕は驚いた。新聞がこれでもかというくらい溜まっていたのだ。初めは何かの悪戯ではないかと思った。一晩でこんなに新聞が溜まるはずがない。
しかし嫌な予感がして、部屋に戻って携帯を確認してみた。
時刻を確認しようとしたのだが、その前に山ほどのメールと着信があった。とりあえずそれは後で見ることにして、日付を確認してみた。
ラブレターを書き始めてから三ヶ月が経過していた。
僕は力なく笑った。自分が書いたラブレターを見返そうと、大学ノートを開いた。しかし、大学ノートは、真っ黒だった。僕が文章を何度も上から重ねて書いていたらしい。もはや何て書いてあるのか判読は不可能だった。
何をどう考えたらいいかも分からず、僕はただ茫然としていた。
一銃「夜書いた手紙は朝読み返せ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は二つの視点が交互に入れ替わりながらスト―リーが進んでいく構成になっています。
阿久津麻美子は、誕生日毎に送られてくる父からの手紙で、母と離婚し家を出て行った父のことを強く思い出す。父は外に女性を作り、母と自分と弟を捨てて行ってしまったらしい。自分には夢があるからと言っていたが、それでも家族を捨てていくのは無責任に過ぎる。ただ、こうして手紙を毎年送ってくれる父を恨んでいるというわけではない。
父がいなくなって十年、麻美子は結婚を控えた身になった。しかしその結婚は愛からのものではなく、打算からくるものだった。麻美子の婚約者はコンサルタント会社の社長であり、麻美子が小さい頃から慕っていた山部親子の会社を立て直してくれると約束してくれたのだ。それなら自分が犠牲になろう。麻美子はそれでいいと思っていた。
しかし、ある日麻美子の婚約者が死体で見つかった。そしてなんとその容疑者として弟が逮捕されてしまったのだ。それを機に麻美子は、父についていろいろ調べることになるのだが…。
一方、秋山圭一は十年の刑期を終えて出所した。犬塚という悪徳刑事を殺した罪によってだった。
出所して圭一は、叔父の手配してくれた住居で一人暮らしを始めるが、自分が何故犬塚を殺したのかが気になって仕方なかった。
犬塚は義姉を脅そうとしていた。たぶん義姉を守ろうと殺人を犯したはずだ。しかし、犬塚が最後に言った言葉がどうしても思い出せない。その言葉にカッとなって、自分は殺意を抱いたはずなのだ。
圭一は過去にケリをつけなくては前へは進めないと思い、いろいろ調べることになるのだが…。
というような話です。
この作品は今年かなり売れました。どこかの書店が仕掛けたらしく、それが全国的に広がったんですけど、僕はまあいいかなと思って読んでませんでした。ただ、ちょっと前に出版社の営業の人が面白いですよと言っていたので読んでみることにしました。
全体的にはなかなか良いストーリーだと思いました。全体的にはミステリタッチで、しかもいくつかの謎があります。麻美子の父はどこにいるのか、弟が容疑者になった事件の真相は何なのか、圭一の兄が自殺した事件の真相は何なのか、などで、こういう謎が最後にうまく収まっていきます。
またそのミステリタッチの背景に、家族の絆みたいなものがテーマとしてあってそれがきっちりと浮かび上がるような構成になっているので面白いなと思いました。
ただ僕的にこれはちょっと冗長な作品だなという風にも感じました。ちょっと展開が遅いというか、ダラダラしているようなイメージですね。でその最たる原因となっているのが、素人による調査ですね。
ミステリでは普通、刑事とかが捜査をします。刑事の捜査であれば、組織立っているし経験もあるわけで、冗長にはならないですね。
また本格ミステリなんかでは、探偵や探偵役として扱われる登場人物が事件を調べます。探偵はそれなりにノウハウを持っているだろうし、探偵役となる素人も基本的に『本格ミステリで必要となる調査の知識を持っている』という前提があるので、そこまで冗長にはなりえません。
でも本作のように、刑事でも探偵でもない素人が何か事件と係わり合いのあることについて調べるという場合、よほどうまくやらないと冗長になってしまいますね。大抵そういう場合、組織力もないし、時間もお金もない。その中で、隠れている真実を見つけ出さなくてはいけないわけです。すぐさま真相に飛躍させるわけにはいかないから回りくどいあれこれを挿入しないといけないし、一方で偶然や発想の飛躍みたいなものを織り込まないとどうしても真相に辿り着けなくなってしまうんですね。そういう部分があるから、どうしても冗長になりやすい、と僕は思っています。
本作も、やっぱり素人があれこれ調査をすることになるわけで、どうしても冗長さから脱することは出来ないですね。麻美子が父について調べる部分はまだいいとしても、麻美子が弟が容疑者になっている事件について調べる部分はさすがにちょっと無理があるような気がしました。圭一の方の調査にしても、最後真実に至る過程は、ちょっと飛躍が過ぎるんじゃないかな、と。現実にそういうことがあった、というならそれはそれでいいんですけど、やっぱり小説の中ではこういう飛躍は結構厳しくないかなぁ、と思ったりします。
とはいえ、まあ全体としてはなかなか良いと思いました。上記で触れた冗長ささえ目を瞑れば、ミステリ的な部分も人間的な部分もなかなかうまく出来ていると思いました。さらに言うと、どちらかと言えば家庭を持って子供もいるような人が読んだ方がいいのかもしれないな、と思ったりはしました。親の目線で読むと、また違った風に読めるのかもしれません。
人間臭いミステリを読みたいという人は読んでみてください。
小杉健治「父からの手紙」
一目見た時から惚れ込んでしまった。彼女に対する溢れんばかりの言葉が、僕の内側で行き場を求めている。
そうとなればすぐさま行動しないではいられない。僕はさっそく文房具店に行き、便箋を買って来て書き始めた。
しかし、便箋に何枚書き続けても、溢れる言葉は一向に尽きる気配がない。もう8枚目に突入しているが、まだまだ書けそうな気がする。
そこで僕はまた文房具店に行き、大学ノートを買ってきた。とりあえず溢れ出る言葉をここに書き綴ろうと思ったのだ。もちろん書いた文章をすべて送っては迷惑だろうけど、自分の中にある言葉を全部とりあえず出し切ってしまわないと気持ちが悪いのだ。
とりあえず風呂に入り、夕食を食べた後でまた書き始めた。
ものすごいスピードで文章を書いているのだけど、手が止まることはまったくない。次から次へと言葉が溢れてくる。彼女のことを想うだけで何百何千という言葉が奔流となって飛び出してくるのだ。
僕は時間の感覚も忘れて書き続けた。空腹も覚えず、眠気も感じなかった。夢の中の世界にいるようにフワフワした感覚の中で、僕はとにかくひたすらに手を動かし続けていた。
ようやく書き終わった時には、もう朝になっていた。大学ノート二冊分がびっしりと埋まっていた。さすがに疲れを感じて伸びをし、新聞を取りに郵便受けを覗くことにした。
郵便受けを見て僕は驚いた。新聞がこれでもかというくらい溜まっていたのだ。初めは何かの悪戯ではないかと思った。一晩でこんなに新聞が溜まるはずがない。
しかし嫌な予感がして、部屋に戻って携帯を確認してみた。
時刻を確認しようとしたのだが、その前に山ほどのメールと着信があった。とりあえずそれは後で見ることにして、日付を確認してみた。
ラブレターを書き始めてから三ヶ月が経過していた。
僕は力なく笑った。自分が書いたラブレターを見返そうと、大学ノートを開いた。しかし、大学ノートは、真っ黒だった。僕が文章を何度も上から重ねて書いていたらしい。もはや何て書いてあるのか判読は不可能だった。
何をどう考えたらいいかも分からず、僕はただ茫然としていた。
一銃「夜書いた手紙は朝読み返せ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は二つの視点が交互に入れ替わりながらスト―リーが進んでいく構成になっています。
阿久津麻美子は、誕生日毎に送られてくる父からの手紙で、母と離婚し家を出て行った父のことを強く思い出す。父は外に女性を作り、母と自分と弟を捨てて行ってしまったらしい。自分には夢があるからと言っていたが、それでも家族を捨てていくのは無責任に過ぎる。ただ、こうして手紙を毎年送ってくれる父を恨んでいるというわけではない。
父がいなくなって十年、麻美子は結婚を控えた身になった。しかしその結婚は愛からのものではなく、打算からくるものだった。麻美子の婚約者はコンサルタント会社の社長であり、麻美子が小さい頃から慕っていた山部親子の会社を立て直してくれると約束してくれたのだ。それなら自分が犠牲になろう。麻美子はそれでいいと思っていた。
しかし、ある日麻美子の婚約者が死体で見つかった。そしてなんとその容疑者として弟が逮捕されてしまったのだ。それを機に麻美子は、父についていろいろ調べることになるのだが…。
一方、秋山圭一は十年の刑期を終えて出所した。犬塚という悪徳刑事を殺した罪によってだった。
出所して圭一は、叔父の手配してくれた住居で一人暮らしを始めるが、自分が何故犬塚を殺したのかが気になって仕方なかった。
犬塚は義姉を脅そうとしていた。たぶん義姉を守ろうと殺人を犯したはずだ。しかし、犬塚が最後に言った言葉がどうしても思い出せない。その言葉にカッとなって、自分は殺意を抱いたはずなのだ。
圭一は過去にケリをつけなくては前へは進めないと思い、いろいろ調べることになるのだが…。
というような話です。
この作品は今年かなり売れました。どこかの書店が仕掛けたらしく、それが全国的に広がったんですけど、僕はまあいいかなと思って読んでませんでした。ただ、ちょっと前に出版社の営業の人が面白いですよと言っていたので読んでみることにしました。
全体的にはなかなか良いストーリーだと思いました。全体的にはミステリタッチで、しかもいくつかの謎があります。麻美子の父はどこにいるのか、弟が容疑者になった事件の真相は何なのか、圭一の兄が自殺した事件の真相は何なのか、などで、こういう謎が最後にうまく収まっていきます。
またそのミステリタッチの背景に、家族の絆みたいなものがテーマとしてあってそれがきっちりと浮かび上がるような構成になっているので面白いなと思いました。
ただ僕的にこれはちょっと冗長な作品だなという風にも感じました。ちょっと展開が遅いというか、ダラダラしているようなイメージですね。でその最たる原因となっているのが、素人による調査ですね。
ミステリでは普通、刑事とかが捜査をします。刑事の捜査であれば、組織立っているし経験もあるわけで、冗長にはならないですね。
また本格ミステリなんかでは、探偵や探偵役として扱われる登場人物が事件を調べます。探偵はそれなりにノウハウを持っているだろうし、探偵役となる素人も基本的に『本格ミステリで必要となる調査の知識を持っている』という前提があるので、そこまで冗長にはなりえません。
でも本作のように、刑事でも探偵でもない素人が何か事件と係わり合いのあることについて調べるという場合、よほどうまくやらないと冗長になってしまいますね。大抵そういう場合、組織力もないし、時間もお金もない。その中で、隠れている真実を見つけ出さなくてはいけないわけです。すぐさま真相に飛躍させるわけにはいかないから回りくどいあれこれを挿入しないといけないし、一方で偶然や発想の飛躍みたいなものを織り込まないとどうしても真相に辿り着けなくなってしまうんですね。そういう部分があるから、どうしても冗長になりやすい、と僕は思っています。
本作も、やっぱり素人があれこれ調査をすることになるわけで、どうしても冗長さから脱することは出来ないですね。麻美子が父について調べる部分はまだいいとしても、麻美子が弟が容疑者になっている事件について調べる部分はさすがにちょっと無理があるような気がしました。圭一の方の調査にしても、最後真実に至る過程は、ちょっと飛躍が過ぎるんじゃないかな、と。現実にそういうことがあった、というならそれはそれでいいんですけど、やっぱり小説の中ではこういう飛躍は結構厳しくないかなぁ、と思ったりします。
とはいえ、まあ全体としてはなかなか良いと思いました。上記で触れた冗長ささえ目を瞑れば、ミステリ的な部分も人間的な部分もなかなかうまく出来ていると思いました。さらに言うと、どちらかと言えば家庭を持って子供もいるような人が読んだ方がいいのかもしれないな、と思ったりはしました。親の目線で読むと、また違った風に読めるのかもしれません。
人間臭いミステリを読みたいという人は読んでみてください。
小杉健治「父からの手紙」
森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!(森博嗣)
「時間っていうのはどこにあるんでしょうかね」
「時計を見れば分かるだろう。今は、21時ちょうどだ」
「時計ってのはなんか違うじゃないですか。時間そのものって感じがしません」
「感じがしないと言われても困るけど」
「四次元の軸が時間だっていうじゃないですか。でも四次元の軸って目に見えませんよね?」
「そんなこと言ったら、xyz軸だって別に目に見えないよ」
「でも座標として書けるじゃないですか。でもでも、時間の軸とかは書けないんですよ。どこにあるんですか?」
「まあそんなこと言われてもね」
「じゃあやっぱり時間って目には見えないんですか」
「目に見えて良い事があるのか、っていう点が重要だと思うけど」
「時間って真っ直ぐなんですかね?」
「真っ直ぐ?」
「つまり、アメリカのハイウェイみたいにずっと直線っていうか」
「アメリカのハイウェイも曲がってると思うけど」
「もう、例えですよぉ」
「時間が真っ直ぐでなければいけない理由はないだろうね」
「じゃあループしてたり?」
「可能性は否定できないだろうね」
「じゃあこのまま時間を進んでたら、いずれ過去に繋がってたりみたいな?」
「もしそうだとしても、過去に来たということに気づくことはないかもしれないけどね」
「そうなると、もしかしたら今も過去だったりするかもしれないかもかも?」
「かもかも?」
「そこは別にいいんです」
「将来見えるようになったらいいね」
一銃「テキトーな時間論」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣が「日経パソコン」に二年半連載されていた科学エッセイをまとめたものです。60の科学問答が収録されています。
科学問答という通り、教授と助手の会話のみで構成されています。一応今日のショートショートはそれを真似してみました。ただやっぱり難しいですね。読んでる時は、これぐらいの文章は簡単に書けそうだなと思うんだけど(知識の部分ではなく、会話の妙の部分)、ただやっぱ書いてみると難しいよなぁと感じます。助手の聞き間違いとか、たまにいい発想の飛躍とか、そういう会話の絶妙さがうまいんですよね。森博嗣の小説を読んでても思うけど、やっぱり会話がうまいですね。しかも、どこから情報を仕入れてるのか知らないけど、最近の若者的な思考とか話し方みたいなものもきっちり知ってるんですね。凄いものだなと思います。
見開き2ページで一つのテーマを扱っていて、絵もついています。元々この絵は、森博嗣の奥さんであるささきすばる氏がすべて手掛ける予定だったようですが、ささきすばる氏は理系に疎い。書かなくてはいけない絵は理系的な図が多いわけで、それはちょっと出来ないといわれたようで、結局森博嗣が下書きをすることになったとか。前書きで、どうも割に合わないなぁ(という主旨じゃないかもしれないけど)みたいなことを書いていました。
本作に載っている話は、身近でありながらよく知らないような、なかなか絶妙なポイントを突いてきます。タイトルだけ幾つか挙げてみると、
「AMとFM」
「自転車のハンドルの秘密」
「ブーメランは何故戻って来る?」
「どうして左右だけ逆になる?」
「宇宙人っているの?」
「四次元の世界」
「スペースシャトルで紙飛行機」
「マカロニの作り方」
ね?なかなか身近だけど知らないことが多いでしょう?
自転車が何で倒れないのか、というのが四連続で続くんだけど、まさかそんな深い理由があるなんて知りませんでした。あんなに単純な機構なのに、いろいろ考えられてるんだなぁ、とビックリしました。
あと、鏡はどうして左右が反転するのか、も面白いですね。まあこの説明は、確か「冷たい密室と博士たち」でも出てきたような気がしたけど(別の作品だったかもしれないけど)、やっぱり分かりやすいですね。バルタン星人が出てくるんだけど、なるほど確かにそう考えると理解出来るなと思います。
四次元の話もものすごく分かりやすいですね。説明で金太郎飴が出てくるんですけど、わかりやすいですねぇ。すごいなと思いました。金太郎飴を使って時間の説明をするなんて、さすが森博嗣。
森博嗣がブログで書いていましたが、やっぱり本書は絵の存在が重要です。ただ同じくブログに書いていましたけど、文系の人にはその価値がわからないだろう、とも書いています。確かに本書は、文章は会話の妙の方が強くて、理系的な部分は絵がかなり補っています。
この本は、子供とかに読ませたらいいかもしれないですね。理系に興味を持たせるとっかかりになるんではないかなと思います。深い部分まで説明していない本ですが、その深い部分は自分で調べる余地があるので、そういう部分もいいですね。もちろん、文系の人も読めるし、大人でも知らないことはたくさんあると思います。読んでみてください。
森博嗣「森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!」
「時計を見れば分かるだろう。今は、21時ちょうどだ」
「時計ってのはなんか違うじゃないですか。時間そのものって感じがしません」
「感じがしないと言われても困るけど」
「四次元の軸が時間だっていうじゃないですか。でも四次元の軸って目に見えませんよね?」
「そんなこと言ったら、xyz軸だって別に目に見えないよ」
「でも座標として書けるじゃないですか。でもでも、時間の軸とかは書けないんですよ。どこにあるんですか?」
「まあそんなこと言われてもね」
「じゃあやっぱり時間って目には見えないんですか」
「目に見えて良い事があるのか、っていう点が重要だと思うけど」
「時間って真っ直ぐなんですかね?」
「真っ直ぐ?」
「つまり、アメリカのハイウェイみたいにずっと直線っていうか」
「アメリカのハイウェイも曲がってると思うけど」
「もう、例えですよぉ」
「時間が真っ直ぐでなければいけない理由はないだろうね」
「じゃあループしてたり?」
「可能性は否定できないだろうね」
「じゃあこのまま時間を進んでたら、いずれ過去に繋がってたりみたいな?」
「もしそうだとしても、過去に来たということに気づくことはないかもしれないけどね」
「そうなると、もしかしたら今も過去だったりするかもしれないかもかも?」
「かもかも?」
「そこは別にいいんです」
「将来見えるようになったらいいね」
一銃「テキトーな時間論」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、森博嗣が「日経パソコン」に二年半連載されていた科学エッセイをまとめたものです。60の科学問答が収録されています。
科学問答という通り、教授と助手の会話のみで構成されています。一応今日のショートショートはそれを真似してみました。ただやっぱり難しいですね。読んでる時は、これぐらいの文章は簡単に書けそうだなと思うんだけど(知識の部分ではなく、会話の妙の部分)、ただやっぱ書いてみると難しいよなぁと感じます。助手の聞き間違いとか、たまにいい発想の飛躍とか、そういう会話の絶妙さがうまいんですよね。森博嗣の小説を読んでても思うけど、やっぱり会話がうまいですね。しかも、どこから情報を仕入れてるのか知らないけど、最近の若者的な思考とか話し方みたいなものもきっちり知ってるんですね。凄いものだなと思います。
見開き2ページで一つのテーマを扱っていて、絵もついています。元々この絵は、森博嗣の奥さんであるささきすばる氏がすべて手掛ける予定だったようですが、ささきすばる氏は理系に疎い。書かなくてはいけない絵は理系的な図が多いわけで、それはちょっと出来ないといわれたようで、結局森博嗣が下書きをすることになったとか。前書きで、どうも割に合わないなぁ(という主旨じゃないかもしれないけど)みたいなことを書いていました。
本作に載っている話は、身近でありながらよく知らないような、なかなか絶妙なポイントを突いてきます。タイトルだけ幾つか挙げてみると、
「AMとFM」
「自転車のハンドルの秘密」
「ブーメランは何故戻って来る?」
「どうして左右だけ逆になる?」
「宇宙人っているの?」
「四次元の世界」
「スペースシャトルで紙飛行機」
「マカロニの作り方」
ね?なかなか身近だけど知らないことが多いでしょう?
自転車が何で倒れないのか、というのが四連続で続くんだけど、まさかそんな深い理由があるなんて知りませんでした。あんなに単純な機構なのに、いろいろ考えられてるんだなぁ、とビックリしました。
あと、鏡はどうして左右が反転するのか、も面白いですね。まあこの説明は、確か「冷たい密室と博士たち」でも出てきたような気がしたけど(別の作品だったかもしれないけど)、やっぱり分かりやすいですね。バルタン星人が出てくるんだけど、なるほど確かにそう考えると理解出来るなと思います。
四次元の話もものすごく分かりやすいですね。説明で金太郎飴が出てくるんですけど、わかりやすいですねぇ。すごいなと思いました。金太郎飴を使って時間の説明をするなんて、さすが森博嗣。
森博嗣がブログで書いていましたが、やっぱり本書は絵の存在が重要です。ただ同じくブログに書いていましたけど、文系の人にはその価値がわからないだろう、とも書いています。確かに本書は、文章は会話の妙の方が強くて、理系的な部分は絵がかなり補っています。
この本は、子供とかに読ませたらいいかもしれないですね。理系に興味を持たせるとっかかりになるんではないかなと思います。深い部分まで説明していない本ですが、その深い部分は自分で調べる余地があるので、そういう部分もいいですね。もちろん、文系の人も読めるし、大人でも知らないことはたくさんあると思います。読んでみてください。
森博嗣「森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!」
20世紀の幽霊たち(ジョー・ヒル)
幽霊が収められている博物館が開館した、という噂が僕の耳にも入ってきた。その博物館の開館は5日前。噂に疎い僕にしては早耳な方だ。
過去幽霊が展示された博物館はなかっただろう。そして恐らくこれからもないに違いない。その噂は、何かの間違いであることは明白だ。幽霊など、そもそも存在するはずがないし、存在しないものが展示されるはずがない。
もちろん僕は出かけていった。その博物館にだ。何でそんなでっちあげがまかり通るのか、確かめてやろうと思ったのだ。
幽霊がいるという一角は盛況だった。そしてそこから出てきたものは皆、まるで幽霊でも見てきたかのような顔をしていた。どうせお化け屋敷の類だろう。僕はそう高を括っていた。
長い順番待ちの後、ようやく中に入れた。その部屋は二重のドアによって隔てられているのだけど、その奥にあるのはただ真っ暗なだけの部屋だった。明かりはまったくない。広さもどれぐらいなのかさっぱり分からない。こんなに暗くては展示も何もないではないか。
しかしその部屋にしばらくいた後、不意に奇妙な感覚に囚われた。今のは何だ?うまく説明出来ない。映像が見えたわけでも、声が聞こえたわけでもないのだけど、3年前に死んだ母親のことが急に脳裏に浮かび上がったのだ。まるで、僕の身体の中を、死んだ母親の幽霊が通り抜けでもしたかのように…。
そんなバカな。しかし、説明のつかないことが起きたことは確かだ。インチキを暴いてやろうと思ったのに、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
恐らく僕もその部屋から出る時は、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていたことだろう。
一銃「幽霊のいる博物館」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ショートショートから中編まで16編の作品が収録されています。本来ならそのそれぞれの内容を紹介するんですが、僕としては本作はあんまり好きになれない作品で、全部の内容紹介をする気力が湧かないので、自分の中で多少気に入った作品だけ内容紹介しようと思います。
「ポップ・アート」
身体が風船で出来ている友人との話。彼は喋ったり出来ないし、物もうまくつかめないけど、字でコミュニケーションが出来るし、主人公の唯一無二の親友になる。
「末期の吐息」
死んでいく者の最後の吐息だけを集めた博物館での話。そこにやってきた家族が、「末期の吐息」という科学では考えられないものと触れる。
「おとうさんの仮面」
家族で別荘に向かう。ホラ吹きのお母さんがよくわからないゲームを持ちかけてくる。別荘に着くと仮面をつける。少年は森で迷う。
まあこんな感じでしょうか。
本作のよくない点は、まずホラーとして売り出しているという点だと思います。この作品は、今年のこのミスの4位にランクインしましたが、著者がホラー作家として評価されつつあると書かれているし、本の裏にも「怪奇幻想短編小説集」とあるんだけど、でも本作はホラーでも怪奇でも幻想でもないような気がします。
もちろん、ホラー的な要素はあるし、怪奇的な要素も幻想的な要素もあります。ただ全体としては、どっちかと言うと文学よりな気が僕はします。エンターテイメントだけど文学寄り、というような感じです。少なくともミステリではないし、やっぱりホラーとも言いがたいと思います。
僕はホラー小説集だと思って読み始めたので、なんかチグハグな感じがずっとしていました。半分ぐらいまで読んでようやく、なるほどこれはホラーじゃないのか、という風に思いました。
全体としてはどの話も、すごく巧いと思いました。小説としての出来は高いという風に思います。状況の設定やストーリーの展開が巧いなと思うし、話によってはオチがなかなか鋭かったりします。
ただどうも僕には合わない作品でした。どこがどうというのを説明するのは難しいんだけど、巧い作品だなとは思うんだけど、好きになれなかったですねぇ。
何か理由付けをしようとすればこうなるでしょうか。僕は日本人作家でも、あんまり文学寄りの作家って言うのは得意じゃないんですね。やっぱりミステリとかエンターテイメントとか、そういう方が好きです。でさらに僕は外国人作家の作品を読みなれていない。本作を僕はエンタメだけど文学寄りだと思っているし、日本人作家でも得意じゃないものを読みなれていない外国人作家の作品で読んだからあんまり好きになれなかったんじゃないかな、という風には思います。
まあだから、僕にはうまく評価しようがない作品でした。たぶん本作は作品としてはすごくレベルが高いんだと思います。僕には合わなかっただけで。気になっている人は読んでみてください。
追記)やっぱりamazonでの評判もすごく高いです。
ジョー・ヒル「20世紀の幽霊たち」
過去幽霊が展示された博物館はなかっただろう。そして恐らくこれからもないに違いない。その噂は、何かの間違いであることは明白だ。幽霊など、そもそも存在するはずがないし、存在しないものが展示されるはずがない。
もちろん僕は出かけていった。その博物館にだ。何でそんなでっちあげがまかり通るのか、確かめてやろうと思ったのだ。
幽霊がいるという一角は盛況だった。そしてそこから出てきたものは皆、まるで幽霊でも見てきたかのような顔をしていた。どうせお化け屋敷の類だろう。僕はそう高を括っていた。
長い順番待ちの後、ようやく中に入れた。その部屋は二重のドアによって隔てられているのだけど、その奥にあるのはただ真っ暗なだけの部屋だった。明かりはまったくない。広さもどれぐらいなのかさっぱり分からない。こんなに暗くては展示も何もないではないか。
しかしその部屋にしばらくいた後、不意に奇妙な感覚に囚われた。今のは何だ?うまく説明出来ない。映像が見えたわけでも、声が聞こえたわけでもないのだけど、3年前に死んだ母親のことが急に脳裏に浮かび上がったのだ。まるで、僕の身体の中を、死んだ母親の幽霊が通り抜けでもしたかのように…。
そんなバカな。しかし、説明のつかないことが起きたことは確かだ。インチキを暴いてやろうと思ったのに、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
恐らく僕もその部屋から出る時は、まるで幽霊でも見たかのような顔をしていたことだろう。
一銃「幽霊のいる博物館」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ショートショートから中編まで16編の作品が収録されています。本来ならそのそれぞれの内容を紹介するんですが、僕としては本作はあんまり好きになれない作品で、全部の内容紹介をする気力が湧かないので、自分の中で多少気に入った作品だけ内容紹介しようと思います。
「ポップ・アート」
身体が風船で出来ている友人との話。彼は喋ったり出来ないし、物もうまくつかめないけど、字でコミュニケーションが出来るし、主人公の唯一無二の親友になる。
「末期の吐息」
死んでいく者の最後の吐息だけを集めた博物館での話。そこにやってきた家族が、「末期の吐息」という科学では考えられないものと触れる。
「おとうさんの仮面」
家族で別荘に向かう。ホラ吹きのお母さんがよくわからないゲームを持ちかけてくる。別荘に着くと仮面をつける。少年は森で迷う。
まあこんな感じでしょうか。
本作のよくない点は、まずホラーとして売り出しているという点だと思います。この作品は、今年のこのミスの4位にランクインしましたが、著者がホラー作家として評価されつつあると書かれているし、本の裏にも「怪奇幻想短編小説集」とあるんだけど、でも本作はホラーでも怪奇でも幻想でもないような気がします。
もちろん、ホラー的な要素はあるし、怪奇的な要素も幻想的な要素もあります。ただ全体としては、どっちかと言うと文学よりな気が僕はします。エンターテイメントだけど文学寄り、というような感じです。少なくともミステリではないし、やっぱりホラーとも言いがたいと思います。
僕はホラー小説集だと思って読み始めたので、なんかチグハグな感じがずっとしていました。半分ぐらいまで読んでようやく、なるほどこれはホラーじゃないのか、という風に思いました。
全体としてはどの話も、すごく巧いと思いました。小説としての出来は高いという風に思います。状況の設定やストーリーの展開が巧いなと思うし、話によってはオチがなかなか鋭かったりします。
ただどうも僕には合わない作品でした。どこがどうというのを説明するのは難しいんだけど、巧い作品だなとは思うんだけど、好きになれなかったですねぇ。
何か理由付けをしようとすればこうなるでしょうか。僕は日本人作家でも、あんまり文学寄りの作家って言うのは得意じゃないんですね。やっぱりミステリとかエンターテイメントとか、そういう方が好きです。でさらに僕は外国人作家の作品を読みなれていない。本作を僕はエンタメだけど文学寄りだと思っているし、日本人作家でも得意じゃないものを読みなれていない外国人作家の作品で読んだからあんまり好きになれなかったんじゃないかな、という風には思います。
まあだから、僕にはうまく評価しようがない作品でした。たぶん本作は作品としてはすごくレベルが高いんだと思います。僕には合わなかっただけで。気になっている人は読んでみてください。
追記)やっぱりamazonでの評判もすごく高いです。
ジョー・ヒル「20世紀の幽霊たち」
セブンイレブンの正体(週刊金曜日取材班)
とんでもない事件が起きた。コンビニ同時多発テロだ。
この名称は、いささか大げさにすぎる。マスコミが一斉にこの名称を使い始めたので定着しているが、被害はさほど大きくない。どの店舗も、おにぎりや弁当に爆竹が仕掛けられていたり、ゴミ箱から火が出たりと言った程度のものだ。
しかしこれがここまで大きなニュースになったのは、その範囲の広さにあった。
被害にあったコンビニは、日本最大のコンビニチェーン店に限られるのだが、しかしそのチェーン店のほぼすべての店舗、全国約1万2千店舗で同時刻に発生したのだ。被害の小ささの割に報道の扱いが大きかったのにも、そこに理由がある。
しかしこれは現実には考えられないことなのだ。仮に犯人が複数のグループであっても、爆竹などを仕掛けるのには一定の時間が掛かる。しかしコンビニでは、おにぎりや弁当は一定時間が来ると廃棄されてしまうのだ。調べたところ、全国すべてのチェーン店で同時に事を起こすには、犯行時刻の6時間以内にすべての設置を終わらせなくてはいけない、ということが分かった。しかしたった6時間で日本全国すべてのチェーン店に仕掛けるのに、一体何人必要なのだろうか。
警察としては、この事件をどう考えていいのか分からず捜査が難航していたが、報道が一段落した頃を見計らって、マスコミに犯人が名乗り出てきた。それを知り、警察としてもなるほどと思ったのである。
某大手コンビニチェーンのオーナーである吉本本吉さんは、日本全国すべての同チェーン店を回りながら、オーナーを口説いていた。自分達の訴えを人々に届かせるにはこれしかない、と。
吉本さんは、コンビニチェーンの本部に対して強い憤りを感じていた。ありとあらゆる仕組みが、店舗オーナーから搾り取れるだけ搾り取り、本部だけが丸々儲かるようになっているのだ。
しかも、このコンビニチェーンは、大手マスコミの主要広告主になっているために、悪事がマスコミで報道されることがない。自分達の窮状を訴えても、世論を動かすことが出来ないのだ。
そこで考えた。だったらマスコミが取り上げざるおえない事件を起こしてやろうじゃないか。
全国のチェーン店を回りながら、吉本さんは同志を増やしていった。同じ思いでいるオーナーは多く、最終的に2年の年月を費やして、すべてのオーナーの協力を取り付けることが出来た。
コンビニ同時多発テロと呼ばれるようになった事件を起こして正解だったと今でも思っている。あの事件から10年。結局そのコンビニチェーンは、世間の批判に耐え切れず、倒産した。
一銃「コンビニ同時多発テロ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
その前にまず、何で僕が本書を読もうと思ったかを書こうと思います。
本書は、発売と同時に一部で大きな話題になりました。主に出版や書店業界で取り上げられたんですが、前代未聞と言ってもいいような珍事が起きたんです。
本書は、セブンイレブンの闇の部分について触れた本です。セブンイレブンは、大手マスコミの主要広告主になっているために、マスコミに悪評が載るということがほとんどありません。そういう事態になりそうでも、事前に手を打ち、水際で食い止めてきたようです。
しかし、そういう圧力とは程遠い雑誌である「週刊金曜日」に連載されていたものをまとめた本書が出版されるこtになったんですが、しかしこの本を流通させないという話が出たわけです。
セブンイレブンを興した鈴木会長は現在、出版の取次の二大大手である「トーハン」の副会長を務めているんですが、そのトーハンが、副会長の利益に反する本を扱うわけにはいかないとして、本書の取り扱いをしない、と発表したわけです。
これはしかしとんでもないことですね。書店というのはなかなか古い商習慣の残っている業界で、一つの書店は基本的に一つの取次(問屋)としか取引しません(他の小売店からすると考えられないことみたいですけど)。つまり、トーハンと取引している書店は、本書を仕入れることがまったく出来ない、ということになるわけですね(実際どうにかすれば手に入れられるのかもしれませんが、通常ルートである出版社→トーハン→書店というルートでは入ってこないようです)。
このニュースにびっくりしたので興味が湧いて読んでみることにしました。僕は、トーハンが本書を扱わないよと発表したのは大分失敗だったんじゃないかなと思いますね。だってそんな発表をしなければ、少なくとも僕は読もうなんて思わなかったですからね。それに、トーハン以外の取次と取引している書店だったら、トーハン帳合の店にはないんだから仕入れれば売れるかもしれない、という判断をするでしょうしね。結果的に本書に注目を集める結果になってしまったわけで、逆効果だったんじゃないかなと思います。
というわけで本書ですが、120ページほどの薄い本です。でも本書を読めば、まずセブンイレブンのオーナーになろうと考える人はいなくなるだろうと思います。周りに、セブンイレブンのオーナーになろうという人がいたら、読ませてあげるといいと思います。たぶん思いとどまると思います。
僕は、コンビニ業界がかなり無理をしているという話は多少知っていたんですけど、詳しいことは全然知りませんでした。本書を読んで、なるほど無茶苦茶なことをやってるなぁ、と思ったりしました。あとこういう話を報道しないマスコミはやっぱり駄目だな、と。
いろいろびっくりするようなことが書いてあるんですけど、僕が一番驚いたのは、コンビニオーナーを24時間監視するという話ですね。
ある店舗オーナーは、売上は伸びているのに資産がどんどん減っているのに気づき、本部に損益計算書を求めるも拒否される(セブンイレブンはなんと、仕入れなどに関する請求書をすべて一括で本部に集め、店舗オーナーには見せないらしい。そこで、ピンハネ疑惑についても本書では触れられている。しかし、オーナーが、自店で仕入れたものの仕入額を知らないというのはちょっとすごいと思う)。
そのオーナーは、店舗の事業主体を個人から法人に移し、税理士と相談して、法人化に掛かった費用は売上金の中から出金できるとのことだったので本部に問い合わせたところ拒否される。
オーナーは本部に、自らの主張の根拠をFAXで送るも、本部からは回答無し。本部は了解したのだろうと判断して売上金から出金したところ、その後突然本部社員がやってきて、
「今日から24時間体制で出納管理をします」
といわれたんだそうです。それからその店には、本当に24時間体制で本部社員が張り付き、ほぼ1時間毎に売上金を抜いていったんだそうです。
僕はこの部分が一番すごいなと思いましたね。それぞれの店舗は独立した事業主であると規定しているにも関わらず、請求書も手に出来ず、売上金も勝手に持っていかれてしまうわけで、とんでもないなと思います。
他にも、コンビニ業界でしか通用しない特殊な会計方式(これは会計士や税理士なんかでもなかなか見抜けないほどうまい仕組みになっているんだそうです)、オーナーが何かの事情で店に出られない時なんかに使えるはずのオーナーヘルプ制度を断られる、仕入れ業者からの請求を店舗に水増し請求している疑惑、セブンイレブンに商品を納入する取引業者の苦悩、セブンイレブンの商品を敗走する業者の悲鳴、マスコミにかけられる圧力などなど、セブンイレブンに関する黒い話がいろいろと書かれています。おでんは儲からないという話も載ってますね。普段使っているコンビニの裏側では、こんなに大変な事情があるんだということを知っておくというのはいいかもしれませんね。
帯に、「まるで、カニコー」って書いてあるんだけど、初めは何のことは全然わかりませんでした。ただその内、「あぁ、なるほど、蟹工船のことか」と思いました。確かに、最後の章で記者の一人が、セブンイレブンに弁当を卸している弁当工場でパートで働いてみる、みたいなルポがあるんだけど、8時間の労働で休憩が全然ないそうです。すごいですね。深夜の弁当工場というと、桐野夏生の「OUT」を思い出しますが、やっぱり主婦が多いそうです。
まあそんなわけで、なかなかマスコミには出てこない話がたくさん載っているので、割と面白いと思います。普段コンビニを使っている人というのはたくさんいると思うけど、その裏事情を知っておくのもいいかもしれません。コンビニでバイトしようって人も、事情を知っておいて損はないでしょうしね。後は、これからオーナーになろうっていう人ですね。絶対に読んだ方がいいと思います。
追記)amazonのコメントによれば、トーハンは本書の取次拒否を撤回し、謝罪しているんだそうです。それは知らなかったなぁ。ということは普通にどの書店でも置いてるんでしょうね。でも一度話題になってしまったものはなかなか取り戻せないでしょう。残念。
週刊金曜日取材班「セブンイレブンの正体」
この名称は、いささか大げさにすぎる。マスコミが一斉にこの名称を使い始めたので定着しているが、被害はさほど大きくない。どの店舗も、おにぎりや弁当に爆竹が仕掛けられていたり、ゴミ箱から火が出たりと言った程度のものだ。
しかしこれがここまで大きなニュースになったのは、その範囲の広さにあった。
被害にあったコンビニは、日本最大のコンビニチェーン店に限られるのだが、しかしそのチェーン店のほぼすべての店舗、全国約1万2千店舗で同時刻に発生したのだ。被害の小ささの割に報道の扱いが大きかったのにも、そこに理由がある。
しかしこれは現実には考えられないことなのだ。仮に犯人が複数のグループであっても、爆竹などを仕掛けるのには一定の時間が掛かる。しかしコンビニでは、おにぎりや弁当は一定時間が来ると廃棄されてしまうのだ。調べたところ、全国すべてのチェーン店で同時に事を起こすには、犯行時刻の6時間以内にすべての設置を終わらせなくてはいけない、ということが分かった。しかしたった6時間で日本全国すべてのチェーン店に仕掛けるのに、一体何人必要なのだろうか。
警察としては、この事件をどう考えていいのか分からず捜査が難航していたが、報道が一段落した頃を見計らって、マスコミに犯人が名乗り出てきた。それを知り、警察としてもなるほどと思ったのである。
某大手コンビニチェーンのオーナーである吉本本吉さんは、日本全国すべての同チェーン店を回りながら、オーナーを口説いていた。自分達の訴えを人々に届かせるにはこれしかない、と。
吉本さんは、コンビニチェーンの本部に対して強い憤りを感じていた。ありとあらゆる仕組みが、店舗オーナーから搾り取れるだけ搾り取り、本部だけが丸々儲かるようになっているのだ。
しかも、このコンビニチェーンは、大手マスコミの主要広告主になっているために、悪事がマスコミで報道されることがない。自分達の窮状を訴えても、世論を動かすことが出来ないのだ。
そこで考えた。だったらマスコミが取り上げざるおえない事件を起こしてやろうじゃないか。
全国のチェーン店を回りながら、吉本さんは同志を増やしていった。同じ思いでいるオーナーは多く、最終的に2年の年月を費やして、すべてのオーナーの協力を取り付けることが出来た。
コンビニ同時多発テロと呼ばれるようになった事件を起こして正解だったと今でも思っている。あの事件から10年。結局そのコンビニチェーンは、世間の批判に耐え切れず、倒産した。
一銃「コンビニ同時多発テロ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
その前にまず、何で僕が本書を読もうと思ったかを書こうと思います。
本書は、発売と同時に一部で大きな話題になりました。主に出版や書店業界で取り上げられたんですが、前代未聞と言ってもいいような珍事が起きたんです。
本書は、セブンイレブンの闇の部分について触れた本です。セブンイレブンは、大手マスコミの主要広告主になっているために、マスコミに悪評が載るということがほとんどありません。そういう事態になりそうでも、事前に手を打ち、水際で食い止めてきたようです。
しかし、そういう圧力とは程遠い雑誌である「週刊金曜日」に連載されていたものをまとめた本書が出版されるこtになったんですが、しかしこの本を流通させないという話が出たわけです。
セブンイレブンを興した鈴木会長は現在、出版の取次の二大大手である「トーハン」の副会長を務めているんですが、そのトーハンが、副会長の利益に反する本を扱うわけにはいかないとして、本書の取り扱いをしない、と発表したわけです。
これはしかしとんでもないことですね。書店というのはなかなか古い商習慣の残っている業界で、一つの書店は基本的に一つの取次(問屋)としか取引しません(他の小売店からすると考えられないことみたいですけど)。つまり、トーハンと取引している書店は、本書を仕入れることがまったく出来ない、ということになるわけですね(実際どうにかすれば手に入れられるのかもしれませんが、通常ルートである出版社→トーハン→書店というルートでは入ってこないようです)。
このニュースにびっくりしたので興味が湧いて読んでみることにしました。僕は、トーハンが本書を扱わないよと発表したのは大分失敗だったんじゃないかなと思いますね。だってそんな発表をしなければ、少なくとも僕は読もうなんて思わなかったですからね。それに、トーハン以外の取次と取引している書店だったら、トーハン帳合の店にはないんだから仕入れれば売れるかもしれない、という判断をするでしょうしね。結果的に本書に注目を集める結果になってしまったわけで、逆効果だったんじゃないかなと思います。
というわけで本書ですが、120ページほどの薄い本です。でも本書を読めば、まずセブンイレブンのオーナーになろうと考える人はいなくなるだろうと思います。周りに、セブンイレブンのオーナーになろうという人がいたら、読ませてあげるといいと思います。たぶん思いとどまると思います。
僕は、コンビニ業界がかなり無理をしているという話は多少知っていたんですけど、詳しいことは全然知りませんでした。本書を読んで、なるほど無茶苦茶なことをやってるなぁ、と思ったりしました。あとこういう話を報道しないマスコミはやっぱり駄目だな、と。
いろいろびっくりするようなことが書いてあるんですけど、僕が一番驚いたのは、コンビニオーナーを24時間監視するという話ですね。
ある店舗オーナーは、売上は伸びているのに資産がどんどん減っているのに気づき、本部に損益計算書を求めるも拒否される(セブンイレブンはなんと、仕入れなどに関する請求書をすべて一括で本部に集め、店舗オーナーには見せないらしい。そこで、ピンハネ疑惑についても本書では触れられている。しかし、オーナーが、自店で仕入れたものの仕入額を知らないというのはちょっとすごいと思う)。
そのオーナーは、店舗の事業主体を個人から法人に移し、税理士と相談して、法人化に掛かった費用は売上金の中から出金できるとのことだったので本部に問い合わせたところ拒否される。
オーナーは本部に、自らの主張の根拠をFAXで送るも、本部からは回答無し。本部は了解したのだろうと判断して売上金から出金したところ、その後突然本部社員がやってきて、
「今日から24時間体制で出納管理をします」
といわれたんだそうです。それからその店には、本当に24時間体制で本部社員が張り付き、ほぼ1時間毎に売上金を抜いていったんだそうです。
僕はこの部分が一番すごいなと思いましたね。それぞれの店舗は独立した事業主であると規定しているにも関わらず、請求書も手に出来ず、売上金も勝手に持っていかれてしまうわけで、とんでもないなと思います。
他にも、コンビニ業界でしか通用しない特殊な会計方式(これは会計士や税理士なんかでもなかなか見抜けないほどうまい仕組みになっているんだそうです)、オーナーが何かの事情で店に出られない時なんかに使えるはずのオーナーヘルプ制度を断られる、仕入れ業者からの請求を店舗に水増し請求している疑惑、セブンイレブンに商品を納入する取引業者の苦悩、セブンイレブンの商品を敗走する業者の悲鳴、マスコミにかけられる圧力などなど、セブンイレブンに関する黒い話がいろいろと書かれています。おでんは儲からないという話も載ってますね。普段使っているコンビニの裏側では、こんなに大変な事情があるんだということを知っておくというのはいいかもしれませんね。
帯に、「まるで、カニコー」って書いてあるんだけど、初めは何のことは全然わかりませんでした。ただその内、「あぁ、なるほど、蟹工船のことか」と思いました。確かに、最後の章で記者の一人が、セブンイレブンに弁当を卸している弁当工場でパートで働いてみる、みたいなルポがあるんだけど、8時間の労働で休憩が全然ないそうです。すごいですね。深夜の弁当工場というと、桐野夏生の「OUT」を思い出しますが、やっぱり主婦が多いそうです。
まあそんなわけで、なかなかマスコミには出てこない話がたくさん載っているので、割と面白いと思います。普段コンビニを使っている人というのはたくさんいると思うけど、その裏事情を知っておくのもいいかもしれません。コンビニでバイトしようって人も、事情を知っておいて損はないでしょうしね。後は、これからオーナーになろうっていう人ですね。絶対に読んだ方がいいと思います。
追記)amazonのコメントによれば、トーハンは本書の取次拒否を撤回し、謝罪しているんだそうです。それは知らなかったなぁ。ということは普通にどの書店でも置いてるんでしょうね。でも一度話題になってしまったものはなかなか取り戻せないでしょう。残念。
週刊金曜日取材班「セブンイレブンの正体」
世界最大の虫食い算(安福良直)
毎年楽しみに待っている年賀状がある。
トシオの年賀状だ。
トシオは東京大学数学科の院生であるのだが、数学者らしくやはり一風変わっている男である。中学生の頃、マジックペンを持ち歩いていて、何か思いつくと壁に数式を書き始める。さすがにマジックペンじゃまずいからと言って、鉛筆に代えさせたのを覚えている。
まあそんなトシオだが、年賀状も一風変わっている。いつも、暗号のようなものを送ってくるのだ。暗号のレベルは何だかマチマチで、見た瞬間に分かるものから、結局解けなかったものまである。何を考えているのかわからないけど、昔からずっとそうで、だから毎年、今年の年賀状はどうかなと期待しながら年始を迎えるのである。
しかし今年、トシオからの年賀状を見て驚いた。なんと白紙だったのだ。なんだこりゃ?しかしトシオのことだ、この白紙であるということが何か意味があるのかもしれない。あぶり出しではなさそうだけど、じゃあ他にどんな可能性があるかなぁ。
こうして僕はトシオの年賀状についてあーだこーだ考えることになる。結局その年の年賀状の意味は分からずじまいだったけど。
トシオは年賀状を書くのがめんどくさくなった。
「まあいいか。白紙で」
一銃「年賀状」
もうショートショートも適当すぎますね。あと数えるほどなんだからちゃんと頑張ればいいのに、と自分でも思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあなんともアホくさいというか、それでいてとんでもないというか、まあ無茶苦茶なことを成し遂げたある青年の話です。
まずざっと虫食い算の説明をしましょうか。虫食い算というのは、掛け算や割り算の筆算の数字が幾つか□のような空欄になっていて数が分からない、それを推理しながら埋めていくというパズルです。パズルの中でも歴史は古いようで、江戸時代には既に紹介されていたようです。
著者はそんな虫食い算にとり憑かれてしまった男なんだけど、とり憑かれ方がもうとんでもないわけです。著者がいかにして虫食い算にとり憑かれて行ったのかというのを語るのが本書です。
子どもの頃に虫食い算に出会った著者は、すぐさまのめり込み、次第に自分で虫食い算を作るようになります。
虫食い算の中に、数字のヒントが一つもない<完全虫食い算>と呼ばれるタイプのものがあり、著者はそれを作るようになります。
でとんでもないことを考えるわけです。来年は1984年だから、空欄が1984個ある虫食い算を作ろう!
当時高校生だった著者は、パソコンなど持っていない時、8桁までしかない電卓だけを武器に、すべて手計算のみの計算によって、この難行を成し遂げようとします。しかし、見通しを立てずに始めたものだから苦難ばかり、しかしその中で思いもよらない発見をしてしまうわけです(それがどんなものかは本書を読んでください)。その後も、膨大な、普通の人なら数時間で死にたくなるような手計算を何ヶ月もひたすら続けていった著者は、その後もどんどん新たな発見を重ねていき、ついに13桁÷12桁という割り算を、2万桁まで計算し、そのすべてが空欄という虫食い算を完成させるに至るわけです。
その後、パズル雑誌で有名なニコリに完成品を送り、その後そこに就職してしまったというわけなんですけど、まあなんともすごい話なわけです。
僕自身、一時期とんでもなくパズルに嵌まりました。高校時代なんですけど、あれは嵌まりましたねぇ。それもこれも、今はなき「パズラー」という雑誌を手に取ったからなんですね。
何で「パズラー」なんて雑誌を買ったのかまったく覚えてないですけど、これは本当に面白かったです。パズル雑誌を買わない人は分からないと思うんだけど、普通パズル雑誌というのは、ある一種類のパズルがたくさん載っている、という形式のものばかりです。「ナンプレ」だけが載っている雑誌、「漢字クロス」がだけが載っている雑誌、「イラストロジック」だけが載っている雑誌、というような具合です。
ただ「パズラー」は、それこそありとあらゆる種類のパズルが載っていたし、また専属の作家が毎月作るオリジナルのパズルがあったり、また毎月3問ある難問パズルをどれぐらい解けたかなんていう投稿もありましたね。菫工房が作るパズルが結構難しかったよなぁとか、主婦のパズル作家がいたよなぁとか、いろいろ懐かしいです。
とにかく毎月「パズラー」が出ると、ひたすら解きまくるんですね。それこそ授業中も内職をしてひたすらやってました(一応言っておくと、僕は割と成績はよかったんですよ。別に勉強しなくても頭がいいなんていうタイプではなくて、パズルをしていた分を後できちんと補っていたというだけだけど)。周りに同志がいたわけでもないので孤独なものでしたが、しかしべらぼうに面白かったわけです。高校三年になった途端に休刊になってしまったんですけど、それは正直よかったかもしれません。だってずっと出ていたら、受験勉強に大きく差し障っていただろうから。
でその「パズラー」に、パズルを投稿できるコーナーがあったわけです。「パズル激作塾」みたいな名前だったかな。そこで一回採用されたことがありますね。2万円もらいました。ただその時のコメントが、「あまりにも字が汚いくせに妙に気になるパズルを送ってくるお前は何者ぞ。次からはとにかく綺麗な字で送って来い」みたいなのがあって哀しかったけど(笑)。
「パズラー」がなくなってからも、気が向いた時にパズルを作ったりしていました。自分で新しいナンプレのルールを考案して作ったりしていました。バイト先でやってくれる人がいたのでせっせと作っていた時期もありました。
まあそんなわけで、今も心躍るようなパズルにめぐり合えればまたパズル熱は再燃すると思うんだけど、なかなかないですねぇ。パズル雑誌も、ナンプレばっかりですからね。普通のナンプレは、正直あんまり面白くないんですよね。ナンプレだったら、自分で作る方が楽しいです。
だからこの著者が、パズルを作るのは楽しいと言ってるのはよくわかりますね。ただこの著者みたいに、ひたすら手計算ばっかりしているなんてのは嫌ですけどね。だって、2~3週間で手計算しているノートが一冊使い終わってしまうらしいですよ。アホすぎますね。
僕は正直、虫食い算にはそこまで魅力を感じないんだけど、ただこの著者がのめり込んで行った気持ちはよくわかります。著者は、この虫食い算を作るに当たって、自分の手で様々な発見をします。正直僕には何を言っているのかよく分からない部分もあったんだけど、とにかく2万桁まで計算した虫食い算を作るに当たってその発見はものすごい力を発揮したわけです。しかも、著者がとある理由(それは、最終的な候補がなるべく多くなるように、ということだけど)で選んだある式が、2万桁の虫食い算を作るに当たって素晴らしく最適であるということに作りながら気づいていくわけです。神様に背中を押されているような気がした、みたいなことを書いていたけど、確かにそうかもしれないですね。しかし、注意深くその発見をものにした著者もすごいと思いました。
まあ世の中にはとんでもない人間がいる、ということがわかる一冊です。パズルに興味のある人は読んでみてください。しかしホントに、「パズラー」みたいに無茶苦茶面白いパズル雑誌、どこかから出ないかなぁ。世界文化社さん(「パズラー」を出してた出版社です)、是非とも頑張ってください!
安福良直「世界最大の虫食い算」
トシオの年賀状だ。
トシオは東京大学数学科の院生であるのだが、数学者らしくやはり一風変わっている男である。中学生の頃、マジックペンを持ち歩いていて、何か思いつくと壁に数式を書き始める。さすがにマジックペンじゃまずいからと言って、鉛筆に代えさせたのを覚えている。
まあそんなトシオだが、年賀状も一風変わっている。いつも、暗号のようなものを送ってくるのだ。暗号のレベルは何だかマチマチで、見た瞬間に分かるものから、結局解けなかったものまである。何を考えているのかわからないけど、昔からずっとそうで、だから毎年、今年の年賀状はどうかなと期待しながら年始を迎えるのである。
しかし今年、トシオからの年賀状を見て驚いた。なんと白紙だったのだ。なんだこりゃ?しかしトシオのことだ、この白紙であるということが何か意味があるのかもしれない。あぶり出しではなさそうだけど、じゃあ他にどんな可能性があるかなぁ。
こうして僕はトシオの年賀状についてあーだこーだ考えることになる。結局その年の年賀状の意味は分からずじまいだったけど。
トシオは年賀状を書くのがめんどくさくなった。
「まあいいか。白紙で」
一銃「年賀状」
もうショートショートも適当すぎますね。あと数えるほどなんだからちゃんと頑張ればいいのに、と自分でも思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあなんともアホくさいというか、それでいてとんでもないというか、まあ無茶苦茶なことを成し遂げたある青年の話です。
まずざっと虫食い算の説明をしましょうか。虫食い算というのは、掛け算や割り算の筆算の数字が幾つか□のような空欄になっていて数が分からない、それを推理しながら埋めていくというパズルです。パズルの中でも歴史は古いようで、江戸時代には既に紹介されていたようです。
著者はそんな虫食い算にとり憑かれてしまった男なんだけど、とり憑かれ方がもうとんでもないわけです。著者がいかにして虫食い算にとり憑かれて行ったのかというのを語るのが本書です。
子どもの頃に虫食い算に出会った著者は、すぐさまのめり込み、次第に自分で虫食い算を作るようになります。
虫食い算の中に、数字のヒントが一つもない<完全虫食い算>と呼ばれるタイプのものがあり、著者はそれを作るようになります。
でとんでもないことを考えるわけです。来年は1984年だから、空欄が1984個ある虫食い算を作ろう!
当時高校生だった著者は、パソコンなど持っていない時、8桁までしかない電卓だけを武器に、すべて手計算のみの計算によって、この難行を成し遂げようとします。しかし、見通しを立てずに始めたものだから苦難ばかり、しかしその中で思いもよらない発見をしてしまうわけです(それがどんなものかは本書を読んでください)。その後も、膨大な、普通の人なら数時間で死にたくなるような手計算を何ヶ月もひたすら続けていった著者は、その後もどんどん新たな発見を重ねていき、ついに13桁÷12桁という割り算を、2万桁まで計算し、そのすべてが空欄という虫食い算を完成させるに至るわけです。
その後、パズル雑誌で有名なニコリに完成品を送り、その後そこに就職してしまったというわけなんですけど、まあなんともすごい話なわけです。
僕自身、一時期とんでもなくパズルに嵌まりました。高校時代なんですけど、あれは嵌まりましたねぇ。それもこれも、今はなき「パズラー」という雑誌を手に取ったからなんですね。
何で「パズラー」なんて雑誌を買ったのかまったく覚えてないですけど、これは本当に面白かったです。パズル雑誌を買わない人は分からないと思うんだけど、普通パズル雑誌というのは、ある一種類のパズルがたくさん載っている、という形式のものばかりです。「ナンプレ」だけが載っている雑誌、「漢字クロス」がだけが載っている雑誌、「イラストロジック」だけが載っている雑誌、というような具合です。
ただ「パズラー」は、それこそありとあらゆる種類のパズルが載っていたし、また専属の作家が毎月作るオリジナルのパズルがあったり、また毎月3問ある難問パズルをどれぐらい解けたかなんていう投稿もありましたね。菫工房が作るパズルが結構難しかったよなぁとか、主婦のパズル作家がいたよなぁとか、いろいろ懐かしいです。
とにかく毎月「パズラー」が出ると、ひたすら解きまくるんですね。それこそ授業中も内職をしてひたすらやってました(一応言っておくと、僕は割と成績はよかったんですよ。別に勉強しなくても頭がいいなんていうタイプではなくて、パズルをしていた分を後できちんと補っていたというだけだけど)。周りに同志がいたわけでもないので孤独なものでしたが、しかしべらぼうに面白かったわけです。高校三年になった途端に休刊になってしまったんですけど、それは正直よかったかもしれません。だってずっと出ていたら、受験勉強に大きく差し障っていただろうから。
でその「パズラー」に、パズルを投稿できるコーナーがあったわけです。「パズル激作塾」みたいな名前だったかな。そこで一回採用されたことがありますね。2万円もらいました。ただその時のコメントが、「あまりにも字が汚いくせに妙に気になるパズルを送ってくるお前は何者ぞ。次からはとにかく綺麗な字で送って来い」みたいなのがあって哀しかったけど(笑)。
「パズラー」がなくなってからも、気が向いた時にパズルを作ったりしていました。自分で新しいナンプレのルールを考案して作ったりしていました。バイト先でやってくれる人がいたのでせっせと作っていた時期もありました。
まあそんなわけで、今も心躍るようなパズルにめぐり合えればまたパズル熱は再燃すると思うんだけど、なかなかないですねぇ。パズル雑誌も、ナンプレばっかりですからね。普通のナンプレは、正直あんまり面白くないんですよね。ナンプレだったら、自分で作る方が楽しいです。
だからこの著者が、パズルを作るのは楽しいと言ってるのはよくわかりますね。ただこの著者みたいに、ひたすら手計算ばっかりしているなんてのは嫌ですけどね。だって、2~3週間で手計算しているノートが一冊使い終わってしまうらしいですよ。アホすぎますね。
僕は正直、虫食い算にはそこまで魅力を感じないんだけど、ただこの著者がのめり込んで行った気持ちはよくわかります。著者は、この虫食い算を作るに当たって、自分の手で様々な発見をします。正直僕には何を言っているのかよく分からない部分もあったんだけど、とにかく2万桁まで計算した虫食い算を作るに当たってその発見はものすごい力を発揮したわけです。しかも、著者がとある理由(それは、最終的な候補がなるべく多くなるように、ということだけど)で選んだある式が、2万桁の虫食い算を作るに当たって素晴らしく最適であるということに作りながら気づいていくわけです。神様に背中を押されているような気がした、みたいなことを書いていたけど、確かにそうかもしれないですね。しかし、注意深くその発見をものにした著者もすごいと思いました。
まあ世の中にはとんでもない人間がいる、ということがわかる一冊です。パズルに興味のある人は読んでみてください。しかしホントに、「パズラー」みたいに無茶苦茶面白いパズル雑誌、どこかから出ないかなぁ。世界文化社さん(「パズラー」を出してた出版社です)、是非とも頑張ってください!
安福良直「世界最大の虫食い算」
完全恋愛(牧薩次)
その絵は呪われている、と長いこと噂されていた。
よくある話ではあるが、持ち主が次々に怪死していったのだ。ある者は、衆人環視の中で突然発火し焼け死んだ。ある者は、スカイダイビング中に身体がバラバラになった。ある者は、温水プールの中でまるで熱湯で茹でられたかのような状態で発見されたのだった。
まあ確かにその絵が呪われているように見える。実際のところは、まあ呪いと大差はないかもしれないが、しかし別の理由がある。
絵自体は普通の絵だ。しかしその絵にまつわる、とある出来事がこの怪死を生み出しているのだ。
元々その絵は、中世のある貴族が、お抱えの画家に描かせたものだった。しかしそれを飾っていた貴族は、どういう理由でか自殺を遂げることになる。その絵を見ていたら、自殺したくなってきたのだという。
その後その絵は人手に渡ることになるのだが、一緒に自殺をした貴族の幽霊まで連れて行くことになる。しかもその幽霊は、その絵の持ち主に憑くのだ。
するとその幽霊は、またしても自殺をしたくなる。初めの内こそよくある死に方をしていたのだが、何度死んでも成仏できないことを苦しんで、次第に過激な死に方を、それも普通では起こり得ない死に方を選ぶようになっていったのだった。
その貴族は、未だに成仏出来ていない。どうすれば成仏出来るのかも分かっていない。成仏出来ない貴族は考えている。もっと大勢の人間を巻き込むような死に方じゃないと、成仏できないのかもしれない、と。
一銃「呪われた絵」
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず先に内容ではない点に触れましょう。本作の著者は「牧薩次」となっていますが、現実にはこの名前の作家はいません。これは、「辻真先」という作家の小説に出てくる登場人物の一人であり、作中ではミステリ作家ということになっています。いろんな作品で探偵役をやっているキャラクターのようです。
まあなんで今回、そのキャラクターの名前で本を出したのかという説明は最後にチラッと書いてあります。僕としては、辻真先の作品を読むのがそもそも初めてなので、牧薩次というキャラクターは知りませんが、ファンからすればニヤリという感じなんでしょうね。
というわけで、内容です。
と言っても、結構内容紹介は難しいですね。なので、二つの方向から内容紹介をしようと思います。
一つは、本作がどこから始まり、誰のどんな話でどの辺りまで描かれるのかという大枠の部分。そしてもう一つが、本作中でどんな事件が発生するのか、という部分です。
本作は、本庄究という画家を主人公として描かれる、画家の一代記となっています。画家としての柳楽糺と言い、才能がありながら旧弊な画壇からは距離を置いていた画家として描かれる。しかし前書きで著者は、この本は画家として柳楽糺がどういう人物だったのか追う物語ではない、と書いている。これは、恋と犯罪の物語なのだ、と。
物語は、家族を失いながらも一人東京大空襲を奇跡的に生き延びた本庄究が、山形県の県境にほど近い福島県の刀掛というところに疎開していた頃から始まる。当時究は中学二年生。学校に馴染めず、孤独な少年だった。
そこへ、小仏朋音がやってくる。画家だった小仏榊の娘で、父親を尋ねてやってきたのだった。その朋音こそが、究の生涯の心の恋人となる女性だった。
それから究は、離れていってしまう朋音を想い、また朋音の娘にドギマギし、朋音の孫かもしれない少女と出会いながら、画家としての人生を歩んでいく。魅惑という名の弟子を取り、旧弊な画壇を敵に回しながらも創作活動を続けた。
結婚することなく独身を通した究は、ついに最後まで朋音のことを思いながら生涯を閉じる。本庄究という画家を、ある特定の面からではあるけれども描き続けた一代記という構成です。
本庄究は生涯で三度大きな犯罪と関わり合いを持つことになります。誰が殺されたのか、という詳しい説明は、さらに内容紹介をしないと苦しいので省くとして、それがどんな事件であったのかということを書こうと思います。
まず昭和20年。究がまだ少年で疎開先にいた頃。米兵が川原で刺し殺されているのが見つかった。胸に刺し傷があったが、現場にはそれらしきものがない。そこで凶器探しが始まるのだけど、これがどうにもうまくいかない。温泉宿の調理場から包丁が一本なくなっている。温泉宿の主人が隠し持っている秘刀は血まみれになっている。しかしそれらは本当に犯行に使われたのだろうか?
第二の事件は昭和43年沖縄で起きる。朋音はある企業グループの社長と結婚していたが既に亡くなっていたが、その娘の火菜が社長の手助けをしていた。沖縄で新規事業をやるのに地元住民の協力を得ようと、沖縄に雪を持ち込んでかまくらを作る計画があったのだ。
その前日。彼女の会社と対立していたとある会社の元社長が、テレビを通じて無茶苦茶な宣言をした。元社長は、福島県の人里離れた別荘で、人工的に雪崩を起こして死んだ。しかしその直前、カメラの前で自らの名前を書いたナイフが、明日沖縄にいる火菜を襲うと予言したのだ。あまりにもバカバカしい予言だったが、しかしそれは現実のものとなる。かまくらの中で、火菜はまさに元社長の宣言通りの状況で死んでいたのだ。
第三の事件は福島県磐梯山で起きた。そこに、朋音の夫の会社の別荘があるのだが、その近くの池で社長が溺死していたのだ。事故とも殺人とも判断がつかなかったが、一つ不思議な出来事があった。
それは、東京で臥せっていたはずの究が、その別荘にいたという証言があるのだ。どう考えても不可能な話だったので、証言者の嘘だろうという話に落ち着くのだが…。
というような話です。
今年のこのミスの3位にランクインしていた作品で、ちょっと気になったので読んでみました。
辻真先という作家は、名前は知っていたけど、読んだことはありませんでした。僕の中では、梓林太郎とか太田蘭三みたいな、二時間ドラマみたいなミステリを量産している作家、というイメージがあったんですけど、どうなんでしょうか。特に積極的に読んでみようと思える作家ではないんですが、でもこの作品はなかなか面白かったですね。
このミス3位にランクインしているわけで、ミステリというジャンルで正しいんですけど、全体の構成としては本当にある画家の一代記という感じでした。ミステリだけど、事件について推理するなんて場面は、後半のほんの僅かしかありません。それ以外の部分は、もちろん後々事件と関係してくる伏線も描かれるんだけど、基本的には本庄究という画家がどんな人間でどんな人生を送ってきたのか、また朋音やその娘・孫なんかとの係わり合い、魅惑という弟子そのやり取り、画壇における究の存在についてなど、本庄究という個人を浮かび上がらせるような内容についての描写がほとんどです。本庄究の人生の中で起こった三度の事件は、本庄究の個人史にとって極めて重要で欠かすことが出来ない要素だから描いている、というような位置づけで、決してミステリがメインの作品ではありません。
それでいて、ミステリの部分はちゃんとしているわけで、そのギャップが面白いんですよね。三つの事件は、どれも謎が結構魅力的だと思いませんか?本格ミステリなんかの場合、それを描くスタイルみたいなものがあるわけだけど、本作みたいにその本格ミステリを書く際のスタイルから逸脱している文章の中でこれだけ本格ミステリっぽい謎を提示するのは結構難しかったんじゃないかなと思います。
それぞれの事件でも謎はたっぷりありますが、最後の最後もなかなかいいオチを提供してくれます。最後の最後で、タイトルにある「完全恋愛」という言葉が関わってくるわけで、うまいなと思いました。本書の冒頭に、こんな言葉が載せられています。
『他者にその存在さえ知られない罪を完全犯罪と呼ぶ
では
他者にその存在さえ知られない恋は完全恋愛と呼ばれるべきか?』
この文章の意味が、最後の最後になってようやく理解出来ます。なるほど、そうだったのかという感じになると思います。
昭和20年から平成19年までの長い年月を描くわけで、それぞれの時代における様々な要素も出てきます。僕個人としては懐かしいというようなことはないけど、読む人が読んだら懐かしく感じられることでしょう。全学連とか当時の流行の映画とか三億円事件とかバブルとか手塚治虫みたいなものがちょくちょく顔を出してきます。戦後から現代までという背景をきちんと描いているという点もちゃんとしているなと思いました。
ミステリだと思わずに、画家の生涯を描いた作品だという風にも読める作品です。もちろんミステリとしても面白いと思います。興味があったら読んでみてください。
牧薩次「完全恋愛」
よくある話ではあるが、持ち主が次々に怪死していったのだ。ある者は、衆人環視の中で突然発火し焼け死んだ。ある者は、スカイダイビング中に身体がバラバラになった。ある者は、温水プールの中でまるで熱湯で茹でられたかのような状態で発見されたのだった。
まあ確かにその絵が呪われているように見える。実際のところは、まあ呪いと大差はないかもしれないが、しかし別の理由がある。
絵自体は普通の絵だ。しかしその絵にまつわる、とある出来事がこの怪死を生み出しているのだ。
元々その絵は、中世のある貴族が、お抱えの画家に描かせたものだった。しかしそれを飾っていた貴族は、どういう理由でか自殺を遂げることになる。その絵を見ていたら、自殺したくなってきたのだという。
その後その絵は人手に渡ることになるのだが、一緒に自殺をした貴族の幽霊まで連れて行くことになる。しかもその幽霊は、その絵の持ち主に憑くのだ。
するとその幽霊は、またしても自殺をしたくなる。初めの内こそよくある死に方をしていたのだが、何度死んでも成仏できないことを苦しんで、次第に過激な死に方を、それも普通では起こり得ない死に方を選ぶようになっていったのだった。
その貴族は、未だに成仏出来ていない。どうすれば成仏出来るのかも分かっていない。成仏出来ない貴族は考えている。もっと大勢の人間を巻き込むような死に方じゃないと、成仏できないのかもしれない、と。
一銃「呪われた絵」
そろそろ内容に入ろうと思います。
まず先に内容ではない点に触れましょう。本作の著者は「牧薩次」となっていますが、現実にはこの名前の作家はいません。これは、「辻真先」という作家の小説に出てくる登場人物の一人であり、作中ではミステリ作家ということになっています。いろんな作品で探偵役をやっているキャラクターのようです。
まあなんで今回、そのキャラクターの名前で本を出したのかという説明は最後にチラッと書いてあります。僕としては、辻真先の作品を読むのがそもそも初めてなので、牧薩次というキャラクターは知りませんが、ファンからすればニヤリという感じなんでしょうね。
というわけで、内容です。
と言っても、結構内容紹介は難しいですね。なので、二つの方向から内容紹介をしようと思います。
一つは、本作がどこから始まり、誰のどんな話でどの辺りまで描かれるのかという大枠の部分。そしてもう一つが、本作中でどんな事件が発生するのか、という部分です。
本作は、本庄究という画家を主人公として描かれる、画家の一代記となっています。画家としての柳楽糺と言い、才能がありながら旧弊な画壇からは距離を置いていた画家として描かれる。しかし前書きで著者は、この本は画家として柳楽糺がどういう人物だったのか追う物語ではない、と書いている。これは、恋と犯罪の物語なのだ、と。
物語は、家族を失いながらも一人東京大空襲を奇跡的に生き延びた本庄究が、山形県の県境にほど近い福島県の刀掛というところに疎開していた頃から始まる。当時究は中学二年生。学校に馴染めず、孤独な少年だった。
そこへ、小仏朋音がやってくる。画家だった小仏榊の娘で、父親を尋ねてやってきたのだった。その朋音こそが、究の生涯の心の恋人となる女性だった。
それから究は、離れていってしまう朋音を想い、また朋音の娘にドギマギし、朋音の孫かもしれない少女と出会いながら、画家としての人生を歩んでいく。魅惑という名の弟子を取り、旧弊な画壇を敵に回しながらも創作活動を続けた。
結婚することなく独身を通した究は、ついに最後まで朋音のことを思いながら生涯を閉じる。本庄究という画家を、ある特定の面からではあるけれども描き続けた一代記という構成です。
本庄究は生涯で三度大きな犯罪と関わり合いを持つことになります。誰が殺されたのか、という詳しい説明は、さらに内容紹介をしないと苦しいので省くとして、それがどんな事件であったのかということを書こうと思います。
まず昭和20年。究がまだ少年で疎開先にいた頃。米兵が川原で刺し殺されているのが見つかった。胸に刺し傷があったが、現場にはそれらしきものがない。そこで凶器探しが始まるのだけど、これがどうにもうまくいかない。温泉宿の調理場から包丁が一本なくなっている。温泉宿の主人が隠し持っている秘刀は血まみれになっている。しかしそれらは本当に犯行に使われたのだろうか?
第二の事件は昭和43年沖縄で起きる。朋音はある企業グループの社長と結婚していたが既に亡くなっていたが、その娘の火菜が社長の手助けをしていた。沖縄で新規事業をやるのに地元住民の協力を得ようと、沖縄に雪を持ち込んでかまくらを作る計画があったのだ。
その前日。彼女の会社と対立していたとある会社の元社長が、テレビを通じて無茶苦茶な宣言をした。元社長は、福島県の人里離れた別荘で、人工的に雪崩を起こして死んだ。しかしその直前、カメラの前で自らの名前を書いたナイフが、明日沖縄にいる火菜を襲うと予言したのだ。あまりにもバカバカしい予言だったが、しかしそれは現実のものとなる。かまくらの中で、火菜はまさに元社長の宣言通りの状況で死んでいたのだ。
第三の事件は福島県磐梯山で起きた。そこに、朋音の夫の会社の別荘があるのだが、その近くの池で社長が溺死していたのだ。事故とも殺人とも判断がつかなかったが、一つ不思議な出来事があった。
それは、東京で臥せっていたはずの究が、その別荘にいたという証言があるのだ。どう考えても不可能な話だったので、証言者の嘘だろうという話に落ち着くのだが…。
というような話です。
今年のこのミスの3位にランクインしていた作品で、ちょっと気になったので読んでみました。
辻真先という作家は、名前は知っていたけど、読んだことはありませんでした。僕の中では、梓林太郎とか太田蘭三みたいな、二時間ドラマみたいなミステリを量産している作家、というイメージがあったんですけど、どうなんでしょうか。特に積極的に読んでみようと思える作家ではないんですが、でもこの作品はなかなか面白かったですね。
このミス3位にランクインしているわけで、ミステリというジャンルで正しいんですけど、全体の構成としては本当にある画家の一代記という感じでした。ミステリだけど、事件について推理するなんて場面は、後半のほんの僅かしかありません。それ以外の部分は、もちろん後々事件と関係してくる伏線も描かれるんだけど、基本的には本庄究という画家がどんな人間でどんな人生を送ってきたのか、また朋音やその娘・孫なんかとの係わり合い、魅惑という弟子そのやり取り、画壇における究の存在についてなど、本庄究という個人を浮かび上がらせるような内容についての描写がほとんどです。本庄究の人生の中で起こった三度の事件は、本庄究の個人史にとって極めて重要で欠かすことが出来ない要素だから描いている、というような位置づけで、決してミステリがメインの作品ではありません。
それでいて、ミステリの部分はちゃんとしているわけで、そのギャップが面白いんですよね。三つの事件は、どれも謎が結構魅力的だと思いませんか?本格ミステリなんかの場合、それを描くスタイルみたいなものがあるわけだけど、本作みたいにその本格ミステリを書く際のスタイルから逸脱している文章の中でこれだけ本格ミステリっぽい謎を提示するのは結構難しかったんじゃないかなと思います。
それぞれの事件でも謎はたっぷりありますが、最後の最後もなかなかいいオチを提供してくれます。最後の最後で、タイトルにある「完全恋愛」という言葉が関わってくるわけで、うまいなと思いました。本書の冒頭に、こんな言葉が載せられています。
『他者にその存在さえ知られない罪を完全犯罪と呼ぶ
では
他者にその存在さえ知られない恋は完全恋愛と呼ばれるべきか?』
この文章の意味が、最後の最後になってようやく理解出来ます。なるほど、そうだったのかという感じになると思います。
昭和20年から平成19年までの長い年月を描くわけで、それぞれの時代における様々な要素も出てきます。僕個人としては懐かしいというようなことはないけど、読む人が読んだら懐かしく感じられることでしょう。全学連とか当時の流行の映画とか三億円事件とかバブルとか手塚治虫みたいなものがちょくちょく顔を出してきます。戦後から現代までという背景をきちんと描いているという点もちゃんとしているなと思いました。
ミステリだと思わずに、画家の生涯を描いた作品だという風にも読める作品です。もちろんミステリとしても面白いと思います。興味があったら読んでみてください。
牧薩次「完全恋愛」
福家警部補の挨拶(大倉崇裕)
倒叙もののミステリが出てきた頃は、その発想の見事さに驚いたものだ。
倒叙ものというのは、犯人があらかじめ分かっていて、それを探偵がいかに追い詰めるかという形式のミステリ小説だ。どの作家が考え出したかは知らないが、倒叙ものというスタイルを世に広めた作品と言えば、「刑事コロンボ」だろう。日本でも絶大なファンが数多くいた。ミステリに、新しい形式が持ち込まれた瞬間だった。
しかし、倒叙ものももうありきたりになってしまった。それまで、犯人が誰なのかという興味で引っ張り続けてきたミステリ小説の、その犯人を先にばらしてしまうという革命的な方法も、既に新鮮味に欠ける。
ミステリ作家としてデビューしようと考えている僕は、どうしたら新たな革命的な形式をミステリ界に持ち込むことが出来るか、と日々考えているのだ。
そして、恐らくこれしかないだろう、という形式を考え出した。
探偵役が誰なのかを最後まで隠すのだ。
物語は、常に犯人視点で進む。犯行から、その後の警察とのやり取りなんかも含めて、すべて記述する。
しかし、読者には探偵役が誰なのか分からない。犯人は、様々な人間と話をし、様々な証言をする。その中の誰かが彼を追い詰めることになるのだけど、犯人はもちろん、読者もそれが誰なのか分からない。
よし、これはいいアイデアだ。すぐさまプロットを作り上げ、執筆に取り掛かった。
そうして原稿は完成した。
しかしこれは成功と言えるだろうか?この形式には、大きな問題があり、それを解消する術がわからない。
それは、とんでもなく長くなってしまうということだ。探偵役が誰か分からないようにするには、少なくとも5人以上の探偵役候補を書き分ける必要がある。しかもそれぞれの探偵役候補が犯人にいつも同じことを聞いてばかりいるので、話が冗長になってしまう。結局原稿用紙1500枚を越える作品になってしまった。これでは新人賞に応募できない。
名案だと思ったんだけどなぁ…。新しいものを生み出すというのは、やっぱり難しいや。
一銃「新しいミステリ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思いますが、その前に本作の主人公である福家警部補について少し書いておきます。
捜査一課の刑事である福家警部補は女性。小柄でふち無しの眼鏡を掛けている。誰かに聞き込みに行く時も、刑事だとは思われない。だから皆、捜査一課の警部補だと聞くと驚く。
驚くのは一般人だけではない。警察手帳をバッグからすぐ取り出せないために、現場の警官にいつも止められる。機動鑑識班の二岡が警部補と読んでくれなければ、現場に入るのも覚束ない。
しかし、刑事としては優秀だ。本作に収録されている四編は、一つを除いてすべて事故に見せかけられた殺人だ。しかし福家警部補は、現場を一通り見ただけで、それが殺人であると察する。どんな些細なことも見逃さず、犯人を静かに追い詰めていく。
刑事コロンボや古畑任三郎のような、倒叙ものと呼ばれる形式の作品です。つまり、冒頭で犯行シーンが描かれ、犯人が誰であるのかはすぐ読者は分かる。その犯人を、福家警部補がいかに追い詰めるかという作品です。
「最後の一冊」
稀覯本を多く所蔵する私設図書館で、オーナーである江波戸康祐が書棚の下敷きになって死んでいるのが見つかった。犯人は、図書館の館長である天宮祥子。先代から受け継いだこの図書館を売り飛ばそうとしていたオーナーを、図書館を守るために殺したのだ。
「オッカムの剃刀」
大学で犯罪学を研究している准教授・池内国雄が何者かに殴り殺された。街灯の壊れた真っ暗な場所で襲われた。警察は、近辺で多発していた連続強盗犯の仕業と見て捜査を進めるが、福家警部補だけは、これは別の人間の手によるものだと見抜く。
犯人は、池内の上司であり、かつて科警研で働いていたこともある柳田嘉文。彼がひた隠しにしていたある事実を池内に知られたために殺したのだ。
「愛情のシナリオ」
女優の柿沼恵美が、自宅で一酸化炭素中毒で死亡した。車のエンジンを切り忘れたためらしい。しかし福家警部補は事故ではないと判断する。
犯人は、柿沼恵美のライバルとも言われていた女優・小野木マリ子。表向きの動機を用意しつつ、実はとある事実を柿沼に知られたために殺したのだ。
「月の雫」
酒造会社を経営する佐藤一成が、別の酒造会社のタンクの中で溺死しているのが見つかる。評判のいい酒造会社の酒を盗み出して分析しようとして落ちた事故ではないかと思われたが、福家警部補はこれが事故ではないと判断する。
犯人は、被害者が落ちたタンクのある酒造会社の社長・谷元吉郎。佐藤が汚い手を使って谷元の会社を乗っ取ろうとしたから殺したのだ。
というような感じです。倒叙もののミステリの内容紹介は結構難しいですね。ネタバレになってしまうので、主人公である福家警部補がいかに活躍したのかという描写がなかなか出来ません。
本作は、なかなかミステリとしてのレベルが高いと思いました。どの話も、別に特別すごいトリックが使われているという話ではありません。それぞれの犯人はそれなりに策を弄しますが、現実の犯罪者でもやるようなことばかりです。
つまり事件自体はちっぽけな感じがするんですけど、福家警部補が犯人を追いつける手腕はなかなかのものです。本当にどんな細かなものでも見逃さないわけで、お見事ですよ。著者は「刑事コロンボ」の大ファンらしく、このシリーズもその流れから生まれたようですけど、やっぱり僕なんかは本書を読むと「古畑任三郎」を思い出しますね。性別は違うけどかなり特殊で変わった刑事が主人公だし、しかもどちらもあんまり私生活がよくわからない。犯人の目星をつけるのが早く、誰が犯人なのかを考えるのではなく、いかに犯人を追い詰めるのかに主眼を置いている。古畑任三郎が好きだった人は、かなり好きだろうなと思います。
伏線はすべて提示されていて、真剣に考えればいかにして福家警部補が真相に辿り着いたのかという過程を思いつくことは可能だろうと思います。しかし、まさかそんなことが事件の解決に関係あったのか!というような、本当に些細な点が重要になったりするので、かなり難しいだろうなと思います。特に僕は、「愛情のシナリオ」のラストは見事だと思いました。どうやって小野木マリ子が犯人であるかを立証する場面は、なるほどお見事!と思いました。
大倉崇裕は、このミスの「私の隠し玉」にも割と頻繁に顔を出すし、特にこのシリーズなんかはファンが多いみたいなんだけど(僕が本書を読もうと思ったのは、ある出版社の営業の人が、他の書店で何人かにこの本を勧められた、と言っていたからです)、僕はこの作家の作品をこれまで読んだことがなかったんですね。文章も読みやすいし、ミステリとしてもなかなか切れ味がいいんで、これから少しずつでも読んでみようかなと思います。最近では、山岳ミステリー(なのかな?)の「聖域」という作品の評判もいいみたいですからね。
本書は、NHKで正月にドラマ化されるようです。福家警部補役は永作博美。確かに、小柄で刑事に見えないという点ではピッタリかもしれません。
とにかく読みやすいので、さらっとミステリを読みたいという時にはピッタリです。興味があったら読んでみてください。
大倉崇裕「福家警部補の挨拶」
倒叙ものというのは、犯人があらかじめ分かっていて、それを探偵がいかに追い詰めるかという形式のミステリ小説だ。どの作家が考え出したかは知らないが、倒叙ものというスタイルを世に広めた作品と言えば、「刑事コロンボ」だろう。日本でも絶大なファンが数多くいた。ミステリに、新しい形式が持ち込まれた瞬間だった。
しかし、倒叙ものももうありきたりになってしまった。それまで、犯人が誰なのかという興味で引っ張り続けてきたミステリ小説の、その犯人を先にばらしてしまうという革命的な方法も、既に新鮮味に欠ける。
ミステリ作家としてデビューしようと考えている僕は、どうしたら新たな革命的な形式をミステリ界に持ち込むことが出来るか、と日々考えているのだ。
そして、恐らくこれしかないだろう、という形式を考え出した。
探偵役が誰なのかを最後まで隠すのだ。
物語は、常に犯人視点で進む。犯行から、その後の警察とのやり取りなんかも含めて、すべて記述する。
しかし、読者には探偵役が誰なのか分からない。犯人は、様々な人間と話をし、様々な証言をする。その中の誰かが彼を追い詰めることになるのだけど、犯人はもちろん、読者もそれが誰なのか分からない。
よし、これはいいアイデアだ。すぐさまプロットを作り上げ、執筆に取り掛かった。
そうして原稿は完成した。
しかしこれは成功と言えるだろうか?この形式には、大きな問題があり、それを解消する術がわからない。
それは、とんでもなく長くなってしまうということだ。探偵役が誰か分からないようにするには、少なくとも5人以上の探偵役候補を書き分ける必要がある。しかもそれぞれの探偵役候補が犯人にいつも同じことを聞いてばかりいるので、話が冗長になってしまう。結局原稿用紙1500枚を越える作品になってしまった。これでは新人賞に応募できない。
名案だと思ったんだけどなぁ…。新しいものを生み出すというのは、やっぱり難しいや。
一銃「新しいミステリ」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は連作短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思いますが、その前に本作の主人公である福家警部補について少し書いておきます。
捜査一課の刑事である福家警部補は女性。小柄でふち無しの眼鏡を掛けている。誰かに聞き込みに行く時も、刑事だとは思われない。だから皆、捜査一課の警部補だと聞くと驚く。
驚くのは一般人だけではない。警察手帳をバッグからすぐ取り出せないために、現場の警官にいつも止められる。機動鑑識班の二岡が警部補と読んでくれなければ、現場に入るのも覚束ない。
しかし、刑事としては優秀だ。本作に収録されている四編は、一つを除いてすべて事故に見せかけられた殺人だ。しかし福家警部補は、現場を一通り見ただけで、それが殺人であると察する。どんな些細なことも見逃さず、犯人を静かに追い詰めていく。
刑事コロンボや古畑任三郎のような、倒叙ものと呼ばれる形式の作品です。つまり、冒頭で犯行シーンが描かれ、犯人が誰であるのかはすぐ読者は分かる。その犯人を、福家警部補がいかに追い詰めるかという作品です。
「最後の一冊」
稀覯本を多く所蔵する私設図書館で、オーナーである江波戸康祐が書棚の下敷きになって死んでいるのが見つかった。犯人は、図書館の館長である天宮祥子。先代から受け継いだこの図書館を売り飛ばそうとしていたオーナーを、図書館を守るために殺したのだ。
「オッカムの剃刀」
大学で犯罪学を研究している准教授・池内国雄が何者かに殴り殺された。街灯の壊れた真っ暗な場所で襲われた。警察は、近辺で多発していた連続強盗犯の仕業と見て捜査を進めるが、福家警部補だけは、これは別の人間の手によるものだと見抜く。
犯人は、池内の上司であり、かつて科警研で働いていたこともある柳田嘉文。彼がひた隠しにしていたある事実を池内に知られたために殺したのだ。
「愛情のシナリオ」
女優の柿沼恵美が、自宅で一酸化炭素中毒で死亡した。車のエンジンを切り忘れたためらしい。しかし福家警部補は事故ではないと判断する。
犯人は、柿沼恵美のライバルとも言われていた女優・小野木マリ子。表向きの動機を用意しつつ、実はとある事実を柿沼に知られたために殺したのだ。
「月の雫」
酒造会社を経営する佐藤一成が、別の酒造会社のタンクの中で溺死しているのが見つかる。評判のいい酒造会社の酒を盗み出して分析しようとして落ちた事故ではないかと思われたが、福家警部補はこれが事故ではないと判断する。
犯人は、被害者が落ちたタンクのある酒造会社の社長・谷元吉郎。佐藤が汚い手を使って谷元の会社を乗っ取ろうとしたから殺したのだ。
というような感じです。倒叙もののミステリの内容紹介は結構難しいですね。ネタバレになってしまうので、主人公である福家警部補がいかに活躍したのかという描写がなかなか出来ません。
本作は、なかなかミステリとしてのレベルが高いと思いました。どの話も、別に特別すごいトリックが使われているという話ではありません。それぞれの犯人はそれなりに策を弄しますが、現実の犯罪者でもやるようなことばかりです。
つまり事件自体はちっぽけな感じがするんですけど、福家警部補が犯人を追いつける手腕はなかなかのものです。本当にどんな細かなものでも見逃さないわけで、お見事ですよ。著者は「刑事コロンボ」の大ファンらしく、このシリーズもその流れから生まれたようですけど、やっぱり僕なんかは本書を読むと「古畑任三郎」を思い出しますね。性別は違うけどかなり特殊で変わった刑事が主人公だし、しかもどちらもあんまり私生活がよくわからない。犯人の目星をつけるのが早く、誰が犯人なのかを考えるのではなく、いかに犯人を追い詰めるのかに主眼を置いている。古畑任三郎が好きだった人は、かなり好きだろうなと思います。
伏線はすべて提示されていて、真剣に考えればいかにして福家警部補が真相に辿り着いたのかという過程を思いつくことは可能だろうと思います。しかし、まさかそんなことが事件の解決に関係あったのか!というような、本当に些細な点が重要になったりするので、かなり難しいだろうなと思います。特に僕は、「愛情のシナリオ」のラストは見事だと思いました。どうやって小野木マリ子が犯人であるかを立証する場面は、なるほどお見事!と思いました。
大倉崇裕は、このミスの「私の隠し玉」にも割と頻繁に顔を出すし、特にこのシリーズなんかはファンが多いみたいなんだけど(僕が本書を読もうと思ったのは、ある出版社の営業の人が、他の書店で何人かにこの本を勧められた、と言っていたからです)、僕はこの作家の作品をこれまで読んだことがなかったんですね。文章も読みやすいし、ミステリとしてもなかなか切れ味がいいんで、これから少しずつでも読んでみようかなと思います。最近では、山岳ミステリー(なのかな?)の「聖域」という作品の評判もいいみたいですからね。
本書は、NHKで正月にドラマ化されるようです。福家警部補役は永作博美。確かに、小柄で刑事に見えないという点ではピッタリかもしれません。
とにかく読みやすいので、さらっとミステリを読みたいという時にはピッタリです。興味があったら読んでみてください。
大倉崇裕「福家警部補の挨拶」
ガリレオの苦悩(東野圭吾)
「お邪魔するよ」
「またお前か。研究室には勝手に来るなっていつも言ってるだろ」
「悪い悪い。ちょっと今日は急ぎでね」
「またなんか事件か?」
「そうだ。お前の知恵を借りたいと思ってな」
「お前が来る時はそればっかりだ。まあいい、詳しい話を聞こう」
「亡くなったのは、松本佳子さん。当時付き合っていた男の家で見つかった。死体に特に不審な点はない」
「それなら何が問題なんだ?」
「男の供述だ。男は、突然死体が目の前に現れた、と主張している。さっきまでなかったのに、突然出てきたんだと」
「ほぉ、それで?」
「死体を突然出現させるようなトリックがあるのかどうか、お前に聞きたい」
「おかしいな。警察では、その男が最有力容疑者だと思っているんだろう?」
「今はそれは問題ではない。どうしたら死体を目の前に突然現出させることが出来るか、それを考えて欲しい」
「お前らしくない。いつもだったら、その男が嘘をついている、と判断して終わりだろう。普通はそう考えるはずだ。それに、もし死体が目の前に突然現れるようなトリックがもし仮にあったとしても、事件自体の様相が変わるかけでもないだろう」
「…まあそうだな。その通りだ」
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「今話した事件は、まだ警察は知らない?」
「警察は知らないって、お前は知ってるじゃないか」
「つまり、これは個人的な相談だ、ということだ」
「…お前が殺したのか?」
「…本当に、目の前に突然現れたんだ。死体になったあいつが。もしかしたら俺が殺したのかもしれない。ただ、俺にはその記憶はない。自分が殺したというのなら、もちろん潔く自首しよう。ただ、どうしても今の俺にはそう思えないんだ」
「分かった。確約は出来ないが、考えておこう。とりあえず、すぐに警察に連絡した方がいい」
「そうするよ」
帰っていく彼の背中を見て思った。十中八九、彼が殺したに違いない、と。
一銃「ガリレオの苦悩」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「聖女の救済」と同時に発売された、ガリレオシリーズの最新作です。「聖女の救済」は長編でしたが、こっちは短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「落下る」
女性がマンションから落下し死亡した。落ちる前殴られたようで、殺人事件として捜査が始まる。内海薫は、いろんな細かな条件から、死亡した女性の彼氏だと思われる男性が怪しいと睨むが、はっきりとした根拠を提示できない。そもそも、その二人が付き合っていたという事実さえきちんとは出てこず、また彼には犯行時明確なアリバイがあった。
しかし諦めきれない内海は、もう警察への協力はしないと言われていた湯川に連絡を取るのだが…。
「操縦る」
湯川の恩師がホームパーティを開くことになり、当時の飲み仲間が呼ばれた。少し遅れて参加することになっていた湯川は、惨劇を直接見ることは出来なかった。
離れ家に住んでいた、素行の悪い一人息子が、何者かに刺されて殺された。日本刀のようなもので腹部を貫通されており、しかも離れには火がつけられた。
問題なのは、離れに出入りした形跡がないこと、そして凶器となった刃物が見つからないということだった。一体犯人は、どうやって犯行を成し遂げたのか…。
「密室る」
草薙と同じく大学時代のサークルで同じだった藤村に湯川は呼ばれた。今は悠悠自適にペンションを経営しているらしい。別で収入があるから、ペンション自体で儲ける必要はないらしく、とても流行っているようには見えない。
藤村は、密室の謎を解いてくれ、という。ちょっと前に、宿泊客が崖から転落して死亡した事件があった。恐らく事故か自殺だろうと判断されたのだが、その際その宿泊客がいた部屋が密室になっていたというのだ。その密室が解けたところでどうということもないのだが、気になって仕方がない、と藤村はいう。
そこで湯川はいろいろと話を聞きだすのだが、どうも藤村の態度がおかしい。仕舞いには、この話は忘れてくれと湯川に言うほどで…。
「指標す」
保険のセールスレディをしている女性が、とある殺人事件の容疑者と思われている。犯行当日、その家にセールスに行っているし、金の地金の在り処も知っていた。
その娘が、母親の容疑を晴らそうと決意した。少女は、曾祖母からもらった水晶を使ってダウジングをするのが習慣だった。何か決めなくてはいけないときに、水晶に頼るのだ。
内海薫は、曲がり角に来るたびに奇妙なことをしている少女の後をつけていった。すると、殺人事件の現場から行方不明になっていた犬の死骸が見つかった。少女は本当に、ダウジングで犬を探し当てたのだろうか…。
「攪乱す」
警視庁にある文章が届いた。それは、『悪魔の手』を名乗る者からで、自分は事故に見せかけて人を殺すことの出来る力を持っている、という。そして、事件を解決していい気になっている物理学者との対決を促していた。
初めは本気にしていなかった彼らも、次第に『悪魔の手』を名乗る男の話を信じざるおえなくなった。マスコミでも『悪魔の手』の名が広く報道され、社会問題になっていく。
彼が起こしたとする事故は、どこからどう見ても事故でしたかなかった。命綱をしていなかった作業員の転落、典型的な居眠り運転と思われる自動車事故。しかし状況から見て、『悪魔の手』がこれらの事故を起こしていると考えざるおえない。一体どうやっているのだろうか。
というような感じです。
続けてガリレオシリーズを二作読みましたけど、僕は「聖女の救済」より本作の方が好きですね。やっぱりこのガリレオシリーズは物理的なトリックメインだと思うわけで、長編だとなかなか難しいような気がします。「容疑者Xの献身」が例外的に大成功したということなんじゃないかなと思います。
「聖女の救済」の方の感想で少し書きましたけど、本作の短編がドラマになっていますね。でも、僕は本作中の一つの話がドラマになっているんだと思っていたんですけど、違うみたいですね。「落下る」と「操縦る」の話をうまいこと混ぜて二時間のドラマにしたようです。
「操縦る」のトリックについては、先に映像で見ていてよかったな、と思いました。あれは、文章ではなかなかイメージするのが難しいです。ドラマではたぶん実際と同じ条件で実験をやったんだと思うけど、なるほどそんな風になるのかと驚きました。
「探偵ガリレオ」と「予知夢」を読んだ人なら分かると思うけど、ガリレオシリーズには、物理的なトリックで人を殺すものと、ちょっと不思議な現象を物理的に解釈する、という二つの傾向があります。「探偵ガリレオ」は物理トリックで人を殺す方、「予知夢」は不思議な話を解釈する方ですね。
本作では、「指標る」だけが「予知夢」っぽくて、後は全部「探偵ガリレオ」っぽい話ですね。
トリックで一番驚いたのは、「操縦る」はドラマで見て既に知っていたという理由で外すとすると、やっぱり「密室る」ですね。これはなかなかお見事なトリックだと思いました。今までのどの密室ものの小説でもなかっただろう、まさにガリレオシリーズらしいトリックです。実際ちょっとそのトリックを見てみたいなと思います。本当に、実際使えるくらいのものなんでしょうかね?
「攪乱す」は、トリックはまあさほどでもないような気がするけど、ストーリーは結構いいですね。たぶんこれだけで長編に出来るんじゃないかなという気はしました。いや、そんなことはないかな。やっぱり長編にするにはちょっとトリックのスケールが小さすぎるような気はするけど、ストーリーの壮大さがなかなかよかったです。しかしこの話、このトリックがもし実行可能なら(たぶん可能なんだと思うけど)、ちょっと現実に起こりそうな話ではありますね。この話の犯人みたいな人間は、最近多いような気がしますし。もしこれと同じことを現実にやられたら、警察はちょっと手を出せないでしょうねぇ。
「指標す」は、湯川の科学に対するスタンスが垣間見えていいと思いました。ダウジングという、科学的ではないけど非科学的だとも言い切れないものを相手に、湯川が科学というものをどう捉えているのかということが分かります。
「落下る」は、警察に協力をしないと言っていた湯川が、内海薫に協力するきっかけになる話で、その展開はなかなかいいと思います。無駄な実験などない、という湯川の考え方も好きですね。
ただ、何で湯川って警察に協力しなくなったんでしたっけ?そんな話が、「容疑者Xの献身」辺りにありましたっけ?全然覚えてないんだよなぁ。
「操縦る」は、普段犯人の動機には興味がないと言っている湯川が、トリックを暴くことで犯人の真の動機にまで言及するというところがいいですね。どうして犯行に及んだのか、その真の動機はなかなか深いものがあります。
しかし、映画とかを観ているせいでしょうか?読んでると、湯川は福山雅治、内海は柴崎コウの顔しか出てきません。でも思うんだけど、東野圭吾も映画のイメージを結構「聖女の救済」と「ガリレオの苦悩」で反映させているような気がするんですよね。そんな気がします。
どの話も、なかなかいい切れ味の作品が揃っていると思います。僕は「聖女の救済」より面白いと思いましたが、まあそれは人によるでしょうね。読んでみてください。
追記)
amazonのコメントを読んで僕も初めて気づいたんだけど、内海薫っていうキャラクターは、決してドラマとか映画用に作られたキャラじゃないんですね。ドラマの放映より前に雑誌に連載されていた作品に既に登場しているわけで。もちろん、映画制作側から、ドラマや映画では刑事役を女性にしたいと言われて、その影響で連載する作品にも女性刑事を登場させることにした、ということかもしれませんけどね。なるほど、内海薫はドラマ用に勝手に作られたわけじゃなかったんだなぁ。
あと、これもamazonのコメントに書いてありましたけど、「容疑者Xの献身」の中で湯川は、もう警察に協力しないと言っているようです。なるほど、やっぱり僕の記憶力は死んでるなぁ、と確認した次第です。
東野圭吾「ガリレオの苦悩」
「またお前か。研究室には勝手に来るなっていつも言ってるだろ」
「悪い悪い。ちょっと今日は急ぎでね」
「またなんか事件か?」
「そうだ。お前の知恵を借りたいと思ってな」
「お前が来る時はそればっかりだ。まあいい、詳しい話を聞こう」
「亡くなったのは、松本佳子さん。当時付き合っていた男の家で見つかった。死体に特に不審な点はない」
「それなら何が問題なんだ?」
「男の供述だ。男は、突然死体が目の前に現れた、と主張している。さっきまでなかったのに、突然出てきたんだと」
「ほぉ、それで?」
「死体を突然出現させるようなトリックがあるのかどうか、お前に聞きたい」
「おかしいな。警察では、その男が最有力容疑者だと思っているんだろう?」
「今はそれは問題ではない。どうしたら死体を目の前に突然現出させることが出来るか、それを考えて欲しい」
「お前らしくない。いつもだったら、その男が嘘をついている、と判断して終わりだろう。普通はそう考えるはずだ。それに、もし死体が目の前に突然現れるようなトリックがもし仮にあったとしても、事件自体の様相が変わるかけでもないだろう」
「…まあそうだな。その通りだ」
「どうしたんだ?何かあったのか?」
「今話した事件は、まだ警察は知らない?」
「警察は知らないって、お前は知ってるじゃないか」
「つまり、これは個人的な相談だ、ということだ」
「…お前が殺したのか?」
「…本当に、目の前に突然現れたんだ。死体になったあいつが。もしかしたら俺が殺したのかもしれない。ただ、俺にはその記憶はない。自分が殺したというのなら、もちろん潔く自首しよう。ただ、どうしても今の俺にはそう思えないんだ」
「分かった。確約は出来ないが、考えておこう。とりあえず、すぐに警察に連絡した方がいい」
「そうするよ」
帰っていく彼の背中を見て思った。十中八九、彼が殺したに違いない、と。
一銃「ガリレオの苦悩」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「聖女の救済」と同時に発売された、ガリレオシリーズの最新作です。「聖女の救済」は長編でしたが、こっちは短編集です。それぞれの内容を紹介しようと思います。
「落下る」
女性がマンションから落下し死亡した。落ちる前殴られたようで、殺人事件として捜査が始まる。内海薫は、いろんな細かな条件から、死亡した女性の彼氏だと思われる男性が怪しいと睨むが、はっきりとした根拠を提示できない。そもそも、その二人が付き合っていたという事実さえきちんとは出てこず、また彼には犯行時明確なアリバイがあった。
しかし諦めきれない内海は、もう警察への協力はしないと言われていた湯川に連絡を取るのだが…。
「操縦る」
湯川の恩師がホームパーティを開くことになり、当時の飲み仲間が呼ばれた。少し遅れて参加することになっていた湯川は、惨劇を直接見ることは出来なかった。
離れ家に住んでいた、素行の悪い一人息子が、何者かに刺されて殺された。日本刀のようなもので腹部を貫通されており、しかも離れには火がつけられた。
問題なのは、離れに出入りした形跡がないこと、そして凶器となった刃物が見つからないということだった。一体犯人は、どうやって犯行を成し遂げたのか…。
「密室る」
草薙と同じく大学時代のサークルで同じだった藤村に湯川は呼ばれた。今は悠悠自適にペンションを経営しているらしい。別で収入があるから、ペンション自体で儲ける必要はないらしく、とても流行っているようには見えない。
藤村は、密室の謎を解いてくれ、という。ちょっと前に、宿泊客が崖から転落して死亡した事件があった。恐らく事故か自殺だろうと判断されたのだが、その際その宿泊客がいた部屋が密室になっていたというのだ。その密室が解けたところでどうということもないのだが、気になって仕方がない、と藤村はいう。
そこで湯川はいろいろと話を聞きだすのだが、どうも藤村の態度がおかしい。仕舞いには、この話は忘れてくれと湯川に言うほどで…。
「指標す」
保険のセールスレディをしている女性が、とある殺人事件の容疑者と思われている。犯行当日、その家にセールスに行っているし、金の地金の在り処も知っていた。
その娘が、母親の容疑を晴らそうと決意した。少女は、曾祖母からもらった水晶を使ってダウジングをするのが習慣だった。何か決めなくてはいけないときに、水晶に頼るのだ。
内海薫は、曲がり角に来るたびに奇妙なことをしている少女の後をつけていった。すると、殺人事件の現場から行方不明になっていた犬の死骸が見つかった。少女は本当に、ダウジングで犬を探し当てたのだろうか…。
「攪乱す」
警視庁にある文章が届いた。それは、『悪魔の手』を名乗る者からで、自分は事故に見せかけて人を殺すことの出来る力を持っている、という。そして、事件を解決していい気になっている物理学者との対決を促していた。
初めは本気にしていなかった彼らも、次第に『悪魔の手』を名乗る男の話を信じざるおえなくなった。マスコミでも『悪魔の手』の名が広く報道され、社会問題になっていく。
彼が起こしたとする事故は、どこからどう見ても事故でしたかなかった。命綱をしていなかった作業員の転落、典型的な居眠り運転と思われる自動車事故。しかし状況から見て、『悪魔の手』がこれらの事故を起こしていると考えざるおえない。一体どうやっているのだろうか。
というような感じです。
続けてガリレオシリーズを二作読みましたけど、僕は「聖女の救済」より本作の方が好きですね。やっぱりこのガリレオシリーズは物理的なトリックメインだと思うわけで、長編だとなかなか難しいような気がします。「容疑者Xの献身」が例外的に大成功したということなんじゃないかなと思います。
「聖女の救済」の方の感想で少し書きましたけど、本作の短編がドラマになっていますね。でも、僕は本作中の一つの話がドラマになっているんだと思っていたんですけど、違うみたいですね。「落下る」と「操縦る」の話をうまいこと混ぜて二時間のドラマにしたようです。
「操縦る」のトリックについては、先に映像で見ていてよかったな、と思いました。あれは、文章ではなかなかイメージするのが難しいです。ドラマではたぶん実際と同じ条件で実験をやったんだと思うけど、なるほどそんな風になるのかと驚きました。
「探偵ガリレオ」と「予知夢」を読んだ人なら分かると思うけど、ガリレオシリーズには、物理的なトリックで人を殺すものと、ちょっと不思議な現象を物理的に解釈する、という二つの傾向があります。「探偵ガリレオ」は物理トリックで人を殺す方、「予知夢」は不思議な話を解釈する方ですね。
本作では、「指標る」だけが「予知夢」っぽくて、後は全部「探偵ガリレオ」っぽい話ですね。
トリックで一番驚いたのは、「操縦る」はドラマで見て既に知っていたという理由で外すとすると、やっぱり「密室る」ですね。これはなかなかお見事なトリックだと思いました。今までのどの密室ものの小説でもなかっただろう、まさにガリレオシリーズらしいトリックです。実際ちょっとそのトリックを見てみたいなと思います。本当に、実際使えるくらいのものなんでしょうかね?
「攪乱す」は、トリックはまあさほどでもないような気がするけど、ストーリーは結構いいですね。たぶんこれだけで長編に出来るんじゃないかなという気はしました。いや、そんなことはないかな。やっぱり長編にするにはちょっとトリックのスケールが小さすぎるような気はするけど、ストーリーの壮大さがなかなかよかったです。しかしこの話、このトリックがもし実行可能なら(たぶん可能なんだと思うけど)、ちょっと現実に起こりそうな話ではありますね。この話の犯人みたいな人間は、最近多いような気がしますし。もしこれと同じことを現実にやられたら、警察はちょっと手を出せないでしょうねぇ。
「指標す」は、湯川の科学に対するスタンスが垣間見えていいと思いました。ダウジングという、科学的ではないけど非科学的だとも言い切れないものを相手に、湯川が科学というものをどう捉えているのかということが分かります。
「落下る」は、警察に協力をしないと言っていた湯川が、内海薫に協力するきっかけになる話で、その展開はなかなかいいと思います。無駄な実験などない、という湯川の考え方も好きですね。
ただ、何で湯川って警察に協力しなくなったんでしたっけ?そんな話が、「容疑者Xの献身」辺りにありましたっけ?全然覚えてないんだよなぁ。
「操縦る」は、普段犯人の動機には興味がないと言っている湯川が、トリックを暴くことで犯人の真の動機にまで言及するというところがいいですね。どうして犯行に及んだのか、その真の動機はなかなか深いものがあります。
しかし、映画とかを観ているせいでしょうか?読んでると、湯川は福山雅治、内海は柴崎コウの顔しか出てきません。でも思うんだけど、東野圭吾も映画のイメージを結構「聖女の救済」と「ガリレオの苦悩」で反映させているような気がするんですよね。そんな気がします。
どの話も、なかなかいい切れ味の作品が揃っていると思います。僕は「聖女の救済」より面白いと思いましたが、まあそれは人によるでしょうね。読んでみてください。
追記)
amazonのコメントを読んで僕も初めて気づいたんだけど、内海薫っていうキャラクターは、決してドラマとか映画用に作られたキャラじゃないんですね。ドラマの放映より前に雑誌に連載されていた作品に既に登場しているわけで。もちろん、映画制作側から、ドラマや映画では刑事役を女性にしたいと言われて、その影響で連載する作品にも女性刑事を登場させることにした、ということかもしれませんけどね。なるほど、内海薫はドラマ用に勝手に作られたわけじゃなかったんだなぁ。
あと、これもamazonのコメントに書いてありましたけど、「容疑者Xの献身」の中で湯川は、もう警察に協力しないと言っているようです。なるほど、やっぱり僕の記憶力は死んでるなぁ、と確認した次第です。
東野圭吾「ガリレオの苦悩」
聖女の救済(東野圭吾)
私は、溶剤の入った容器を手に、最後の瞬間を迎えることをためらっている。これを流し込んでしまえば、あの人は恐らく死ぬだろう。自分がそれを心の底から望んでいるのか、まだ整理がついていないような気もする。
思えばこの日のために浄水場で働くことを決めたと言ってもいいかもしれない。かつては、大手食品メーカーに勤めていた。そこで、立ち直れないほどの屈辱を受けた。あれから3年。ここまで来るのに、本当に長かったと思う。
容器に入っている溶剤は、食品メーカー時代偶然に見つけたある化合物を元に作ったものだ。基本的に無味無臭で、毒性は一切ない。これ単独では基本的に特にこれと言った役には立たない代物だ。
しかし、ある種の化合物と反応させると、とんでもない毒性が発揮される。亜ヒ酸にも匹敵する毒性で、ほんの少し経口摂取するだけで死に至る。今のところ私しか知らない反応のはずだ。このやり方で人が死んでも、死因は明確には特定出来ないだろうし、二種類の化合物による反応の結果毒性が生みだされるなんてことがわかるわけもない。
彼には、この溶剤と反応する化合物を既に渡してある。最近メタボ気味だと嘆いていたから、糖質が従来の十分の一で同じだけの甘味がある砂糖のようなものだ、と言って渡してある。コーヒーを飲む時に入れれば、それでアウトだ。
これこそ完全犯罪だわ。私は覚悟を決め、浄化水槽に溶剤を流し入れた。
一銃「完全犯罪」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ドラマ化も映画かもされて大いに話題になった<ガリレオ>シリーズの最新刊の内の一冊です。いわゆる倒叙ものと呼ばれるもので、犯人が誰か先に分かっていて、それがいかにして明かされていくのか、ということを描くミステリーです。古畑任三郎みたいな感じと言えば分かりやすいでしょうか。
真柴綾音は、夫義孝に離婚を切り出された。一年以内に子供が出来なかったら別れよう―確かに、元々そういうルールではあった。それでも…。
綾音は夫を毒殺することに決める。
警視庁捜査一課の草薙と内海は、真柴義孝殺人事件を追うことになる。死因は毒物によるものだったが、どうやって被害者にそれを飲ませたのかが分からない。自分で作ったコーヒーの中に毒物が入っていたようだが、義孝氏が死ぬ前にも何度かコーヒーは飲まれている。何故義孝氏が飲んだ時だけ毒が混入したのか。
犯行時、妻の綾音は北海道の実家に戻っていた。義孝氏と不倫関係にあった、綾音のパッチワーク教室の弟子でもある若山宏美も怪しいが、どう考えても動機がない。
端から綾音が怪しいと思って捜査を進める内海と、綾音に惚れてしまい先入観を排除できない草薙。もう警察の手助けはしないと言っていた湯川に、内海は単独で相談に行くのだが…。
というような話です。
まあなかなか面白い話だなと思いました。
まずやっぱり、東野圭吾はうまいですね。いろんなところでそれを感じます。
例えばまず、文章が異常に読みやすい。僕は何度も書いているんだけど、こういうクセのない平坦な読みやすい文章を書けるというのも一つの才能だと思っているので、これはやっぱりすごいと思いますね。独特の文体で勝負をする作家は別として、やっぱりうまい作家とそうでない作家を分ける大きな要因の一つに、この文章の読みやすさがあると僕は思います。東野圭吾の文章の読みやすさは結構凄いものがあるなと思います。
あと細かな描写が丁寧なんですね。描写というか、視点を疎かにしていないな、という感じでしょうか。前何かで読みましたけど、東野圭吾は小説を書く際、まず頭の中で映像にしてから、それを文章に写し取るという風にするそうです。その際、余分な部分はガンガン削り、それでいてハッと思わせる細かな描写を拾っていくという視点を持つことが出来ているんだろうなと思います。
例えばですけど、女性の描写なんかさすがだなと思わせますね。こういうシーンがあります。女性が刑事と喫茶店みたいなところに入るんですけど、女性がミルクを頼んだことを後悔する場面があるんですね。何故なら、口元が白くなることを気にしなくてはいけないから、ということなんですね。
でも、女性としては当たり前の思考なのかもしれないけど、こういう発想は男にはあんまりないと思うんですね。女性がそんな風に考えているなんてことも男は考えないと思うんです。でも東野圭吾はこういう細かなところを落とさないで書くんですね。こういう描写は結構多くて、よくもまあ女性がどういう風に考えるのかということをきちんと追うことが出来るものだなと思います。
また別の場面でも、細かな描写をするなと思った場面があります。草薙が名刺を差し出す場面なんですけど、その名刺には、その名刺を渡す人の名前とその日付が書かれているんです。それを受け取った人は、「なるほど悪用防止ですか」ということを言うんですけど、こんな細かな描写をしているミステリなんてなかなかないと思いますね。黒川博行みたいな、ミステリの中に登場させるために警察を描いているのではなく、警察そのものを描いているような作家の場合はこういう細かな描写もあったりしますけど、ミステリ小説に必要だからという理由で警察を登場させる小説でここまできっちりやるというのはなかなか凄いなと思います。
ストーリーは基本的に、『いかに毒物を仕込んだのか』という部分がメインとなって進んでいきます。とにかく、基本的にはそこにしか謎がありません。それだけで長編一本に仕上げてしまうのだから、さすがですね。普通に考えると、どうやって毒物を仕込んだのかという謎だけではちょっと弱いですね。少なくとも、弱いかもしれないと考える作家の方が多いような気がします。だから他にもいろいろ謎をくっつけたりする作家が多いんだけど、東野圭吾は謎はこの一点のみの勝負です。もちろん、刑事のやり取りだとか被害者や容疑者たちの人間関係など読ませる部分をたくさん作っているんですけど、これ一点だけで勝負できる東野圭吾はなかなかだなと思います。
そのトリック自体は、説明されれば非常に分かりやすくて簡単なんですけど、でも理解するのは結構苦しむでしょうね。トリックの成立が非常に危うい線の上に乗っかっていて、ちょっとしたイレギュラーな事態が起きれば崩れてしまうようなもので、恐らく現実には不可能でしょう。ただ、やろうと思えば出来るかもしれないと思わせる作品に仕上げているのはさすがです。まさに盲点を突くようなトリックで、まあまあよかったという感じです。ただ、湯川でないと解けない謎なんだろうか、とは思いましたけど。確かに発想の転換は必要だけど、それでも湯川が出張ってこなくてはいけないほどだったかなぁ、という風には思いました。
構成が巧いと感じた点もあります。倒叙もののミステリの最大の難点は、読者は犯人を知っているのに警察は知らないという点にあります。つまり警察としては、本筋とは関係のない捜査もやらなければいけないし、その描写もしなくてはいけないので、読者からすればその傍流に関する捜査が退屈に感じられてしまう、という点です。でも本作では、倒叙ものにつきもののその弱点は克服されています。これも巧いなと思いました。ギリギリの細さで繋がっていく感じの演出もリアリティがあるように思えるし、うまいと思いました。
トリックはそこまで革命的というわけではなく、どちらかと言えば小粒と言ってしまってもいいかもしれないけど、でも東野圭吾の作家としての技量の高さが感じられる作品だと思います。正直、そこらの作家が同じトリックを使った作品を書いてもここまで面白くはないでしょう。東野圭吾だからこそ、このストーリーをここまで面白く出来るのだと思います。
ただ一つどうかなぁと思うのがタイトルですね。別にこのタイトルが本作の内容に合っていないというわけではないんです。というかですね、どうも僕は東野圭吾にはタイトルをつける才能はちょっとないなぁと思っているんです。これまでの作品のタイトルを思い返して見ても、辞書に載ってるようなありきたりの言葉が多くて、正直あんまりセンスがいいとは言えないなと思います。作家としての力量は非常に高いのに、ちょっとタイトルのセンスがないのは残念だなと思います。まあ売れてるからいいんですけどね。
しかし改めて思うけど、このシリーズはよくもまあここまで成功したなと思うし、メディアミックス的にも素晴らしい大成功を収めたなと思います。
まず「探偵ガリレオ」「予知夢」が出た時は、東野圭吾の作品の中でも特にマイナーなものだったと思います。だって、理系絡みで、しかも短編です。正直、売れるわけがないですね。たぶん、出版社としてもそこまで期待をしていなかっただろうと思います。
ただ「容疑者Xの献身」で状況が大分変わります。その年のミステリランキングを制覇し、直木賞も受賞し、一気に東野圭吾ブームがやってきます。そこから「容疑者」の映画化という話になるんですけど、ここでフジテレビが素晴らしい提案をして映画化権を勝ち取るんですね。
それが、映画公開前に、「探偵ガリレオ」と「予知夢」をドラマにするというプランです。ガリレオ役を福山雅治がやったというのも大いに話題になったし、また賛否両論あるかもしれないけど、男だった草薙の役を、内海薫という女性に変えたこともまた成功の要因でしょう。
そのまま映画も大成功を収めるわけですけど、映画公開の前日だか当日だかに、テレビであるスペシャルドラマが放送されました。湯川の過去を描くという趣向で(僕は途中から見たんですけど)、しかもまだ僕は読んでないですけど(これから読む予定です)、そのスペシャルドラマに使われたのは、その時点ではまだ発売していなかった新刊の中の一編がベースになっているという話だったと思います。まだ刊行してない作品を映像化するというのは、前代未聞かどうかは知らないけど、かなり珍しいことでしょう。これも、それまでの映像化の流れがあったからだと思います。
そしてガリレオシリーズの新刊が同時に二作発売され、結構年末近くに発売されたにも関わらずこの二作は今年の文芸書の売上上位にランクインしています。
それに本作では、これまで映画でしか出てこなかった内海薫というキャラクターが出てきます。映画の設定変更を受けて、小説でもまた設定を変えるというのは相当珍しいパターンだと思います。
小説は映画やドラマの原作にされることが多いですけど、でも大抵は脚本のベースになるだけで終わってしまいますね。でもこのガリレオシリーズは、双方向から新たな展開が提示されるという、相当変わった形のメディアミックスで、僕が知ってる限りの範囲で言うと、これまでで一番成功したメディアミックスなんではないかという風に思います。「探偵ガリレオ」が出た時、東野圭吾でさえもここまでの展開は予想できなかったことでしょう。他の作家としても、かなり羨ましいことだろうなと思います。
まあそんなわけで、なかなか面白い作品だと思います。「容疑者X」並のものを期待すると拍子抜けになるかもしれないけど、あれはちょっと別格だったので比べるのは可哀相です。本作も、単独で評価すれば結構面白い作品だと僕は思います。読んでみてください。
東野圭吾「聖女の救済」
思えばこの日のために浄水場で働くことを決めたと言ってもいいかもしれない。かつては、大手食品メーカーに勤めていた。そこで、立ち直れないほどの屈辱を受けた。あれから3年。ここまで来るのに、本当に長かったと思う。
容器に入っている溶剤は、食品メーカー時代偶然に見つけたある化合物を元に作ったものだ。基本的に無味無臭で、毒性は一切ない。これ単独では基本的に特にこれと言った役には立たない代物だ。
しかし、ある種の化合物と反応させると、とんでもない毒性が発揮される。亜ヒ酸にも匹敵する毒性で、ほんの少し経口摂取するだけで死に至る。今のところ私しか知らない反応のはずだ。このやり方で人が死んでも、死因は明確には特定出来ないだろうし、二種類の化合物による反応の結果毒性が生みだされるなんてことがわかるわけもない。
彼には、この溶剤と反応する化合物を既に渡してある。最近メタボ気味だと嘆いていたから、糖質が従来の十分の一で同じだけの甘味がある砂糖のようなものだ、と言って渡してある。コーヒーを飲む時に入れれば、それでアウトだ。
これこそ完全犯罪だわ。私は覚悟を決め、浄化水槽に溶剤を流し入れた。
一銃「完全犯罪」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ドラマ化も映画かもされて大いに話題になった<ガリレオ>シリーズの最新刊の内の一冊です。いわゆる倒叙ものと呼ばれるもので、犯人が誰か先に分かっていて、それがいかにして明かされていくのか、ということを描くミステリーです。古畑任三郎みたいな感じと言えば分かりやすいでしょうか。
真柴綾音は、夫義孝に離婚を切り出された。一年以内に子供が出来なかったら別れよう―確かに、元々そういうルールではあった。それでも…。
綾音は夫を毒殺することに決める。
警視庁捜査一課の草薙と内海は、真柴義孝殺人事件を追うことになる。死因は毒物によるものだったが、どうやって被害者にそれを飲ませたのかが分からない。自分で作ったコーヒーの中に毒物が入っていたようだが、義孝氏が死ぬ前にも何度かコーヒーは飲まれている。何故義孝氏が飲んだ時だけ毒が混入したのか。
犯行時、妻の綾音は北海道の実家に戻っていた。義孝氏と不倫関係にあった、綾音のパッチワーク教室の弟子でもある若山宏美も怪しいが、どう考えても動機がない。
端から綾音が怪しいと思って捜査を進める内海と、綾音に惚れてしまい先入観を排除できない草薙。もう警察の手助けはしないと言っていた湯川に、内海は単独で相談に行くのだが…。
というような話です。
まあなかなか面白い話だなと思いました。
まずやっぱり、東野圭吾はうまいですね。いろんなところでそれを感じます。
例えばまず、文章が異常に読みやすい。僕は何度も書いているんだけど、こういうクセのない平坦な読みやすい文章を書けるというのも一つの才能だと思っているので、これはやっぱりすごいと思いますね。独特の文体で勝負をする作家は別として、やっぱりうまい作家とそうでない作家を分ける大きな要因の一つに、この文章の読みやすさがあると僕は思います。東野圭吾の文章の読みやすさは結構凄いものがあるなと思います。
あと細かな描写が丁寧なんですね。描写というか、視点を疎かにしていないな、という感じでしょうか。前何かで読みましたけど、東野圭吾は小説を書く際、まず頭の中で映像にしてから、それを文章に写し取るという風にするそうです。その際、余分な部分はガンガン削り、それでいてハッと思わせる細かな描写を拾っていくという視点を持つことが出来ているんだろうなと思います。
例えばですけど、女性の描写なんかさすがだなと思わせますね。こういうシーンがあります。女性が刑事と喫茶店みたいなところに入るんですけど、女性がミルクを頼んだことを後悔する場面があるんですね。何故なら、口元が白くなることを気にしなくてはいけないから、ということなんですね。
でも、女性としては当たり前の思考なのかもしれないけど、こういう発想は男にはあんまりないと思うんですね。女性がそんな風に考えているなんてことも男は考えないと思うんです。でも東野圭吾はこういう細かなところを落とさないで書くんですね。こういう描写は結構多くて、よくもまあ女性がどういう風に考えるのかということをきちんと追うことが出来るものだなと思います。
また別の場面でも、細かな描写をするなと思った場面があります。草薙が名刺を差し出す場面なんですけど、その名刺には、その名刺を渡す人の名前とその日付が書かれているんです。それを受け取った人は、「なるほど悪用防止ですか」ということを言うんですけど、こんな細かな描写をしているミステリなんてなかなかないと思いますね。黒川博行みたいな、ミステリの中に登場させるために警察を描いているのではなく、警察そのものを描いているような作家の場合はこういう細かな描写もあったりしますけど、ミステリ小説に必要だからという理由で警察を登場させる小説でここまできっちりやるというのはなかなか凄いなと思います。
ストーリーは基本的に、『いかに毒物を仕込んだのか』という部分がメインとなって進んでいきます。とにかく、基本的にはそこにしか謎がありません。それだけで長編一本に仕上げてしまうのだから、さすがですね。普通に考えると、どうやって毒物を仕込んだのかという謎だけではちょっと弱いですね。少なくとも、弱いかもしれないと考える作家の方が多いような気がします。だから他にもいろいろ謎をくっつけたりする作家が多いんだけど、東野圭吾は謎はこの一点のみの勝負です。もちろん、刑事のやり取りだとか被害者や容疑者たちの人間関係など読ませる部分をたくさん作っているんですけど、これ一点だけで勝負できる東野圭吾はなかなかだなと思います。
そのトリック自体は、説明されれば非常に分かりやすくて簡単なんですけど、でも理解するのは結構苦しむでしょうね。トリックの成立が非常に危うい線の上に乗っかっていて、ちょっとしたイレギュラーな事態が起きれば崩れてしまうようなもので、恐らく現実には不可能でしょう。ただ、やろうと思えば出来るかもしれないと思わせる作品に仕上げているのはさすがです。まさに盲点を突くようなトリックで、まあまあよかったという感じです。ただ、湯川でないと解けない謎なんだろうか、とは思いましたけど。確かに発想の転換は必要だけど、それでも湯川が出張ってこなくてはいけないほどだったかなぁ、という風には思いました。
構成が巧いと感じた点もあります。倒叙もののミステリの最大の難点は、読者は犯人を知っているのに警察は知らないという点にあります。つまり警察としては、本筋とは関係のない捜査もやらなければいけないし、その描写もしなくてはいけないので、読者からすればその傍流に関する捜査が退屈に感じられてしまう、という点です。でも本作では、倒叙ものにつきもののその弱点は克服されています。これも巧いなと思いました。ギリギリの細さで繋がっていく感じの演出もリアリティがあるように思えるし、うまいと思いました。
トリックはそこまで革命的というわけではなく、どちらかと言えば小粒と言ってしまってもいいかもしれないけど、でも東野圭吾の作家としての技量の高さが感じられる作品だと思います。正直、そこらの作家が同じトリックを使った作品を書いてもここまで面白くはないでしょう。東野圭吾だからこそ、このストーリーをここまで面白く出来るのだと思います。
ただ一つどうかなぁと思うのがタイトルですね。別にこのタイトルが本作の内容に合っていないというわけではないんです。というかですね、どうも僕は東野圭吾にはタイトルをつける才能はちょっとないなぁと思っているんです。これまでの作品のタイトルを思い返して見ても、辞書に載ってるようなありきたりの言葉が多くて、正直あんまりセンスがいいとは言えないなと思います。作家としての力量は非常に高いのに、ちょっとタイトルのセンスがないのは残念だなと思います。まあ売れてるからいいんですけどね。
しかし改めて思うけど、このシリーズはよくもまあここまで成功したなと思うし、メディアミックス的にも素晴らしい大成功を収めたなと思います。
まず「探偵ガリレオ」「予知夢」が出た時は、東野圭吾の作品の中でも特にマイナーなものだったと思います。だって、理系絡みで、しかも短編です。正直、売れるわけがないですね。たぶん、出版社としてもそこまで期待をしていなかっただろうと思います。
ただ「容疑者Xの献身」で状況が大分変わります。その年のミステリランキングを制覇し、直木賞も受賞し、一気に東野圭吾ブームがやってきます。そこから「容疑者」の映画化という話になるんですけど、ここでフジテレビが素晴らしい提案をして映画化権を勝ち取るんですね。
それが、映画公開前に、「探偵ガリレオ」と「予知夢」をドラマにするというプランです。ガリレオ役を福山雅治がやったというのも大いに話題になったし、また賛否両論あるかもしれないけど、男だった草薙の役を、内海薫という女性に変えたこともまた成功の要因でしょう。
そのまま映画も大成功を収めるわけですけど、映画公開の前日だか当日だかに、テレビであるスペシャルドラマが放送されました。湯川の過去を描くという趣向で(僕は途中から見たんですけど)、しかもまだ僕は読んでないですけど(これから読む予定です)、そのスペシャルドラマに使われたのは、その時点ではまだ発売していなかった新刊の中の一編がベースになっているという話だったと思います。まだ刊行してない作品を映像化するというのは、前代未聞かどうかは知らないけど、かなり珍しいことでしょう。これも、それまでの映像化の流れがあったからだと思います。
そしてガリレオシリーズの新刊が同時に二作発売され、結構年末近くに発売されたにも関わらずこの二作は今年の文芸書の売上上位にランクインしています。
それに本作では、これまで映画でしか出てこなかった内海薫というキャラクターが出てきます。映画の設定変更を受けて、小説でもまた設定を変えるというのは相当珍しいパターンだと思います。
小説は映画やドラマの原作にされることが多いですけど、でも大抵は脚本のベースになるだけで終わってしまいますね。でもこのガリレオシリーズは、双方向から新たな展開が提示されるという、相当変わった形のメディアミックスで、僕が知ってる限りの範囲で言うと、これまでで一番成功したメディアミックスなんではないかという風に思います。「探偵ガリレオ」が出た時、東野圭吾でさえもここまでの展開は予想できなかったことでしょう。他の作家としても、かなり羨ましいことだろうなと思います。
まあそんなわけで、なかなか面白い作品だと思います。「容疑者X」並のものを期待すると拍子抜けになるかもしれないけど、あれはちょっと別格だったので比べるのは可哀相です。本作も、単独で評価すれば結構面白い作品だと僕は思います。読んでみてください。
東野圭吾「聖女の救済」
素数の音楽(マーカス・デュ・ソートイ)
素数虫というのをご存知だろうか。
いや、知らなくても非常識ということはない。恐らく、数学や生物、あるいは暗号なんかに携わっている人で、最新情報にも詳しい人でなければなかなか知らないだろう。
1年ほど前、とある生物学者が素数虫を発見したと発表した。その生物学者は、元数学者というなかなか変わった経歴であり、だからこそそんな奇妙な発見をしたのだろうと思われる。
彼の発見はしかし、科学界ではほぼ無視された。何故ならば、彼が素数虫だと主張する虫はすべてすでに発見されているものであり、きちんと分類もされている。つまり、未発見の生物ではなかったのだ。
素数虫というが昆虫ではなく、実際はゾウリムシのような単細胞生物に近い。その生物学者は、例えばある種は数字の2に、ある種は数字の3に、という具合に、それぞれの種に応じて対応する素数が異なっている、と主張した。しかし、いくらそんな説明をされても、誰にも理解できなかったのだ。その素数虫とやらの背中に番号が振ってあるわけでもないし、その虫が数字の形をしているわけでもないのである。
そうして彼の発見は長らく無視されることになったのだが、しかしつい最近彼は驚くべき成果を公表したのだ。
なんと、RSA暗号を素数虫によって解読した、というのだ。
RSA暗号は、素因数分解をベースにした暗号システムで、非常に安全性が高い。非常に桁数の多い数字を因数分解することは、スーパーコンピューターを使ってもとんでもない年数が必要で、そのためRSA暗号は安全性が保証されているのである。
しかし彼は、そのRSA暗号をたった1ヶ月で破るアルゴリズムを開発したのだった。原理的にはこうだ。素数虫にはある特徴があり、同じ数字同士の種が交配した場合、生まれてくるのもその数字を持つが、別々の種が交配した場合、生まれるのはその素数同士を掛け合わせた種なのである。通常自然界では、異種同士の交配はされないが、彼はそれを実験室内で実現させた。その異種同士の交配をベースにして、RSA暗号を解読したのだった。
この発表により、素数虫という存在にもにわかに注目が集まるようになった。普通にやっては、RSA暗号は解けるはずがないのだ。となれば、彼はまったく新しい素因数分解の方式を開発したか、あるいは実際に素数虫が存在するかということになる。突然、素数虫の研究が、生物学と数学界において脚光を浴びることになる。
しかし多くの研究者は、すぐに素数虫の研究を諦めざるおえなくなる。何故なら、どうしたところで素数虫はただの単細胞生物にしか見えなかったのである。
一銃「素数虫」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、数学の本です。数学の分野に数論というのがあり、これは数そのものについて研究する分野です。その中でも素数の研究というのが最も盛んであり、さらにその中で最も注目されているある予想が本書では扱われています。
それが、リーマン予想です。
このリーマン予想は、フェルマーの最終定理と並ぶ、数学における聖杯のような扱いとなっています。フェルマーの最終定理が証明されてしまった今、数学者が追い求める内で最高の頂きと言うことも出来るかもしれません。
しかもリーマン予想は、フェルマーの最終定理よりも遥かに重要なわけです。フェルマーの最終定理は、その存在自体が有名であり、それを証明できれば名を挙げられるという対象ではありましたが、しかしそれによって数学全体が大きく進展するというものではありません。しかしリーマン予想は違います。これが証明されることによって、数学が大いに前進するのです。それは、「もしリーマン予想が正しかったら…」で始まる数学の論文が山のようにあるという事実によっても証明されます。それらの証明は、リーマン予想が正しいと証明されない限り、意味がないのです。
素数は古代から数学の対象として扱われてきましたが、それまでは、次の素数はいつ出てくるのか、つまり素数を導き出す公式のようなものを探し求めるのがメインでした。その流れを変えたのが、偉大なる数学者であるガウスでした。
ガウスは問いを変えました。ガウスは、ある数Nまでに、素数はいくつぐらいあるだろうか、ということを考え始めました。ガウス自身は証明が出来ませんでしたが、ガウスの素数定理と呼ばれるものを考え出し、素数研究に新たな道を切り拓きました。
その先にいたのがリーマンです。リーマンは元々、コーシーという数学者が考えた奇妙な世界と、ゼータ関数というものに興味を持っていました。コーシーが考えたのは、虚数iと呼ばれることになるもので、コーシーが提唱した当時は胡散臭いと思われていたものです。ゼータ関数というのは、自然数のn乗の逆数の無限和、とでも言うもので、まあなんとも奇妙な振る舞いをする関数であるようです(正直言ってよくわかりません)。
リーマンは、ゼータ関数にいろんな複素数をいれるということをやっていたようです。ゼータ関数に特定の複素数(例えばA=a+bi)を入れると、その結果として特定の複素数(例えばC=c+di)が出てきます。これらの結果を、(a,b,c,d)を要素とする四次元のグラフにするということを考えた時(実際紙に書くことは出来ないけど、数学者の頭の中ではどんなものか想像出来るんだそうです)、リーマンはある一つの特徴を捉えたわけです。
リーマンはその四次元の風景を眺めた時に、ゼロ点(海抜ゼロというようなイメージみたいです。ちゃんとは分かりませんが)と呼ばれる点があり、そのゼロ点になるのは虚数の実部(たぶんC=c+diのcのことだと思うんだけど、A=a+biのaのことかも知れない。ちゃんと理解できないんですよね)が常に1/2の時だということに気づいたわけです。
リーマンは、ガウスによるゼータ関数の式変形を知っていました。ゼータ関数を、素数の和の積に変換できるのです。これによりリーマンは、虚数の風景のゼロ点と素数の分布とが何かの関係があると考えました。
リーマン自身はこれを証明できなかったけど、これはリーマン予想として後世に残されることになりました。これが、以後様々な数学者を悩ませ、それが証明されなければ先に進めない証明を山のように生み出し、今でも最難関だとされているリーマン予想なわけです。
リーマン予想自体は、フェルマーの最終定理ほどわかりやすくはないけど、フェルマーの最終定理よりも遥かに重要で、また様々な人間をひきつけてきました。本書は、縦糸がリーマン予想だとすると、横糸となるものが数多くの数学者たちの軌跡です。僕はこれまでも様々な数学の本を読んできましたが、本作ほど登場人物が豪華な数学書を知りません。
帯の裏に書いてある名前だけでも書いてみましょうか。
「数学界のワグナー」リーマン
「偉大な天才」ガウス
「素数の巨匠」メルセンヌ
「数学の鷲」オイラー
「巨人」ヒルベルト
「審美家」G・H・ハーディー
「用心棒」リトルウッド
「女神絵の帰依者」ラマヌジャン
「魔法使い」エルデシュ
「革命家」アラン・コンヌ
他にも、ゲーデルやらチューリングやらフェルマーと言ったビッグネームがごろごろ出てきます。しかもそのそれぞれの数学者について実に鮮やかに活き活きと描き出しているんですね。リーマン予想についての記述があるまでは、リーマン予想というものがいかに形作られていったのかという流れを追う構成だけど、その後はそれぞれの数学者をベースとして、彼らが一体どうリーマン予想と戦ったのかという描き方になっていきます。このそれぞれの数学者たちのエピソードやリーマン予想との戦いが非常に魅力的で、実に面白いと思いました。先ほども書いたけど、これほど豪華なメンバーが出てくる数学書はなかなかないので、数学者についてまったく知らないという人に、なるほどこういう数学者がこんなことをしてきたんだ、ということをざっと知るのにもうってつけの本だなと思います。
有史以来最大の数学者と言えばガウスで異論はないと思うんだけど、どんな数学書を読んでも必ず出てくるという意味ではヒルベルトというのも凄い数学者ですね。実際僕はヒルベルトという数学者の名前は知っていたし、有名な23の問題を提唱した人だというのも知っていたけど、具体的にどんなことをしていた人なのかというのは本作を読んで初めて知りました。
それにしてもヒルベルトはすごい。ヒルベルトはとにかく、19世紀の終わりの年に、20世紀の数学者へと向けた講演が有名で、そこで出した23の問題というのがその後の数学者や数学の進展に非常に大きな影響を与えているわけです。その23の問題を解いて名をなした数学者は沢山いるし、また結果的にその野望は崩れたにしろ、数学に不可知はないと言って数学者を高みに押し上げたわけです。新しい視点で数学を見るように促し、新たな数学の世紀を作ったまさに巨人なわけです。そんなもの凄い講演をしたのが、30代だったというからさらに驚きですよね。そりゃ巨人と言われるわけです。数学者は若いうちに重大な仕事をするというけど、それは数学的な仕事についての話で、後進を育てたり数学界を後押しするというのはまた別なはずです。やっぱりヒルベルトっていうのはすごいんだなぁ、と改めて感心しました。
いろんな数学者の生涯を、リーマン予想の解決という部分に焦点を当てて描いているとは言え、もちろんそれぞれの数学者の固有の業績についても触れています。ガウスが子どもの頃にしたという有名な計算の話も出てくるし、ゲーデルの不完全性定理についても触れられるし、カントールの無限の話も出てきます。ラマヌジャンによる分割数の一般項というのも載っているんだけど、これがしかしとんでもない式なんですね。当然ここには書ききれないので、本書を買って213ページを見てくださいとしか言えないんだけど、何をどうしたらこんな数式が出てくるわけ?と唖然としてしまうようなものです。
また現在広く使われているRSA暗号についても触れられているし、また量子論との関わりなんかも出てきます(時間がなくて最後まで読んでない状態でこれを書いています。今ちょうど量子論との関わりに触れ始めたところで、早く続きが読みたい)。なので、本書を読むだけで、数学に関する有名な話のさわりを広く知ることが出来ると思います。数学の本を読んでみたけどどんな本を読めばいいか分からないと言う人は、まずこれを読んでみるといいと思います。本書を読んで、なるほどこういう数学の話が面白そうだぞという分野を見つけて、それに関する本をまた読めばいいわけです。
もちろん本書でメインに扱われているリーマン予想ももちろん面白いです。リーマン予想は、ゼータ関数という見慣れない関数を扱っているし(何せゼータ関数で1+2+3+…と無限までの和を求めると、答えが-1/12になってしまうのだ!ありえない!と思うけど、これも正しいらしい。意味不明である)、幾何学的な理解力に乏しい僕には、虚数の風景とかゼロ点とかいうのもイマイチよく理解できないんだけど、でも本書はそういう難しいところについてはさらっと流している。本書は全体的に、四則演算程度の知識があれば何とか読めるように書かれていると僕は思います。もちろん難しい部分はあるんだけど、そこは気にせずに読み進めればいいと思います。
僕が生きている間にリーマン予想が解決されたらいいな、と思います。ポアンカレ予想を解決したペレルマンみたいな数学者が突如現れて、見事リーマン予想を成敗!というようなことにはならないでしょうかね。フェルマーの最終定理やポアンカレ予想と言った、数学界の超難問が解かれているのだから、なんとかリーマン予想も解決して欲しいものだなと思います。まあ、世界中の数学者が同じように思っているんでしょうけどね。
今まだ読み途中ですけど、リーマン予想がなんと、量子論におけるある原子の振る舞いに似ている、という話に差し掛かっています。まったく凄いですね。素数という、数学における最も重要なものに関わる予想が、最新の物理学と結びついてしまうというのだから、もはやわけわからない世界ですね。
しかしこういう本を読む度にいつも思うんだけど、僕も数学的な才能を持って生まれてきたかったなと思います。願いを一つだけ叶えてくれるといわれたら、数学の才能が欲しいと言うでしょうね。それで、自分でもリーマン予想とか他の数学の難問に立ち向かってみたいものです。本当に数学者っていうのは羨ましいなぁと思います。物理学者もいいんですけどね、やっぱり数学者の方がいいですね。
というわけで、もうハチャメチャに面白いです。是非是非読んでください。今年は理系の本で結構収穫が多かったイメージがあります。これからもこういう本をバンバン読んで、このブログを読んでくれている人を置き去りにすると共に(笑)、僕の拙い知識による間違った記述を訂正してくれる人を求めておりますです。
マーカス・デュ・ソートイ「素数の音楽」
いや、知らなくても非常識ということはない。恐らく、数学や生物、あるいは暗号なんかに携わっている人で、最新情報にも詳しい人でなければなかなか知らないだろう。
1年ほど前、とある生物学者が素数虫を発見したと発表した。その生物学者は、元数学者というなかなか変わった経歴であり、だからこそそんな奇妙な発見をしたのだろうと思われる。
彼の発見はしかし、科学界ではほぼ無視された。何故ならば、彼が素数虫だと主張する虫はすべてすでに発見されているものであり、きちんと分類もされている。つまり、未発見の生物ではなかったのだ。
素数虫というが昆虫ではなく、実際はゾウリムシのような単細胞生物に近い。その生物学者は、例えばある種は数字の2に、ある種は数字の3に、という具合に、それぞれの種に応じて対応する素数が異なっている、と主張した。しかし、いくらそんな説明をされても、誰にも理解できなかったのだ。その素数虫とやらの背中に番号が振ってあるわけでもないし、その虫が数字の形をしているわけでもないのである。
そうして彼の発見は長らく無視されることになったのだが、しかしつい最近彼は驚くべき成果を公表したのだ。
なんと、RSA暗号を素数虫によって解読した、というのだ。
RSA暗号は、素因数分解をベースにした暗号システムで、非常に安全性が高い。非常に桁数の多い数字を因数分解することは、スーパーコンピューターを使ってもとんでもない年数が必要で、そのためRSA暗号は安全性が保証されているのである。
しかし彼は、そのRSA暗号をたった1ヶ月で破るアルゴリズムを開発したのだった。原理的にはこうだ。素数虫にはある特徴があり、同じ数字同士の種が交配した場合、生まれてくるのもその数字を持つが、別々の種が交配した場合、生まれるのはその素数同士を掛け合わせた種なのである。通常自然界では、異種同士の交配はされないが、彼はそれを実験室内で実現させた。その異種同士の交配をベースにして、RSA暗号を解読したのだった。
この発表により、素数虫という存在にもにわかに注目が集まるようになった。普通にやっては、RSA暗号は解けるはずがないのだ。となれば、彼はまったく新しい素因数分解の方式を開発したか、あるいは実際に素数虫が存在するかということになる。突然、素数虫の研究が、生物学と数学界において脚光を浴びることになる。
しかし多くの研究者は、すぐに素数虫の研究を諦めざるおえなくなる。何故なら、どうしたところで素数虫はただの単細胞生物にしか見えなかったのである。
一銃「素数虫」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、数学の本です。数学の分野に数論というのがあり、これは数そのものについて研究する分野です。その中でも素数の研究というのが最も盛んであり、さらにその中で最も注目されているある予想が本書では扱われています。
それが、リーマン予想です。
このリーマン予想は、フェルマーの最終定理と並ぶ、数学における聖杯のような扱いとなっています。フェルマーの最終定理が証明されてしまった今、数学者が追い求める内で最高の頂きと言うことも出来るかもしれません。
しかもリーマン予想は、フェルマーの最終定理よりも遥かに重要なわけです。フェルマーの最終定理は、その存在自体が有名であり、それを証明できれば名を挙げられるという対象ではありましたが、しかしそれによって数学全体が大きく進展するというものではありません。しかしリーマン予想は違います。これが証明されることによって、数学が大いに前進するのです。それは、「もしリーマン予想が正しかったら…」で始まる数学の論文が山のようにあるという事実によっても証明されます。それらの証明は、リーマン予想が正しいと証明されない限り、意味がないのです。
素数は古代から数学の対象として扱われてきましたが、それまでは、次の素数はいつ出てくるのか、つまり素数を導き出す公式のようなものを探し求めるのがメインでした。その流れを変えたのが、偉大なる数学者であるガウスでした。
ガウスは問いを変えました。ガウスは、ある数Nまでに、素数はいくつぐらいあるだろうか、ということを考え始めました。ガウス自身は証明が出来ませんでしたが、ガウスの素数定理と呼ばれるものを考え出し、素数研究に新たな道を切り拓きました。
その先にいたのがリーマンです。リーマンは元々、コーシーという数学者が考えた奇妙な世界と、ゼータ関数というものに興味を持っていました。コーシーが考えたのは、虚数iと呼ばれることになるもので、コーシーが提唱した当時は胡散臭いと思われていたものです。ゼータ関数というのは、自然数のn乗の逆数の無限和、とでも言うもので、まあなんとも奇妙な振る舞いをする関数であるようです(正直言ってよくわかりません)。
リーマンは、ゼータ関数にいろんな複素数をいれるということをやっていたようです。ゼータ関数に特定の複素数(例えばA=a+bi)を入れると、その結果として特定の複素数(例えばC=c+di)が出てきます。これらの結果を、(a,b,c,d)を要素とする四次元のグラフにするということを考えた時(実際紙に書くことは出来ないけど、数学者の頭の中ではどんなものか想像出来るんだそうです)、リーマンはある一つの特徴を捉えたわけです。
リーマンはその四次元の風景を眺めた時に、ゼロ点(海抜ゼロというようなイメージみたいです。ちゃんとは分かりませんが)と呼ばれる点があり、そのゼロ点になるのは虚数の実部(たぶんC=c+diのcのことだと思うんだけど、A=a+biのaのことかも知れない。ちゃんと理解できないんですよね)が常に1/2の時だということに気づいたわけです。
リーマンは、ガウスによるゼータ関数の式変形を知っていました。ゼータ関数を、素数の和の積に変換できるのです。これによりリーマンは、虚数の風景のゼロ点と素数の分布とが何かの関係があると考えました。
リーマン自身はこれを証明できなかったけど、これはリーマン予想として後世に残されることになりました。これが、以後様々な数学者を悩ませ、それが証明されなければ先に進めない証明を山のように生み出し、今でも最難関だとされているリーマン予想なわけです。
リーマン予想自体は、フェルマーの最終定理ほどわかりやすくはないけど、フェルマーの最終定理よりも遥かに重要で、また様々な人間をひきつけてきました。本書は、縦糸がリーマン予想だとすると、横糸となるものが数多くの数学者たちの軌跡です。僕はこれまでも様々な数学の本を読んできましたが、本作ほど登場人物が豪華な数学書を知りません。
帯の裏に書いてある名前だけでも書いてみましょうか。
「数学界のワグナー」リーマン
「偉大な天才」ガウス
「素数の巨匠」メルセンヌ
「数学の鷲」オイラー
「巨人」ヒルベルト
「審美家」G・H・ハーディー
「用心棒」リトルウッド
「女神絵の帰依者」ラマヌジャン
「魔法使い」エルデシュ
「革命家」アラン・コンヌ
他にも、ゲーデルやらチューリングやらフェルマーと言ったビッグネームがごろごろ出てきます。しかもそのそれぞれの数学者について実に鮮やかに活き活きと描き出しているんですね。リーマン予想についての記述があるまでは、リーマン予想というものがいかに形作られていったのかという流れを追う構成だけど、その後はそれぞれの数学者をベースとして、彼らが一体どうリーマン予想と戦ったのかという描き方になっていきます。このそれぞれの数学者たちのエピソードやリーマン予想との戦いが非常に魅力的で、実に面白いと思いました。先ほども書いたけど、これほど豪華なメンバーが出てくる数学書はなかなかないので、数学者についてまったく知らないという人に、なるほどこういう数学者がこんなことをしてきたんだ、ということをざっと知るのにもうってつけの本だなと思います。
有史以来最大の数学者と言えばガウスで異論はないと思うんだけど、どんな数学書を読んでも必ず出てくるという意味ではヒルベルトというのも凄い数学者ですね。実際僕はヒルベルトという数学者の名前は知っていたし、有名な23の問題を提唱した人だというのも知っていたけど、具体的にどんなことをしていた人なのかというのは本作を読んで初めて知りました。
それにしてもヒルベルトはすごい。ヒルベルトはとにかく、19世紀の終わりの年に、20世紀の数学者へと向けた講演が有名で、そこで出した23の問題というのがその後の数学者や数学の進展に非常に大きな影響を与えているわけです。その23の問題を解いて名をなした数学者は沢山いるし、また結果的にその野望は崩れたにしろ、数学に不可知はないと言って数学者を高みに押し上げたわけです。新しい視点で数学を見るように促し、新たな数学の世紀を作ったまさに巨人なわけです。そんなもの凄い講演をしたのが、30代だったというからさらに驚きですよね。そりゃ巨人と言われるわけです。数学者は若いうちに重大な仕事をするというけど、それは数学的な仕事についての話で、後進を育てたり数学界を後押しするというのはまた別なはずです。やっぱりヒルベルトっていうのはすごいんだなぁ、と改めて感心しました。
いろんな数学者の生涯を、リーマン予想の解決という部分に焦点を当てて描いているとは言え、もちろんそれぞれの数学者の固有の業績についても触れています。ガウスが子どもの頃にしたという有名な計算の話も出てくるし、ゲーデルの不完全性定理についても触れられるし、カントールの無限の話も出てきます。ラマヌジャンによる分割数の一般項というのも載っているんだけど、これがしかしとんでもない式なんですね。当然ここには書ききれないので、本書を買って213ページを見てくださいとしか言えないんだけど、何をどうしたらこんな数式が出てくるわけ?と唖然としてしまうようなものです。
また現在広く使われているRSA暗号についても触れられているし、また量子論との関わりなんかも出てきます(時間がなくて最後まで読んでない状態でこれを書いています。今ちょうど量子論との関わりに触れ始めたところで、早く続きが読みたい)。なので、本書を読むだけで、数学に関する有名な話のさわりを広く知ることが出来ると思います。数学の本を読んでみたけどどんな本を読めばいいか分からないと言う人は、まずこれを読んでみるといいと思います。本書を読んで、なるほどこういう数学の話が面白そうだぞという分野を見つけて、それに関する本をまた読めばいいわけです。
もちろん本書でメインに扱われているリーマン予想ももちろん面白いです。リーマン予想は、ゼータ関数という見慣れない関数を扱っているし(何せゼータ関数で1+2+3+…と無限までの和を求めると、答えが-1/12になってしまうのだ!ありえない!と思うけど、これも正しいらしい。意味不明である)、幾何学的な理解力に乏しい僕には、虚数の風景とかゼロ点とかいうのもイマイチよく理解できないんだけど、でも本書はそういう難しいところについてはさらっと流している。本書は全体的に、四則演算程度の知識があれば何とか読めるように書かれていると僕は思います。もちろん難しい部分はあるんだけど、そこは気にせずに読み進めればいいと思います。
僕が生きている間にリーマン予想が解決されたらいいな、と思います。ポアンカレ予想を解決したペレルマンみたいな数学者が突如現れて、見事リーマン予想を成敗!というようなことにはならないでしょうかね。フェルマーの最終定理やポアンカレ予想と言った、数学界の超難問が解かれているのだから、なんとかリーマン予想も解決して欲しいものだなと思います。まあ、世界中の数学者が同じように思っているんでしょうけどね。
今まだ読み途中ですけど、リーマン予想がなんと、量子論におけるある原子の振る舞いに似ている、という話に差し掛かっています。まったく凄いですね。素数という、数学における最も重要なものに関わる予想が、最新の物理学と結びついてしまうというのだから、もはやわけわからない世界ですね。
しかしこういう本を読む度にいつも思うんだけど、僕も数学的な才能を持って生まれてきたかったなと思います。願いを一つだけ叶えてくれるといわれたら、数学の才能が欲しいと言うでしょうね。それで、自分でもリーマン予想とか他の数学の難問に立ち向かってみたいものです。本当に数学者っていうのは羨ましいなぁと思います。物理学者もいいんですけどね、やっぱり数学者の方がいいですね。
というわけで、もうハチャメチャに面白いです。是非是非読んでください。今年は理系の本で結構収穫が多かったイメージがあります。これからもこういう本をバンバン読んで、このブログを読んでくれている人を置き去りにすると共に(笑)、僕の拙い知識による間違った記述を訂正してくれる人を求めておりますです。
マーカス・デュ・ソートイ「素数の音楽」
2000年間で最大の発明は何か(ジョン・ブロックマン)
僕は、「2000年間で最大の発明は何か」という問いを、自分のサイトで提示した。それに対して、実に多くの回答が寄せられたものだ。一流の科学者から芸術家まで、あるいは労働者から子供まで。いろんな人が様々な答えを出してくれた。
しかし、誰も気づくことはなかっただろう。僕が、まだ誰も知ることのない、過去2000年間で間違いなく最大の発明であるものを所有しているということを。そしてまた、僕が何故そんな問いを発したのかということを。
僕はついにタイムマシンを完成させた。これこそ、人類がこれまで作り上げたものの中で最大の発明だと言えるだろう。
そして僕は考えた。タイムマシンを使って、何をしたやろうか。僕は、世界の王になりたかった。どうすれば、自分が世界の王になれるのか考えた。そのプロセスとして、2000年間で最大の発明を問うということを思いついたのだ。
過去に行き、多くの人々が挙げた「最大の発明」を全部ぶっ壊していくというのはどうだろう。あるいは逆に、その「最大の発明」の発明者としての栄誉をすべて自分が奪ってしまうというのもいい。いずれにせよ、僕が世界の王になる日はそう遠くないだろう。
一銃「2000年間で最大の発明」
そろそろ内容に入ろうと思います。
今日は充分時間の余裕があったはずなんだけど、何だかんだで予想外に時間がなくなってしまったので、駆け足で行きます。
本書は、まさにタイトル通りの作品です。アメリカで「エッジ」というサイトを主催している著者が、ミレニアムを前に、「2000年間で最大の発明は何か」という質問をした。「エッジ」というサイトは、科学者や哲学者、経営者や芸術家などが意見を交わす場として機能していて、そういう人々から多数の回答を得た。その中から著者がいくつか選んでまとめたのが本書である。
様々な分野の人がいるわけで、なかなかいろんな回答があって面白い。以下ちょっと面白いと思う回答、あるいはなるほどと思う回答をちょっと挙げてみようと思う。
『印刷機』これは結構多くの人が挙げてた。
『インド-アラビア計数法』これも結構挙げてる人がいた。つまり、0を発見し位を表現し、数字を並べることであらゆる数を表現する方法である。
『インターネット』
『ピル』これも結構あった。
『33年周期暦』本書の中で一番面白い回答だと思った。どうしてこれを選んだのかという理屈はいまいちよくわからなかったのだけど、実際この33年周期暦が現在使われていない。この現在使われていない暦をイギリス人が考えたからこそ、今のアメリカがあるのだ、ということらしい。
『デジタル・ビット』0と1のことですな。
『公開鍵暗号システム』
『科学的手法』これも何人か挙げてた。僕もこれが一番かなと思う。
『疑問文』この発想が面白いと思った。
『微分積分法』これも何人か挙げてた。
『鏡』
他にも、奇を衒っているように思えるものや、そんなものにそんな深い思索をしますかというようなものや、あるいはまあそうかなと思えるものなどいろいろあります。自分でも考えてみるといいかもしれないですね。
僕は上でも少し書いたけど、『科学的手法』に一票入れたいですね。科学的手法が確立され、過去の知識の積み重ねがなくなったら、この世の中のどんなものも生まれなかっただろうと思うからです。確かに、『インド-アラビア計数法』もいい答えだなと思うんですけどね。やっぱり物理とか数学とか、僕が好きなジャンルからの答えになってしまいます。本書でも、多くの人が自分の専門分野から答えを出しているようですね。
本書を読んでいると、回答者の性質が大きく二種類に分けられると思いました。それは何の差かと言えば、「最大の発明」という定義に対する反応です。
割と多くの人は、「最大の発明」というのがどんなものを指すのかということを定義せずに自分の考えを述べます。しかし中には、「最大の定義」とはすなわちこういうものである、と定義してから自分の考えを述べる人もいました。後者のような人は、僕は結構いいなと思いました。確かに、「最大の発明」なんて言われてもどんなものか分からないですからね。
気合入れて読む必要もないし、文章を読まなくてもどんな「発明」を挙げているのかパラパラ見るだけでも結構面白いと思います。興味があったら読んでみてください。
ジョン・ブロックマン「2000年間で最大の発明は何か」
しかし、誰も気づくことはなかっただろう。僕が、まだ誰も知ることのない、過去2000年間で間違いなく最大の発明であるものを所有しているということを。そしてまた、僕が何故そんな問いを発したのかということを。
僕はついにタイムマシンを完成させた。これこそ、人類がこれまで作り上げたものの中で最大の発明だと言えるだろう。
そして僕は考えた。タイムマシンを使って、何をしたやろうか。僕は、世界の王になりたかった。どうすれば、自分が世界の王になれるのか考えた。そのプロセスとして、2000年間で最大の発明を問うということを思いついたのだ。
過去に行き、多くの人々が挙げた「最大の発明」を全部ぶっ壊していくというのはどうだろう。あるいは逆に、その「最大の発明」の発明者としての栄誉をすべて自分が奪ってしまうというのもいい。いずれにせよ、僕が世界の王になる日はそう遠くないだろう。
一銃「2000年間で最大の発明」
そろそろ内容に入ろうと思います。
今日は充分時間の余裕があったはずなんだけど、何だかんだで予想外に時間がなくなってしまったので、駆け足で行きます。
本書は、まさにタイトル通りの作品です。アメリカで「エッジ」というサイトを主催している著者が、ミレニアムを前に、「2000年間で最大の発明は何か」という質問をした。「エッジ」というサイトは、科学者や哲学者、経営者や芸術家などが意見を交わす場として機能していて、そういう人々から多数の回答を得た。その中から著者がいくつか選んでまとめたのが本書である。
様々な分野の人がいるわけで、なかなかいろんな回答があって面白い。以下ちょっと面白いと思う回答、あるいはなるほどと思う回答をちょっと挙げてみようと思う。
『印刷機』これは結構多くの人が挙げてた。
『インド-アラビア計数法』これも結構挙げてる人がいた。つまり、0を発見し位を表現し、数字を並べることであらゆる数を表現する方法である。
『インターネット』
『ピル』これも結構あった。
『33年周期暦』本書の中で一番面白い回答だと思った。どうしてこれを選んだのかという理屈はいまいちよくわからなかったのだけど、実際この33年周期暦が現在使われていない。この現在使われていない暦をイギリス人が考えたからこそ、今のアメリカがあるのだ、ということらしい。
『デジタル・ビット』0と1のことですな。
『公開鍵暗号システム』
『科学的手法』これも何人か挙げてた。僕もこれが一番かなと思う。
『疑問文』この発想が面白いと思った。
『微分積分法』これも何人か挙げてた。
『鏡』
他にも、奇を衒っているように思えるものや、そんなものにそんな深い思索をしますかというようなものや、あるいはまあそうかなと思えるものなどいろいろあります。自分でも考えてみるといいかもしれないですね。
僕は上でも少し書いたけど、『科学的手法』に一票入れたいですね。科学的手法が確立され、過去の知識の積み重ねがなくなったら、この世の中のどんなものも生まれなかっただろうと思うからです。確かに、『インド-アラビア計数法』もいい答えだなと思うんですけどね。やっぱり物理とか数学とか、僕が好きなジャンルからの答えになってしまいます。本書でも、多くの人が自分の専門分野から答えを出しているようですね。
本書を読んでいると、回答者の性質が大きく二種類に分けられると思いました。それは何の差かと言えば、「最大の発明」という定義に対する反応です。
割と多くの人は、「最大の発明」というのがどんなものを指すのかということを定義せずに自分の考えを述べます。しかし中には、「最大の定義」とはすなわちこういうものである、と定義してから自分の考えを述べる人もいました。後者のような人は、僕は結構いいなと思いました。確かに、「最大の発明」なんて言われてもどんなものか分からないですからね。
気合入れて読む必要もないし、文章を読まなくてもどんな「発明」を挙げているのかパラパラ見るだけでも結構面白いと思います。興味があったら読んでみてください。
ジョン・ブロックマン「2000年間で最大の発明は何か」
前世への冒険(森下典子)
「いらっしゃい、どうぞ」
(また来た。ほんと日本人ってのはこういうのが好きなんだなか)
「手相を見ましょうか、それとも前世を見ましょうか」
(まあほんとは前世専門だけどね。手相だってまあ、適当なこと言っきゃなんとかなるしね)
「前世ですか。じゃあちょっと、お借りしたいものがあるんですけど。普段付けている指輪とかネックレスとか、常に肌に触れているものを何かお借りしたいんですけど」
(まあ別にこんなんなくても前世なんか見れるんだけどね。でもどうも、こういう手続きが信憑性を高めるらしいんだよなぁ)
「しばらく待っててくださいね。今前世を見させてもらいますので」
(しっかし、いつまでこんな生活をしたらいいんだろうか。っていうか浮気したぐらいで死刑にするか、普通。職権乱用だろが)
「なるほど、見えてきました。どうやらあなたは江戸を拠点に活躍する飛脚だったようですね」
(自分が審議官だからって、夫を厳しく裁きすぎだっつーの。あのまま天空に留まってたら死刑だっただろうからなぁ。逃げ出して正解だっただろうけど、それにしても地上ってのは生きにくい)
「飛脚をご存知ないですか?あれですよ、昔は車とかなかったわけじゃないですか。それで、郵便とか荷物みたいなものを人が運んでたわけなんですよ。そういう人を、飛脚っていうんですね」
(そもそも再生館所長だった俺を死刑にしたら、業務が滞りまくりだっつーの。まああんな仕事、死んだ人間の前の人生がどんなだったか評価して、ただ次の人生に送り出すぐらいだから誰でも出来るっちゃー出来るけどな。まあ俺もそのお陰で、前世占いなんてのが出来るわけだし)
「マラソンやってるんですか。しかもホノルルで3時間を切ったと。それはすごいですねぇ。やっぱり飛脚時代の経験が残っているんだと思いますよ」
(はやく天空に帰りたいなぁ。どうしたもんだろうか。アイツがもう怒ってなければいいんだけど)
「怒ってるわよ」
突然目の前にいる女の口調が変わった。へ?何を怒ってるって?
「相変わらず、適当なことやってるのね」
いやいや、まさか。まさかそんなバカな。
「さぁ、天空に帰りましょう」
妻はニコリと微笑んだ。笑顔がこんなに怖いものだということを、初めて知った。
一銃「前世」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はこれまで読んだことのないタイプの本です。メチャクチャ面白かったです。
著者はフリーラーターで、いろんな連載やルポを書いている人なのだけど、あるとき雑誌の取材で、京都にいる前世が見えるという女性を取材することになった。著者は超常現象の類を一切信じないが、それでもまあ取材するだけしてみようという気になった。
清水さん(仮名)というその女性は、目の前に現れるものをひたすらメモに書き写していくというやり方をした後で、著者に前世について語った。
清水さんによると、著者はかつて鑑真の弟子だったようだ。清水さんの言うことは常に具体的で、後で調べればそれが正しいことが分かる。しかし、自分の前世が、鑑真なんていう超有名人の弟子だったと言われてどことなく胡散臭く感じる。
というわけで、別の前世についても聞いてみることにした。清水さんは、著者は何度か男に生まれ変わっている、と言っていたからだ。
すると今度は、ルネサンス期に活躍したデジデリオという美貌の青年彫刻家だ、と言われた。清水さんは、イタリア語やカタカナなどいろんなものを取り混ぜて、目の前に見えるという光景をメモにしていった。その描写は具体的で、デジデリオの出生の秘密や、デジデリオに男の愛人がいたこと、そしてその愛人の愛称などまで語るのである。
さっそく著者は、清水さんが語ったことについて調べてみることにする。しかし、日本にある資料をどれだけ当たって見ても、清水さんが語るほど詳しい記述はない。そもそもデジデリオなんていう彫刻家は、日本では全然有名ではないのだ。
そこで著者はイタリアに旅立つことに決める。そこで著者は、清水さんが示唆する様々な描写についてあらゆる発見をすることになる。ポルトガル語やドイツ語でしか出版されていない資料にしか書かれていない事実を、どうして清水さんは知ることが出来たのか。本当に著者の前世はデジデリオなのか…。
というような話です。
これも仕掛けてみようかなと思って読んだ本ですが、これはしかしメチャクチャ面白いですね。予想していた以上に面白い本で、僕としてはかなりの収穫でした。
まずそもそもの設定が素晴らしいです。前世が見えるという、どうしたって胡散臭い人がいて、一方で超常現象の類はまったく信じないという著者がいる。この二人が出会うことですべてが始まるのだけど、自分の前世がデジデリオだと言われて、それを調べるためにイタリアまで行ってしまう著者の行動力もさることながら、調べる中で清水さんが言っていることがまったく矛盾しないということが本当に驚きでした。
もちろん、清水さんがもし嘘をついていないとしても、清水さんが見たものが著者の前世の映像であるという証明にはもちろんならないし、そもそも清水さんが本当のことを言っているのかどうかという部分はどうしたって検証不可能なのだけど、そういう前提に立っていても、本作は本当に面白く読めると思います。
集合論的に考えると、本作の可能性には以下の四つがあります。
①清水さんも著者も嘘をついていない
②清水さんは嘘をついていて、著者は嘘をついていない
③清水さんは嘘をついていなくて、著者は嘘をついている
④清水さんも著者も嘘をついている
①では、清水さんは実際何らかの映像が見えているのだし、著者もそのすべての取材について何も偽っていない。だからと言って、清水さんが見たものが著者の前世であるというところまでは確定できないけど、しかし清水さんに不思議な力があるということだけは確か。
②では、著者の調査に関してはまったく偽りはないけど、清水さんが何らかのトリックを使っている。清水さんはイタリアには行ったことがないし(空港に降りたことはあるけど)、ポルトガル語やドイツ語はおろか英語は読めないと言っているし家族もそう証言している。まあ疑えばきりはないけど、でも何らかのトリックが存在して、日本にいながら(あるいは誰か協力者の手を借りて)デジデリオという彫刻家について調べに調べ、それをさも映像で見たかのように喋っている。
③では、清水さんは実際に何かを見ているけど、著者の調査に何か偽りがある。つまり、実際は清水さんの言うような描写を裏付ける証拠はなかったのだけど、さもそれがあったかのように著者が書いている。
④では、清水さんも適当なことを喋っているし、著者も偽りの取材をしているというパターン。
さて、普通に考えて③と④は排除出来ると思います。そもそも著者が偽りの調査をする動機がないし、たとえ動機があっても偽りの調査結果を本にするのはほぼ不可能でしょう。というのも本書では当然のことながら、どの本にどんな記述があったのか、ということが書かれています。日本で手に入るものについては検証可能です。日本で手に入らない、というか本国でも絶版になっているような本も出てくるので、そういう本の記述については多少細工は出来るかもしれないけど、しかしそれにしたって嘘八百を書くわけにはいかないだろうと思います。つまり、著者の調査に関しては信頼していいでしょう。
すると可能性としては①か②ということになります。本書では、そのどちらとも結論を出していません。ただ僕は①の可能性を信じてもいいなぁ、という風に傾いています。
だって、読んだら分かりますけど、これ結構すごいですよ。ホントに、ポルトガル語とかドイツ語の資料を当たらないと書いていないことについて、清水さんはズバズバ言及しているわけです。そもそも清水さんは、細木数子とか江原啓之みたいな偽物みたいに、どうとでも解釈出来るような曖昧なことは言いません。常に具体的な名前や具体的な描写が伴います。それらのすべてについて検証することが出来たわけではないですが、しかし確定できない部分についても推定できるような資料の存在があったりして、清水さんのいうことの正しさが次々と証明されていきます。
何よりも驚いたのが、著者がイタリアから戻ってきて、再度清水さんを訪れた時のことです。そのちょっと前に著者は、イタリアから持ち帰ってきたポルトガル語の本のコピーの翻訳を依頼していた人から概要を聞いていたわけです。そこで、これまでどんな書物にも出てこなかったデジデリオに関するある記述があったわけです。著者が清水さんに会いに言った時、清水さんはまたぞろ、そのポルトガル語で書かれていた記述に関しての描写をしたわけです。
しかし両者は微妙に食い違っていました。著者がそのことを指摘すると、清水さんは自分の方が正しいと主張しました。著者が言ったことは資料を翻訳して出てきた事実なわけで、だからそれを指摘すれば清水さんは前言を翻すだろうと思っていたのだけど、そうはなりませんでした。
しかしその後驚くべきことが判明します。著者がその件について調べてみると、清水さんが正しいという記述が見つかりました(しかしそれはドイツ語で書かれた資料の中の記述です)。ポルトガル語の翻訳してくれた人に尋ねてみると、ちょっとした勘違いでそう思い込んでしまったのだという回答でした。つまり、結果的には清水さんの方が正しかったわけです。
これはびっくりしましたね。日本語の資料がまったく存在しない、しかもそのドイツ語の資料については絶版でほぼ手に入らない、ポルトガル語の資料も絶版でほぼ手に入らなかったものなわけです。そんな二つの資料にしか書かれていないことについて、どうして清水さんは知ることが出来たのでしょうか?
読めば読むほど謎が深まる話で、しかも前世なんて話を積極的に信じるのにはブレーキが掛かるけど、本作を読むと本当かもしれないと思う、その揺れが新鮮でした。こんな面白い切り口のノンフィクションがあったのか、と思いました。
ただ僕としては、やっぱり②の可能性は捨てきれないんですね。だからこれは、マジシャンの人に意見を聞いてみたいですね。この話は、清水さんが適当なことを言っているわけではない、ということが証明されているわけで、もしこれがインチキであれば、清水さんがどうやってそれらの情報を知ることが出来たのか、という謎解きが必要です。疑おうと思えばいくらでも疑えますが、前提として僕は、清水さんの家族は疑わないという条件を入れたいですね。また清水さんはそもそもこの前世を見るというのを商売にしていないし、話の中には書かれていないけど、とんでもなく大金持ちというわけでもないと思います。つまり、
『家族の協力を得ることなく(つまり清水さん本人はイタリアに行って調べものをしたりすることは出来ないという条件とする)、また金銭的にも無理のない範囲で、常識的に考えられるトリック』
が存在しうるのかどうか、マジシャンに意見を聞いてみたいものですね。何か思いもよらない抜け穴みたいなものがあって、あっさり謎が解けてしまうなんて可能性だってかるかもしれないですしね。
そんなわけで、これは面白いですよ。前世なんて文字を見ると胡散臭く感じられるかもしれないけど、本作はそういう類の本ではないですね。疑り深い著者が、その疑いを突き詰める中でイタリアまで行ってしまうという展開、そしてその中で出てくる驚きの発見は読み応えがあるし、一方でルネサンス期の芸術や文化についても詳しくなれます。そんなに長くないし、読みやすい本なので、是非読んでみてください。
森下典子「前世への冒険」
(また来た。ほんと日本人ってのはこういうのが好きなんだなか)
「手相を見ましょうか、それとも前世を見ましょうか」
(まあほんとは前世専門だけどね。手相だってまあ、適当なこと言っきゃなんとかなるしね)
「前世ですか。じゃあちょっと、お借りしたいものがあるんですけど。普段付けている指輪とかネックレスとか、常に肌に触れているものを何かお借りしたいんですけど」
(まあ別にこんなんなくても前世なんか見れるんだけどね。でもどうも、こういう手続きが信憑性を高めるらしいんだよなぁ)
「しばらく待っててくださいね。今前世を見させてもらいますので」
(しっかし、いつまでこんな生活をしたらいいんだろうか。っていうか浮気したぐらいで死刑にするか、普通。職権乱用だろが)
「なるほど、見えてきました。どうやらあなたは江戸を拠点に活躍する飛脚だったようですね」
(自分が審議官だからって、夫を厳しく裁きすぎだっつーの。あのまま天空に留まってたら死刑だっただろうからなぁ。逃げ出して正解だっただろうけど、それにしても地上ってのは生きにくい)
「飛脚をご存知ないですか?あれですよ、昔は車とかなかったわけじゃないですか。それで、郵便とか荷物みたいなものを人が運んでたわけなんですよ。そういう人を、飛脚っていうんですね」
(そもそも再生館所長だった俺を死刑にしたら、業務が滞りまくりだっつーの。まああんな仕事、死んだ人間の前の人生がどんなだったか評価して、ただ次の人生に送り出すぐらいだから誰でも出来るっちゃー出来るけどな。まあ俺もそのお陰で、前世占いなんてのが出来るわけだし)
「マラソンやってるんですか。しかもホノルルで3時間を切ったと。それはすごいですねぇ。やっぱり飛脚時代の経験が残っているんだと思いますよ」
(はやく天空に帰りたいなぁ。どうしたもんだろうか。アイツがもう怒ってなければいいんだけど)
「怒ってるわよ」
突然目の前にいる女の口調が変わった。へ?何を怒ってるって?
「相変わらず、適当なことやってるのね」
いやいや、まさか。まさかそんなバカな。
「さぁ、天空に帰りましょう」
妻はニコリと微笑んだ。笑顔がこんなに怖いものだということを、初めて知った。
一銃「前世」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はこれまで読んだことのないタイプの本です。メチャクチャ面白かったです。
著者はフリーラーターで、いろんな連載やルポを書いている人なのだけど、あるとき雑誌の取材で、京都にいる前世が見えるという女性を取材することになった。著者は超常現象の類を一切信じないが、それでもまあ取材するだけしてみようという気になった。
清水さん(仮名)というその女性は、目の前に現れるものをひたすらメモに書き写していくというやり方をした後で、著者に前世について語った。
清水さんによると、著者はかつて鑑真の弟子だったようだ。清水さんの言うことは常に具体的で、後で調べればそれが正しいことが分かる。しかし、自分の前世が、鑑真なんていう超有名人の弟子だったと言われてどことなく胡散臭く感じる。
というわけで、別の前世についても聞いてみることにした。清水さんは、著者は何度か男に生まれ変わっている、と言っていたからだ。
すると今度は、ルネサンス期に活躍したデジデリオという美貌の青年彫刻家だ、と言われた。清水さんは、イタリア語やカタカナなどいろんなものを取り混ぜて、目の前に見えるという光景をメモにしていった。その描写は具体的で、デジデリオの出生の秘密や、デジデリオに男の愛人がいたこと、そしてその愛人の愛称などまで語るのである。
さっそく著者は、清水さんが語ったことについて調べてみることにする。しかし、日本にある資料をどれだけ当たって見ても、清水さんが語るほど詳しい記述はない。そもそもデジデリオなんていう彫刻家は、日本では全然有名ではないのだ。
そこで著者はイタリアに旅立つことに決める。そこで著者は、清水さんが示唆する様々な描写についてあらゆる発見をすることになる。ポルトガル語やドイツ語でしか出版されていない資料にしか書かれていない事実を、どうして清水さんは知ることが出来たのか。本当に著者の前世はデジデリオなのか…。
というような話です。
これも仕掛けてみようかなと思って読んだ本ですが、これはしかしメチャクチャ面白いですね。予想していた以上に面白い本で、僕としてはかなりの収穫でした。
まずそもそもの設定が素晴らしいです。前世が見えるという、どうしたって胡散臭い人がいて、一方で超常現象の類はまったく信じないという著者がいる。この二人が出会うことですべてが始まるのだけど、自分の前世がデジデリオだと言われて、それを調べるためにイタリアまで行ってしまう著者の行動力もさることながら、調べる中で清水さんが言っていることがまったく矛盾しないということが本当に驚きでした。
もちろん、清水さんがもし嘘をついていないとしても、清水さんが見たものが著者の前世の映像であるという証明にはもちろんならないし、そもそも清水さんが本当のことを言っているのかどうかという部分はどうしたって検証不可能なのだけど、そういう前提に立っていても、本作は本当に面白く読めると思います。
集合論的に考えると、本作の可能性には以下の四つがあります。
①清水さんも著者も嘘をついていない
②清水さんは嘘をついていて、著者は嘘をついていない
③清水さんは嘘をついていなくて、著者は嘘をついている
④清水さんも著者も嘘をついている
①では、清水さんは実際何らかの映像が見えているのだし、著者もそのすべての取材について何も偽っていない。だからと言って、清水さんが見たものが著者の前世であるというところまでは確定できないけど、しかし清水さんに不思議な力があるということだけは確か。
②では、著者の調査に関してはまったく偽りはないけど、清水さんが何らかのトリックを使っている。清水さんはイタリアには行ったことがないし(空港に降りたことはあるけど)、ポルトガル語やドイツ語はおろか英語は読めないと言っているし家族もそう証言している。まあ疑えばきりはないけど、でも何らかのトリックが存在して、日本にいながら(あるいは誰か協力者の手を借りて)デジデリオという彫刻家について調べに調べ、それをさも映像で見たかのように喋っている。
③では、清水さんは実際に何かを見ているけど、著者の調査に何か偽りがある。つまり、実際は清水さんの言うような描写を裏付ける証拠はなかったのだけど、さもそれがあったかのように著者が書いている。
④では、清水さんも適当なことを喋っているし、著者も偽りの取材をしているというパターン。
さて、普通に考えて③と④は排除出来ると思います。そもそも著者が偽りの調査をする動機がないし、たとえ動機があっても偽りの調査結果を本にするのはほぼ不可能でしょう。というのも本書では当然のことながら、どの本にどんな記述があったのか、ということが書かれています。日本で手に入るものについては検証可能です。日本で手に入らない、というか本国でも絶版になっているような本も出てくるので、そういう本の記述については多少細工は出来るかもしれないけど、しかしそれにしたって嘘八百を書くわけにはいかないだろうと思います。つまり、著者の調査に関しては信頼していいでしょう。
すると可能性としては①か②ということになります。本書では、そのどちらとも結論を出していません。ただ僕は①の可能性を信じてもいいなぁ、という風に傾いています。
だって、読んだら分かりますけど、これ結構すごいですよ。ホントに、ポルトガル語とかドイツ語の資料を当たらないと書いていないことについて、清水さんはズバズバ言及しているわけです。そもそも清水さんは、細木数子とか江原啓之みたいな偽物みたいに、どうとでも解釈出来るような曖昧なことは言いません。常に具体的な名前や具体的な描写が伴います。それらのすべてについて検証することが出来たわけではないですが、しかし確定できない部分についても推定できるような資料の存在があったりして、清水さんのいうことの正しさが次々と証明されていきます。
何よりも驚いたのが、著者がイタリアから戻ってきて、再度清水さんを訪れた時のことです。そのちょっと前に著者は、イタリアから持ち帰ってきたポルトガル語の本のコピーの翻訳を依頼していた人から概要を聞いていたわけです。そこで、これまでどんな書物にも出てこなかったデジデリオに関するある記述があったわけです。著者が清水さんに会いに言った時、清水さんはまたぞろ、そのポルトガル語で書かれていた記述に関しての描写をしたわけです。
しかし両者は微妙に食い違っていました。著者がそのことを指摘すると、清水さんは自分の方が正しいと主張しました。著者が言ったことは資料を翻訳して出てきた事実なわけで、だからそれを指摘すれば清水さんは前言を翻すだろうと思っていたのだけど、そうはなりませんでした。
しかしその後驚くべきことが判明します。著者がその件について調べてみると、清水さんが正しいという記述が見つかりました(しかしそれはドイツ語で書かれた資料の中の記述です)。ポルトガル語の翻訳してくれた人に尋ねてみると、ちょっとした勘違いでそう思い込んでしまったのだという回答でした。つまり、結果的には清水さんの方が正しかったわけです。
これはびっくりしましたね。日本語の資料がまったく存在しない、しかもそのドイツ語の資料については絶版でほぼ手に入らない、ポルトガル語の資料も絶版でほぼ手に入らなかったものなわけです。そんな二つの資料にしか書かれていないことについて、どうして清水さんは知ることが出来たのでしょうか?
読めば読むほど謎が深まる話で、しかも前世なんて話を積極的に信じるのにはブレーキが掛かるけど、本作を読むと本当かもしれないと思う、その揺れが新鮮でした。こんな面白い切り口のノンフィクションがあったのか、と思いました。
ただ僕としては、やっぱり②の可能性は捨てきれないんですね。だからこれは、マジシャンの人に意見を聞いてみたいですね。この話は、清水さんが適当なことを言っているわけではない、ということが証明されているわけで、もしこれがインチキであれば、清水さんがどうやってそれらの情報を知ることが出来たのか、という謎解きが必要です。疑おうと思えばいくらでも疑えますが、前提として僕は、清水さんの家族は疑わないという条件を入れたいですね。また清水さんはそもそもこの前世を見るというのを商売にしていないし、話の中には書かれていないけど、とんでもなく大金持ちというわけでもないと思います。つまり、
『家族の協力を得ることなく(つまり清水さん本人はイタリアに行って調べものをしたりすることは出来ないという条件とする)、また金銭的にも無理のない範囲で、常識的に考えられるトリック』
が存在しうるのかどうか、マジシャンに意見を聞いてみたいものですね。何か思いもよらない抜け穴みたいなものがあって、あっさり謎が解けてしまうなんて可能性だってかるかもしれないですしね。
そんなわけで、これは面白いですよ。前世なんて文字を見ると胡散臭く感じられるかもしれないけど、本作はそういう類の本ではないですね。疑り深い著者が、その疑いを突き詰める中でイタリアまで行ってしまうという展開、そしてその中で出てくる驚きの発見は読み応えがあるし、一方でルネサンス期の芸術や文化についても詳しくなれます。そんなに長くないし、読みやすい本なので、是非読んでみてください。
森下典子「前世への冒険」
絶対帰還。(クリス・ジョーンズ)
火星で穴を掘る仕事がある、と言われたのは半年ほど前のこと。それから、あれよあれよという間に、僕は火星に辿り着いていた。
今人類は壮大な計画を実行に移そうとしている。そのために、火星の穴掘りが必要なのだ。
地球はもはや壊滅的な状態に陥っている。人の住める惑星ではなくなっているのだ。しかし、技術の進歩はSF小説のようにはいかなかった。火星への有人飛行は20年前に成功していたものの、火星への移住計画はまったく見通しが立っておらず、そもそも大人数を火星に運ぶだけの手段もなかった。
そこで考えられたのが、「ドッキング計画」である。これはつまり、火星を吹っ飛ばして軌道を変え、地球とドッキングさせよう、という計画だ。火星を地球に接触させれば、移動の手段は問題なくなるし、また地球と同じ軌道を回ることで、人が住める環境を作りやすくもなるだろうと考えられている。
今こうして穴を掘っているのは、ここに特大の発射台を建設するためだ。惑星の軌道を変えてしまうほどの推進力を生み出すために必要なのだ。しかし、こんな星に人が住めるよぅになるんだろうか。僕はいつもそれが不思議で仕方ない。
一銃「移住計画」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はエクスペディション6と呼ばれる長期滞在計画チームを襲った様々な出来事を主軸として、アメリカ・ロシアによる宇宙開発の大まかな歴史についても触れている作品です。
現在宇宙開発は、宇宙ステーション建設に主眼が置かれていて、エクスペディションはその建設・維持のために長期的に宇宙ステーション内で任務をこなします。通常一定期間で、スペースシャトルでやってくる次のメンバーと交代となります。
スペースシャトル<コロンビア>でやってきたブダーリン・バウアーソックス・ペティットの三人は、宇宙ステーションに乗り込んだ直後、訃報を聞く事になります。彼らと入れ替えで地球に戻った<コロンビア>が、着陸を前に爆発した、というのです。
これで彼らはしばらく地球への帰還が出来なくなってしまいます。スペースシャトル爆発の原因が究明されるまで、迎えはこないからです。彼らは、いつ迎えがくるか分からないという不安定な環境の中、完璧なチームワークを組み、あらゆることに対処していきます。
というような話です。
本作は、今年の本の雑誌が選ぶ年間ランキングで1位になった作品です。本書が発売された時見かけて気になっていた本ではあるんですけど、ランキング1位になったというのを知って読んでみることにしました。
でも、僕の中ではちょっと期待外れという感じがありました。
作品としての出来はなかなか上出来だと思います。構成もかなりうまいと思うし、取材が緻密だし、またいろんな出来事をうまく作品の中に組み込んでいて、また宇宙ステーションに残された三人とその家族、管制センターの人々、一般の人々などの気持ちについてもかなり深く描き出していて、作品としての出来はかなり高いと思いました。
でも、僕には合わなかったというか、期待していたような作品と違ったのでちょっと残念だったわけです。
僕は、本書がどんな内容なのかさっぱり知らなかったので、宇宙の話であるということと、「絶対帰還」というタイトルから、アポロ13号のような絶体絶命状況からの救出、みたいな話だと勝手に思っていたわけなんです。でも読んでも読んでもそういう話が出てこなくて、次第に、なるほどこれは宇宙ステーションから地球に戻れなくなってしまった人々の話なのか、と分かるようになってきました。僕が読む前にまったく別の期待をしていたために、読んでてあんまり面白くなかったんだろうなという気がします。つまり、作品のせいというより、僕のせいなんですけど。
ただ本書を読んで、アポロ13号の話をちゃんと読みたい(あるいは映画で見たい)と思いました。僕は、断片的なことはなんとなく知ってるし、大昔にテレビで流れていた映画も見たような記憶があるんですけど、でももう一回ちゃんと知りたいなと思いました。何か関連する本を読んでみようかなと思います。
ペティットという宇宙飛行士がいるんですけど、彼が一番いいキャラだなと思いました。元々変人として有名だったみたいですけど、その好奇心の強さと、どんな状況でも楽観的に見える雰囲気が面白いと思いました。
あと、ロシアってのは凄いんだなということも思いました。元々、宇宙へロケットを初めて飛ばしたのも、有人飛行を初めて成功させたのもロシアなわけですけど、ただ月面着陸とかアポロ13号の事故とかのイメージで、またNASAなんていう超有名な機関もあるわけで、なんとなく宇宙開発はアメリカがメインなんだろうと思っていました。でも、現在建設されている宇宙ステーションも、元々ロシアのアイデアを流用しているみたいだし、こと宇宙に人を送るということに掛けてはロシア人は素晴らしいんだそうです。今でも、ロシアがこれまでに蓄積してきた様々なデータや知恵や経験が宇宙開発の最前線で生かされているんだそうです。
一番面白いと思ったのは、宇宙でペンが使えなかった時の各国の対応ですね。宇宙空間では重力がないために、インクが下がってこないのでペンが使えません。そこでアメリカは、大金を投じて宇宙空間でも使えるペンを開発したけど、ロシア人は荷物の中に鉛筆を入れたんだそうです。僕はそういうロシアの節約精神、また発想で乗り切ろうという精神が好きだなと思いました。
僕が余計な期待をしていたばっかりに、ちょっとあんまり楽しめなかったんですけど、作品としての出来はなかなかいいと思います。そこまでドキドキ感はないと思うけど、丁寧な筆致で宇宙飛行士の葛藤や活躍を描いているのはなかなか見事だと思います。興味がある人は読んでみてください。
クリス・ジョーンズ「絶対帰還。」
今人類は壮大な計画を実行に移そうとしている。そのために、火星の穴掘りが必要なのだ。
地球はもはや壊滅的な状態に陥っている。人の住める惑星ではなくなっているのだ。しかし、技術の進歩はSF小説のようにはいかなかった。火星への有人飛行は20年前に成功していたものの、火星への移住計画はまったく見通しが立っておらず、そもそも大人数を火星に運ぶだけの手段もなかった。
そこで考えられたのが、「ドッキング計画」である。これはつまり、火星を吹っ飛ばして軌道を変え、地球とドッキングさせよう、という計画だ。火星を地球に接触させれば、移動の手段は問題なくなるし、また地球と同じ軌道を回ることで、人が住める環境を作りやすくもなるだろうと考えられている。
今こうして穴を掘っているのは、ここに特大の発射台を建設するためだ。惑星の軌道を変えてしまうほどの推進力を生み出すために必要なのだ。しかし、こんな星に人が住めるよぅになるんだろうか。僕はいつもそれが不思議で仕方ない。
一銃「移住計画」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はエクスペディション6と呼ばれる長期滞在計画チームを襲った様々な出来事を主軸として、アメリカ・ロシアによる宇宙開発の大まかな歴史についても触れている作品です。
現在宇宙開発は、宇宙ステーション建設に主眼が置かれていて、エクスペディションはその建設・維持のために長期的に宇宙ステーション内で任務をこなします。通常一定期間で、スペースシャトルでやってくる次のメンバーと交代となります。
スペースシャトル<コロンビア>でやってきたブダーリン・バウアーソックス・ペティットの三人は、宇宙ステーションに乗り込んだ直後、訃報を聞く事になります。彼らと入れ替えで地球に戻った<コロンビア>が、着陸を前に爆発した、というのです。
これで彼らはしばらく地球への帰還が出来なくなってしまいます。スペースシャトル爆発の原因が究明されるまで、迎えはこないからです。彼らは、いつ迎えがくるか分からないという不安定な環境の中、完璧なチームワークを組み、あらゆることに対処していきます。
というような話です。
本作は、今年の本の雑誌が選ぶ年間ランキングで1位になった作品です。本書が発売された時見かけて気になっていた本ではあるんですけど、ランキング1位になったというのを知って読んでみることにしました。
でも、僕の中ではちょっと期待外れという感じがありました。
作品としての出来はなかなか上出来だと思います。構成もかなりうまいと思うし、取材が緻密だし、またいろんな出来事をうまく作品の中に組み込んでいて、また宇宙ステーションに残された三人とその家族、管制センターの人々、一般の人々などの気持ちについてもかなり深く描き出していて、作品としての出来はかなり高いと思いました。
でも、僕には合わなかったというか、期待していたような作品と違ったのでちょっと残念だったわけです。
僕は、本書がどんな内容なのかさっぱり知らなかったので、宇宙の話であるということと、「絶対帰還」というタイトルから、アポロ13号のような絶体絶命状況からの救出、みたいな話だと勝手に思っていたわけなんです。でも読んでも読んでもそういう話が出てこなくて、次第に、なるほどこれは宇宙ステーションから地球に戻れなくなってしまった人々の話なのか、と分かるようになってきました。僕が読む前にまったく別の期待をしていたために、読んでてあんまり面白くなかったんだろうなという気がします。つまり、作品のせいというより、僕のせいなんですけど。
ただ本書を読んで、アポロ13号の話をちゃんと読みたい(あるいは映画で見たい)と思いました。僕は、断片的なことはなんとなく知ってるし、大昔にテレビで流れていた映画も見たような記憶があるんですけど、でももう一回ちゃんと知りたいなと思いました。何か関連する本を読んでみようかなと思います。
ペティットという宇宙飛行士がいるんですけど、彼が一番いいキャラだなと思いました。元々変人として有名だったみたいですけど、その好奇心の強さと、どんな状況でも楽観的に見える雰囲気が面白いと思いました。
あと、ロシアってのは凄いんだなということも思いました。元々、宇宙へロケットを初めて飛ばしたのも、有人飛行を初めて成功させたのもロシアなわけですけど、ただ月面着陸とかアポロ13号の事故とかのイメージで、またNASAなんていう超有名な機関もあるわけで、なんとなく宇宙開発はアメリカがメインなんだろうと思っていました。でも、現在建設されている宇宙ステーションも、元々ロシアのアイデアを流用しているみたいだし、こと宇宙に人を送るということに掛けてはロシア人は素晴らしいんだそうです。今でも、ロシアがこれまでに蓄積してきた様々なデータや知恵や経験が宇宙開発の最前線で生かされているんだそうです。
一番面白いと思ったのは、宇宙でペンが使えなかった時の各国の対応ですね。宇宙空間では重力がないために、インクが下がってこないのでペンが使えません。そこでアメリカは、大金を投じて宇宙空間でも使えるペンを開発したけど、ロシア人は荷物の中に鉛筆を入れたんだそうです。僕はそういうロシアの節約精神、また発想で乗り切ろうという精神が好きだなと思いました。
僕が余計な期待をしていたばっかりに、ちょっとあんまり楽しめなかったんですけど、作品としての出来はなかなかいいと思います。そこまでドキドキ感はないと思うけど、丁寧な筆致で宇宙飛行士の葛藤や活躍を描いているのはなかなか見事だと思います。興味がある人は読んでみてください。
クリス・ジョーンズ「絶対帰還。」
NOTHING(中場利一)
大人になんかなりたくないやい。
僕はいつもそう思う。今日先生に怒られた時もそう思った。理由は、僕にはよくわからなかった。わかったのは、僕が何かを改めないと先生が困るのだということだった。大人は結局自分のことしか考えていない。親もそうだし、塾の先生だって変わらない。コンビニの店員みたいな風にもなりたくないし、お父さんみたいにサラリーマンにもなりたくない。かといってじゃあやりたいことがあるかというとそうでもなくて、だからとにかく僕は大人になりたくなくて仕方がなかった。
そんな風に嫌なことばっかりの人生にも、たまにはいいことがある。明日は遠足なのだ。遠足のどこが楽しいのか、小学生の僕にはきちんと言葉に出来ないんだけど、でも何だかウキウキしてくるし、そんな時ふと隣のクラスのみっちゃんの顔が浮かんできて困ったりもする。てるてる坊主をいくつか作って、寝坊しないように今日は早く寝よう。
そんな風に浮き足立っている時だった。どこからやってきたのか、異様な外見の男が窓際に立っていた。いや、男なのかどうか、よく分からない。何しろ、他に例えようもないくらい、奇妙な外見をしていたのだから。
「俺は悪魔だ。何か願い事はないか?」
悪魔?確かに見た目は悪魔っぽいと言えば悪魔っぽいかもしれない。ただ、何で悪魔が願い事を聞きにくるんだろう?
「あるよ。僕、大人になりたくないんだ」
それでも、願い事を叶えてくれるっていうなら誰でもいい。僕は、ずっと前から願っていたことを悪魔に言った。
「なるほど承知。叶えてやろう」
そう言うと悪魔はどこかへ去って行ってしまった。
今のは何だったのだろう。もしかしたら、誰かのイタズラだったのかもしれない。何か変だったし、そういえば悪魔は魂を売り渡すのと引き換えに願いを叶えるという話も聞いたことがある。魂を取られた気はしないから、やっぱりイタズラだったのかもしれない。
まあいいや。そんなに気にすることはないさ。明日は遠足だしね。寝よう寝よう。僕は途中だった支度を手早く終わらせて、さっさと眠りに就いた。
翌朝、いつもなら楽しいことがあるととんでもない早い時間に目が覚めてしまうのだけど、今日は普段と同じぐらいの時間に起きた。自分でも変だなって思ったけど、まあ大したことじゃない。顔を洗ってから、朝ごはんを食べる。
おかしなことに、テーブルの上にお弁当がなかった。今日は遠足だから、お弁当作ってくれるように言っておいたのに。お母さん、忘れてたのかな?
「お母さん、お弁当は?」
「何言ってるの?今日は給食があるのでしょ?」
「ちょっと忘れたの?今日は遠足だよ」
「寝ぼけてるの?遠足は明日でしょ?」
そんなはずがない。昨日あんなに楽しみにしていたのだ。でも、携帯で確認したら、なんと日付は昨日のままだった。確かにお母さんの言う通り、遠足は明日なのだ。
そんなバカな。勘違いしてたんだろうか。いやいや、そんなはずがない。昨日も今日も同じ日付なのだ。もしかしたら、と思ってニュースを見ると、昨日やってたのと同じニュースが流れていた。
まさか。僕はすごく嫌なことを思いついてしまった。あの悪魔か?僕の大人になりたくないっていう願い事を、こんな風に叶えたのか?永遠に同じ日を繰り返す日常の中に閉じ込めることによって。
そうじゃないと思いたい。でもたぶん、それで間違っていないのだろう。僕は、永遠に遠足の前の日という人生を生きなくてはならないのだ。
一銃「大人になりたくない」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は8編の短編が収録された短編集です。
「あおげばとうとし」
喧嘩はするがグレてはいないヨシキ。キートンというあだ名の担任の教師は、彼を卒業式に出させようとするが、ヤクザになると吹聴しているヨシキはその誘いに乗らない。ヨシキはヨシキの望んだ道を歩く。味方であるキートンに迷惑を掛けることなく。
「二日坊主」
エイトは、カズキが言ってきたプチ家出の計画に乗ることにした。特に理由はない。親が自分のことを心配してくれるのか、ちょっと気になってる部分はあるんだけど。ちょっと遠くに行って、怖くなって、すぐ戻って来る。
「めじろ」
死んでしまった友人が飼っていたメジロを思い出す。どこかでメジロが鳴いているのだ。職業的泥棒となった僕は、かつての友人宅がある森へと足を運んでみるのだが。
「僕に似た人」
ホームレスになった父が死んだという連絡を受けて警察署までやってきた。酷い父だった。僕も母も、どれだけ殴られ、日々あいつの機嫌をビクビクしながら伺う毎日だった。警察署にやってきた親類に言いようのない怒りを抱き、また過去の回想に浸りながら、僕は父の死体の前にいる。
「NOTHING」
常に身体を鍛え、それを自慢していた純。しかし、駅で若者二人にボコボコにされて以来、まったく自信がなくなってしまった。職場での立場も変わってしまった。純は、自分の中にあったはずの何かを、永遠に失ってしまった。
「大阪チョマチョゴリ」
子どもの頃からずっと一緒にいたアイ。でも、大きくなるにつれて、どんどん違いがはっきりしてくる。アイは朝鮮人で、僕は日本人。幼い頃はまったく意識することのなかったこの事実が、時と共に二人の間に距離を作り始めていく。
「日記」
八重子は五年間書き溜めた日記を見返していた。見事に悪口ばかりだった。これでは私の人格が疑われるな、と思った矢先、八重子は死んでしまう。
気がつくと、自分の葬儀が行われていた。幽霊となっていたのだ。脚本家を目指すと言ったきりほとんど連絡も寄越さない一人息子が、八重子の日記を読んでいる。
「あ・うんの刺青」
僕が気づいた時には、兄はもうヤクザだった。組のために殺人をやってのけた兄は、刑務所に行った。兄は刑務所から、癌で入院中だった父に手紙を書いた。衰弱して何も食べられない父に向かって、ただその日食べたものを羅列する兄の手紙に、僕は怒りを感じるのだが…。
というような話です。
これも面白かったら仕掛けてみようかなと思って読んだ本です。結構よかったですね。僕の中のイメージでは、重松清と金城一紀を足して2.2で割ったような作品だと思います(さすがに重松清と金城一紀ほどではないので、2.2で割ってみました)。
この作家の作品を読むのは初めてですけど、他の作品、特に長編でも読んでみようかなと思います。「岸和田少年愚連隊」のシリーズとか、「ノーサラリーマンノークライ」とか、機会があったら読んでみたいです。
どの話も、ささやかに生きている人々が抱えているいろんなモヤモヤをうまく描き出しています。「あおげばとうとし」だったら、ヨシキとキートンが共に抱えるやるせなさ、「二日坊主」だったら、自分がいなくなったら親は心配してくれるかなという可愛い疑問、「めじろ」だったら、何を失ったのかと思いを馳せる泥棒だし、「僕に似た人」だったら、どうしようもなかった父親との関係、「NOTHING」だったら、それまで自分の中にあったはずの、永遠に失われてしまったように思える何か、「大阪チョマチョゴリ」だったら時間と出生という見えない壁、「日記」だったら、無理して隠しておかないとダメになっちゃいそうな本音、「あ・うんの刺青」だったら、どうしたって適わない兄、という風に、それぞれの人々が、些細なんだけど自分にとっては大切なものと対峙していて、日常という名の刃に傷つきながらも懸命に生きているという話です。
どの話も、ラストの余韻が非常にいいんですね。特に、「あおげばとうとし」「僕に似た人」「大阪チョマチョゴリ」は、他の作品よりラストの印象がより強いですね。その後の時間を想像させるような広がりのある終わらせ方で、非常にうまいなと思いました。
また作品としては、「あおげばとうとし」「大阪チョマチョゴリ」「日記」「あ・うんの刺青」辺りがすごく好きですね。どの話も、短編だからこそ余分な部分をこれでもかと削り、要約のようなシャープなストーリーの中で、悲哀やユーモアを詰め込んでいくという感じで、久しぶりにレベルの高い短編を読んだなという感じがしました。特に「あ・うんの刺青」は、兄の気持ちが完全に理解出来るわけでもないんだけど、それでも短編の読み始めと読み終わりとで、兄に対する感情が一変していて凄いと思いました。「大阪チョマチョゴリ」も、民族とか国籍なんかの違いを、それを明白に全面に出すことなく、しかし絶妙なバランスで浮き上がらせるようにして描いていて、巧いと思いました。
なかなかレベルの高い短編集だと思いました。是非読んでみてください。
中場利一「NOTHING」
僕はいつもそう思う。今日先生に怒られた時もそう思った。理由は、僕にはよくわからなかった。わかったのは、僕が何かを改めないと先生が困るのだということだった。大人は結局自分のことしか考えていない。親もそうだし、塾の先生だって変わらない。コンビニの店員みたいな風にもなりたくないし、お父さんみたいにサラリーマンにもなりたくない。かといってじゃあやりたいことがあるかというとそうでもなくて、だからとにかく僕は大人になりたくなくて仕方がなかった。
そんな風に嫌なことばっかりの人生にも、たまにはいいことがある。明日は遠足なのだ。遠足のどこが楽しいのか、小学生の僕にはきちんと言葉に出来ないんだけど、でも何だかウキウキしてくるし、そんな時ふと隣のクラスのみっちゃんの顔が浮かんできて困ったりもする。てるてる坊主をいくつか作って、寝坊しないように今日は早く寝よう。
そんな風に浮き足立っている時だった。どこからやってきたのか、異様な外見の男が窓際に立っていた。いや、男なのかどうか、よく分からない。何しろ、他に例えようもないくらい、奇妙な外見をしていたのだから。
「俺は悪魔だ。何か願い事はないか?」
悪魔?確かに見た目は悪魔っぽいと言えば悪魔っぽいかもしれない。ただ、何で悪魔が願い事を聞きにくるんだろう?
「あるよ。僕、大人になりたくないんだ」
それでも、願い事を叶えてくれるっていうなら誰でもいい。僕は、ずっと前から願っていたことを悪魔に言った。
「なるほど承知。叶えてやろう」
そう言うと悪魔はどこかへ去って行ってしまった。
今のは何だったのだろう。もしかしたら、誰かのイタズラだったのかもしれない。何か変だったし、そういえば悪魔は魂を売り渡すのと引き換えに願いを叶えるという話も聞いたことがある。魂を取られた気はしないから、やっぱりイタズラだったのかもしれない。
まあいいや。そんなに気にすることはないさ。明日は遠足だしね。寝よう寝よう。僕は途中だった支度を手早く終わらせて、さっさと眠りに就いた。
翌朝、いつもなら楽しいことがあるととんでもない早い時間に目が覚めてしまうのだけど、今日は普段と同じぐらいの時間に起きた。自分でも変だなって思ったけど、まあ大したことじゃない。顔を洗ってから、朝ごはんを食べる。
おかしなことに、テーブルの上にお弁当がなかった。今日は遠足だから、お弁当作ってくれるように言っておいたのに。お母さん、忘れてたのかな?
「お母さん、お弁当は?」
「何言ってるの?今日は給食があるのでしょ?」
「ちょっと忘れたの?今日は遠足だよ」
「寝ぼけてるの?遠足は明日でしょ?」
そんなはずがない。昨日あんなに楽しみにしていたのだ。でも、携帯で確認したら、なんと日付は昨日のままだった。確かにお母さんの言う通り、遠足は明日なのだ。
そんなバカな。勘違いしてたんだろうか。いやいや、そんなはずがない。昨日も今日も同じ日付なのだ。もしかしたら、と思ってニュースを見ると、昨日やってたのと同じニュースが流れていた。
まさか。僕はすごく嫌なことを思いついてしまった。あの悪魔か?僕の大人になりたくないっていう願い事を、こんな風に叶えたのか?永遠に同じ日を繰り返す日常の中に閉じ込めることによって。
そうじゃないと思いたい。でもたぶん、それで間違っていないのだろう。僕は、永遠に遠足の前の日という人生を生きなくてはならないのだ。
一銃「大人になりたくない」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は8編の短編が収録された短編集です。
「あおげばとうとし」
喧嘩はするがグレてはいないヨシキ。キートンというあだ名の担任の教師は、彼を卒業式に出させようとするが、ヤクザになると吹聴しているヨシキはその誘いに乗らない。ヨシキはヨシキの望んだ道を歩く。味方であるキートンに迷惑を掛けることなく。
「二日坊主」
エイトは、カズキが言ってきたプチ家出の計画に乗ることにした。特に理由はない。親が自分のことを心配してくれるのか、ちょっと気になってる部分はあるんだけど。ちょっと遠くに行って、怖くなって、すぐ戻って来る。
「めじろ」
死んでしまった友人が飼っていたメジロを思い出す。どこかでメジロが鳴いているのだ。職業的泥棒となった僕は、かつての友人宅がある森へと足を運んでみるのだが。
「僕に似た人」
ホームレスになった父が死んだという連絡を受けて警察署までやってきた。酷い父だった。僕も母も、どれだけ殴られ、日々あいつの機嫌をビクビクしながら伺う毎日だった。警察署にやってきた親類に言いようのない怒りを抱き、また過去の回想に浸りながら、僕は父の死体の前にいる。
「NOTHING」
常に身体を鍛え、それを自慢していた純。しかし、駅で若者二人にボコボコにされて以来、まったく自信がなくなってしまった。職場での立場も変わってしまった。純は、自分の中にあったはずの何かを、永遠に失ってしまった。
「大阪チョマチョゴリ」
子どもの頃からずっと一緒にいたアイ。でも、大きくなるにつれて、どんどん違いがはっきりしてくる。アイは朝鮮人で、僕は日本人。幼い頃はまったく意識することのなかったこの事実が、時と共に二人の間に距離を作り始めていく。
「日記」
八重子は五年間書き溜めた日記を見返していた。見事に悪口ばかりだった。これでは私の人格が疑われるな、と思った矢先、八重子は死んでしまう。
気がつくと、自分の葬儀が行われていた。幽霊となっていたのだ。脚本家を目指すと言ったきりほとんど連絡も寄越さない一人息子が、八重子の日記を読んでいる。
「あ・うんの刺青」
僕が気づいた時には、兄はもうヤクザだった。組のために殺人をやってのけた兄は、刑務所に行った。兄は刑務所から、癌で入院中だった父に手紙を書いた。衰弱して何も食べられない父に向かって、ただその日食べたものを羅列する兄の手紙に、僕は怒りを感じるのだが…。
というような話です。
これも面白かったら仕掛けてみようかなと思って読んだ本です。結構よかったですね。僕の中のイメージでは、重松清と金城一紀を足して2.2で割ったような作品だと思います(さすがに重松清と金城一紀ほどではないので、2.2で割ってみました)。
この作家の作品を読むのは初めてですけど、他の作品、特に長編でも読んでみようかなと思います。「岸和田少年愚連隊」のシリーズとか、「ノーサラリーマンノークライ」とか、機会があったら読んでみたいです。
どの話も、ささやかに生きている人々が抱えているいろんなモヤモヤをうまく描き出しています。「あおげばとうとし」だったら、ヨシキとキートンが共に抱えるやるせなさ、「二日坊主」だったら、自分がいなくなったら親は心配してくれるかなという可愛い疑問、「めじろ」だったら、何を失ったのかと思いを馳せる泥棒だし、「僕に似た人」だったら、どうしようもなかった父親との関係、「NOTHING」だったら、それまで自分の中にあったはずの、永遠に失われてしまったように思える何か、「大阪チョマチョゴリ」だったら時間と出生という見えない壁、「日記」だったら、無理して隠しておかないとダメになっちゃいそうな本音、「あ・うんの刺青」だったら、どうしたって適わない兄、という風に、それぞれの人々が、些細なんだけど自分にとっては大切なものと対峙していて、日常という名の刃に傷つきながらも懸命に生きているという話です。
どの話も、ラストの余韻が非常にいいんですね。特に、「あおげばとうとし」「僕に似た人」「大阪チョマチョゴリ」は、他の作品よりラストの印象がより強いですね。その後の時間を想像させるような広がりのある終わらせ方で、非常にうまいなと思いました。
また作品としては、「あおげばとうとし」「大阪チョマチョゴリ」「日記」「あ・うんの刺青」辺りがすごく好きですね。どの話も、短編だからこそ余分な部分をこれでもかと削り、要約のようなシャープなストーリーの中で、悲哀やユーモアを詰め込んでいくという感じで、久しぶりにレベルの高い短編を読んだなという感じがしました。特に「あ・うんの刺青」は、兄の気持ちが完全に理解出来るわけでもないんだけど、それでも短編の読み始めと読み終わりとで、兄に対する感情が一変していて凄いと思いました。「大阪チョマチョゴリ」も、民族とか国籍なんかの違いを、それを明白に全面に出すことなく、しかし絶妙なバランスで浮き上がらせるようにして描いていて、巧いと思いました。
なかなかレベルの高い短編集だと思いました。是非読んでみてください。
中場利一「NOTHING」
聖ジェームス病院(久間十義)
おかしな時代がやってきたものだ。
私は病院へ向かいながら、いつものように考え事に耽っていた。今の日本の現状の奇妙さに、どれだけの人が気がついているのだろう。少なくとも、30代ぐらいまでの人には理解できないに違いない。そうでなかった時代のことを、まったく知らないのだから。
しかしまったく、すこぶる健康な私が、こうして病院に通わなくてはいけなくなるとはなぁ。
きっかけは何だっただろう。確かどこかの医学部の教授が発表したある研究成果だったかもしれない。
思い出してきた。その教授は、ある画期的な病気の予防策を開発したのだった。それは、従来あったものにさらに改良を加えあらゆる方面へと応用出来るようにしたものだったのだけど、そのあまりの効果に世界中が注目したのだった。
それは、基本的には予防接種と同じ考え方だった。あらかじめ体内に免疫を作り出すために、病気の元になるものを身体に入れる。その教授は、それをありとあらゆる病気、すなわち風邪・癌・盲腸・心臓病・脳卒中など、ありとあらゆる病気に応用出来るようにしたのだ。これで、骨折や切り傷など外傷以外の病気はほぼすべて予防できるようになった。多くの人がこの予防接種を受けに病院に行ったものだった。
しかししばらくすると、その弊害みたいなものが現れ出してきた。予防治療をされた人間が増えるにつれ、予防治療をしていない人間が病気に掛かりやすくなったのだ。統計上、明らかに有意なデータが現れ出した。専門家はこう判断した。つまり、予防治療を受けた人間の体内から、何らかの形で病気の原因となるものが予防治療を受けていない免疫のない人間に移るために起こっているのだと。つまり、予防治療を受けた人間のせいで、予防治療を受けていない人間の病気になる確率が高まったのだ。
それにより、それまで予防治療をしていなかった人間も仕方なく予防治療を受けざるおえなくなった。私もその一人。まったく、何が哀しくて予防治療なんぞ受けなくてはいけないんだろうか。しかし周りには、予防治療を受けていなかったために風邪で死んでしまった奴もいる。もはや風邪でさえ脅威なのだ。背に腹は変えられない。
しかし、と私は何度目かの嘆息をつく。一体医療は、どこに向かおうとしているのだろうか。
一銃「予防治療」
そろそろ内容に入ろうと思います。
東翔平は、地域の中核医療を担う聖ジェームス病院で研修医として働いている。医者の人生の中でも最も忙しいと言われる研修医時代。まさに寝る間も惜しんで働かなくてはいけない現実に、しかしそれでも翔平は高い理想をもって臨んでいる。
すべては、救急外来に腹痛を訴えてやってきた一人の患者に端を発したといっていい。翔平は、指導医から機会があったら優先的に使うように、と言われていたとある新薬をその患者に処方した。それは帯状発疹に劇的に効く薬で、異例のスピードで許認可が下り、日本の東亜ケミファという製薬会社が世界に先駆けて発売した新薬で、評判も上々、会社の株かも上向きだった。
快方に向かっていたその患者が、しかし病状が急変し、あっさり亡くなってしまった。その患者は別の病院で癌の治療を受けており、抗がん剤と翔平が処方した新薬の併用によって劇症腸炎を引き起こしたのではないか、と疑われた。その患者の遺族は、別に思惑のある人間に翻弄され、聖ジェームス病院と東亜ケミファを訴える方向で話が進んでいる。
一方病院では様々なことが起こる。点滴ミス、偽医者の出現、DV疑惑の患者…。しかしそれ以上に、聖ジェームス病院の屋台骨を揺るがす大騒動が持ち上がる。
院内感染だ。
翔平は研修医ながら、何故か院内の感染経路を特定する責任者に押される。院内政治に翻弄されながらも、若き研修医は自分の信念貫いていくのだが…。
というような話です。
仕掛けてみようかなという本をあれこれ探っていて、それで見つけた本です。面白かったらちょっと仕掛けてみようかなと思っていて、これはちょっとやってみようかなと思っています。
病院を舞台にした作品は最近結構ありますね。一番メジャーなのは「チーム・バチスタの栄光」でしょうか。最近は「無痛」っていう作品も売れています。また古いですが、日本では「白い巨塔」っていう大作もあります。
ただ本作はそのどれともちょっと違いますね。「チーム・バチスタ」はエンタメかつミステリという感じ、「無痛」も医療よりもミステリ寄りですが、本作はどちらかと言えば社会派っぽい感じですね。病院内の人間関係に焦点を当てつつ、現代の病院が抱えている問題を炙り出していく、という感じです。でも、社会派と言っても全然堅苦しくないんです。僕は読んだことがないのでイメージなんですけど、「白い巨塔」はちょっと堅いイメージがあります。でも本作は、若い研修医をメインの主人公にしながら、専門的なところまでは深入りせず、病院関係者にとっては日常、そして普段病院をそこまで使わない人間にとっても遠くない出来事を扱っていて、非常に読みやすいです。読みやすいと言えば文章もそうで、癖のない非常に読みやすい文章です。
医療モノではあるのだけど、そうではない要素もかなりふんだんに含まれています。その一つが、東亜ケミファの株に関わる問題で、ちょっとした経済小説っぽい雰囲気もあります。また新聞記者の取材の場面もあるし、訴訟に関わるあれこれもありますね。またそういうものだけでもなくて、医者と看護婦の合コンだとか、翔平の恋だとかっていう部分もきちんとあって、まさに「病院に生きる人々の日常」を描いているなという感じがしました。
しかし研修医なのに翔平は八面六臂の大活躍なんですね。別の病院から運ばれてきた患者に、前の病院での診断とは別の見立てを立てたり、医療ミスで危うく死にかけた患者を救ったり、訴訟の被告にされそうだったりとなかなか大変です。院内の感染経路の特定でも大活躍しますけどね。ちょっとさすがにこの活躍は無理があるんじゃないかなと思わないでもないけど、まあそういうところは僕としてはさほど気にならないのでいいと思います。
現代は病院についてあれこれ騒がれていますよね。特に、救急車が受け入れを拒否されて患者が死亡するとか、そういう話は多くなっています。本作を読むと、まあ読まなくてもわかりきってるんでしょうけど、その原因が慢性的な人手不足なんだろうなと思います。もちろん病院というのは人を救うところで、そして一方では経営的にも成り立たせなければいけないというところにあって、いかに現場にいる人間が努力をしているのかということを、僕らはもう少し知ってもいいのかもしれないなと思いました。ただ、医者が酷い病院が酷いと言っていたところで何も解決しないのですし。
というわけで、それなりに面白い作品だと思います。研修医が必至で患者を治そうとしている姿には心を打たれるし、病院の現状を少しでも理解するのに役立つ一冊だと思います。ちょっと長いですけど、読んでみてください。
久間十義「聖ジェームス病院」
私は病院へ向かいながら、いつものように考え事に耽っていた。今の日本の現状の奇妙さに、どれだけの人が気がついているのだろう。少なくとも、30代ぐらいまでの人には理解できないに違いない。そうでなかった時代のことを、まったく知らないのだから。
しかしまったく、すこぶる健康な私が、こうして病院に通わなくてはいけなくなるとはなぁ。
きっかけは何だっただろう。確かどこかの医学部の教授が発表したある研究成果だったかもしれない。
思い出してきた。その教授は、ある画期的な病気の予防策を開発したのだった。それは、従来あったものにさらに改良を加えあらゆる方面へと応用出来るようにしたものだったのだけど、そのあまりの効果に世界中が注目したのだった。
それは、基本的には予防接種と同じ考え方だった。あらかじめ体内に免疫を作り出すために、病気の元になるものを身体に入れる。その教授は、それをありとあらゆる病気、すなわち風邪・癌・盲腸・心臓病・脳卒中など、ありとあらゆる病気に応用出来るようにしたのだ。これで、骨折や切り傷など外傷以外の病気はほぼすべて予防できるようになった。多くの人がこの予防接種を受けに病院に行ったものだった。
しかししばらくすると、その弊害みたいなものが現れ出してきた。予防治療をされた人間が増えるにつれ、予防治療をしていない人間が病気に掛かりやすくなったのだ。統計上、明らかに有意なデータが現れ出した。専門家はこう判断した。つまり、予防治療を受けた人間の体内から、何らかの形で病気の原因となるものが予防治療を受けていない免疫のない人間に移るために起こっているのだと。つまり、予防治療を受けた人間のせいで、予防治療を受けていない人間の病気になる確率が高まったのだ。
それにより、それまで予防治療をしていなかった人間も仕方なく予防治療を受けざるおえなくなった。私もその一人。まったく、何が哀しくて予防治療なんぞ受けなくてはいけないんだろうか。しかし周りには、予防治療を受けていなかったために風邪で死んでしまった奴もいる。もはや風邪でさえ脅威なのだ。背に腹は変えられない。
しかし、と私は何度目かの嘆息をつく。一体医療は、どこに向かおうとしているのだろうか。
一銃「予防治療」
そろそろ内容に入ろうと思います。
東翔平は、地域の中核医療を担う聖ジェームス病院で研修医として働いている。医者の人生の中でも最も忙しいと言われる研修医時代。まさに寝る間も惜しんで働かなくてはいけない現実に、しかしそれでも翔平は高い理想をもって臨んでいる。
すべては、救急外来に腹痛を訴えてやってきた一人の患者に端を発したといっていい。翔平は、指導医から機会があったら優先的に使うように、と言われていたとある新薬をその患者に処方した。それは帯状発疹に劇的に効く薬で、異例のスピードで許認可が下り、日本の東亜ケミファという製薬会社が世界に先駆けて発売した新薬で、評判も上々、会社の株かも上向きだった。
快方に向かっていたその患者が、しかし病状が急変し、あっさり亡くなってしまった。その患者は別の病院で癌の治療を受けており、抗がん剤と翔平が処方した新薬の併用によって劇症腸炎を引き起こしたのではないか、と疑われた。その患者の遺族は、別に思惑のある人間に翻弄され、聖ジェームス病院と東亜ケミファを訴える方向で話が進んでいる。
一方病院では様々なことが起こる。点滴ミス、偽医者の出現、DV疑惑の患者…。しかしそれ以上に、聖ジェームス病院の屋台骨を揺るがす大騒動が持ち上がる。
院内感染だ。
翔平は研修医ながら、何故か院内の感染経路を特定する責任者に押される。院内政治に翻弄されながらも、若き研修医は自分の信念貫いていくのだが…。
というような話です。
仕掛けてみようかなという本をあれこれ探っていて、それで見つけた本です。面白かったらちょっと仕掛けてみようかなと思っていて、これはちょっとやってみようかなと思っています。
病院を舞台にした作品は最近結構ありますね。一番メジャーなのは「チーム・バチスタの栄光」でしょうか。最近は「無痛」っていう作品も売れています。また古いですが、日本では「白い巨塔」っていう大作もあります。
ただ本作はそのどれともちょっと違いますね。「チーム・バチスタ」はエンタメかつミステリという感じ、「無痛」も医療よりもミステリ寄りですが、本作はどちらかと言えば社会派っぽい感じですね。病院内の人間関係に焦点を当てつつ、現代の病院が抱えている問題を炙り出していく、という感じです。でも、社会派と言っても全然堅苦しくないんです。僕は読んだことがないのでイメージなんですけど、「白い巨塔」はちょっと堅いイメージがあります。でも本作は、若い研修医をメインの主人公にしながら、専門的なところまでは深入りせず、病院関係者にとっては日常、そして普段病院をそこまで使わない人間にとっても遠くない出来事を扱っていて、非常に読みやすいです。読みやすいと言えば文章もそうで、癖のない非常に読みやすい文章です。
医療モノではあるのだけど、そうではない要素もかなりふんだんに含まれています。その一つが、東亜ケミファの株に関わる問題で、ちょっとした経済小説っぽい雰囲気もあります。また新聞記者の取材の場面もあるし、訴訟に関わるあれこれもありますね。またそういうものだけでもなくて、医者と看護婦の合コンだとか、翔平の恋だとかっていう部分もきちんとあって、まさに「病院に生きる人々の日常」を描いているなという感じがしました。
しかし研修医なのに翔平は八面六臂の大活躍なんですね。別の病院から運ばれてきた患者に、前の病院での診断とは別の見立てを立てたり、医療ミスで危うく死にかけた患者を救ったり、訴訟の被告にされそうだったりとなかなか大変です。院内の感染経路の特定でも大活躍しますけどね。ちょっとさすがにこの活躍は無理があるんじゃないかなと思わないでもないけど、まあそういうところは僕としてはさほど気にならないのでいいと思います。
現代は病院についてあれこれ騒がれていますよね。特に、救急車が受け入れを拒否されて患者が死亡するとか、そういう話は多くなっています。本作を読むと、まあ読まなくてもわかりきってるんでしょうけど、その原因が慢性的な人手不足なんだろうなと思います。もちろん病院というのは人を救うところで、そして一方では経営的にも成り立たせなければいけないというところにあって、いかに現場にいる人間が努力をしているのかということを、僕らはもう少し知ってもいいのかもしれないなと思いました。ただ、医者が酷い病院が酷いと言っていたところで何も解決しないのですし。
というわけで、それなりに面白い作品だと思います。研修医が必至で患者を治そうとしている姿には心を打たれるし、病院の現状を少しでも理解するのに役立つ一冊だと思います。ちょっと長いですけど、読んでみてください。
久間十義「聖ジェームス病院」
吉里吉里人(井上ひさし)
「主文、被告を子産め女の刑に処す」
裁判官の宣告が下った瞬間、被告席に座っていた女性はワッと声を上げ、泣きに泣いた。今の日本において、<子産め女の刑>は死刑をも凌ぐ最悪の刑だ。被告が男である場合、親族の誰かが子産め女にさせられることになる。いずれにせよ、恐ろしい刑であることに変わりはない。
ことの発端は30年前に起こったとある騒動だった。それは、日本という国、いや世界をも仰天させ、未だに驚嘆させ続けている、歴史上初めての出来事だったのである。
予兆はあった。しかし、それに気づけというのは酷だっただろう。全国の動物園や水族館で、少しずつ飼育員が不足し始めた。大学の研究室にいた数多くの実験動物が謎の自殺を遂げるようになった。全国の酪農家から家畜が逃げ出す事件が相次いだ。しかし、もちろん誰も、これらの出来事を繋ぎ合わせることは出来なかった。あの出来事が起こってから、後から考えてみると、なるほどこんな前兆があったのか、と分かったというようなものである。日本政府、あるいは他のどんな機関であっても、その出来事を予測することは出来なかっただろう。
その日、<独立国家生命の国初代大統領代理>という人物から、日本政府に当てて独立宣言が送られてきた。それによれば、日本に住むありとあらゆる動物、特にこれまで家畜とされていた種は、以後この生命の国で独立に暮らす、とあった。つまり、有史以来初めて、動物による国家独立が宣言されたのだった。
もちろんその陰には、元飼育員や動物の専門家らによるグループがいた。主に行動を起こしたのはこのグループである。未だに、彼らの目的が何であったのか議論されることがある。本当に動物の独立を心の底から目指したのか、あるいは自身の独立を望んだだけであったのか…。
しかしいずれにせよ、長いときを経て、その独立は成就した。いや、せざる終えなかったと言える。何せ、独立が保障されるまでの間、ありとあらゆる生き物により日本は様々な攻撃にさらされることになったからだ。イノシシが集団で突進してくる、サルがスーパーを荒らす、鳥が狙いすましたかのように人間の頭に糞をする…。さすがに耐え切れなくなり、日本は独立を認めることになった。
しかし困ったのは日本だ。様々に問題を抱えてはいたが、しかし最大の問題は食糧不足だった。何せ、一切の家畜が日本からいなくなってしまったのだから。
そこで苦肉の策として、日本国は生命の国と取引をした。曰く、餌として生きた人間をそっちに引き渡す。だから、そっちの動物もこちらに分けてはもらえないだろうか。
以後日本には、子産め女という身分が出来た。これはすなわち、生命の国に送る人間を生み育てる女性のことだ。政府は、様々な理由をつけてこの子産め女を増やしていった。赤紙のようなものを送りつけ徴兵まがいのこともした。孤児院はすべて子産め女の養成所となった。あるいは先ほどのように、刑罰として子産め女にさせられることもある。
今ではこの制度は充分に定着した。国際的な非難はもちろん様々に残っているが、しかし国内的な問題は既にほとんどないと言っていい。もちろん、戦時中の慰安婦問題のように、後々問題として取り上げられることはあろう。しかしいずれにせよ、今の日本国が生き残るには、これしか方法がないのだ。
問題はほとんどない。一つ懸念があるとすれば、子産め女が独立を画策しているということぐらいだろうか…。
一銃「子産め女」
そろそろ内容に入ろうと思います。
この本は、長い間僕の部屋の地層に埋もれていて、読もう読もうと思いながらも先延ばしにしていた本です。というのも、とにかく長い。もちろん、この本より長い本はまだあるわけですけど、でもやっぱり長い本は読むのに気合が要るわけで、ちょっと今回ようやく腰を入れて読んでみたという次第なわけです。
ストーリーは、簡単に要約してしまえば非常に簡単で、
『東北の寒村である吉里吉里村がある日突然日本に対して独立を宣言する。その独立宣言から二日間の出来事を描いた作品』
ということになります。ストーリーの骨子はこれで大体説明できますが、さすがにこの長大な作品の内容紹介がこれだけというのはあんまりなので、もう少し書きましょう。
物語の主人公は、古橋健二という三流以下四流五流と言ってもいいくらい箸にも棒にも掛からないダメ小説家です。このダメ小説家は今、編集者と共にとある取材先に向かおうと電車に乗っています。
すると突然電車が急停止し、銃を持った少年が乗り込んできます。すわ列車強盗かと思ったけども、さにあらず。彼らは<吉里吉里人>だと名乗り、旅券を見せろと迫ります。はて、同じ国内を旅行するのに旅券が必要だったかしらん、と思っていると、なんとその少年達は、今朝がた吉里吉里村は独立を宣言し吉里吉里国になったのだ、といいます。半信半疑ながらも、とりあえず入国管理所に連れて行かれる古橋他800余名の乗客たち。古橋はそこで、吉里吉里村にしばらく滞在し、そのルポを書けばこれは真に貴重であると気づき、それを実行に移すことにする。
それからたった二日間の間に、いやはや古橋健二という作家はとにかくありとあらゆることに巻き込まれる。ネタバレにならない程度に(つまり各章のタイトルを見れば分かる程度のことを)書くと、古橋健二は双頭の犬を見、ナイチンゲール記章を三つ持つ看護婦に会い、労働銭という概念を知り、冷凍人間技術に出会い、吉里吉里文学大賞を受賞し、化粧をすることになり、さらに大統領になってしまうという、これだけ書いただけでもとんでもない展開が繰り広げられるわけです。
しかし実際読むとさらにすごいです。とにかく、ありとあらゆる話題が縦横無尽に飛び出して来て、しかもただの部外者だった古橋健二が独立騒ぎにどんどん介入していくことになり、不確定要素を取り込むことになってしまった吉里吉里独立騒動はさらに一層渾沌としていく始末。
さて、吉里吉里村の独立は果たして成功するのか…。
とまあそんな話です。
いやまあ、面白い話でしたね。これだけ荒唐無稽でありながら、一方では細部に渡り緻密な考証を加えている作品はなかなかないのではないかと思います。なるほど、本作が日本SF大賞を受賞したのも納得、という感じです(読売文学賞も受賞しているようです)。
本作は、縦糸が吉里吉里国の独立騒動であり、基本的に話のメインはここに焦点が当てられます。後でいろいろと詳しく書きますが、とにかく吉里吉里国は人口4187人という超小国ながら、これでもかというほどの切り札を山のように持っています。その切り札を有効に活用し、素晴らしい手順で切っていくからこそ、吉里吉里国の独立というとんでもない未曾有の事態に、日本国はなかなか手出しが出来ません。
しかし、やはりそれだけではなかなか面白い作品にはなりえなかったでしょう。本作は横糸として、古橋健二という作家と据えました。これは本当にお見事でしたね。この古橋健二という作家の存在があってこそ、本作は滅茶苦茶面白くなっているわけなんです。
古橋健二は、とにかくいいところがほとんどない人間として描かれます。どんな場面でも使えない、アホだしバカだしトンマである。何度も失神はするわ、何度も失言はするわ、何度もピンチに陥るわで、とにかく多くの人間から反感を買います。主に日本国の人間から。そうなんです、古橋健二はとあることをきっかけに、吉里吉里国への移民第1号となってしまうんです。それで日本国から非国民だとか人非人だとか、とにかくボロクソに言われるようになるわけなんです。
一方、何だかんだで吉里吉里国の人々は非常にいい人ですね。こんな使えない古橋健二をずっと面倒見てくれるし、仲間として扱ってくれるわけなんですね。それだからこそ古橋健二は、この独立騒動の深くまで関わることになっていくんです。その過程も面白いものです。
また古橋健二の過去の回想というのが結構あって、これもなかなか凄いものがあります。本作は、前半はとにかく脱線に告ぐ脱線という感じのストーリーが続きます。例えば吉里吉里国の標準語(つまり東北のズーズー弁)に関する本を古橋健二が売店で見つける。そして古橋健二がその内容を読んでいるところでは、その本の内容がそのまま本作に書かれてにわかズーズー弁講座が始まる。
またある時はもっとすごい。日本国が吉里吉里国にビラを撒く場面がある。その場面で古橋健二は、ばら撒かれたビラに書かれた文面にどことなく見覚えがあるような気がするのだ。しかしどうも思い出せない。という件からいきなり、古橋健二がいかに記憶力がないのか、そしてそのためにどれだけ苦労してきたのか、という描写が50ページぐらい続いたりするのだ。基本的にこの古橋健二の過去の回想は、本編である吉里吉里国の独立とはなんの関係もない。そんな話を、物語の途中に50ページもぶち込んでしまうのである。恐るべし、井上ひさし。
まあそんなわけで前半はかなり脱線続きのストーリーなんですけど(後半は割合時間の経過通りに物語は進んでいきます)、その脱線多くが古橋健二の過去の回想に当てられます。これが結構面白いんですね。古橋健二という人間がいかにどうしようもなく、ダメ人間で、生きている価値が皆無で、これまでどうれだけ罵倒されてきて、どれだけ意味のない人生を歩んできて…というようなことが永遠綴られるわけで、この古橋健二のダメさっぷりは、読んでて結構面白いわけなんです。またそういう過去のダメな話を読むからこそ、それ以降の古橋健二のアホみたいな言動にも説得力が出てくるというもので、作品内でのリアリティを補強するという役割もあるわけなんです。
とまあ古橋健二についていろいろ書きましたが、やっぱり何だかんだで本作のメインは吉里吉里国の独立に関わる部分なんですね。この吉里吉里国の独立に関する部分を読むと、日本の抱える様々な問題についていろいろ考えることが出来るようになります。
吉里吉里国が独立をした理由というのは決してひと言ではいえないのだけど、吉里吉里国が独立をしたその様々な理由を読めば、同じ理由で独立をしたいと考える自治体はきっとあるだろうな、と思わされました(今はどうか知らないけど、少なくともこの作品が書かれた当時は)。とくにそれが顕著なのは、農業の問題と、医療の問題でしょうね。
農業問題については僕自身がそんなに詳しく知りませんけど、日本の政策として野菜ではなく米を作れと指導され、またいろいろあって結果的に兼業農家が増えて作物をダメにしている。最終的に日本の食料自給率はかなり低くヤバイよ、というような話をするんですね。演劇を通じて、全国の農家にエールを送るようなこともしています。吉里吉里国は、食料自給率が100%であり、これは独立のための切り札の一つにもなっています。
また医療の問題については、むしろ現代との比較の方がより分かりやすいでしょうね。最近特に医療の崩壊が叫ばれていますが(これは海堂尊の小説を読むことで、厚生労働省のやり方がおかしいのだということが分かるのだけど)、吉里吉里国では医療に関する様々な問題をクリアしています。ホームナース制を採用し、軽い病気であれば家庭で治せるように教育をし、ホームナースが重症だと判断すれば病院に連れて行かれる。こうすることで重症患者が優先的に医者に掛かることが出来るようになる。
また医師の採用についても考えています。日本の法律では、大学を出ていなければ医師国家試験を受ける資格はありません。しかし吉里吉里国では、何らかの形で医療技術を独立で身につけた者(戦場での衛生兵など)にも門戸を開いています。これはなるほどと思いました。吉里吉里国では、あのブラックジャックもちゃんと医師免許を取得できることでしょう(ブラックジャックが大学に行ってないのかどうかは知りませんけど)。
また日本の問題としては他に、自衛隊の存在や日本経済そのものについても指摘されます。吉里吉里国には、そんじょそこらの専門家では太刀打ちできないほどの国際法の専門家、経済の専門家、ノーベル賞クラスの医師などがいて、その知的水準はとにかく高いわけなんです。ナイチンゲール記章を三つも持っている看護婦っていうのもいましたね。吉里吉里国の医療技術は世界から30年は進んでいると言われ、冷凍睡眠技術、各種移植技術を初め、犬と猫を融合させる手術や、タヌキとトマトを融合させるバイオ技術なんてのもあるくらいです。吉里吉里国では、ガンの薬、風邪薬、毛生え薬なんかの開発にも取り組んでいて、この高い医療水準も切り札の一つになっています。
他にも吉里吉里国の切り札としては、独自の地熱発電所、金本位制の貨幣制度、卓球大会(何故これが切り札になるのかは読んでください)、タックスへヴン国であることなど様々あって、これらをいくつも組み合わせて日本国に独立を迫っています。まさに用意周到であり、どれくらい用意周到かと言えば、彼らはもし独立が失敗した時のことも考えていて、そのために警察やアナウンサーなどに子供を配しています。これはつまり、日本の少年法を適応させようというもので、独立が失敗しても罪には問われない手立てを考えているんです。
というわけで、とても本作の魅力を伝え切れていないと思いますが、書こうと思うと切りがないし、時間もないのでこのくらいにしておこうと思います。とにかく、バカバカしいほどの展開もあれば、真面目な議論の応酬もあり、荒唐無稽なオーバーテクノロジーも出てくれば、現実的で有効な仕組みも様々に提案されるわけで、非常に面白いです。ちょっと前の作品ですが、読めば日本の問題点についても知ることが出来るし、古橋健二というアホ作家バカにしながら読み進めることも出来ます。とにかく長いのが難点ですが、面白さは抜群だと思います。是非読んでみてください。
井上ひさし「吉里吉里人」
裁判官の宣告が下った瞬間、被告席に座っていた女性はワッと声を上げ、泣きに泣いた。今の日本において、<子産め女の刑>は死刑をも凌ぐ最悪の刑だ。被告が男である場合、親族の誰かが子産め女にさせられることになる。いずれにせよ、恐ろしい刑であることに変わりはない。
ことの発端は30年前に起こったとある騒動だった。それは、日本という国、いや世界をも仰天させ、未だに驚嘆させ続けている、歴史上初めての出来事だったのである。
予兆はあった。しかし、それに気づけというのは酷だっただろう。全国の動物園や水族館で、少しずつ飼育員が不足し始めた。大学の研究室にいた数多くの実験動物が謎の自殺を遂げるようになった。全国の酪農家から家畜が逃げ出す事件が相次いだ。しかし、もちろん誰も、これらの出来事を繋ぎ合わせることは出来なかった。あの出来事が起こってから、後から考えてみると、なるほどこんな前兆があったのか、と分かったというようなものである。日本政府、あるいは他のどんな機関であっても、その出来事を予測することは出来なかっただろう。
その日、<独立国家生命の国初代大統領代理>という人物から、日本政府に当てて独立宣言が送られてきた。それによれば、日本に住むありとあらゆる動物、特にこれまで家畜とされていた種は、以後この生命の国で独立に暮らす、とあった。つまり、有史以来初めて、動物による国家独立が宣言されたのだった。
もちろんその陰には、元飼育員や動物の専門家らによるグループがいた。主に行動を起こしたのはこのグループである。未だに、彼らの目的が何であったのか議論されることがある。本当に動物の独立を心の底から目指したのか、あるいは自身の独立を望んだだけであったのか…。
しかしいずれにせよ、長いときを経て、その独立は成就した。いや、せざる終えなかったと言える。何せ、独立が保障されるまでの間、ありとあらゆる生き物により日本は様々な攻撃にさらされることになったからだ。イノシシが集団で突進してくる、サルがスーパーを荒らす、鳥が狙いすましたかのように人間の頭に糞をする…。さすがに耐え切れなくなり、日本は独立を認めることになった。
しかし困ったのは日本だ。様々に問題を抱えてはいたが、しかし最大の問題は食糧不足だった。何せ、一切の家畜が日本からいなくなってしまったのだから。
そこで苦肉の策として、日本国は生命の国と取引をした。曰く、餌として生きた人間をそっちに引き渡す。だから、そっちの動物もこちらに分けてはもらえないだろうか。
以後日本には、子産め女という身分が出来た。これはすなわち、生命の国に送る人間を生み育てる女性のことだ。政府は、様々な理由をつけてこの子産め女を増やしていった。赤紙のようなものを送りつけ徴兵まがいのこともした。孤児院はすべて子産め女の養成所となった。あるいは先ほどのように、刑罰として子産め女にさせられることもある。
今ではこの制度は充分に定着した。国際的な非難はもちろん様々に残っているが、しかし国内的な問題は既にほとんどないと言っていい。もちろん、戦時中の慰安婦問題のように、後々問題として取り上げられることはあろう。しかしいずれにせよ、今の日本国が生き残るには、これしか方法がないのだ。
問題はほとんどない。一つ懸念があるとすれば、子産め女が独立を画策しているということぐらいだろうか…。
一銃「子産め女」
そろそろ内容に入ろうと思います。
この本は、長い間僕の部屋の地層に埋もれていて、読もう読もうと思いながらも先延ばしにしていた本です。というのも、とにかく長い。もちろん、この本より長い本はまだあるわけですけど、でもやっぱり長い本は読むのに気合が要るわけで、ちょっと今回ようやく腰を入れて読んでみたという次第なわけです。
ストーリーは、簡単に要約してしまえば非常に簡単で、
『東北の寒村である吉里吉里村がある日突然日本に対して独立を宣言する。その独立宣言から二日間の出来事を描いた作品』
ということになります。ストーリーの骨子はこれで大体説明できますが、さすがにこの長大な作品の内容紹介がこれだけというのはあんまりなので、もう少し書きましょう。
物語の主人公は、古橋健二という三流以下四流五流と言ってもいいくらい箸にも棒にも掛からないダメ小説家です。このダメ小説家は今、編集者と共にとある取材先に向かおうと電車に乗っています。
すると突然電車が急停止し、銃を持った少年が乗り込んできます。すわ列車強盗かと思ったけども、さにあらず。彼らは<吉里吉里人>だと名乗り、旅券を見せろと迫ります。はて、同じ国内を旅行するのに旅券が必要だったかしらん、と思っていると、なんとその少年達は、今朝がた吉里吉里村は独立を宣言し吉里吉里国になったのだ、といいます。半信半疑ながらも、とりあえず入国管理所に連れて行かれる古橋他800余名の乗客たち。古橋はそこで、吉里吉里村にしばらく滞在し、そのルポを書けばこれは真に貴重であると気づき、それを実行に移すことにする。
それからたった二日間の間に、いやはや古橋健二という作家はとにかくありとあらゆることに巻き込まれる。ネタバレにならない程度に(つまり各章のタイトルを見れば分かる程度のことを)書くと、古橋健二は双頭の犬を見、ナイチンゲール記章を三つ持つ看護婦に会い、労働銭という概念を知り、冷凍人間技術に出会い、吉里吉里文学大賞を受賞し、化粧をすることになり、さらに大統領になってしまうという、これだけ書いただけでもとんでもない展開が繰り広げられるわけです。
しかし実際読むとさらにすごいです。とにかく、ありとあらゆる話題が縦横無尽に飛び出して来て、しかもただの部外者だった古橋健二が独立騒ぎにどんどん介入していくことになり、不確定要素を取り込むことになってしまった吉里吉里独立騒動はさらに一層渾沌としていく始末。
さて、吉里吉里村の独立は果たして成功するのか…。
とまあそんな話です。
いやまあ、面白い話でしたね。これだけ荒唐無稽でありながら、一方では細部に渡り緻密な考証を加えている作品はなかなかないのではないかと思います。なるほど、本作が日本SF大賞を受賞したのも納得、という感じです(読売文学賞も受賞しているようです)。
本作は、縦糸が吉里吉里国の独立騒動であり、基本的に話のメインはここに焦点が当てられます。後でいろいろと詳しく書きますが、とにかく吉里吉里国は人口4187人という超小国ながら、これでもかというほどの切り札を山のように持っています。その切り札を有効に活用し、素晴らしい手順で切っていくからこそ、吉里吉里国の独立というとんでもない未曾有の事態に、日本国はなかなか手出しが出来ません。
しかし、やはりそれだけではなかなか面白い作品にはなりえなかったでしょう。本作は横糸として、古橋健二という作家と据えました。これは本当にお見事でしたね。この古橋健二という作家の存在があってこそ、本作は滅茶苦茶面白くなっているわけなんです。
古橋健二は、とにかくいいところがほとんどない人間として描かれます。どんな場面でも使えない、アホだしバカだしトンマである。何度も失神はするわ、何度も失言はするわ、何度もピンチに陥るわで、とにかく多くの人間から反感を買います。主に日本国の人間から。そうなんです、古橋健二はとあることをきっかけに、吉里吉里国への移民第1号となってしまうんです。それで日本国から非国民だとか人非人だとか、とにかくボロクソに言われるようになるわけなんです。
一方、何だかんだで吉里吉里国の人々は非常にいい人ですね。こんな使えない古橋健二をずっと面倒見てくれるし、仲間として扱ってくれるわけなんですね。それだからこそ古橋健二は、この独立騒動の深くまで関わることになっていくんです。その過程も面白いものです。
また古橋健二の過去の回想というのが結構あって、これもなかなか凄いものがあります。本作は、前半はとにかく脱線に告ぐ脱線という感じのストーリーが続きます。例えば吉里吉里国の標準語(つまり東北のズーズー弁)に関する本を古橋健二が売店で見つける。そして古橋健二がその内容を読んでいるところでは、その本の内容がそのまま本作に書かれてにわかズーズー弁講座が始まる。
またある時はもっとすごい。日本国が吉里吉里国にビラを撒く場面がある。その場面で古橋健二は、ばら撒かれたビラに書かれた文面にどことなく見覚えがあるような気がするのだ。しかしどうも思い出せない。という件からいきなり、古橋健二がいかに記憶力がないのか、そしてそのためにどれだけ苦労してきたのか、という描写が50ページぐらい続いたりするのだ。基本的にこの古橋健二の過去の回想は、本編である吉里吉里国の独立とはなんの関係もない。そんな話を、物語の途中に50ページもぶち込んでしまうのである。恐るべし、井上ひさし。
まあそんなわけで前半はかなり脱線続きのストーリーなんですけど(後半は割合時間の経過通りに物語は進んでいきます)、その脱線多くが古橋健二の過去の回想に当てられます。これが結構面白いんですね。古橋健二という人間がいかにどうしようもなく、ダメ人間で、生きている価値が皆無で、これまでどうれだけ罵倒されてきて、どれだけ意味のない人生を歩んできて…というようなことが永遠綴られるわけで、この古橋健二のダメさっぷりは、読んでて結構面白いわけなんです。またそういう過去のダメな話を読むからこそ、それ以降の古橋健二のアホみたいな言動にも説得力が出てくるというもので、作品内でのリアリティを補強するという役割もあるわけなんです。
とまあ古橋健二についていろいろ書きましたが、やっぱり何だかんだで本作のメインは吉里吉里国の独立に関わる部分なんですね。この吉里吉里国の独立に関する部分を読むと、日本の抱える様々な問題についていろいろ考えることが出来るようになります。
吉里吉里国が独立をした理由というのは決してひと言ではいえないのだけど、吉里吉里国が独立をしたその様々な理由を読めば、同じ理由で独立をしたいと考える自治体はきっとあるだろうな、と思わされました(今はどうか知らないけど、少なくともこの作品が書かれた当時は)。とくにそれが顕著なのは、農業の問題と、医療の問題でしょうね。
農業問題については僕自身がそんなに詳しく知りませんけど、日本の政策として野菜ではなく米を作れと指導され、またいろいろあって結果的に兼業農家が増えて作物をダメにしている。最終的に日本の食料自給率はかなり低くヤバイよ、というような話をするんですね。演劇を通じて、全国の農家にエールを送るようなこともしています。吉里吉里国は、食料自給率が100%であり、これは独立のための切り札の一つにもなっています。
また医療の問題については、むしろ現代との比較の方がより分かりやすいでしょうね。最近特に医療の崩壊が叫ばれていますが(これは海堂尊の小説を読むことで、厚生労働省のやり方がおかしいのだということが分かるのだけど)、吉里吉里国では医療に関する様々な問題をクリアしています。ホームナース制を採用し、軽い病気であれば家庭で治せるように教育をし、ホームナースが重症だと判断すれば病院に連れて行かれる。こうすることで重症患者が優先的に医者に掛かることが出来るようになる。
また医師の採用についても考えています。日本の法律では、大学を出ていなければ医師国家試験を受ける資格はありません。しかし吉里吉里国では、何らかの形で医療技術を独立で身につけた者(戦場での衛生兵など)にも門戸を開いています。これはなるほどと思いました。吉里吉里国では、あのブラックジャックもちゃんと医師免許を取得できることでしょう(ブラックジャックが大学に行ってないのかどうかは知りませんけど)。
また日本の問題としては他に、自衛隊の存在や日本経済そのものについても指摘されます。吉里吉里国には、そんじょそこらの専門家では太刀打ちできないほどの国際法の専門家、経済の専門家、ノーベル賞クラスの医師などがいて、その知的水準はとにかく高いわけなんです。ナイチンゲール記章を三つも持っている看護婦っていうのもいましたね。吉里吉里国の医療技術は世界から30年は進んでいると言われ、冷凍睡眠技術、各種移植技術を初め、犬と猫を融合させる手術や、タヌキとトマトを融合させるバイオ技術なんてのもあるくらいです。吉里吉里国では、ガンの薬、風邪薬、毛生え薬なんかの開発にも取り組んでいて、この高い医療水準も切り札の一つになっています。
他にも吉里吉里国の切り札としては、独自の地熱発電所、金本位制の貨幣制度、卓球大会(何故これが切り札になるのかは読んでください)、タックスへヴン国であることなど様々あって、これらをいくつも組み合わせて日本国に独立を迫っています。まさに用意周到であり、どれくらい用意周到かと言えば、彼らはもし独立が失敗した時のことも考えていて、そのために警察やアナウンサーなどに子供を配しています。これはつまり、日本の少年法を適応させようというもので、独立が失敗しても罪には問われない手立てを考えているんです。
というわけで、とても本作の魅力を伝え切れていないと思いますが、書こうと思うと切りがないし、時間もないのでこのくらいにしておこうと思います。とにかく、バカバカしいほどの展開もあれば、真面目な議論の応酬もあり、荒唐無稽なオーバーテクノロジーも出てくれば、現実的で有効な仕組みも様々に提案されるわけで、非常に面白いです。ちょっと前の作品ですが、読めば日本の問題点についても知ることが出来るし、古橋健二というアホ作家バカにしながら読み進めることも出来ます。とにかく長いのが難点ですが、面白さは抜群だと思います。是非読んでみてください。
井上ひさし「吉里吉里人」
数学で犯罪を解決する(キース・デブリン+ゲーリー・ローデン)
「なぁ、ヨシキ。また手伝ってくれよ」
トミオは、机に向かってなにやら難しい問題を解いているらしい弟に向かって言う。確か今は、リーマン仮説に挑んでいるとか言ってたっけ。リーマン仮説が何なのか知らないけどさ。
トミオは警視庁捜査一課の刑事だ。犯罪捜査の過程で、よく弟のヨシキに助言を求める。ヨシキはアマチュアの数学者だ。彼は、自分はフェルマーの生まれ変わりだ、とよく言っていて、アマチュア数学家だったフェルマーに敬意を表し、大学や研究機関、あるいは数学を使う企業などに所属することなく、公認会計士として働きながら趣味で数学をやっているという変わり者だ。
3年前のある事件で、捜査に行き詰まっていたトミオに助言してくれたのがヨシキだった。ヨシキは会計と数学以外の知識に関してはからしきだが、しかし数学が犯罪捜査において強力なツールであることを証明してみせた。しかしまさかトミオも、数学的帰納法によって犯人を挙げることが出来るとは思っていなかった。数学的帰納法と言えば、高校の数学の授業で習うものだ。ヨシキはそれをある強盗事件に適応したのだ。
その後も、フーリエ変換や楕円関数などを巧みに使い、ヨシキは犯罪捜査に関わり続けた。今では、非公認ながら捜査一課内でもアドバイザーのような立場になっている。
しかしヨシキの数学の力も完全ではない。これまでにも、ヨシキが解決できなかった事件は数多くある。常に数学が有効だというわけでもないのだ。それでもトミオは、ヨシキに助言を仰がずにはいられないのだが。
トミオは今、ある誘拐事件に関わっている。ヨシキが何か使えそうな数学理論を思いついてくれればいいのだけど。
僕は、流体力学とベイズ推定を使って、警察の刑事捜査を分析している。警察という組織が、いかにして犯罪を捜査していくのかということを、数学的に解析しているのだ。これまでにも、充分成果は上がっている。警察が想定する仮説への信頼度の重み判定、証拠に対する重要度のランク付け、事件規模に応じた初動捜査人数の推定、状況に応じた警察官のミスの発生確率などなど。これらの数字を日々着実に積み上げている。
僕の目標は、数学を使って完全犯罪を行うことだ。例えば、殺人事件を犯して捕まらない確率を80%以上にするにはどうすればいいか、というようなことを日々考えている。
実際、これらの情報を元に、いくつか細かな事件を起こしている。通行人にナイフで切りつけたり、スーパーからちょっと金を盗むと言ったようなことだが、やはり数学の威力は素晴らしい。これまで起こしたどの事件でも、警察は犯人、つまり僕に行き着くことは出来なかった。兄のトミオはそうした事件について助言を求めてきたが、もちろん手助けすることはなかった。
数学で完全犯罪を目指す。これほどスリリングなことはないだろう。
一銃「犯罪と数学」
一応書いておきますが、上で書いたような「数学的帰納法」「フーリエ変換」「楕円関数」なんかでは、ほぼ間違いなく犯罪捜査は出来ないと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、そのタイトルの通り、犯罪捜査にいかに数学が使われているか、という話を具体的に記した本です。
本書が描かれた経緯はこうです。
アメリカでは、「NUMB3RS」(邦題は「NUMBERS:天才数学者の事件ファイル」)というドラマが放映されている(あるいは放映されていた)んですけど、本作はそのドラマで使われている数学について主に解説している作品です。著者は、「NUMB3RS」というドラマがベースにしている数学の話は非常に現実的であるのに、「ドラマで使われている数学は本当にありえるのか?」という質問をよくされたり、あるいは視聴者がドラマで使われている数学にあまり興味がないようだという状況が残念で、それが動機で本書を書いた、とのことです。この「NUMB3RS」というドラマは、日本で言う「ガリレオ」みたいなドラマなんでしょうね。「ガリレオ」の場合は数学じゃなくて物理ですけど、展開は恐らく似たようなものでしょう。
しかしアメリカというのはすごいドラマを作るものですね。「数学をメインに刑事事件を解決するドラマ」なんて、なかなか思いつかないと思います。「ガリレオ」のように、物理を駆使してっていうのはまだ想像出来るんですけどね。ただ「ガリレオ」と明らかに違う点が一つあります。「ガリレオ」の場合は、犯罪者の方がある物理的な手法で犯罪を犯し、それを福山が解き明かす、というやり方ですが、「NUMB3RS」の方は、犯罪者は別に数学的な知識を使って犯罪を犯すわけではなく、普通の(と言ってはおかしいですが)犯罪者です。それを、数学者が数学を使って追い詰めるというわけです。なので、リアリティという面では「NUMB3RS」の方が圧倒的ですね。実際ドラマでは、現実の事件をベースにしたものも数多くあるようですからね。
というわけで、読み始めたわけですけど、正直なところ思ったよりつまらない作品でした。これは考えるに、本作で使われている数学に僕があまり興味を持てなかった、ということなんだと思います。
もし本作が、「リーマン仮説」「数学的帰納法」「三平方の定理」「フーリエ変換」みたいな、純粋数学のジャンルで事件を解決する、という話だったらかなり面白かったと思うんです(まあ普通に考えればそんなことはありえないんですけどね)。でも本作では、統計のような純粋数学とは言い切れないジャンルや、あるいは確率のような僕自身が苦手なジャンルが結構たくさん出てきて、そういう意味で本作で扱われている数学理論にそこまで興味がもてなかったのだろうと思います。もちろん、現実に数学で刑事事件を解決しようとしたらこういう話になるのだろうと思うんだけど、だったら「NUMBRS」ってドラマを見ている方が面白いかもしれないと思ったりはしました。
本作でとにかく面白くて素晴らしいと感じたのは、第一章だけですね。この第一章は素晴らしいと思いました。なので詳しく内容について触れるのは第一章だけにしようと思います。
第一章は地理的プロファイリングについての話です。本作では、とある強姦殺人が例に取られています。
地図上に、これまでに起きた連続強姦殺人の発生場所がプロットされている。そこで刑事のドンは、弟で数学者であるチャーリーに、次にどこで犯罪が起こるかわかるだろうか、と聞く。
チャーリーはしばらく考え、そして答える。次にどこで犯罪が起こるのかはわからない。けど恐らく、犯人がどこに住んでいるのかなら、数学を使えば分かると思う。
これが第一章の話の骨子で、地理的プロファイリングの威力である。
第一章には、とある数式が出てくる(ここには到底書けないほど複雑な数式だ)。その数式に必要な情報を組み込んでやる。するとあら不思議、犯人が住んでいると思われる地域の確率が出てくるのである。
これはキム・ロスモという元刑事だった男が実際に編み出した数式で、犯罪捜査で各国で使われているシステムである。犯行現場のプロットから犯人の住んでいる場所について分かるというのは荒唐無稽かもしれないけど、でもこの方程式は素晴らしい成果を挙げているんだそうである。これは僕の苦手な確率に関わる問題だけど、それが厳密に数式できちんと表されているというのが素晴らしいと思ったし、何しろ実際の犯罪を見事に解決する(本作で取り上げられている数学的知識には、容疑者として挙げられた人間が本当に犯罪を犯したのかどうかを確かめるために数学が使われるという内容も多い)という点で、とにかく素晴らしいと思いました。
他にも興味深いものは多少あったけど、概念が難しかったり、実際に犯人を見つけ出すためのものではなかったりして、第一章に匹敵するようなものはないですね。他の話は、統計や確率がいかに嘘をつく(というか嘘をついているように見えるか)という話や、指紋はどこまで信頼できるのか、カジノの必勝法、未来を予測するベイズ推論や暗号なんかの話が載っています。
僕としては、現実からかけ離れていてもいいから、「数学的帰納法」や「三平方の定理」を駆使して犯人を追い詰める話を読んでみたいなと思いました。本書は、実際に犯罪捜査にどんな数学が使われているのかという興味で読むのはいいと思いますが、純粋な数学的興味から読むとちょっと違ったかもという感じになるかもしれません。やっぱり僕は、現実には何の役にも立たない純粋数学の方が面白いなと思います。
キース・デブリン+ゲーリー・ローデン「数学で犯罪を解決する」
トミオは、机に向かってなにやら難しい問題を解いているらしい弟に向かって言う。確か今は、リーマン仮説に挑んでいるとか言ってたっけ。リーマン仮説が何なのか知らないけどさ。
トミオは警視庁捜査一課の刑事だ。犯罪捜査の過程で、よく弟のヨシキに助言を求める。ヨシキはアマチュアの数学者だ。彼は、自分はフェルマーの生まれ変わりだ、とよく言っていて、アマチュア数学家だったフェルマーに敬意を表し、大学や研究機関、あるいは数学を使う企業などに所属することなく、公認会計士として働きながら趣味で数学をやっているという変わり者だ。
3年前のある事件で、捜査に行き詰まっていたトミオに助言してくれたのがヨシキだった。ヨシキは会計と数学以外の知識に関してはからしきだが、しかし数学が犯罪捜査において強力なツールであることを証明してみせた。しかしまさかトミオも、数学的帰納法によって犯人を挙げることが出来るとは思っていなかった。数学的帰納法と言えば、高校の数学の授業で習うものだ。ヨシキはそれをある強盗事件に適応したのだ。
その後も、フーリエ変換や楕円関数などを巧みに使い、ヨシキは犯罪捜査に関わり続けた。今では、非公認ながら捜査一課内でもアドバイザーのような立場になっている。
しかしヨシキの数学の力も完全ではない。これまでにも、ヨシキが解決できなかった事件は数多くある。常に数学が有効だというわけでもないのだ。それでもトミオは、ヨシキに助言を仰がずにはいられないのだが。
トミオは今、ある誘拐事件に関わっている。ヨシキが何か使えそうな数学理論を思いついてくれればいいのだけど。
僕は、流体力学とベイズ推定を使って、警察の刑事捜査を分析している。警察という組織が、いかにして犯罪を捜査していくのかということを、数学的に解析しているのだ。これまでにも、充分成果は上がっている。警察が想定する仮説への信頼度の重み判定、証拠に対する重要度のランク付け、事件規模に応じた初動捜査人数の推定、状況に応じた警察官のミスの発生確率などなど。これらの数字を日々着実に積み上げている。
僕の目標は、数学を使って完全犯罪を行うことだ。例えば、殺人事件を犯して捕まらない確率を80%以上にするにはどうすればいいか、というようなことを日々考えている。
実際、これらの情報を元に、いくつか細かな事件を起こしている。通行人にナイフで切りつけたり、スーパーからちょっと金を盗むと言ったようなことだが、やはり数学の威力は素晴らしい。これまで起こしたどの事件でも、警察は犯人、つまり僕に行き着くことは出来なかった。兄のトミオはそうした事件について助言を求めてきたが、もちろん手助けすることはなかった。
数学で完全犯罪を目指す。これほどスリリングなことはないだろう。
一銃「犯罪と数学」
一応書いておきますが、上で書いたような「数学的帰納法」「フーリエ変換」「楕円関数」なんかでは、ほぼ間違いなく犯罪捜査は出来ないと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、そのタイトルの通り、犯罪捜査にいかに数学が使われているか、という話を具体的に記した本です。
本書が描かれた経緯はこうです。
アメリカでは、「NUMB3RS」(邦題は「NUMBERS:天才数学者の事件ファイル」)というドラマが放映されている(あるいは放映されていた)んですけど、本作はそのドラマで使われている数学について主に解説している作品です。著者は、「NUMB3RS」というドラマがベースにしている数学の話は非常に現実的であるのに、「ドラマで使われている数学は本当にありえるのか?」という質問をよくされたり、あるいは視聴者がドラマで使われている数学にあまり興味がないようだという状況が残念で、それが動機で本書を書いた、とのことです。この「NUMB3RS」というドラマは、日本で言う「ガリレオ」みたいなドラマなんでしょうね。「ガリレオ」の場合は数学じゃなくて物理ですけど、展開は恐らく似たようなものでしょう。
しかしアメリカというのはすごいドラマを作るものですね。「数学をメインに刑事事件を解決するドラマ」なんて、なかなか思いつかないと思います。「ガリレオ」のように、物理を駆使してっていうのはまだ想像出来るんですけどね。ただ「ガリレオ」と明らかに違う点が一つあります。「ガリレオ」の場合は、犯罪者の方がある物理的な手法で犯罪を犯し、それを福山が解き明かす、というやり方ですが、「NUMB3RS」の方は、犯罪者は別に数学的な知識を使って犯罪を犯すわけではなく、普通の(と言ってはおかしいですが)犯罪者です。それを、数学者が数学を使って追い詰めるというわけです。なので、リアリティという面では「NUMB3RS」の方が圧倒的ですね。実際ドラマでは、現実の事件をベースにしたものも数多くあるようですからね。
というわけで、読み始めたわけですけど、正直なところ思ったよりつまらない作品でした。これは考えるに、本作で使われている数学に僕があまり興味を持てなかった、ということなんだと思います。
もし本作が、「リーマン仮説」「数学的帰納法」「三平方の定理」「フーリエ変換」みたいな、純粋数学のジャンルで事件を解決する、という話だったらかなり面白かったと思うんです(まあ普通に考えればそんなことはありえないんですけどね)。でも本作では、統計のような純粋数学とは言い切れないジャンルや、あるいは確率のような僕自身が苦手なジャンルが結構たくさん出てきて、そういう意味で本作で扱われている数学理論にそこまで興味がもてなかったのだろうと思います。もちろん、現実に数学で刑事事件を解決しようとしたらこういう話になるのだろうと思うんだけど、だったら「NUMBRS」ってドラマを見ている方が面白いかもしれないと思ったりはしました。
本作でとにかく面白くて素晴らしいと感じたのは、第一章だけですね。この第一章は素晴らしいと思いました。なので詳しく内容について触れるのは第一章だけにしようと思います。
第一章は地理的プロファイリングについての話です。本作では、とある強姦殺人が例に取られています。
地図上に、これまでに起きた連続強姦殺人の発生場所がプロットされている。そこで刑事のドンは、弟で数学者であるチャーリーに、次にどこで犯罪が起こるかわかるだろうか、と聞く。
チャーリーはしばらく考え、そして答える。次にどこで犯罪が起こるのかはわからない。けど恐らく、犯人がどこに住んでいるのかなら、数学を使えば分かると思う。
これが第一章の話の骨子で、地理的プロファイリングの威力である。
第一章には、とある数式が出てくる(ここには到底書けないほど複雑な数式だ)。その数式に必要な情報を組み込んでやる。するとあら不思議、犯人が住んでいると思われる地域の確率が出てくるのである。
これはキム・ロスモという元刑事だった男が実際に編み出した数式で、犯罪捜査で各国で使われているシステムである。犯行現場のプロットから犯人の住んでいる場所について分かるというのは荒唐無稽かもしれないけど、でもこの方程式は素晴らしい成果を挙げているんだそうである。これは僕の苦手な確率に関わる問題だけど、それが厳密に数式できちんと表されているというのが素晴らしいと思ったし、何しろ実際の犯罪を見事に解決する(本作で取り上げられている数学的知識には、容疑者として挙げられた人間が本当に犯罪を犯したのかどうかを確かめるために数学が使われるという内容も多い)という点で、とにかく素晴らしいと思いました。
他にも興味深いものは多少あったけど、概念が難しかったり、実際に犯人を見つけ出すためのものではなかったりして、第一章に匹敵するようなものはないですね。他の話は、統計や確率がいかに嘘をつく(というか嘘をついているように見えるか)という話や、指紋はどこまで信頼できるのか、カジノの必勝法、未来を予測するベイズ推論や暗号なんかの話が載っています。
僕としては、現実からかけ離れていてもいいから、「数学的帰納法」や「三平方の定理」を駆使して犯人を追い詰める話を読んでみたいなと思いました。本書は、実際に犯罪捜査にどんな数学が使われているのかという興味で読むのはいいと思いますが、純粋な数学的興味から読むとちょっと違ったかもという感じになるかもしれません。やっぱり僕は、現実には何の役にも立たない純粋数学の方が面白いなと思います。
キース・デブリン+ゲーリー・ローデン「数学で犯罪を解決する」
狼と香辛料Ⅶ Side Colors(支倉凍砂)
学会の会場というのは、どこも似たような雰囲気だ。毎回同じメンバーで集う、ほとんど会議と言った方が正しいようなものでも、学会と名前をつければそう見えるものだからなかなかのものだ。
今日は15年来の研究の成果が発表される場だ。人間の脳や成長の仕組みに何か近づけるヒントが提示されるかもしれない。この15年というもの、まったく成果を発表しなかったロードンにはまったく飽きれるが、しかし奴の秘密主義は今に始まったことではない。
メンバーが着々と席につく。ロードンの姿はまだない。いつも余裕を持ってやってくるやつにしては珍しいと思った。
と思っていると、見慣れない女性が会場に入ってきた。20過ぎに見える、まだ女の子と言ってもいいような女性だ。これまで男ばかりだった学会では異質な存在。周りのメンバーも、これは誰だと目で言い合っている。しかし、結局誰もそれについて口を開くことなく、学会は始まった。
進行役であるトマソンは、諸事情によりロードンが来られなくなったこと、そして代わりに先ほどの女性が結果を報告することが告げられた。とすると彼女は、ロードンの研究を手伝ったりしていたのだろうか。
「初めまして、クラリド・ローレントンです」
彼女はそう名乗って、そして間髪入れずに本題に入った。
「私は今日、ロードンの代理として、『リンゴの樹』計画の結果を報告いたします」
15年前に始まった『リンゴの樹』計画。それはあまりに非人道的であり、倫理的に許されないものだった。
生まれたばかりの赤ん坊を、パソコンが一台あるきりの部屋に隔離する。
簡単に言ってしまえばそれだけの実験だ。人間の脳がいかにして成長するのか、パソコンだけで言語の習得は可能なのか、環境によってどのような変化がもたらされるのか。これまで謎だった多くの疑問に、その結果が答えを出してくれるに違いない、と期待されている。
彼女は実験の設定や境界条件、年月による環境劣化やその対処などについて述べてから、被験者の成長段階を四つに分け、流暢に説明を始めていた。
彼女の説明は驚くほど微に入り細に入りという感じで、まるで見てきたかのように語るのだった。もちろん、ロードンの助手のような立場であったなら、被験者の様子を見ることもあったろう。しかし、彼女の年齢が20代前半とすれば、実験開始の段階ではまだ10歳にも届かない。まさかそんな頃から手伝っていたわけもなく、その淀みのない説明にただただ舌を巻かれる思いだった。
そういえばロードンは、被験者をどうやって確保したのだったろうか。15年前の会議では、金で幼子を買う、ということになっていたと思ったが。
そんな回想をしている内にどんどん話は進んでいたようだ。まあ聞き逃した部分は、後でレポートでも読めばいい。話は、被験者が第四段階、年齢にして15歳、つまりつい最近の話に移っていた。
「…被験者は、非言語コミュニケーション、すなわち身振り手振りなども習得しました。これはほとんど、映画やアニメによる効果だろうと推察されます。
しばらくして被験者は、自分が閉じ込められている空間そのものに疑問を抱くようになったようです。自分のいる環境と、映画やアニメの登場人物がいる環境との差異に、ようやく目を向けるようになりました」
相変わらず、彼女の説明は淀みない。そういえばロードンの諸事情というのはなんだろう。どうも今日はあちこち思考が飛んでよくない。
「自分が理不尽な環境にいると確信を持った被験者は、徐々に計画を練り始めます」
計画?何の話だそれは。
「まずはここから脱出しなくてはいけない。そこで被験者は食事の際使っていたフォークでロードンとメラミを刺し殺しました」
メラミはロードンの妻だ。ロードンとメラミを刺し殺した?一体何を言っているのだ。理解が追いつかない。
「その後被験者は、自らが実験台であったことを知り、その研究成果を貪るようにして読みました。過去の彼らの会話から判断し、彼らはより大きな組織に属し、その指示でこの実験を行った、と判断しました」
その組織とは恐らくここにいるメンバーのことだろう。周囲がざわめく。もしや。
「そこで被験者は、自らを15年間を閉じ込めた組織に復讐をすべく、学会に乗り込んだのでした」
見ると彼女の手には、拳銃が握られていた。
一銃「実験」
自画自賛ですが、今日のショートショートはそこそこ出来がいいような気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、<狼と香辛料>シリーズの第七作目ですが、六巻からの続きというわけではなく、初の短編集となっています。冒頭の中編「少年と少女と白い花」は、ホロがロレンスと出会う前の旅中の出来事を描いたもの、「リンゴの赤、空の青」はロレンスとホロの買い物風景を描いたもので、この二作は電撃hpに掲載されたものです。
最後に「狼と琥珀色の憂鬱」という書き下ろし作品があります。これは、シリーズ初、ホロ視点で描かれるものです。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
「少年と少女と白い花」
とある村に住んでいたクラスとアリエスは、突然住んでいた場所を追われてしまう。領主様が旅の途中で亡くなったらしく、その弟だという人がほとんどの人を追い出してしまったのだ。
海に行く。
ただそれだけを目標に、二人は歩き続けた。村を出る時に渡された食料はすぐに尽きてしまうかもしれない。でも、海に行けば魚がいるという。なら何とか生きていくことは出来るだろう。
ずっと建物の中にいて世の中のことをまるで知らないアリエスに世界の広さを教えつつ、クラス自身もその世界の広さに圧倒されそうだった。
野宿の際、狼に襲われそうになったその次の日、唐突に一人の女性が目の前に現れた。
獣の耳と尻尾を持つ、ホロと名乗る女性。
ホロはクラスを散々からかいながら、二人の旅路を心配して旅に同行してくれるというのだけど…。
「リンゴの赤、空の青」
港町パッツィオでホロは、山のようなリンゴを買い喘いでいる。意地でも一人で食べきる、と言ってヒイヒイ言っているのだ。
そんなホロに、修道女の姿では不都合な時もある、と言い訳をして、ロレンスは服を買ってやることにした。
「狼と琥珀色の憂鬱」
ホロはすこぶる体調が悪い。どうもおかしい。酒などまだほとんど飲んでいないのだ。
しかしここで倒れるわけにはいかない。今は祝宴の場。そんな雰囲気を壊してはいけないことぐらい分かる。
しかもテーブルには、天敵である羊飼いのノーラがいるのだ。ここは敵地だ。弱みを見せることなどできない。なんとか耐え抜かなければ。
しかし結局ぶっ倒れてしまったホロは、ロレンスの看病を受けることになる。あの手この手で甘えてやろうとするのだが、ロレンスの鈍さにはほとほと困ってしまう…。
というような話です。
短編集だとは思わずに買いましたけど、これはこれでなかなか良かったかなと思います。
冒頭の「少年と少女と白い花」は短編というより中編という感じですが、ロレンス以外の人間からホロを見るというのもなかなか面白いものだな、と思いました。ホロは相変わらずホロなんですけど、からかわれるクラスの反応が面白いし、ホロが仕掛けるいろんな悪戯がまたくだらなくていいですね。それでいて、おせっかい。
物事を全然知らないアリエスという少女も、なかなかいい味を出していたと思います。何せ、早く歩こうとクラスがアリエスに、お昼までにあの丘に行こう、と約束をします。しかしその約束は、アリエスが花や鳥なんかに目を奪われて歩みが遅いために守られることはありません。しかしそこでクラスは、約束が守られなかった、ということでアリエスから説教を食らうわけです。なんと理不尽!しかしアリエスは本気なのだから、どうにもしようがないですけどね。
「リンゴの赤、空の青」は、短い話ではありますけど、このシリーズのもう一つの主軸である経済っぽい話が若干盛り込まれています。ってまあ、ただ服を買うだけの話ですけどね。久々に、両替商のワイズが出てきて、懐かしい感じがしました。そうそう、こんなヤツだったなぁ、って。
「狼と琥珀色の憂鬱」は、やっぱりホロ視点というのがなかなか新鮮でよかったですね。羊と羊飼いと狼、という構造が面白かったです。まあでも、話自体はそんな大したことはないかな、という感じです。
シリーズの小休止、という感じでしょうか。こういうのも僕は嫌いじゃないですね。こういうサイドストーリーをもっと書いてもいいかもしれません。次はじゃあ、ロレンスが行商人を始めた頃の話とか。
まあシリーズを読んでいる人はそれなりに楽しめる作品だと思います。
支倉凍砂「狼と香辛料Ⅶ Side Colors」
今日は15年来の研究の成果が発表される場だ。人間の脳や成長の仕組みに何か近づけるヒントが提示されるかもしれない。この15年というもの、まったく成果を発表しなかったロードンにはまったく飽きれるが、しかし奴の秘密主義は今に始まったことではない。
メンバーが着々と席につく。ロードンの姿はまだない。いつも余裕を持ってやってくるやつにしては珍しいと思った。
と思っていると、見慣れない女性が会場に入ってきた。20過ぎに見える、まだ女の子と言ってもいいような女性だ。これまで男ばかりだった学会では異質な存在。周りのメンバーも、これは誰だと目で言い合っている。しかし、結局誰もそれについて口を開くことなく、学会は始まった。
進行役であるトマソンは、諸事情によりロードンが来られなくなったこと、そして代わりに先ほどの女性が結果を報告することが告げられた。とすると彼女は、ロードンの研究を手伝ったりしていたのだろうか。
「初めまして、クラリド・ローレントンです」
彼女はそう名乗って、そして間髪入れずに本題に入った。
「私は今日、ロードンの代理として、『リンゴの樹』計画の結果を報告いたします」
15年前に始まった『リンゴの樹』計画。それはあまりに非人道的であり、倫理的に許されないものだった。
生まれたばかりの赤ん坊を、パソコンが一台あるきりの部屋に隔離する。
簡単に言ってしまえばそれだけの実験だ。人間の脳がいかにして成長するのか、パソコンだけで言語の習得は可能なのか、環境によってどのような変化がもたらされるのか。これまで謎だった多くの疑問に、その結果が答えを出してくれるに違いない、と期待されている。
彼女は実験の設定や境界条件、年月による環境劣化やその対処などについて述べてから、被験者の成長段階を四つに分け、流暢に説明を始めていた。
彼女の説明は驚くほど微に入り細に入りという感じで、まるで見てきたかのように語るのだった。もちろん、ロードンの助手のような立場であったなら、被験者の様子を見ることもあったろう。しかし、彼女の年齢が20代前半とすれば、実験開始の段階ではまだ10歳にも届かない。まさかそんな頃から手伝っていたわけもなく、その淀みのない説明にただただ舌を巻かれる思いだった。
そういえばロードンは、被験者をどうやって確保したのだったろうか。15年前の会議では、金で幼子を買う、ということになっていたと思ったが。
そんな回想をしている内にどんどん話は進んでいたようだ。まあ聞き逃した部分は、後でレポートでも読めばいい。話は、被験者が第四段階、年齢にして15歳、つまりつい最近の話に移っていた。
「…被験者は、非言語コミュニケーション、すなわち身振り手振りなども習得しました。これはほとんど、映画やアニメによる効果だろうと推察されます。
しばらくして被験者は、自分が閉じ込められている空間そのものに疑問を抱くようになったようです。自分のいる環境と、映画やアニメの登場人物がいる環境との差異に、ようやく目を向けるようになりました」
相変わらず、彼女の説明は淀みない。そういえばロードンの諸事情というのはなんだろう。どうも今日はあちこち思考が飛んでよくない。
「自分が理不尽な環境にいると確信を持った被験者は、徐々に計画を練り始めます」
計画?何の話だそれは。
「まずはここから脱出しなくてはいけない。そこで被験者は食事の際使っていたフォークでロードンとメラミを刺し殺しました」
メラミはロードンの妻だ。ロードンとメラミを刺し殺した?一体何を言っているのだ。理解が追いつかない。
「その後被験者は、自らが実験台であったことを知り、その研究成果を貪るようにして読みました。過去の彼らの会話から判断し、彼らはより大きな組織に属し、その指示でこの実験を行った、と判断しました」
その組織とは恐らくここにいるメンバーのことだろう。周囲がざわめく。もしや。
「そこで被験者は、自らを15年間を閉じ込めた組織に復讐をすべく、学会に乗り込んだのでした」
見ると彼女の手には、拳銃が握られていた。
一銃「実験」
自画自賛ですが、今日のショートショートはそこそこ出来がいいような気がします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、<狼と香辛料>シリーズの第七作目ですが、六巻からの続きというわけではなく、初の短編集となっています。冒頭の中編「少年と少女と白い花」は、ホロがロレンスと出会う前の旅中の出来事を描いたもの、「リンゴの赤、空の青」はロレンスとホロの買い物風景を描いたもので、この二作は電撃hpに掲載されたものです。
最後に「狼と琥珀色の憂鬱」という書き下ろし作品があります。これは、シリーズ初、ホロ視点で描かれるものです。
それぞれの内容を紹介しようと思います。
「少年と少女と白い花」
とある村に住んでいたクラスとアリエスは、突然住んでいた場所を追われてしまう。領主様が旅の途中で亡くなったらしく、その弟だという人がほとんどの人を追い出してしまったのだ。
海に行く。
ただそれだけを目標に、二人は歩き続けた。村を出る時に渡された食料はすぐに尽きてしまうかもしれない。でも、海に行けば魚がいるという。なら何とか生きていくことは出来るだろう。
ずっと建物の中にいて世の中のことをまるで知らないアリエスに世界の広さを教えつつ、クラス自身もその世界の広さに圧倒されそうだった。
野宿の際、狼に襲われそうになったその次の日、唐突に一人の女性が目の前に現れた。
獣の耳と尻尾を持つ、ホロと名乗る女性。
ホロはクラスを散々からかいながら、二人の旅路を心配して旅に同行してくれるというのだけど…。
「リンゴの赤、空の青」
港町パッツィオでホロは、山のようなリンゴを買い喘いでいる。意地でも一人で食べきる、と言ってヒイヒイ言っているのだ。
そんなホロに、修道女の姿では不都合な時もある、と言い訳をして、ロレンスは服を買ってやることにした。
「狼と琥珀色の憂鬱」
ホロはすこぶる体調が悪い。どうもおかしい。酒などまだほとんど飲んでいないのだ。
しかしここで倒れるわけにはいかない。今は祝宴の場。そんな雰囲気を壊してはいけないことぐらい分かる。
しかもテーブルには、天敵である羊飼いのノーラがいるのだ。ここは敵地だ。弱みを見せることなどできない。なんとか耐え抜かなければ。
しかし結局ぶっ倒れてしまったホロは、ロレンスの看病を受けることになる。あの手この手で甘えてやろうとするのだが、ロレンスの鈍さにはほとほと困ってしまう…。
というような話です。
短編集だとは思わずに買いましたけど、これはこれでなかなか良かったかなと思います。
冒頭の「少年と少女と白い花」は短編というより中編という感じですが、ロレンス以外の人間からホロを見るというのもなかなか面白いものだな、と思いました。ホロは相変わらずホロなんですけど、からかわれるクラスの反応が面白いし、ホロが仕掛けるいろんな悪戯がまたくだらなくていいですね。それでいて、おせっかい。
物事を全然知らないアリエスという少女も、なかなかいい味を出していたと思います。何せ、早く歩こうとクラスがアリエスに、お昼までにあの丘に行こう、と約束をします。しかしその約束は、アリエスが花や鳥なんかに目を奪われて歩みが遅いために守られることはありません。しかしそこでクラスは、約束が守られなかった、ということでアリエスから説教を食らうわけです。なんと理不尽!しかしアリエスは本気なのだから、どうにもしようがないですけどね。
「リンゴの赤、空の青」は、短い話ではありますけど、このシリーズのもう一つの主軸である経済っぽい話が若干盛り込まれています。ってまあ、ただ服を買うだけの話ですけどね。久々に、両替商のワイズが出てきて、懐かしい感じがしました。そうそう、こんなヤツだったなぁ、って。
「狼と琥珀色の憂鬱」は、やっぱりホロ視点というのがなかなか新鮮でよかったですね。羊と羊飼いと狼、という構造が面白かったです。まあでも、話自体はそんな大したことはないかな、という感じです。
シリーズの小休止、という感じでしょうか。こういうのも僕は嫌いじゃないですね。こういうサイドストーリーをもっと書いてもいいかもしれません。次はじゃあ、ロレンスが行商人を始めた頃の話とか。
まあシリーズを読んでいる人はそれなりに楽しめる作品だと思います。
支倉凍砂「狼と香辛料Ⅶ Side Colors」
パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ(ミチオ・カク)
「諸君はこれから、『カミカゼ特空隊』として、人類の存続を掛けた任務をこなしてもらうことになる」
目の前に立つ軍服姿の男は、厳かな声でそう始めた。周囲には様々な人種の人間が、同じ制服を着て並んでいる。皆、『カミカゼ特空隊』に志願した人間だ。
「地球は既に滅亡の危機に瀕している。最新の予測では、あと5年以内に人類は地球上に住めなくなるだろう、と言われている。かつて火星コロニーの建造が急ピッチで進められたことがある。しかしそれも、最終的には実現にはいたらず、打ち捨てられてしまった」
男の言う通り、地球はもはや壊滅的な状況に陥っている。温暖化の影響で、赤道から上下200キロ圏内には人は住めなくなり、また気候の変動が激しすぎるため、東南アジアの一部と日本からは既にほとんどの人間が脱出している。現在では主に、北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸に人口のほとんどが集中している。食料不足や水不足など、他にも様々な問題に見舞われているのだ。
そんな状況の中で、2年前から『カミカゼ特空隊』の応募が開始されるようになった。恒星間移動は実現していないものの、宇宙空間への飛行は比較的容易になり、低予算での実現が可能になった。自分に出来ることがあるなら、と志願したのだ。
「諸君等はこれから、『宇宙の種』を持って宇宙空間へと飛び出してもらう。恐らく『宇宙の種』については知っていることだろう。諸君等が新たな宇宙を生み出してくれることを、我々は大いに期待している」
『宇宙の種』とはその名の通り、新たな宇宙を生み出すためのものだ。その種を持ち、僕らは宇宙空間へと向かう。生命の続く限り出来るだけ地球から遠ざかり、そこでその種を爆発させる(地球の近くでは、その爆発に地球が巻き込まれてしまう可能性があるのだ)。新たな宇宙を生み出すことが出来れば、地球の人類をその宇宙へと移すことが出来るかもしれない、と期待されている。
その爆発によって、搭乗員は死ぬ。かつて日本で行われていた『カミカゼ特攻隊』になぞらえた名前なのも、そのせいだ。
僕らは黙々と宇宙船に乗りこみ、静かに出発する。自分の持っている『宇宙の種』が綺麗に咲いてくれることを願いながら。
「『宇宙の種』開くといいですね」
この出発式に出席していたイタリアの首相だ。私は彼の方を向き、普段なら決して言わない事実を口にしてしまった。
「まあ気休めですよ」
「気休めなんですか?人類を救う最後の手立てだと聞いていましたが」
「そんなことはありえんよ。不確定性原理により、ほんの僅かな可能性があるというくらいで、『宇宙の種』が開くことはあるまいよ」
「じゃあ何故『カミカゼ』を?」
「地球の人口を減らしたいということもあるし、万が一の可能性に賭けているということもある。でもまあ一番の理由は、人々に対して、何かやっているんだというポーズを見せないわけにはいかない、ということかな」
一銃「脱出」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ひも理論の第一人者であり、現代物理学の第一人者と言ってもいいニューヨーク市立大学の教授が、宇宙論について最新のデータ(日本版が2006年1月発行なので、その時点での最新データ)を盛り込みつつ、宇宙論が今どの程度まで進み、どんな議論がなされ、どんな予想が立てられているのか、ということについて、非常に面白く知的好奇心に満ち溢れた文章で綴った作品です。
本作の面白さを説明するために、前に読んだリサ・ランドール(本書ではリサ・ランダルという名前で出てくるけど)の「ワープする宇宙」(以下「ワープ」)という著書と比較してみようと思います。
本書も「ワープ」も、最新の現代物理について紹介しつつ、宇宙の仕組みについて迫るという意味では似ています。しかし両者には大分違いがあります。「ワープ」の方は、実に分かりやすくて面白い教科書、というイメージですが(これは教科書のように堅苦しいという意味ではありません)、本書は読み物として面白い、という感じです。
「ワープ」の方では、現代物理学に関してかなり難しくて深いところまできちんと説明をしよう、としています。量子論や一般性相対性理論の概略を初め、それらの理論には今どんな問題があるのかなどという点についても、非常に具体的に突っ込んで描かれます。「ワープ」を読めば、現代物理学についてどんな流れを辿ってきたのか、そしてそれぞれの理論がどういったものなのかということに関して、非常に具体的に分かるようになります。分かりやすい文章やイメージしやすい比喩などを駆使して、僕みたいな凡人でも理解出来るように描かれています。しかしそれでもやはり、かなり深いところまで突っ込んだ内容なので、多少は物理についての素養がないと、読み通して理解するのは難しいかもしれません。
一方本書では、難しい部分についてはさらっと流す、というやり方をしています。もちろん、様々なことに関してかなり具体的に説明をしています。それぞれの内容について、結構難しい部分もあるでしょう。しかし、それぞれについてそこまで深入りはしていません。
それよりも本書では、現代物理学を使うとこんな面白い可能性が出てくる、あるいはこんな突拍子もない予想が出来る、あるいはこんな未来を空想することが出来る、というような部分に焦点が当てられていきます。本書でも難しい記述はありますが、しかしそれはその後で描かれるそういう空想や予想なんかを理解するために一時必要になるから説明をしている、という印象です。これら、ただ物理学の本を読んでいるだけでは出てこない面白い話(タイムマシン・テレポーテーションは可能か、あるいはブラックホールの中に入ったらどうなるか、未来のテクノロジーではどんなことが可能になるか、もし地球が危機に瀕したら超空間へ逃げ込むことが出来るか、など)を存分に読むことが出来ます。通常こういうタイムマシンや未来のテクノロジーについては、ムー的な怪しげな内容が多くて、そういうのも面白いんでしょうけど、でもやっぱり真面目に検証されたものが読みたいものです。本書では、そういう様々なSF的事象に関して、非常に科学的厳密さを持って検証していて、しかも普通の人には思いつきもしない、あるいは時によっては想像も出来ないような奇抜なアイデアが山のように出てきて、本当に面白いですね。
また本書では、ひも理論についてもかなりいろいろ知ることが出来ます。ひも理論というのは、現代物理学において最も注目されている理論と言ってもいいでしょう。宇宙開闢以来のすべての出来事を説明できる「万物理論」を物理学者は探しているのだけど、「ひも理論」あるいは「M理論」と呼ばれるものが現在ではその唯一の候補として残っているんだそうです。このひも理論というのはまあ難しいんですけど(本当は僕も、難しい、ということさえ理解できないくらいなんですけど)、でも本書ではそういう難しい部分はやっぱりさらっと流して、ひも理論というものがどうして万物理論の唯一の候補なのか、ひも理論というのがどういう風に生まれてきたのか、ひも理論はどういう風に強力なツールであるのか、というようなところを描いているので読んでて面白いですね。
現代物理学の中で最も成功した理論であり、かつこれまで人類が考えてきたどんな理論よりも奇妙な量子論についても、その理論の中ではどんな奇妙な可能性がありえるのか、ということが描かれます。量子はすべてからみあっているだとか(EPRパラドックスに関わる話)、多世界解釈とか(これは本当に面白い。もしかしたら実験によって並行世界の存在が検出できるかもしれない、らしい)、そういうトンデモ本に書かれそうな話が実際の理論からいかにして導き出されるのか、ということがわかりやすく書かれています。
話を戻すと、そういう意味で、「ワープ」は非常にレベルが高くしかも分かりやすい教科書として評価できるけど、本作は物理の素養がそんなになくても楽しめる読み物として評価できます。実際本作は、物理の素養がさほどなくても十分楽しめる内容だと思います。
まあこんなことをグダグダ書いていても仕方ないので、本作中で僕が面白いと思ったことに関して以下でいろいろ抜き出して書いてみようと思います。
まずWMAPという探査衛星が見つけてきた事実。これまで宇宙は、僕らが知っている物質(原子などから出来ている山とか銀河とかそういうの)で出来ていると考えられてきたのだけど、実際はそういう僕らが知っている物質は、宇宙の全エネルギーのたった4%(しかもそのほとんどが水素かヘリウムであり、重い元素はたった0.03%)に過ぎないらしいです。残りの96%は何かと言えば、そのうちの23%が「ダークマター」、73%が「ダークエネルギー」という、今のところまったくその存在について理解出来ていない物質なんだそうです。
しかしこの「ダークマター」「ダークエネルギー」に関しては、面白い仮説があります。ひも理論により、もしかしたら並行世界が僕らの住んでいる宇宙からたった1ミリ離れたところにあるかもしれないらしいです。もしそうだとすれば、その並行世界にあるエネルギーこそが、「ダークマター」あるいは「ダークエネルギー」かもしれない、ということです。
かつて天文学には、「オルバースのパラドックス」と呼ばれるものがありました。宇宙には無限に星があるのに、どうして宇宙は暗いのか、という問題ですが、なんとその謎を初めて解き明かしたのは、アメリカの怪奇小説作家であるエドガー・アラン・ポーだったそうです。
また、宇宙創成時に原子がすべて一つに集まって「超原子」として存在していたというアイデアを最初にしたのも、エドガー・アラン・ポーだったようです。
相対性理論というのは、とにかく僕らの常識に反する振る舞いばかりする理論なのだけど、そのについて本作ではこんな風に書かれています。
『(前略)要するにわれわれはの常識は、地球という、宇宙のなかでも非常に珍しい一角で育まれたものなのだ。だから常識で現実の宇宙を把握できなくても不思議ではない。問題は、相対性理論にあるのではなく、われわれの常識が現実を表していると考えるところにある』
量子論には「観測問題」というのがあって、これは波の波動関数が人間の『観測』によって収束する、というものでした。これに対しシュレディンガーは、有名な「シュレディンガーの猫」を持ち出して反論をします。詳しい説明は避けますが、要するに箱の中で猫が<生きている状態>と<死んでいる状態>が交じり合っている状態などというのはありえない、と主張しました。
でもこれは、「干渉性の消失」という考えで理解出来るようになったようです。猫が<生きている状態>と<死んでいる状態>が同時に存在するには、それぞれの波動関数がほとんど同期した状態(干渉状態)になくてはならないのだけど、しかしこの干渉状態は環境と相互作用することで消失してしまうんだそうです。この環境との相互作用というのは、たった一つの宇宙線がぶつかるだけでも乱されてしまうので、結局二つの状態が合わさった状態になることはありえない、ということのようです。
量子力学的解釈をすると、僕らはありとあらゆる並行世界と同時に存在しているわけです。つまり、僕が今こうしてキーボードを叩いている部屋の中にも、恐竜が跋扈している世界や、今まさにビッグバンが起こっている世界が共存しているわけです。しかしそれらは僕には見えません。そこで先ほど書いた干渉性の消失というのが利いてきます。あらゆる世界の波動状態は、干渉性の消失により接触出来ず、僕らは今認識しているこの世界にしか関わることが出来ないわけです。
これをある科学者はラジオに例えました。ラジオの電波は僕らの周囲にたくさん飛び交っている。しかしラジオをつけると、一度に一つの周波数の電波しか聞こえてこない。他の周波数は干渉性を失い、磯が一致しなくなっている。僕らはこのラジオと同じように、物理的な現実に対応する周波数を「受信」しているのである。
これは非常に分かりやすい例えだなと思いました。
量子コンピューターというのもがちょっと前から言われています。僕はこの原理がイマイチよくわからなくて、本作を読んでもイマイチよくわからないんだけど、何となく分かりました。
つまりこういうことのようです。
僕らは並行世界を行き来することは出来ないのですが、原子一つであれば、あちこちの並行世界を行き来することが可能です。つまり量子コンピューターというのは、可能なすべての並行世界での計算をすべて足し合わせる、ということのようです。だから、普通のコンピューターでやっていたらものすごい時間が掛かる計算も、量子コンピューターでは一瞬で出来てしまうのだそうです。
量子テレポーテーションというのが現実に実験で確認されているようです。テレポーテーションというのはつまり、ある物体を別の場所に瞬間移動させることです。これは、リンゴのような大きさのものではほぼ不可能だろうといわれていますが、今のところ原子一つ程度であればテレポーテーションは可能なんだそうです。
この原理は、量子論を最後まで否定し続けたアインシュタインが、量子論の矛盾を指摘するために考えた仮想実験によるパラドックスが用いられます。これは、EPRパラドックスと呼ばれるもので、詳しいことは、僕が前に書いた「量子力学の解釈問題」という感想の中に書いたのでそれを読んでください。
実際に量子テレポーテーションはこのように行うそうです。
まずABCという三つの物体を用意します。BとCが絡み合うペアです(EPRパラドックスにより、物体はすべて量子的に絡み合っていると解釈するしかなくなるのだそうです。これにより、情報が光速以上のスピードで伝わっているように見えます)。それらは遠く離れてもなお絡み合っている。ここでBを、テレポートされる物体Aと接触させる。BがAを「スキャンする」と、Aに収められている情報がBに伝わる。するとその情報は、BとペアをなすCにも自動的に伝わる。こうしてCはAの正確なレプリカになる、ということのようです。
地球がいかに、人類がうまれるべくして「設計されている」ように見えるかという話。実際、ありとあらゆるデータがほんのわずかでも狂っていたら、人類は生まれてこなかっただろう、と言われている。本作で書かれているものを挙げてみる。
・地球の太陽からの位置
・月の大きさ
・木星の大きさ
・地球の大きさ
・太陽系の惑星の軌道
・太陽系と銀河中心との距離
・陽子の寿命
・「強い力」の強さ
・「弱い力」の強さ
などなどであり、これらがどれもほんの僅かでも異なっていれば、人類が生まれることはなかっただろう、と言われている。ここから、人間原理の発想が生まれるようだけど、僕はやっぱりマルチバース、つまり多宇宙という発想の方がしっくりくる。造物主が人間を生み出すためにあらゆる環境を整えたと考える人間原理より、宇宙には様々に条件の違う宇宙がたくさんあり、僕らが生きているこの宇宙はたまたま人間が生まれるだけの環境を備えていた、と考える方が無理がない。
ある科学者は、宇宙は六つの数字に支配されていると指摘した。その六つの数がほんの僅かでもずれていたら、人類は生まれなかったらしい。
以下その六つを挙げる。
・εの値(εが何の数字かは、説明がめんどい)=0.007
これが、0.008でも0.006でも人類は生まれなかったらしい。
・N(重力がどれだけ弱いか、という数字)=10の36乗
・Ω(宇宙の相対密度)
Ωは、ビッグバンの1秒後に、Ωは1から1兆分の1もずれてはいけない、というほどの精度が求められるんだそうです。
・λ(宇宙定数)
・Q(Qが何の数字かはよくわからない)=10の-5乗
・D(空間次元)=3
三次元というのは何かと都合がいいらしい。
僕らが生きている宇宙というのは、これほどまでに精密に調整されているらしい。確かにまあこれだけ見たら、神の存在を仮定したくなるのも分かるかも。
というわけで、物理学の素養がそこまでない人でも十分楽しめる作品です。是非読んでみてください。これは面白いですよ、ホントに。「ワープする宇宙」と本書は、これまで読んだ理系本の中でも、ずば抜けてトップクラスの二作だと思います。
ミチオ・カク「パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ」
目の前に立つ軍服姿の男は、厳かな声でそう始めた。周囲には様々な人種の人間が、同じ制服を着て並んでいる。皆、『カミカゼ特空隊』に志願した人間だ。
「地球は既に滅亡の危機に瀕している。最新の予測では、あと5年以内に人類は地球上に住めなくなるだろう、と言われている。かつて火星コロニーの建造が急ピッチで進められたことがある。しかしそれも、最終的には実現にはいたらず、打ち捨てられてしまった」
男の言う通り、地球はもはや壊滅的な状況に陥っている。温暖化の影響で、赤道から上下200キロ圏内には人は住めなくなり、また気候の変動が激しすぎるため、東南アジアの一部と日本からは既にほとんどの人間が脱出している。現在では主に、北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸に人口のほとんどが集中している。食料不足や水不足など、他にも様々な問題に見舞われているのだ。
そんな状況の中で、2年前から『カミカゼ特空隊』の応募が開始されるようになった。恒星間移動は実現していないものの、宇宙空間への飛行は比較的容易になり、低予算での実現が可能になった。自分に出来ることがあるなら、と志願したのだ。
「諸君等はこれから、『宇宙の種』を持って宇宙空間へと飛び出してもらう。恐らく『宇宙の種』については知っていることだろう。諸君等が新たな宇宙を生み出してくれることを、我々は大いに期待している」
『宇宙の種』とはその名の通り、新たな宇宙を生み出すためのものだ。その種を持ち、僕らは宇宙空間へと向かう。生命の続く限り出来るだけ地球から遠ざかり、そこでその種を爆発させる(地球の近くでは、その爆発に地球が巻き込まれてしまう可能性があるのだ)。新たな宇宙を生み出すことが出来れば、地球の人類をその宇宙へと移すことが出来るかもしれない、と期待されている。
その爆発によって、搭乗員は死ぬ。かつて日本で行われていた『カミカゼ特攻隊』になぞらえた名前なのも、そのせいだ。
僕らは黙々と宇宙船に乗りこみ、静かに出発する。自分の持っている『宇宙の種』が綺麗に咲いてくれることを願いながら。
「『宇宙の種』開くといいですね」
この出発式に出席していたイタリアの首相だ。私は彼の方を向き、普段なら決して言わない事実を口にしてしまった。
「まあ気休めですよ」
「気休めなんですか?人類を救う最後の手立てだと聞いていましたが」
「そんなことはありえんよ。不確定性原理により、ほんの僅かな可能性があるというくらいで、『宇宙の種』が開くことはあるまいよ」
「じゃあ何故『カミカゼ』を?」
「地球の人口を減らしたいということもあるし、万が一の可能性に賭けているということもある。でもまあ一番の理由は、人々に対して、何かやっているんだというポーズを見せないわけにはいかない、ということかな」
一銃「脱出」
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ひも理論の第一人者であり、現代物理学の第一人者と言ってもいいニューヨーク市立大学の教授が、宇宙論について最新のデータ(日本版が2006年1月発行なので、その時点での最新データ)を盛り込みつつ、宇宙論が今どの程度まで進み、どんな議論がなされ、どんな予想が立てられているのか、ということについて、非常に面白く知的好奇心に満ち溢れた文章で綴った作品です。
本作の面白さを説明するために、前に読んだリサ・ランドール(本書ではリサ・ランダルという名前で出てくるけど)の「ワープする宇宙」(以下「ワープ」)という著書と比較してみようと思います。
本書も「ワープ」も、最新の現代物理について紹介しつつ、宇宙の仕組みについて迫るという意味では似ています。しかし両者には大分違いがあります。「ワープ」の方は、実に分かりやすくて面白い教科書、というイメージですが(これは教科書のように堅苦しいという意味ではありません)、本書は読み物として面白い、という感じです。
「ワープ」の方では、現代物理学に関してかなり難しくて深いところまできちんと説明をしよう、としています。量子論や一般性相対性理論の概略を初め、それらの理論には今どんな問題があるのかなどという点についても、非常に具体的に突っ込んで描かれます。「ワープ」を読めば、現代物理学についてどんな流れを辿ってきたのか、そしてそれぞれの理論がどういったものなのかということに関して、非常に具体的に分かるようになります。分かりやすい文章やイメージしやすい比喩などを駆使して、僕みたいな凡人でも理解出来るように描かれています。しかしそれでもやはり、かなり深いところまで突っ込んだ内容なので、多少は物理についての素養がないと、読み通して理解するのは難しいかもしれません。
一方本書では、難しい部分についてはさらっと流す、というやり方をしています。もちろん、様々なことに関してかなり具体的に説明をしています。それぞれの内容について、結構難しい部分もあるでしょう。しかし、それぞれについてそこまで深入りはしていません。
それよりも本書では、現代物理学を使うとこんな面白い可能性が出てくる、あるいはこんな突拍子もない予想が出来る、あるいはこんな未来を空想することが出来る、というような部分に焦点が当てられていきます。本書でも難しい記述はありますが、しかしそれはその後で描かれるそういう空想や予想なんかを理解するために一時必要になるから説明をしている、という印象です。これら、ただ物理学の本を読んでいるだけでは出てこない面白い話(タイムマシン・テレポーテーションは可能か、あるいはブラックホールの中に入ったらどうなるか、未来のテクノロジーではどんなことが可能になるか、もし地球が危機に瀕したら超空間へ逃げ込むことが出来るか、など)を存分に読むことが出来ます。通常こういうタイムマシンや未来のテクノロジーについては、ムー的な怪しげな内容が多くて、そういうのも面白いんでしょうけど、でもやっぱり真面目に検証されたものが読みたいものです。本書では、そういう様々なSF的事象に関して、非常に科学的厳密さを持って検証していて、しかも普通の人には思いつきもしない、あるいは時によっては想像も出来ないような奇抜なアイデアが山のように出てきて、本当に面白いですね。
また本書では、ひも理論についてもかなりいろいろ知ることが出来ます。ひも理論というのは、現代物理学において最も注目されている理論と言ってもいいでしょう。宇宙開闢以来のすべての出来事を説明できる「万物理論」を物理学者は探しているのだけど、「ひも理論」あるいは「M理論」と呼ばれるものが現在ではその唯一の候補として残っているんだそうです。このひも理論というのはまあ難しいんですけど(本当は僕も、難しい、ということさえ理解できないくらいなんですけど)、でも本書ではそういう難しい部分はやっぱりさらっと流して、ひも理論というものがどうして万物理論の唯一の候補なのか、ひも理論というのがどういう風に生まれてきたのか、ひも理論はどういう風に強力なツールであるのか、というようなところを描いているので読んでて面白いですね。
現代物理学の中で最も成功した理論であり、かつこれまで人類が考えてきたどんな理論よりも奇妙な量子論についても、その理論の中ではどんな奇妙な可能性がありえるのか、ということが描かれます。量子はすべてからみあっているだとか(EPRパラドックスに関わる話)、多世界解釈とか(これは本当に面白い。もしかしたら実験によって並行世界の存在が検出できるかもしれない、らしい)、そういうトンデモ本に書かれそうな話が実際の理論からいかにして導き出されるのか、ということがわかりやすく書かれています。
話を戻すと、そういう意味で、「ワープ」は非常にレベルが高くしかも分かりやすい教科書として評価できるけど、本作は物理の素養がそんなになくても楽しめる読み物として評価できます。実際本作は、物理の素養がさほどなくても十分楽しめる内容だと思います。
まあこんなことをグダグダ書いていても仕方ないので、本作中で僕が面白いと思ったことに関して以下でいろいろ抜き出して書いてみようと思います。
まずWMAPという探査衛星が見つけてきた事実。これまで宇宙は、僕らが知っている物質(原子などから出来ている山とか銀河とかそういうの)で出来ていると考えられてきたのだけど、実際はそういう僕らが知っている物質は、宇宙の全エネルギーのたった4%(しかもそのほとんどが水素かヘリウムであり、重い元素はたった0.03%)に過ぎないらしいです。残りの96%は何かと言えば、そのうちの23%が「ダークマター」、73%が「ダークエネルギー」という、今のところまったくその存在について理解出来ていない物質なんだそうです。
しかしこの「ダークマター」「ダークエネルギー」に関しては、面白い仮説があります。ひも理論により、もしかしたら並行世界が僕らの住んでいる宇宙からたった1ミリ離れたところにあるかもしれないらしいです。もしそうだとすれば、その並行世界にあるエネルギーこそが、「ダークマター」あるいは「ダークエネルギー」かもしれない、ということです。
かつて天文学には、「オルバースのパラドックス」と呼ばれるものがありました。宇宙には無限に星があるのに、どうして宇宙は暗いのか、という問題ですが、なんとその謎を初めて解き明かしたのは、アメリカの怪奇小説作家であるエドガー・アラン・ポーだったそうです。
また、宇宙創成時に原子がすべて一つに集まって「超原子」として存在していたというアイデアを最初にしたのも、エドガー・アラン・ポーだったようです。
相対性理論というのは、とにかく僕らの常識に反する振る舞いばかりする理論なのだけど、そのについて本作ではこんな風に書かれています。
『(前略)要するにわれわれはの常識は、地球という、宇宙のなかでも非常に珍しい一角で育まれたものなのだ。だから常識で現実の宇宙を把握できなくても不思議ではない。問題は、相対性理論にあるのではなく、われわれの常識が現実を表していると考えるところにある』
量子論には「観測問題」というのがあって、これは波の波動関数が人間の『観測』によって収束する、というものでした。これに対しシュレディンガーは、有名な「シュレディンガーの猫」を持ち出して反論をします。詳しい説明は避けますが、要するに箱の中で猫が<生きている状態>と<死んでいる状態>が交じり合っている状態などというのはありえない、と主張しました。
でもこれは、「干渉性の消失」という考えで理解出来るようになったようです。猫が<生きている状態>と<死んでいる状態>が同時に存在するには、それぞれの波動関数がほとんど同期した状態(干渉状態)になくてはならないのだけど、しかしこの干渉状態は環境と相互作用することで消失してしまうんだそうです。この環境との相互作用というのは、たった一つの宇宙線がぶつかるだけでも乱されてしまうので、結局二つの状態が合わさった状態になることはありえない、ということのようです。
量子力学的解釈をすると、僕らはありとあらゆる並行世界と同時に存在しているわけです。つまり、僕が今こうしてキーボードを叩いている部屋の中にも、恐竜が跋扈している世界や、今まさにビッグバンが起こっている世界が共存しているわけです。しかしそれらは僕には見えません。そこで先ほど書いた干渉性の消失というのが利いてきます。あらゆる世界の波動状態は、干渉性の消失により接触出来ず、僕らは今認識しているこの世界にしか関わることが出来ないわけです。
これをある科学者はラジオに例えました。ラジオの電波は僕らの周囲にたくさん飛び交っている。しかしラジオをつけると、一度に一つの周波数の電波しか聞こえてこない。他の周波数は干渉性を失い、磯が一致しなくなっている。僕らはこのラジオと同じように、物理的な現実に対応する周波数を「受信」しているのである。
これは非常に分かりやすい例えだなと思いました。
量子コンピューターというのもがちょっと前から言われています。僕はこの原理がイマイチよくわからなくて、本作を読んでもイマイチよくわからないんだけど、何となく分かりました。
つまりこういうことのようです。
僕らは並行世界を行き来することは出来ないのですが、原子一つであれば、あちこちの並行世界を行き来することが可能です。つまり量子コンピューターというのは、可能なすべての並行世界での計算をすべて足し合わせる、ということのようです。だから、普通のコンピューターでやっていたらものすごい時間が掛かる計算も、量子コンピューターでは一瞬で出来てしまうのだそうです。
量子テレポーテーションというのが現実に実験で確認されているようです。テレポーテーションというのはつまり、ある物体を別の場所に瞬間移動させることです。これは、リンゴのような大きさのものではほぼ不可能だろうといわれていますが、今のところ原子一つ程度であればテレポーテーションは可能なんだそうです。
この原理は、量子論を最後まで否定し続けたアインシュタインが、量子論の矛盾を指摘するために考えた仮想実験によるパラドックスが用いられます。これは、EPRパラドックスと呼ばれるもので、詳しいことは、僕が前に書いた「量子力学の解釈問題」という感想の中に書いたのでそれを読んでください。
実際に量子テレポーテーションはこのように行うそうです。
まずABCという三つの物体を用意します。BとCが絡み合うペアです(EPRパラドックスにより、物体はすべて量子的に絡み合っていると解釈するしかなくなるのだそうです。これにより、情報が光速以上のスピードで伝わっているように見えます)。それらは遠く離れてもなお絡み合っている。ここでBを、テレポートされる物体Aと接触させる。BがAを「スキャンする」と、Aに収められている情報がBに伝わる。するとその情報は、BとペアをなすCにも自動的に伝わる。こうしてCはAの正確なレプリカになる、ということのようです。
地球がいかに、人類がうまれるべくして「設計されている」ように見えるかという話。実際、ありとあらゆるデータがほんのわずかでも狂っていたら、人類は生まれてこなかっただろう、と言われている。本作で書かれているものを挙げてみる。
・地球の太陽からの位置
・月の大きさ
・木星の大きさ
・地球の大きさ
・太陽系の惑星の軌道
・太陽系と銀河中心との距離
・陽子の寿命
・「強い力」の強さ
・「弱い力」の強さ
などなどであり、これらがどれもほんの僅かでも異なっていれば、人類が生まれることはなかっただろう、と言われている。ここから、人間原理の発想が生まれるようだけど、僕はやっぱりマルチバース、つまり多宇宙という発想の方がしっくりくる。造物主が人間を生み出すためにあらゆる環境を整えたと考える人間原理より、宇宙には様々に条件の違う宇宙がたくさんあり、僕らが生きているこの宇宙はたまたま人間が生まれるだけの環境を備えていた、と考える方が無理がない。
ある科学者は、宇宙は六つの数字に支配されていると指摘した。その六つの数がほんの僅かでもずれていたら、人類は生まれなかったらしい。
以下その六つを挙げる。
・εの値(εが何の数字かは、説明がめんどい)=0.007
これが、0.008でも0.006でも人類は生まれなかったらしい。
・N(重力がどれだけ弱いか、という数字)=10の36乗
・Ω(宇宙の相対密度)
Ωは、ビッグバンの1秒後に、Ωは1から1兆分の1もずれてはいけない、というほどの精度が求められるんだそうです。
・λ(宇宙定数)
・Q(Qが何の数字かはよくわからない)=10の-5乗
・D(空間次元)=3
三次元というのは何かと都合がいいらしい。
僕らが生きている宇宙というのは、これほどまでに精密に調整されているらしい。確かにまあこれだけ見たら、神の存在を仮定したくなるのも分かるかも。
というわけで、物理学の素養がそこまでない人でも十分楽しめる作品です。是非読んでみてください。これは面白いですよ、ホントに。「ワープする宇宙」と本書は、これまで読んだ理系本の中でも、ずば抜けてトップクラスの二作だと思います。
ミチオ・カク「パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ」