夜行観覧車(湊かなえ)
内容に入ろうと思います。
ひばりヶ丘という、ちょっとした高級住宅地の住む、高橋家・遠藤家・小島家が舞台の物語です。
遠藤家は、癇癪持ちの娘・彩花と、その癇癪に耐える母・真弓と、事なかれ主義の父・啓介の三人。ラッキーがあってひばりヶ丘に家を持てることになって喜んでいた母親とは対称的に、引っ越すことでみんなと同じ中学に行けなくなり、また中学受験にも失敗した彩花は、ちょっとしたことでキレてしまい、家庭内暴力と言えるレベルにまでなっている。そんな娘の横暴に日々耐える真弓だった。
一方、遠藤家の向かいにある高橋家は、遠藤家とは対称的。遠藤家の三倍はある敷地に建つ家では、医者の父親・弘幸と美人の母親・淳子、関西の医大に通う長男・良幸と、彩花が落ちた中学に通う比奈子、優秀な男子校に通う慎司がいる。絵に描いたような幸せな一家だ。
しかしそんな向かいの高橋家からある日、遠藤家の日常のような叫び声が聞こえてくる。どうやら慎司と淳子がやりあっているようだ。まさかあの高橋家で…、と思っていると、なんと救急車と警察がやってきた。
淳子が弘幸を殺害したのだという…。
というような話です。
まあまあ面白かった、というところでしょうか。なんとなく、どこかにもう少しカタルシス的なものがあるのかな、と思って読んでいたんですが、特にそういうわけでもない感じでした。やっぱり「告白」のイメージの強さが、他の作品を読むのに邪魔になっている、というところはあるかと思います。「告白」は傑作だと思うけど、デビュー作であれぐらいの傑作を書いてしまうと、やっぱり作家としてやっていくのは難しくなってしまうだろうな、と思います。
本書は、物語のきっかけこそ『高橋家で起こった殺人事件』ですが、その事件をメインで追っていく、という感じにはなりません。その事件の周辺にいる人達が何を考え、どう行動するのかを追っていく作品です。
ひばりヶ丘という高級住宅地を舞台にしているということ、普段争いの絶えない遠藤家ならともかく、まさかこの家で事件が起こるとは思っていなかった高橋家ででの殺人、高橋家の次男の失踪、学校のレベルや受験に関するコンプレックス、近所付き合いなどなど、いろんな要素が組み合わさって、人々の思考や行動が影響を受けていく過程というのはそれなりに面白いと思いました。
本書を読んで僕は、やっぱり結婚とかありえないよなぁ、とか思いました。結婚したことが遠藤家・高橋家の不幸だった、というわけではないんだけど、とにかく僕は、『不確定要素を増やす』ようなことはしたくないな、と改めて思いました。
人生って、分が悪いギャンブルの連続みたいなものだと思うんです。良い大学を出ても良い人生を送れるか分からないし、結婚をすればすべからく良い家庭が築けるわけでもない。本書のように殺人事件に巻き込まれるかもしれないし、生きていく上で様々な『不幸の入り口』がそこかしこにあるな、という印象があります。
多くの人は、それが分が悪いギャンブルだと思っていない、ということも凄いと思うんです。『結婚をすれば素敵な家庭が築ける』と思っているだろうし、『子供を産めばその子はいい子に育ってくれる』と思っているだろうし、『家を建てれば素晴らしい生活が待っている』と思っているでしょう。
でも、実際は、そんなことはないはずなんです。悪い方に転ぶ可能性もかなりある。僕は、人生ってそういうもんだと思っているけど、恐ろしいのは、多くの人がその『悪い可能性』を頭の中から排除しているように見える、ということなんですね。
僕は、『会社に入って結婚して子供を産んで家を建てて』という、普通の人が普通に憧れる人生に、まるで興味が持てないんです。僕にはそれは、『不確定要素満載の分が悪いギャンブル』にしか見えないんですね。もちろん、あらゆる場面でギャンブルに勝ち残っていけば、『会社に入る→家を建てる』みたいな人生は凄く良いとは思うんです。でも、誰もが全勝ち出来るわけじゃない。それなのに、悪い方に転ぶ可能性には目をつぶって(というか、目をつぶっているという自覚もないだろうけど)、そういうギャンブルに突き進める人っていうのは凄いなと思うんです。
本書の登場人物も、『まさか自分の人生がこんな風になるとは…』と思ったことでしょう。遠藤家、高橋家、そして内容紹介では名前を出せなかったけど小島家のすべての面々が、まさかこんなはずでは…、と思っていることでしょう。
殺人事件に巻き込まれるというのはさすがにちょっと非日常かもしれないけど、殺人までいかなくても、何らかの出来事があって、些細な幸せさえも脅かされてしまう、というのは、僕にはごく当たり前のことだな、と思うんです。そういう可能性に目をつぶっていられる人たちの方が、僕は凄いなと思ってしまうんですけども。
狭い範囲の人間関係が、少しずつ折り重なって、誰かの言動が別の誰かにささやかな影響を与えているという構成は、なかなか巧いと思いました。全体的にちょっとインパクトには欠ける作品かなとは思いましたけど、まあまあ面白いと思います。
あと、装丁が素晴らしいと思いますね。これは、湊かなえの名前を知らなくても、ジャケ買いしてしまいそうな作品だなと思います。表紙のインパクトはかなり強いです。
凄くオススメというわけではないけど、それなりには楽しめる作品だと思います。読んでみてください。
湊かなえ「夜行観覧車」
ひばりヶ丘という、ちょっとした高級住宅地の住む、高橋家・遠藤家・小島家が舞台の物語です。
遠藤家は、癇癪持ちの娘・彩花と、その癇癪に耐える母・真弓と、事なかれ主義の父・啓介の三人。ラッキーがあってひばりヶ丘に家を持てることになって喜んでいた母親とは対称的に、引っ越すことでみんなと同じ中学に行けなくなり、また中学受験にも失敗した彩花は、ちょっとしたことでキレてしまい、家庭内暴力と言えるレベルにまでなっている。そんな娘の横暴に日々耐える真弓だった。
一方、遠藤家の向かいにある高橋家は、遠藤家とは対称的。遠藤家の三倍はある敷地に建つ家では、医者の父親・弘幸と美人の母親・淳子、関西の医大に通う長男・良幸と、彩花が落ちた中学に通う比奈子、優秀な男子校に通う慎司がいる。絵に描いたような幸せな一家だ。
しかしそんな向かいの高橋家からある日、遠藤家の日常のような叫び声が聞こえてくる。どうやら慎司と淳子がやりあっているようだ。まさかあの高橋家で…、と思っていると、なんと救急車と警察がやってきた。
淳子が弘幸を殺害したのだという…。
というような話です。
まあまあ面白かった、というところでしょうか。なんとなく、どこかにもう少しカタルシス的なものがあるのかな、と思って読んでいたんですが、特にそういうわけでもない感じでした。やっぱり「告白」のイメージの強さが、他の作品を読むのに邪魔になっている、というところはあるかと思います。「告白」は傑作だと思うけど、デビュー作であれぐらいの傑作を書いてしまうと、やっぱり作家としてやっていくのは難しくなってしまうだろうな、と思います。
本書は、物語のきっかけこそ『高橋家で起こった殺人事件』ですが、その事件をメインで追っていく、という感じにはなりません。その事件の周辺にいる人達が何を考え、どう行動するのかを追っていく作品です。
ひばりヶ丘という高級住宅地を舞台にしているということ、普段争いの絶えない遠藤家ならともかく、まさかこの家で事件が起こるとは思っていなかった高橋家ででの殺人、高橋家の次男の失踪、学校のレベルや受験に関するコンプレックス、近所付き合いなどなど、いろんな要素が組み合わさって、人々の思考や行動が影響を受けていく過程というのはそれなりに面白いと思いました。
本書を読んで僕は、やっぱり結婚とかありえないよなぁ、とか思いました。結婚したことが遠藤家・高橋家の不幸だった、というわけではないんだけど、とにかく僕は、『不確定要素を増やす』ようなことはしたくないな、と改めて思いました。
人生って、分が悪いギャンブルの連続みたいなものだと思うんです。良い大学を出ても良い人生を送れるか分からないし、結婚をすればすべからく良い家庭が築けるわけでもない。本書のように殺人事件に巻き込まれるかもしれないし、生きていく上で様々な『不幸の入り口』がそこかしこにあるな、という印象があります。
多くの人は、それが分が悪いギャンブルだと思っていない、ということも凄いと思うんです。『結婚をすれば素敵な家庭が築ける』と思っているだろうし、『子供を産めばその子はいい子に育ってくれる』と思っているだろうし、『家を建てれば素晴らしい生活が待っている』と思っているでしょう。
でも、実際は、そんなことはないはずなんです。悪い方に転ぶ可能性もかなりある。僕は、人生ってそういうもんだと思っているけど、恐ろしいのは、多くの人がその『悪い可能性』を頭の中から排除しているように見える、ということなんですね。
僕は、『会社に入って結婚して子供を産んで家を建てて』という、普通の人が普通に憧れる人生に、まるで興味が持てないんです。僕にはそれは、『不確定要素満載の分が悪いギャンブル』にしか見えないんですね。もちろん、あらゆる場面でギャンブルに勝ち残っていけば、『会社に入る→家を建てる』みたいな人生は凄く良いとは思うんです。でも、誰もが全勝ち出来るわけじゃない。それなのに、悪い方に転ぶ可能性には目をつぶって(というか、目をつぶっているという自覚もないだろうけど)、そういうギャンブルに突き進める人っていうのは凄いなと思うんです。
本書の登場人物も、『まさか自分の人生がこんな風になるとは…』と思ったことでしょう。遠藤家、高橋家、そして内容紹介では名前を出せなかったけど小島家のすべての面々が、まさかこんなはずでは…、と思っていることでしょう。
殺人事件に巻き込まれるというのはさすがにちょっと非日常かもしれないけど、殺人までいかなくても、何らかの出来事があって、些細な幸せさえも脅かされてしまう、というのは、僕にはごく当たり前のことだな、と思うんです。そういう可能性に目をつぶっていられる人たちの方が、僕は凄いなと思ってしまうんですけども。
狭い範囲の人間関係が、少しずつ折り重なって、誰かの言動が別の誰かにささやかな影響を与えているという構成は、なかなか巧いと思いました。全体的にちょっとインパクトには欠ける作品かなとは思いましたけど、まあまあ面白いと思います。
あと、装丁が素晴らしいと思いますね。これは、湊かなえの名前を知らなくても、ジャケ買いしてしまいそうな作品だなと思います。表紙のインパクトはかなり強いです。
凄くオススメというわけではないけど、それなりには楽しめる作品だと思います。読んでみてください。
湊かなえ「夜行観覧車」
民宿雪国(樋口毅宏)
内容に入ろうと思います。
本書は、丹生雄武郎という、晩年になって評価され一躍時代の寵児となったとある画家を描いた作品です。
丹生は、新潟で「民宿雪国」という名の民宿を経営していいます。決して繁盛しているとは言えないその民宿を舞台に、いくつかの物語が起きます。それは、画家として評価されるようになってからの丹生の人生からは抹殺された、血に塗れた物語です。
また「民宿雪国」は、昭和史を彩る様々な人間の交点でもありました。僕でも知っているような、昭和史の一大事件が、実はひっそりと「民宿雪国」と関わっている、ということが描かれていきます。
丹生は、突如画家として注目を集め、あれよという間に国民的なスターとなっていきます。語られる彼の経歴は、辛酸を舐めさせられてきた苦労の連続であり、その背景の物語も、丹生をスターにした要因の一つとなります。
しかし、あるきっかけで「民宿雪国」に泊まったことのあるジャーナリストが、丹生の経歴に疑問を抱き、独自に調査を進めると…。
というような話です。内容の紹介のしにくい作品です。
今ちょっとした話題になっている作品で、気になって読んでみました。僕としては、もちろん良い作品だとは思うのだけど、そこまで凄い作品だという感じはしませんでした。
どうしても僕が気になったのは、作品の構成のまとまりのなさです。恐らく、狙ってこういう構成にしているんだろうとは思うんですけど、少なくとも僕には、あまり効果的だとは思えませんでした。
なんというか、バラバラのいくつかの断片みたいな章が無理矢理くっついているような構成で、ちぐはぐな感じがしました。どうしても、これだけの物語・世界観を生み出せるなら、もう少し違った構成の方がよかったんじゃないかなぁ、という気がしてしまうんですね。ちょっとその、章が変わる毎に繋がりがちぐはぐな感じがしてしまって、そこがしっくりこなかったという部分はあります。
物語自体は、なかなか面白いと思いました。丹生という画家の破天荒な人生は読み応えがあるし、虚実入り混じった、何が正しいのかわからなくなるような酩酊感も楽しめました。
丹生という人物は、誰がどの立ち位置から見るかによって姿を変える、万華鏡のような男です。確かにそういう男を描写するのに、あらゆる視点を導入しなくてはいけない、というのは分かるんだけど、でももう少し違った構成がよかったんじゃないか、と思います。
結局、丹生がどんな人生を歩んできたのか、最後までよく分からないまま終わります。そこまでで描かれてきた、様々な丹生の断面が、混じり合うことなく、融合することなく、断面のままたゆたっている感じです。そういう物語の展開はなかなか巧い、と思いました。
あとは、実際に起こった出来事を物語の中に取り入れる、そのやり方がなかなか巧いと思いました。昭和史を代表するような色んな事件が、実は裏で「民宿雪国」と関わっていた、というのはもちろん出来すぎな設定ですけど、物語に組み込むやり方がなかなか巧いので、なるほどそういうことならありえるかもしれない、と思わされます。
という風に、良い点も結構あるんだけど、でもどうしても、これは凄い!と言えない感じなんですよね。僕の好みに合わないだけだとは思うんだけど、高揚する感じがない、というか。凄い作品に出会った!という感じがしないんだなぁ。まあ好みの問題かなとは思うけど。
本書を読んで、久坂部羊の「廃用身」を思い出しました。どちらの作品も、これは本当の話なのか?と思わせるだけの力がある作品だと思います。
僕は、凄く絶賛は出来ないけど、良い作品だとは思います。是非読んでみてください。
樋口毅宏「民宿雪国」
本書は、丹生雄武郎という、晩年になって評価され一躍時代の寵児となったとある画家を描いた作品です。
丹生は、新潟で「民宿雪国」という名の民宿を経営していいます。決して繁盛しているとは言えないその民宿を舞台に、いくつかの物語が起きます。それは、画家として評価されるようになってからの丹生の人生からは抹殺された、血に塗れた物語です。
また「民宿雪国」は、昭和史を彩る様々な人間の交点でもありました。僕でも知っているような、昭和史の一大事件が、実はひっそりと「民宿雪国」と関わっている、ということが描かれていきます。
丹生は、突如画家として注目を集め、あれよという間に国民的なスターとなっていきます。語られる彼の経歴は、辛酸を舐めさせられてきた苦労の連続であり、その背景の物語も、丹生をスターにした要因の一つとなります。
しかし、あるきっかけで「民宿雪国」に泊まったことのあるジャーナリストが、丹生の経歴に疑問を抱き、独自に調査を進めると…。
というような話です。内容の紹介のしにくい作品です。
今ちょっとした話題になっている作品で、気になって読んでみました。僕としては、もちろん良い作品だとは思うのだけど、そこまで凄い作品だという感じはしませんでした。
どうしても僕が気になったのは、作品の構成のまとまりのなさです。恐らく、狙ってこういう構成にしているんだろうとは思うんですけど、少なくとも僕には、あまり効果的だとは思えませんでした。
なんというか、バラバラのいくつかの断片みたいな章が無理矢理くっついているような構成で、ちぐはぐな感じがしました。どうしても、これだけの物語・世界観を生み出せるなら、もう少し違った構成の方がよかったんじゃないかなぁ、という気がしてしまうんですね。ちょっとその、章が変わる毎に繋がりがちぐはぐな感じがしてしまって、そこがしっくりこなかったという部分はあります。
物語自体は、なかなか面白いと思いました。丹生という画家の破天荒な人生は読み応えがあるし、虚実入り混じった、何が正しいのかわからなくなるような酩酊感も楽しめました。
丹生という人物は、誰がどの立ち位置から見るかによって姿を変える、万華鏡のような男です。確かにそういう男を描写するのに、あらゆる視点を導入しなくてはいけない、というのは分かるんだけど、でももう少し違った構成がよかったんじゃないか、と思います。
結局、丹生がどんな人生を歩んできたのか、最後までよく分からないまま終わります。そこまでで描かれてきた、様々な丹生の断面が、混じり合うことなく、融合することなく、断面のままたゆたっている感じです。そういう物語の展開はなかなか巧い、と思いました。
あとは、実際に起こった出来事を物語の中に取り入れる、そのやり方がなかなか巧いと思いました。昭和史を代表するような色んな事件が、実は裏で「民宿雪国」と関わっていた、というのはもちろん出来すぎな設定ですけど、物語に組み込むやり方がなかなか巧いので、なるほどそういうことならありえるかもしれない、と思わされます。
という風に、良い点も結構あるんだけど、でもどうしても、これは凄い!と言えない感じなんですよね。僕の好みに合わないだけだとは思うんだけど、高揚する感じがない、というか。凄い作品に出会った!という感じがしないんだなぁ。まあ好みの問題かなとは思うけど。
本書を読んで、久坂部羊の「廃用身」を思い出しました。どちらの作品も、これは本当の話なのか?と思わせるだけの力がある作品だと思います。
僕は、凄く絶賛は出来ないけど、良い作品だとは思います。是非読んでみてください。
樋口毅宏「民宿雪国」
希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想(古市憲寿+本田由紀)
内容に入ろうと思います。
本書は、大学院生であり、コンサルテイング会社で執行役を勤める26歳の著者の、『修士論文を原型を留めないくらい加筆修正した』作品です。
社会学を専攻する著者が、街中でよく見かける『99万円で世界一周』というあのピースボートに乗った経験から、現在の社会における若者の姿を描き出そう、という趣旨です。
本書は、大雑把に分けると二つの要素で成り立っています。
一つは、『社会学的な見地から見た現在の若者論』。と書いたけど、それはちょっと違って、正確に言えば、『社会学的な見地から見た現在の若者を取り巻く社会論』という感じです。著者は、『現在の若者はこんな感じなんですよ』ということを書くのではなくて(もちろんそれも書いているのだけど)、むしろ『現在の若者は、今の社会のこんなあり方によってそうなってしまっているのですよ』という部分に焦点を当てています。
そしてもう一つは、著者が実際に乗って観察・分析した、ピースボートの現実です。アンケートや聞き取りなんかを主軸にして、ピースボートに乗る若者の実際を描いていきます。
これはメチャクチャ面白い本でした。難しいところも多々あるんだけど、なるほどと思わせる部分が実に多いです。
著者は、「承認の共同体」という言葉を持ち出し、「若者をあきらめさせろ」と主張します。社会学の世界ではそこまで新鮮な意見というわけではない、と著者は書いているんですが、社会学の素養のない僕には凄く面白いと思えました。
まず著者は、現在は『大きな物語』が通用しない世の中である、と言います。昔は、良い大学に入り、良い会社に入ることが、すなわち良い人生である、という時代だった。もちろん、そこから零れ落ちる人もいただろうけど、それが『大きな物語』として通用する(つまり、多くの人がそう信じることが出来る)世の中だった。
でも、今は違う。良い大学に入っていい会社に入っても、それが良い人生であると誰もが信じることが出来る世の中ではなくなってしまった。
一方で現在は、『夢を追いかける』ことが賛美される。あらゆるメディアや有名人が、『やればできる』といい、各種専門学校やらセミナーなんかが目白押しだ。そんな世の中で若者は、『終わりなき自分探し』を余儀なくされてしまう。つまり、『今の自分ではない、別の生き方があるのではないか』という幻想を捨てきれないのだ。著者はこういう若者を、『希望難民』と呼んでいる。
『大きな物語』が存在せず、『夢を追うこと』を半ば強制され、『終わりなき自分探し』を続けざるおえない若者たちは、しかし昔のように『旅』をすることで自分探しをすることができなくなってしまった。今は黙っていても世界中の情報が山ほど入ってくるし、海外旅行が新鮮ではないくらい日常的なことになってしまった。バックパッカーでさえ、ツアーのような形になってしまっているのだ。「カニ族」や「アンノン族」などが、旅を通過儀礼とすることで企業戦士になっていったような効果を、もはや旅自体に求めることが難しくなってしまっているのだ。
そんな世の中で、多くの社会学者は『コミュニティ』の存在を重視する。本書では著者が『承認の共同体』と呼んでいるものだ。つまりこれは、仲間がいて楽しいよね、という状態だと思えばいい。『大きな物語』が通用しなくなった世の中では、『仲間による相互承認を基盤とする小さな共同体』が、若者の生きづらさを解消する大きな要素になっていくのではないか、というのが今の社会学の主流の意見らしい。
しかし著者はこれに反論する。『承認の共同体』というのは幻想なのではないか、と。
結論から言えば、最終的に著者は『承認の共同体』の重要性を説く。しかしそれは、多くの社会学者が言うように『若者の生きづらさを解消する』ための装置としてではなく、『若者をあきらめさせる』ための装置として、である。
著者は、『夢を追え』と声高に主張されるために希望を捨てきれず、生きづらさを感じたままでいる若者が多いのだ、と主張する。夢を追うのではなく、『お金がなくても、仲間がいて楽しいよね』という『承認の共同体』を抱えることで、『若者が夢を諦めることができる』ことを期待しているのだ。
そこでピースボートである。著者はこのピースボートが、『若者に夢を諦めさせる』ための『承認の共同体』として非常に有効に機能している、ということを発見する。ピースボートに社会の縮図を見て取った著者が、船内で若者が何を感じ、どう変化し、また船を下りてからどうなっていくのかを追うことで、自身の『承認の共同体』が『若者を諦めさせる』ための装置として機能しているという説を補強している。
もしかしたら間違っているような部分もあるかもだけど、これが大体本書の主張するところだと思います。何だか難しそうと思えるかもしれないし、実際に社会学的な話は難しい部分も多いんだけど、著者の文章が割と軽快な感じなのと、ピースボートの件はかなりサクサク読めるのとで、全体的にそこまで難しさはないような気がします。
いやホントに新鮮な意見だと思いました。著者は日本の現在の社会をクソゲーに喩えていて、
『チュートリアル(ゲームを進めるための解説)が不十分でゴールが不明瞭。自由度が高そうに見えて、実は初期パラメーターに大きく依存する行動範囲。セーブも出来ないし、ライフは一回しかない。』
と書き、さらにアメリカなんかにはきちんとある『レベルアップ制度』が不十分に過ぎる点を指摘している。
だから、そんな世の中で『諦めないで世の中を変えていこう』と頑張るより、『世の中を変えるのは、諦めきれない一部の人たちに頑張ってもらうとして、お金はないけど気の合う仲間と一緒にいて楽しいよね、っていうだけの人生でももういいじゃん』という結論になっています。
これに、著者の担当教授(というわけでもないらしいんですけど)である本田由紀が、巻末で「解説、というか反論」という文章を書いています。本田氏は、『承認の共同体』の持つ役割については認め、また著者のフィールドワークに多少の難点をつけつつ賛同した上で、でも『若者を諦めさせろ』という著者の意見に反論します。『お金がなくても、仲間がいれば楽しい』という生き方は、お金がないという点でも危ういし、また目的性のないただ楽しいからというだけの繋がりしかない仲間との共同体というものにも危惧を覚えています。まあ確かに、どっちの意見も分からないではない、という感じです。どちらが正しいか、ということは考えずに読んでみればいいかと思います。
著者の、社会学的見地から語られる、若者像を通した現在の社会のあり方の話も凄く面白かったんだけど、ピースボートについての話も非常に面白かったです。
まず、ピースボートという組織が本当にうまく機能しているということに驚きました。ピースボートというのは、パンフレットなんかでは極力表向きにはしていないのだけど、基本的に左翼的な思考のある団体のようです。憲法九条を守ろうとか、過剰な愛国心は怖い、みたいな感じらしいですね(右翼とか左翼とか、僕は正直よくわからないんですけど)。
だから、ピースボートの船内でも、「九条ダンス」なんてものがあったりする。よく分からないけど、憲法九条を守ることを表現したダンスみたいです。実際に、ピースボートの活動に触れることで、世界平和だとか九条を守ろうといった気持ちになる参加者は多いんだそうです。
巧いのが、初めからそういう場所だということを明示せずに人を集める仕組みを作り上げている、という点。『大きな物語』が通用しない世の中だ、という話を書いたけど、ピースボートはその『大きな物語』を提供しているんですね。
ピースボートには、ポスター貼りをたくさんすることで乗船費が割り引かれる仕組みがあって、ポスターを貼るだけで全額無料で乗船する人のことを「全クリ」と呼んだりするそうです。つまり、『ポスターをたくさん貼れば世界一周が出来る』という、非常に分かりやすい『大きな物語』を提供することで、若者の心を掴んでいるわけです。
それ以外にも、ピースボートの活動に共感していくような巧い仕組みが色々とあるのだけど、それはまあ読んでみてください。なるほど、これは『自分探し』や『承認の共同体』に飢えている現在の若者にはウケるだろうなぁ、と思いました。
またピースボートに乗って実際に世界一周に行った部分も凄く面白い。著者のフィールドワークの記載もあるけど、どんなトラブルがあったのか、それに対して参加者達がどう行動したのかという話も結構あって、ノンフィクションみたいなテイストで読める部分もあります。
これは面白いと思います。『自分探し』を止められない若者が自身のあり方に気づくために読んでもいいし、若者ではない人が現在の若者が置かれている現状を知るのに読んでみるというのも面白く読めると思います。賛否は色々あるでしょうけど、これは多くの人に読んで欲しい作品だと思います。ちょっと売ってみようかな。是非読んでみてください。
古市憲寿+本田由紀「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」
本書は、大学院生であり、コンサルテイング会社で執行役を勤める26歳の著者の、『修士論文を原型を留めないくらい加筆修正した』作品です。
社会学を専攻する著者が、街中でよく見かける『99万円で世界一周』というあのピースボートに乗った経験から、現在の社会における若者の姿を描き出そう、という趣旨です。
本書は、大雑把に分けると二つの要素で成り立っています。
一つは、『社会学的な見地から見た現在の若者論』。と書いたけど、それはちょっと違って、正確に言えば、『社会学的な見地から見た現在の若者を取り巻く社会論』という感じです。著者は、『現在の若者はこんな感じなんですよ』ということを書くのではなくて(もちろんそれも書いているのだけど)、むしろ『現在の若者は、今の社会のこんなあり方によってそうなってしまっているのですよ』という部分に焦点を当てています。
そしてもう一つは、著者が実際に乗って観察・分析した、ピースボートの現実です。アンケートや聞き取りなんかを主軸にして、ピースボートに乗る若者の実際を描いていきます。
これはメチャクチャ面白い本でした。難しいところも多々あるんだけど、なるほどと思わせる部分が実に多いです。
著者は、「承認の共同体」という言葉を持ち出し、「若者をあきらめさせろ」と主張します。社会学の世界ではそこまで新鮮な意見というわけではない、と著者は書いているんですが、社会学の素養のない僕には凄く面白いと思えました。
まず著者は、現在は『大きな物語』が通用しない世の中である、と言います。昔は、良い大学に入り、良い会社に入ることが、すなわち良い人生である、という時代だった。もちろん、そこから零れ落ちる人もいただろうけど、それが『大きな物語』として通用する(つまり、多くの人がそう信じることが出来る)世の中だった。
でも、今は違う。良い大学に入っていい会社に入っても、それが良い人生であると誰もが信じることが出来る世の中ではなくなってしまった。
一方で現在は、『夢を追いかける』ことが賛美される。あらゆるメディアや有名人が、『やればできる』といい、各種専門学校やらセミナーなんかが目白押しだ。そんな世の中で若者は、『終わりなき自分探し』を余儀なくされてしまう。つまり、『今の自分ではない、別の生き方があるのではないか』という幻想を捨てきれないのだ。著者はこういう若者を、『希望難民』と呼んでいる。
『大きな物語』が存在せず、『夢を追うこと』を半ば強制され、『終わりなき自分探し』を続けざるおえない若者たちは、しかし昔のように『旅』をすることで自分探しをすることができなくなってしまった。今は黙っていても世界中の情報が山ほど入ってくるし、海外旅行が新鮮ではないくらい日常的なことになってしまった。バックパッカーでさえ、ツアーのような形になってしまっているのだ。「カニ族」や「アンノン族」などが、旅を通過儀礼とすることで企業戦士になっていったような効果を、もはや旅自体に求めることが難しくなってしまっているのだ。
そんな世の中で、多くの社会学者は『コミュニティ』の存在を重視する。本書では著者が『承認の共同体』と呼んでいるものだ。つまりこれは、仲間がいて楽しいよね、という状態だと思えばいい。『大きな物語』が通用しなくなった世の中では、『仲間による相互承認を基盤とする小さな共同体』が、若者の生きづらさを解消する大きな要素になっていくのではないか、というのが今の社会学の主流の意見らしい。
しかし著者はこれに反論する。『承認の共同体』というのは幻想なのではないか、と。
結論から言えば、最終的に著者は『承認の共同体』の重要性を説く。しかしそれは、多くの社会学者が言うように『若者の生きづらさを解消する』ための装置としてではなく、『若者をあきらめさせる』ための装置として、である。
著者は、『夢を追え』と声高に主張されるために希望を捨てきれず、生きづらさを感じたままでいる若者が多いのだ、と主張する。夢を追うのではなく、『お金がなくても、仲間がいて楽しいよね』という『承認の共同体』を抱えることで、『若者が夢を諦めることができる』ことを期待しているのだ。
そこでピースボートである。著者はこのピースボートが、『若者に夢を諦めさせる』ための『承認の共同体』として非常に有効に機能している、ということを発見する。ピースボートに社会の縮図を見て取った著者が、船内で若者が何を感じ、どう変化し、また船を下りてからどうなっていくのかを追うことで、自身の『承認の共同体』が『若者を諦めさせる』ための装置として機能しているという説を補強している。
もしかしたら間違っているような部分もあるかもだけど、これが大体本書の主張するところだと思います。何だか難しそうと思えるかもしれないし、実際に社会学的な話は難しい部分も多いんだけど、著者の文章が割と軽快な感じなのと、ピースボートの件はかなりサクサク読めるのとで、全体的にそこまで難しさはないような気がします。
いやホントに新鮮な意見だと思いました。著者は日本の現在の社会をクソゲーに喩えていて、
『チュートリアル(ゲームを進めるための解説)が不十分でゴールが不明瞭。自由度が高そうに見えて、実は初期パラメーターに大きく依存する行動範囲。セーブも出来ないし、ライフは一回しかない。』
と書き、さらにアメリカなんかにはきちんとある『レベルアップ制度』が不十分に過ぎる点を指摘している。
だから、そんな世の中で『諦めないで世の中を変えていこう』と頑張るより、『世の中を変えるのは、諦めきれない一部の人たちに頑張ってもらうとして、お金はないけど気の合う仲間と一緒にいて楽しいよね、っていうだけの人生でももういいじゃん』という結論になっています。
これに、著者の担当教授(というわけでもないらしいんですけど)である本田由紀が、巻末で「解説、というか反論」という文章を書いています。本田氏は、『承認の共同体』の持つ役割については認め、また著者のフィールドワークに多少の難点をつけつつ賛同した上で、でも『若者を諦めさせろ』という著者の意見に反論します。『お金がなくても、仲間がいれば楽しい』という生き方は、お金がないという点でも危ういし、また目的性のないただ楽しいからというだけの繋がりしかない仲間との共同体というものにも危惧を覚えています。まあ確かに、どっちの意見も分からないではない、という感じです。どちらが正しいか、ということは考えずに読んでみればいいかと思います。
著者の、社会学的見地から語られる、若者像を通した現在の社会のあり方の話も凄く面白かったんだけど、ピースボートについての話も非常に面白かったです。
まず、ピースボートという組織が本当にうまく機能しているということに驚きました。ピースボートというのは、パンフレットなんかでは極力表向きにはしていないのだけど、基本的に左翼的な思考のある団体のようです。憲法九条を守ろうとか、過剰な愛国心は怖い、みたいな感じらしいですね(右翼とか左翼とか、僕は正直よくわからないんですけど)。
だから、ピースボートの船内でも、「九条ダンス」なんてものがあったりする。よく分からないけど、憲法九条を守ることを表現したダンスみたいです。実際に、ピースボートの活動に触れることで、世界平和だとか九条を守ろうといった気持ちになる参加者は多いんだそうです。
巧いのが、初めからそういう場所だということを明示せずに人を集める仕組みを作り上げている、という点。『大きな物語』が通用しない世の中だ、という話を書いたけど、ピースボートはその『大きな物語』を提供しているんですね。
ピースボートには、ポスター貼りをたくさんすることで乗船費が割り引かれる仕組みがあって、ポスターを貼るだけで全額無料で乗船する人のことを「全クリ」と呼んだりするそうです。つまり、『ポスターをたくさん貼れば世界一周が出来る』という、非常に分かりやすい『大きな物語』を提供することで、若者の心を掴んでいるわけです。
それ以外にも、ピースボートの活動に共感していくような巧い仕組みが色々とあるのだけど、それはまあ読んでみてください。なるほど、これは『自分探し』や『承認の共同体』に飢えている現在の若者にはウケるだろうなぁ、と思いました。
またピースボートに乗って実際に世界一周に行った部分も凄く面白い。著者のフィールドワークの記載もあるけど、どんなトラブルがあったのか、それに対して参加者達がどう行動したのかという話も結構あって、ノンフィクションみたいなテイストで読める部分もあります。
これは面白いと思います。『自分探し』を止められない若者が自身のあり方に気づくために読んでもいいし、若者ではない人が現在の若者が置かれている現状を知るのに読んでみるというのも面白く読めると思います。賛否は色々あるでしょうけど、これは多くの人に読んで欲しい作品だと思います。ちょっと売ってみようかな。是非読んでみてください。
古市憲寿+本田由紀「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」
リリイの籠(豊島ミホ)
内容に入ろうと思います。
本書は、女子高を舞台にした連作短編集です。
「銀杏泥棒は金色」
美術部員として展覧の準備に入った春は、先生に「好きなものを書きなさい」と言われて困ってしまう。私は、人より嫌いなものが多い。
ある日、美術部の部室から見かけた女の子が金色に輝いて見えた。私は、あの子を描こう…
「ポニーテール・ドリーム」
学校で「えみ先生」と呼ばれている化学の教師。ぎゃーぎゃーとはしゃぐ彼女らを見て、自分の窓際のような高校時代を思い出す。
受験が終わったら髪の毛を伸ばそうと思っていたあの頃。その頃のまま、私は今でもポニーテールにしている。
スカートの短い生徒に注意をすると…。
「忘れないでね」
転校ばかりしてきた美奈は、『いずれ転校する』ことが分かっているからこそ、学校では『クラスの外れ者』と仲良くし、自分に向けられる絶対的な信頼みたいなものに陶酔する。そんなことをずっと繰り返してきた。
仙台に父親が家を買ったので、もう転校はない。それなのに私はまた、髪がオレンジの、クラスの外れ者の真琴と仲良くしている。私は今回、真琴からどうやって逃げきるつもりなのだろう…
「ながれるひめ」
藍は、潰しが利くだろう、という程度の理由で教職を取り、後悔しつつもあれよというまに教育実習がやってきた。姉が美術の先生として働いている、自分の母校に連絡を取り、教育実習に行くことに。
姉とはある時を境に折り合いが悪くなっていった。今でもそれは、さほど変わらない。きっと、私が失敗すればいいとか思ってるんだろう…。
「いちごとくま」
磯山は、いちごとかくまみたいなもふもふしたものが昔から似合っていたし好きだったのだけど、周りからはよく「ぶってるよ」と言われてきた。女子高ならなおさらだろう。
そんな磯山に、卑屈さを一切見せずに近寄ってきて仲良くなった女子がいた。くまっちと呼ばれている熊野実枝は、誰とでも仲良くする、ものすごい明るさを持った女の子だった…
「やさしい人」
落川は、高校の同級生だった浅野に押し付けられて、同窓会の幹事をすることになった。そうやって思い出したのが、クラスメイトだった木田芙見のこと。
仲が良いわけではなかった。でも、気になってはいた。同窓会の返事の期日までには連絡がなかったのだけど、その後連絡があり…
「ゆうちゃんはレズ」
後輩の新木結生はレズだという噂がある。真面目にやっている生徒を貶める馬鹿馬鹿しい噂だと思って、それを聞いてから榊明子は結生と仲良くするようになった。
そのせいなのかなんなのか、私は結生に告白されている。好きです、出来れば付き合ってください、と…。
というような話です。
僕がこれまで読んできた豊島ミホの作品と比べると、多少弱いかなという感じはあるけど、これもなかなかよかったです。
正直、初めの二編はあんまりという感じで、これはダメかなぁ、と思ったんですね。でも、三編目の「忘れないでね」からかなり面白くなってきて、それ以降は全部よかったです。
僕は、女子高という特殊さみたいなものはよく知らないんだけど、本書では、『わざとらしく女子高らしさを描く』なんていうことをしていないのがいいな、と思いました。基本的にどの話も、女子高じゃないと成立しない、というわけではないんですね。共学が舞台でもたぶん成り立つ。でも、物語の片隅に、なんとなく女子高の気配を漂わせる、という感じなんですね。この辺のバランスがうまいな、と思いました。もし、全面に女子高っぽさが押し出されている作品だったら、男の僕にはちょっと遠さを感じさせる作品になっていたかもしれないけど、それが全然なかったので、すっと入っていけました。
豊島ミホはやっぱり、ごく普通の人を描き出すのがうまいな、と思いました。誰しもが、そういう部分持ってるよなぁ、と感じるようなところをうまく抜き出してくる。自分の内側にあっても、明確に言葉にして来なかったような感情みたいなものを、ずばっと描かれてしまう。そういうところが、相変わらず冴えているなという感じがしました。
特に、これも誰でもそういうところあると思うんだけど、表向きの自分と、内心の自分みたいなもののバランス、他者との関わり方の表裏みたいなものが本当に巧く描けていて、凄いなと感じますね。高校生ぐらいの時って、やっぱ大体の人はこんな感じだったよなぁ、って改めて思います。逆に言えば、学生時代とかに外面と内面にズレのなかった人には、豊島ミホの作品はあんまりよく分からなかったりするのかもしれません。
僕は個人的には、一番最後の書き下ろしの作品「ゆうちゃんはレズ」が一番好きだなと思いました。なんというか、最後の方で結生が榊に対して言うセリフが、自分にもグサリと刺さるようでした。いや、別に僕は同性が好きとかそんなんじゃないんですけど、榊の結生に対する態度は凄く理解できてしまう。僕も榊と同じような立場になったら、同じようなことをしてしまうだろうなぁ、と思うんですね。この最後の話はある意味では女子高ならではなのかもだけど(共学でもあるだろうけど)、一番これが好きだなと思いました。
「檸檬のころ」や「神田川デイズ」なんかと比べればインパクトはちょっと弱い気もするんだけど、やっぱり豊島ミホの世界は好きだなと感じました。この若さで、これだけの作品を書けるというのは本当に凄いと思います。是非読んでみてください。
豊島ミホ「リリイの籠」
本書は、女子高を舞台にした連作短編集です。
「銀杏泥棒は金色」
美術部員として展覧の準備に入った春は、先生に「好きなものを書きなさい」と言われて困ってしまう。私は、人より嫌いなものが多い。
ある日、美術部の部室から見かけた女の子が金色に輝いて見えた。私は、あの子を描こう…
「ポニーテール・ドリーム」
学校で「えみ先生」と呼ばれている化学の教師。ぎゃーぎゃーとはしゃぐ彼女らを見て、自分の窓際のような高校時代を思い出す。
受験が終わったら髪の毛を伸ばそうと思っていたあの頃。その頃のまま、私は今でもポニーテールにしている。
スカートの短い生徒に注意をすると…。
「忘れないでね」
転校ばかりしてきた美奈は、『いずれ転校する』ことが分かっているからこそ、学校では『クラスの外れ者』と仲良くし、自分に向けられる絶対的な信頼みたいなものに陶酔する。そんなことをずっと繰り返してきた。
仙台に父親が家を買ったので、もう転校はない。それなのに私はまた、髪がオレンジの、クラスの外れ者の真琴と仲良くしている。私は今回、真琴からどうやって逃げきるつもりなのだろう…
「ながれるひめ」
藍は、潰しが利くだろう、という程度の理由で教職を取り、後悔しつつもあれよというまに教育実習がやってきた。姉が美術の先生として働いている、自分の母校に連絡を取り、教育実習に行くことに。
姉とはある時を境に折り合いが悪くなっていった。今でもそれは、さほど変わらない。きっと、私が失敗すればいいとか思ってるんだろう…。
「いちごとくま」
磯山は、いちごとかくまみたいなもふもふしたものが昔から似合っていたし好きだったのだけど、周りからはよく「ぶってるよ」と言われてきた。女子高ならなおさらだろう。
そんな磯山に、卑屈さを一切見せずに近寄ってきて仲良くなった女子がいた。くまっちと呼ばれている熊野実枝は、誰とでも仲良くする、ものすごい明るさを持った女の子だった…
「やさしい人」
落川は、高校の同級生だった浅野に押し付けられて、同窓会の幹事をすることになった。そうやって思い出したのが、クラスメイトだった木田芙見のこと。
仲が良いわけではなかった。でも、気になってはいた。同窓会の返事の期日までには連絡がなかったのだけど、その後連絡があり…
「ゆうちゃんはレズ」
後輩の新木結生はレズだという噂がある。真面目にやっている生徒を貶める馬鹿馬鹿しい噂だと思って、それを聞いてから榊明子は結生と仲良くするようになった。
そのせいなのかなんなのか、私は結生に告白されている。好きです、出来れば付き合ってください、と…。
というような話です。
僕がこれまで読んできた豊島ミホの作品と比べると、多少弱いかなという感じはあるけど、これもなかなかよかったです。
正直、初めの二編はあんまりという感じで、これはダメかなぁ、と思ったんですね。でも、三編目の「忘れないでね」からかなり面白くなってきて、それ以降は全部よかったです。
僕は、女子高という特殊さみたいなものはよく知らないんだけど、本書では、『わざとらしく女子高らしさを描く』なんていうことをしていないのがいいな、と思いました。基本的にどの話も、女子高じゃないと成立しない、というわけではないんですね。共学が舞台でもたぶん成り立つ。でも、物語の片隅に、なんとなく女子高の気配を漂わせる、という感じなんですね。この辺のバランスがうまいな、と思いました。もし、全面に女子高っぽさが押し出されている作品だったら、男の僕にはちょっと遠さを感じさせる作品になっていたかもしれないけど、それが全然なかったので、すっと入っていけました。
豊島ミホはやっぱり、ごく普通の人を描き出すのがうまいな、と思いました。誰しもが、そういう部分持ってるよなぁ、と感じるようなところをうまく抜き出してくる。自分の内側にあっても、明確に言葉にして来なかったような感情みたいなものを、ずばっと描かれてしまう。そういうところが、相変わらず冴えているなという感じがしました。
特に、これも誰でもそういうところあると思うんだけど、表向きの自分と、内心の自分みたいなもののバランス、他者との関わり方の表裏みたいなものが本当に巧く描けていて、凄いなと感じますね。高校生ぐらいの時って、やっぱ大体の人はこんな感じだったよなぁ、って改めて思います。逆に言えば、学生時代とかに外面と内面にズレのなかった人には、豊島ミホの作品はあんまりよく分からなかったりするのかもしれません。
僕は個人的には、一番最後の書き下ろしの作品「ゆうちゃんはレズ」が一番好きだなと思いました。なんというか、最後の方で結生が榊に対して言うセリフが、自分にもグサリと刺さるようでした。いや、別に僕は同性が好きとかそんなんじゃないんですけど、榊の結生に対する態度は凄く理解できてしまう。僕も榊と同じような立場になったら、同じようなことをしてしまうだろうなぁ、と思うんですね。この最後の話はある意味では女子高ならではなのかもだけど(共学でもあるだろうけど)、一番これが好きだなと思いました。
「檸檬のころ」や「神田川デイズ」なんかと比べればインパクトはちょっと弱い気もするんだけど、やっぱり豊島ミホの世界は好きだなと感じました。この若さで、これだけの作品を書けるというのは本当に凄いと思います。是非読んでみてください。
豊島ミホ「リリイの籠」
超少年(長野まゆみ)
内容に入ろうと思います。とはいえ、僕にはよく分からない物語だったので、内容紹介もうまくは出来ないでしょうけど。
遠い未来の話。植物相が異常を来たし、様々な事情があって、人類は地球を離れ、衛星軌道上のコロニーに住むようになった時代。そこでは土が存在しないため、植物は<王子>と<ピエロ>と呼ばれる『両生類』によって育てられることになった。
ある時、最も繁殖力の強い<王子>が行方不明になった。<超>と呼ばれる時空移動装置によって、どうやら22世紀にいるらしいということが分かった。三人の<ピエロ>が<王子>を追って22世紀までやってくるのだけど…。
というような話だと思います(たぶん)。
僕にはどうもよく分からない話でした。合わないタイプの物語でした。面白いのかなぁ、これ。長野まゆみって初めて読んだ作家だけど、正直よくわからない。女性が読んだらまた違うのかもだけどなぁ。
いずれにしても思ったのが、これだけの設定で物語を書くには、ちょっと分量が少なすぎるんじゃないか、ということ。冒頭から耳慣れない単語がバンバン出てきて物語に入って行きにくいし、結局なんなんだかよくわからなかった部分もたくさんある。中盤以降、流し読みみたいな感じになってしまった部分もあるけど、なんともいえない感じだった。
僕にはちょっと、なんとも評価のしようがない作品でした。
長野まゆみ「超少年」
遠い未来の話。植物相が異常を来たし、様々な事情があって、人類は地球を離れ、衛星軌道上のコロニーに住むようになった時代。そこでは土が存在しないため、植物は<王子>と<ピエロ>と呼ばれる『両生類』によって育てられることになった。
ある時、最も繁殖力の強い<王子>が行方不明になった。<超>と呼ばれる時空移動装置によって、どうやら22世紀にいるらしいということが分かった。三人の<ピエロ>が<王子>を追って22世紀までやってくるのだけど…。
というような話だと思います(たぶん)。
僕にはどうもよく分からない話でした。合わないタイプの物語でした。面白いのかなぁ、これ。長野まゆみって初めて読んだ作家だけど、正直よくわからない。女性が読んだらまた違うのかもだけどなぁ。
いずれにしても思ったのが、これだけの設定で物語を書くには、ちょっと分量が少なすぎるんじゃないか、ということ。冒頭から耳慣れない単語がバンバン出てきて物語に入って行きにくいし、結局なんなんだかよくわからなかった部分もたくさんある。中盤以降、流し読みみたいな感じになってしまった部分もあるけど、なんともいえない感じだった。
僕にはちょっと、なんとも評価のしようがない作品でした。
長野まゆみ「超少年」
新宿駅最後の小さなお店ベルク 個人店が生き残るには?(井野朋也)
内容に入ろうと思います。
本書は、新宿駅出てすぐのところにある、たった15坪の喫茶店「ベルク」の店長が語る、ベルクの歴史やベルクの秘密について書かれている本です。
同じ場所で母親が経営していた喫茶店を、井野氏が作り替えたところからベルクの歴史は始まります。それまでは、どこにでもある普通の喫茶店だったのを、井野氏は、セルフサービスの店に変えたのです。
日本でも有数に土地の高いところであり、しかもテナントとして入っているビルに実績を示さなくてはいけないという状況もあって、とにかくいかに回転を早くして利益を出すか、ということを考えた結果の選択です。
しかし、セルフサービスの店にしたからと言って、何かを諦めたり切り捨てたりしているわけではありません。
コーヒーは、豆を一度北海道に送って24時間水につけてもらったものを送り返してもらい、専門の人に抜群の配合を考えてもらったものをだしています。しかも、セルフサービスなので機械出しなのですが、そのメンテナンスの業者が音を上げるほどメンテナンスの依頼をし(1年取り替えなくてもいいと言われていた部品を、味が実際に落ちていると指摘し、3ヶ月毎の交換にしてもらった)、最終的には機械の設定を自分たちでやるというところまでになりました。その日の気温や湿度などの状況によって細かく設定を変えているそうです。
副店長でもあり、井野氏の奥さん(よくわからないけど、戸籍上は結婚していないらしい)である迫川氏が素晴らしい舌を持っている人物なようで、例えば店で提供するパンの商品開発をするために、その時点で都内に出回っているありとあらゆるパンをとりあえず試食するとか。また、迫川氏の趣味で日本酒まで出すようになり、しかもそれは、酒屋の奥で眠っているような『究極の一品』を酒屋さんに出してもらったものを提供する、というこだわりようです。
ウインナーも凄い。アルバイトスタッフがたまたま見つけてきた精肉店で作っているものなのだけど、本場ドイツのものよりも美味しいらしい(実際その後、ベルクで出しているものとまったく同じソーセージで、ドイツのコンクールで金賞を獲ったとか)。
とにかくベルクでは、店で出す商品は『自分たちが食べたいと思うもの』という基本コンセプトを持っていて、薬漬けになっているようなものや、どういうルートで店までやってくるのかわからない食材は使いたくない、という徹底したこだわりがあるわけです。しかもそれを、非常に低価格で提供している。一般的に喫茶店やファーストフードでの商品の原価率は25とか30%ぐらいらしいんですけど、ベルクでは50%なんていう商品もあるし、80%なんていうものもあったそうです。もちろんこれは、一日の来店客数がハンパないベルクだからこそ可能なビジネスモデルだ、と本書にも書かれていますが。
接客などについても徹底しています。これは、どう徹底しているのかうまく説明するのが難しいですけど、とにかく『お客さんの立場にたって』という当たり前のことをしているんです。
印象的なエピソードがありました。副店長の迫川氏が、長く席を占めているホームレスらしきお客さんに、『すいませんが立ち席に移ってもらえませんか?』とお願いしたところ、しばらくして癇癪を起こしたと。警察を読んだりして色々あったのだけど、話をしてみると、やはり席を移るように言われたことがプライドを傷つけられたのだ、ということでした。まあその時の状況とか色々あるのだけど、それを聞いた迫川氏はその場でホームレスの方に土下座し、しかもその後新宿界隈のホームレスを訪ね、交流を持つようになった、と言います。なんというか、凄いなと思いますね。
他にも色々と、商売をする上で大事なこと、参考になることが書かれているんですけど、別に商売をするつもりもない僕にとっては、本書を読んで一番強く感じたことは、『こういう店で働きたいよなぁ』ということでした。
僕は今、大きなチェーンではない書店でアルバイトをしているので、そこからの実感もあるのだけど、店のスタッフがどこを向いているかというのは、店の売上や雰囲気の凄く大きく関わってくると思う。ウチの店ははっきり言って、お客さんの方を向いているとは到底思えないような営業をしている。僕は個人的にそれを苦々しく思っているのだけど、色々手を尽くした結果、もうどうにもならないと判断して諦めた。
だからこそこういう、きっちりと明確な方向性を持って運営をしている店とかって、憧れるよなぁと思います。もちろん、ベルクみたいな店も大変なことはたくさんあるだろうし、というかベルクみたいな店だからこそ大変なことも多々あるだろうけど、でも、働きがいはあるだろうな、と思うんです。僕は、働くことが楽しくないと、例え給料がどれだけよくても働けない人間なんで、こういうところで働くのはちょっと憧れますね。
僕は特別接客業が好きというわけではないし、むしろ人と関わるのは苦手なんだけど、でも、書店で働いてみて思ったことが、自分のやり方で何かを売るというのは楽しいな、ということです。人に言われて何かやるのはたぶん全然出来ない人間なんだけど、何でも自分で好きなようにやれるとやる気が出る。ベルクも、スタッフのアイデア次第でなんでも自由に出来る環境のようで(ベルクの制服なんかも、アルバイトスタッフの発案で作られたらしい)、そういう環境はいいですね。
本書は、個人店を経営する、という観点で基本的に書かれている本のようなんですが、『働く』ということについて強く考えさせられる内容にもなっています。こういうお店が奮闘してくれるというのは、僕には全然関係ないことなんですけど、何だか嬉しくなります。是非読んでみてください。
井野朋也「新宿駅最後の小さなお店ベルク 個人店が生き残るには?」
本書は、新宿駅出てすぐのところにある、たった15坪の喫茶店「ベルク」の店長が語る、ベルクの歴史やベルクの秘密について書かれている本です。
同じ場所で母親が経営していた喫茶店を、井野氏が作り替えたところからベルクの歴史は始まります。それまでは、どこにでもある普通の喫茶店だったのを、井野氏は、セルフサービスの店に変えたのです。
日本でも有数に土地の高いところであり、しかもテナントとして入っているビルに実績を示さなくてはいけないという状況もあって、とにかくいかに回転を早くして利益を出すか、ということを考えた結果の選択です。
しかし、セルフサービスの店にしたからと言って、何かを諦めたり切り捨てたりしているわけではありません。
コーヒーは、豆を一度北海道に送って24時間水につけてもらったものを送り返してもらい、専門の人に抜群の配合を考えてもらったものをだしています。しかも、セルフサービスなので機械出しなのですが、そのメンテナンスの業者が音を上げるほどメンテナンスの依頼をし(1年取り替えなくてもいいと言われていた部品を、味が実際に落ちていると指摘し、3ヶ月毎の交換にしてもらった)、最終的には機械の設定を自分たちでやるというところまでになりました。その日の気温や湿度などの状況によって細かく設定を変えているそうです。
副店長でもあり、井野氏の奥さん(よくわからないけど、戸籍上は結婚していないらしい)である迫川氏が素晴らしい舌を持っている人物なようで、例えば店で提供するパンの商品開発をするために、その時点で都内に出回っているありとあらゆるパンをとりあえず試食するとか。また、迫川氏の趣味で日本酒まで出すようになり、しかもそれは、酒屋の奥で眠っているような『究極の一品』を酒屋さんに出してもらったものを提供する、というこだわりようです。
ウインナーも凄い。アルバイトスタッフがたまたま見つけてきた精肉店で作っているものなのだけど、本場ドイツのものよりも美味しいらしい(実際その後、ベルクで出しているものとまったく同じソーセージで、ドイツのコンクールで金賞を獲ったとか)。
とにかくベルクでは、店で出す商品は『自分たちが食べたいと思うもの』という基本コンセプトを持っていて、薬漬けになっているようなものや、どういうルートで店までやってくるのかわからない食材は使いたくない、という徹底したこだわりがあるわけです。しかもそれを、非常に低価格で提供している。一般的に喫茶店やファーストフードでの商品の原価率は25とか30%ぐらいらしいんですけど、ベルクでは50%なんていう商品もあるし、80%なんていうものもあったそうです。もちろんこれは、一日の来店客数がハンパないベルクだからこそ可能なビジネスモデルだ、と本書にも書かれていますが。
接客などについても徹底しています。これは、どう徹底しているのかうまく説明するのが難しいですけど、とにかく『お客さんの立場にたって』という当たり前のことをしているんです。
印象的なエピソードがありました。副店長の迫川氏が、長く席を占めているホームレスらしきお客さんに、『すいませんが立ち席に移ってもらえませんか?』とお願いしたところ、しばらくして癇癪を起こしたと。警察を読んだりして色々あったのだけど、話をしてみると、やはり席を移るように言われたことがプライドを傷つけられたのだ、ということでした。まあその時の状況とか色々あるのだけど、それを聞いた迫川氏はその場でホームレスの方に土下座し、しかもその後新宿界隈のホームレスを訪ね、交流を持つようになった、と言います。なんというか、凄いなと思いますね。
他にも色々と、商売をする上で大事なこと、参考になることが書かれているんですけど、別に商売をするつもりもない僕にとっては、本書を読んで一番強く感じたことは、『こういう店で働きたいよなぁ』ということでした。
僕は今、大きなチェーンではない書店でアルバイトをしているので、そこからの実感もあるのだけど、店のスタッフがどこを向いているかというのは、店の売上や雰囲気の凄く大きく関わってくると思う。ウチの店ははっきり言って、お客さんの方を向いているとは到底思えないような営業をしている。僕は個人的にそれを苦々しく思っているのだけど、色々手を尽くした結果、もうどうにもならないと判断して諦めた。
だからこそこういう、きっちりと明確な方向性を持って運営をしている店とかって、憧れるよなぁと思います。もちろん、ベルクみたいな店も大変なことはたくさんあるだろうし、というかベルクみたいな店だからこそ大変なことも多々あるだろうけど、でも、働きがいはあるだろうな、と思うんです。僕は、働くことが楽しくないと、例え給料がどれだけよくても働けない人間なんで、こういうところで働くのはちょっと憧れますね。
僕は特別接客業が好きというわけではないし、むしろ人と関わるのは苦手なんだけど、でも、書店で働いてみて思ったことが、自分のやり方で何かを売るというのは楽しいな、ということです。人に言われて何かやるのはたぶん全然出来ない人間なんだけど、何でも自分で好きなようにやれるとやる気が出る。ベルクも、スタッフのアイデア次第でなんでも自由に出来る環境のようで(ベルクの制服なんかも、アルバイトスタッフの発案で作られたらしい)、そういう環境はいいですね。
本書は、個人店を経営する、という観点で基本的に書かれている本のようなんですが、『働く』ということについて強く考えさせられる内容にもなっています。こういうお店が奮闘してくれるというのは、僕には全然関係ないことなんですけど、何だか嬉しくなります。是非読んでみてください。
井野朋也「新宿駅最後の小さなお店ベルク 個人店が生き残るには?」
マンガの道 私はなぜマンガ家になったのか(ロッキング・オン)
内容に入ろうと思います。
本書は、「コミックH」という雑誌に載っていた「マンガ家・ロングインタビュー」を再構成して書籍化したものです。載っているマンガ家は以下の通り。
安野モヨコ・山本直樹・江口寿史・古屋兎丸・小池田マヤ・山田芳裕・吉田戦車・矢沢あい・しりあがり寿・内田春菊・ハロルド作石
それぞれ、マンガ家になる前にどんなことをしていたのか、どうしてマンガ家になりたいと思ったのか、デビューしてからどんなことをやってきたのか、などということについて語っています。
僕は、普段マンガを全然読まないので(今でも買って読んでる唯一のマンガは「名探偵コナン」だけ)、ここで挙げられているマンガ家さんたちがどれぐらい凄いのかみたいなのは正直よくわからないわけなんです。古屋兎丸のマンガは、乙一とコラボしてた作品で読んだことがあるのと、矢沢あいの「NANA」の1巻だけ読んだことがあるぐらい。あと、名前は知ってるけど読んだことがない人と、名前さえ知らなかった人といて、まあどうしてこの本を読もうと思ったのか、自分でもよくわからなかったりするんだけど。
でも、ちょっと念頭にあったのは、都条例のことです。マンガを規制するみたいなアレ。僕は普段マンガ読まない人間だけど、あの条例はいかんだろう、と思ってるわけなんですけど、まあその辺りのことは詳しくは書かないけど、いずれにしても、マンガ家がどういう気持ちでマンガと向き合っているのか、法律を作った人間は想像出来てないんだろうな、と思っていたんですね。
でも、それは僕の方も同じで、だからちょっと興味があったんだと思います。
色んな立ち位置の人がいて面白いと思いました。マンガを描くことは純粋に職業だと思っている人もいれば(もちろんそんな風に言っていても、本当はそれだけじゃないんだとは思いますけど)、描かずにはいられないという人もいる。マンガを通じて何を目指しているのかというのも違えば、マンガ家になりたいと思った理由もいろいろで、やっぱり『マンガ』とか『マンガ家』とかで一括りにしたらいかんな、と感じました。
でも、ほとんどの人に共通してたのが(そうではない人もいたけど)、子どもの頃から絵を描くのが好きだったり、実際にコマ割りしてマンガを描いていたりという人ばっかりでした。それに、これは何人かですけど、『マンガ家になりたい、じゃなくて、なるもんだと思ってた』という人もいて、やっぱりどんな世界でもそうだろうけど、第一線で走り続けるような人というのは、情熱だけではない何かを持ってるんだろうな、と思いました。
マンガって、どうしても色んな創作活動の中で一段低く見られがちだけど(そういう発言をしている人もいた。その人はそれを別に否定的には言ってなくて、マンガはそれでいいんだ、って言ってたけど)、これだけ多くの人から支持されているものが一段低いわけがないと思うんですよね。それとも、素晴らしいものは一部の文化人にしか理解出来ないよーだ、みたいなそういう選民思想があるんでしょうかね。都条例を作ったお偉いさんにはそういう思考がありそうですけど。マンガはダメだけど、小説は素晴らしいものだ、みたいな。マンガと小説での扱いの差については、マンガも小説も両方書いている内田春菊さんが言っていました。やっぱり、小説の方が扱い的に断然上になるみたいですね。
あと、端々から伝わってくるのが、連載の辛さ。特に週刊の連載はやっぱり相当辛いらしい。自分のプライベートがまるでなくなってしまう状況でも、それでも書き続ける、やっぱりマンガにはそれだけの力があるんだな、と感じました。
僕は正直に言えば、子どもの頃からあんまりマンガに触れてこなかったんで、マンガに強い思い入れみたいなものはないんですね。でも、それに命賭けてると表現してもおかしくないぐらい全力を注いでいる人がいる、ということを知れてよかったな、と思います。
色んな断片的な話を聞くと、あの都条例の話で、マンガはかなり壊滅的なダメージを受けるのではないか、と言われていますね。やっぱり、マンガの文化を築いてきた先人の功績なんかも考え合わせると、やっぱりそれはあまりにも大きな損失になるだろうな、と思います。この本自体は、凄くオススメというわけでもないけど、マンガを規制しようとしている頭の固い人たちに読んで欲しいな、と思いました。
ロッキング・オン「マンガの道 私はなぜマンガ家になったのか」
本書は、「コミックH」という雑誌に載っていた「マンガ家・ロングインタビュー」を再構成して書籍化したものです。載っているマンガ家は以下の通り。
安野モヨコ・山本直樹・江口寿史・古屋兎丸・小池田マヤ・山田芳裕・吉田戦車・矢沢あい・しりあがり寿・内田春菊・ハロルド作石
それぞれ、マンガ家になる前にどんなことをしていたのか、どうしてマンガ家になりたいと思ったのか、デビューしてからどんなことをやってきたのか、などということについて語っています。
僕は、普段マンガを全然読まないので(今でも買って読んでる唯一のマンガは「名探偵コナン」だけ)、ここで挙げられているマンガ家さんたちがどれぐらい凄いのかみたいなのは正直よくわからないわけなんです。古屋兎丸のマンガは、乙一とコラボしてた作品で読んだことがあるのと、矢沢あいの「NANA」の1巻だけ読んだことがあるぐらい。あと、名前は知ってるけど読んだことがない人と、名前さえ知らなかった人といて、まあどうしてこの本を読もうと思ったのか、自分でもよくわからなかったりするんだけど。
でも、ちょっと念頭にあったのは、都条例のことです。マンガを規制するみたいなアレ。僕は普段マンガ読まない人間だけど、あの条例はいかんだろう、と思ってるわけなんですけど、まあその辺りのことは詳しくは書かないけど、いずれにしても、マンガ家がどういう気持ちでマンガと向き合っているのか、法律を作った人間は想像出来てないんだろうな、と思っていたんですね。
でも、それは僕の方も同じで、だからちょっと興味があったんだと思います。
色んな立ち位置の人がいて面白いと思いました。マンガを描くことは純粋に職業だと思っている人もいれば(もちろんそんな風に言っていても、本当はそれだけじゃないんだとは思いますけど)、描かずにはいられないという人もいる。マンガを通じて何を目指しているのかというのも違えば、マンガ家になりたいと思った理由もいろいろで、やっぱり『マンガ』とか『マンガ家』とかで一括りにしたらいかんな、と感じました。
でも、ほとんどの人に共通してたのが(そうではない人もいたけど)、子どもの頃から絵を描くのが好きだったり、実際にコマ割りしてマンガを描いていたりという人ばっかりでした。それに、これは何人かですけど、『マンガ家になりたい、じゃなくて、なるもんだと思ってた』という人もいて、やっぱりどんな世界でもそうだろうけど、第一線で走り続けるような人というのは、情熱だけではない何かを持ってるんだろうな、と思いました。
マンガって、どうしても色んな創作活動の中で一段低く見られがちだけど(そういう発言をしている人もいた。その人はそれを別に否定的には言ってなくて、マンガはそれでいいんだ、って言ってたけど)、これだけ多くの人から支持されているものが一段低いわけがないと思うんですよね。それとも、素晴らしいものは一部の文化人にしか理解出来ないよーだ、みたいなそういう選民思想があるんでしょうかね。都条例を作ったお偉いさんにはそういう思考がありそうですけど。マンガはダメだけど、小説は素晴らしいものだ、みたいな。マンガと小説での扱いの差については、マンガも小説も両方書いている内田春菊さんが言っていました。やっぱり、小説の方が扱い的に断然上になるみたいですね。
あと、端々から伝わってくるのが、連載の辛さ。特に週刊の連載はやっぱり相当辛いらしい。自分のプライベートがまるでなくなってしまう状況でも、それでも書き続ける、やっぱりマンガにはそれだけの力があるんだな、と感じました。
僕は正直に言えば、子どもの頃からあんまりマンガに触れてこなかったんで、マンガに強い思い入れみたいなものはないんですね。でも、それに命賭けてると表現してもおかしくないぐらい全力を注いでいる人がいる、ということを知れてよかったな、と思います。
色んな断片的な話を聞くと、あの都条例の話で、マンガはかなり壊滅的なダメージを受けるのではないか、と言われていますね。やっぱり、マンガの文化を築いてきた先人の功績なんかも考え合わせると、やっぱりそれはあまりにも大きな損失になるだろうな、と思います。この本自体は、凄くオススメというわけでもないけど、マンガを規制しようとしている頭の固い人たちに読んで欲しいな、と思いました。
ロッキング・オン「マンガの道 私はなぜマンガ家になったのか」
泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部(酒見賢一)
内容に入ろうと思います。とはいえ、この作品の内容紹介は難しいんだなぁ。
本書は、『酒見版三国志』というべき作品です。とはいえ、これがまあとんでもないシロモノなわけなんですけど、それはとりあえずさて置いて。
まず僕の話をしましょう。僕は基本的に歴史についてあまりにも無知で、もちろん三国志についてもほとんど知らない。本書を読む前に僕が持っていた三国志についての知識を書くと、
①劉備という人が出てくる(何をした人かは知らない)
②諸葛孔明という人が出てくる(何をした人かは知らない)
③魏呉蜀の時代の話である(魏呉蜀が三つの国の名前だということは知っている)
たったこれだけである。あとのことはまるっきり知らない。もちろん本書を読んで、ああそういえばそんな名前聞いたことあるなぁ、みたいな人は出てくるんだけど、でも何をした人かは知らないわけで、ほぼ三国志については無知だと言っていいでしょう。
その僕が、ゲラゲラ笑いながら読んだ、といえば、漠然とどんな小説なのか想像してもらえるんじゃないか、と思ったり思わなかったり。
そもそも三国志について知識がない僕なんで、ちゃんとした説明は出来ませんが、本書は、基本的に三国志のストーリーに沿いつつ(解説にそう書いてあった)、諸葛孔明が劉備の三顧の礼を受けて三国志の世界に登場するまで、が描かれている作品です。
とはいえ、これがまあ一筋縄ではいかない。そもそも本書は小説のはずなのに、著者による一人称なのだ。意味がわからないだろう。僕もどう説明したらいいんだか分からない。とにかく、著者が読者に語りかけるような感じで小説が進んでいくという、まっこと奇妙奇天烈な話なのだ。
だからとにかく読みやすい。三国志無知な僕でもすいすい読めてしまうのですよ。うまく説明できないんで、ちょっと文章を抜き出してみます。本書の初めの方にある、三国志の時代って一体どんな時代だったのか、というような説明をしている文章です。
『現代の、平和を愛する日本人たちが見たら、身震いするほどおぞましい時代のはずである。
―のそりと馬を下りてレストランに入ってきた髭面の巨漢の服が裂けてあまりに汚いので、ウエイターがそるおそる注意すると、
「いささか戦塵にまみれてき申した」
と真顔で言われたり、ただいま、と元気に帰ってきた息子が片手にまだ血のしたたっている首をぶらさげていて、
「でへへへ」
と照れくさそうに笑って、
「わが君に検分してもらわなくちゃならないんだよ。腐ると臭うから冷蔵庫に入れといて」
と、ママに渡して晩御飯を食欲旺盛にかきこみ始めたりするのが日常茶飯事であったのだ。』
ずっとこんな感じの文章で話が進んでいきます。これがまず本書の凄いところですね。この、なんというか、文章の軽快さというか、語りの重力のなさというか、すっと入れてしまう。比喩なんかも、現代的な比喩がバンバンでてきて、凄く分かりやすい。歴史小説が基本的に得意ではない僕でも、驚くほどすいすい読めてしまうんですね。これは凄い。
さらに凄いのが、とにかく著者が三国志の色んなところにツッコミを入れる、というところ。これが本書の最大の魅力かもしれません。とにかく、著者自身が三国志のおかしなところに突っ込む突っ込む。『どうして諸葛孔明が三顧の礼によってあっさり劉備の軍門に降ったのか、何度読んでもわからない』とか、『劉備がどうして仁徳の人と呼ばれているのかまるでわからない』とか、そういう著者自身が三国志を読んでいて疑問に思った点をズバズバ指摘するんですね。
僕は正直、三国志を何一つ読んだことがないので、誰がどんな風に描かれているんだかまるで知らないんですけど、きっと誰もがかっこよく、そしてすべてが必然であるかのように、なんとも素晴らしい描かれ方をしているんだろう、と思ったりするんです。だってこれだけ多くの人を魅了する物語なんだから、そりゃあかっこ良く描かれているだろうし、物語の筋も破綻ない感じに仕上がっているんでしょう、きっと。
でも、僕は本書以外の三国志を知らないわけで、そうなると、三国志ってのはなんてムチャクチャな物語なんだろうなぁ、としか思えなくなってしまいますね。
だって、本書を読む限りどうしたって諸葛孔明は誇大妄想僻のあるただのアホだし(本書は、劉備に仕えるところまでしか描かれないんで、まあ実際戦術とかでは凄かったりするのかもだけど)、劉備はただのマヌケだし(ただ、相手を持ち上げてその気にさせてしまう力は凄くて、ちょっとスティーブ・ジョブズっぽいけど)、それ以外の人間ももろもろいろんなものが破綻しているとしか思えない人たちばっかりで、ちゃんとした三国志の方では、こういう人たちがどんなマジックによってかっこ良く見えているんだろう、と思えてしまいます。
ストーリーや設定もなかなかムチャクチャで、一番笑ったのが諸葛孔明の妻が作る機械人形ですね。孔明の妻はロボット作りの才能があるらしく、とにかくいろんな機械人形が出てくるんだけど、ンなアホな、っていう感じです。冒頭にチラッと出てくるだけだけど、実際の戦闘でも諸葛孔明はロボット兵器軍を使って戦ったそうで、三国志を知らない僕には、ホントかよ?ってな感じなのだけど、斬新だと思います、ホント。
まあ、実際ちゃんとした三国志の方では、劉備も諸葛孔明もちゃんと描かれているんだろう、と思うんです。というか、一応同じ話(「三国志演義」という本があるらしい)をベースにしているはずで、本書も他の三国志と同じ設定・展開で進んでいくはずです。ただそこに、著者の独自の解釈が加わる。この独自の解釈が曲者で、著者の解釈によれば、諸葛孔明はただのアホで、劉備はただのマヌケになってしまう。
ちゃんとした三国志について詳しく知っていれば、どういう点が違うのか、あるいはこういうところは納得出来たみたいな話が書けるんだろうけど、僕は残念ながらちゃんとした三国志を知らないんでそういう話はまるで出来ないわけなんですけど、とにかく言えることは、ちょっと三国志に興味が湧きました。世の中に、『酒見版三国志』から三国志の世界に入った人というのがどれだけいるのか分かりませんが、まあ大分少数派でしょう。でも、結構新鮮でいいかもしれません。三国志っていうと、中国の歴史かぁ、人の名前覚えられねぇなぁ、とマイナスの発想しか浮かんでこないんですけど、本書はそういうものを吹き飛ばしてくれました。
とはいえ、じゃあ何か三国志を読むかというと、読まないだろうなぁ。どれも長いですからね。僕は『酒見版三国志』でいいかな、と思います。
三国志なんか知らないし興味もないし、歴史小説とかホント苦手、という人に是非読んで欲しいです。まさに僕がそういう人間なんですけど、これはメチャクチャ面白かったです!もちろん、何かちゃんとした三国志を先に読んでいる方がより面白いんでしょうけど、他の三国志をまったく読んだことのない僕が断言します。この作品から三国志に入っても全然問題ないです!これは続きが気になるなぁ。これは、「数学ガール」みたいなもので、数学があまり得意ではないという人が「数学ガール」を読んだらたぶんちょっと好きになれるように、歴史の苦手な人間が本書を読んだら、ちょっとだけ歴史に興味を持てるようになるかもしれない、そんな本だと思います。もちろん、歴史・三国志に充分興味も関心も知識もある、という人にも楽しめる作品だと思います(というか、三国志を知ってる方がより楽しめることでしょう)。普通だったら絶対に手に取らない作品なので、この作品を読めたのは凄くよかったと思います。是非読んでみてください!
酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部」
本書は、『酒見版三国志』というべき作品です。とはいえ、これがまあとんでもないシロモノなわけなんですけど、それはとりあえずさて置いて。
まず僕の話をしましょう。僕は基本的に歴史についてあまりにも無知で、もちろん三国志についてもほとんど知らない。本書を読む前に僕が持っていた三国志についての知識を書くと、
①劉備という人が出てくる(何をした人かは知らない)
②諸葛孔明という人が出てくる(何をした人かは知らない)
③魏呉蜀の時代の話である(魏呉蜀が三つの国の名前だということは知っている)
たったこれだけである。あとのことはまるっきり知らない。もちろん本書を読んで、ああそういえばそんな名前聞いたことあるなぁ、みたいな人は出てくるんだけど、でも何をした人かは知らないわけで、ほぼ三国志については無知だと言っていいでしょう。
その僕が、ゲラゲラ笑いながら読んだ、といえば、漠然とどんな小説なのか想像してもらえるんじゃないか、と思ったり思わなかったり。
そもそも三国志について知識がない僕なんで、ちゃんとした説明は出来ませんが、本書は、基本的に三国志のストーリーに沿いつつ(解説にそう書いてあった)、諸葛孔明が劉備の三顧の礼を受けて三国志の世界に登場するまで、が描かれている作品です。
とはいえ、これがまあ一筋縄ではいかない。そもそも本書は小説のはずなのに、著者による一人称なのだ。意味がわからないだろう。僕もどう説明したらいいんだか分からない。とにかく、著者が読者に語りかけるような感じで小説が進んでいくという、まっこと奇妙奇天烈な話なのだ。
だからとにかく読みやすい。三国志無知な僕でもすいすい読めてしまうのですよ。うまく説明できないんで、ちょっと文章を抜き出してみます。本書の初めの方にある、三国志の時代って一体どんな時代だったのか、というような説明をしている文章です。
『現代の、平和を愛する日本人たちが見たら、身震いするほどおぞましい時代のはずである。
―のそりと馬を下りてレストランに入ってきた髭面の巨漢の服が裂けてあまりに汚いので、ウエイターがそるおそる注意すると、
「いささか戦塵にまみれてき申した」
と真顔で言われたり、ただいま、と元気に帰ってきた息子が片手にまだ血のしたたっている首をぶらさげていて、
「でへへへ」
と照れくさそうに笑って、
「わが君に検分してもらわなくちゃならないんだよ。腐ると臭うから冷蔵庫に入れといて」
と、ママに渡して晩御飯を食欲旺盛にかきこみ始めたりするのが日常茶飯事であったのだ。』
ずっとこんな感じの文章で話が進んでいきます。これがまず本書の凄いところですね。この、なんというか、文章の軽快さというか、語りの重力のなさというか、すっと入れてしまう。比喩なんかも、現代的な比喩がバンバンでてきて、凄く分かりやすい。歴史小説が基本的に得意ではない僕でも、驚くほどすいすい読めてしまうんですね。これは凄い。
さらに凄いのが、とにかく著者が三国志の色んなところにツッコミを入れる、というところ。これが本書の最大の魅力かもしれません。とにかく、著者自身が三国志のおかしなところに突っ込む突っ込む。『どうして諸葛孔明が三顧の礼によってあっさり劉備の軍門に降ったのか、何度読んでもわからない』とか、『劉備がどうして仁徳の人と呼ばれているのかまるでわからない』とか、そういう著者自身が三国志を読んでいて疑問に思った点をズバズバ指摘するんですね。
僕は正直、三国志を何一つ読んだことがないので、誰がどんな風に描かれているんだかまるで知らないんですけど、きっと誰もがかっこよく、そしてすべてが必然であるかのように、なんとも素晴らしい描かれ方をしているんだろう、と思ったりするんです。だってこれだけ多くの人を魅了する物語なんだから、そりゃあかっこ良く描かれているだろうし、物語の筋も破綻ない感じに仕上がっているんでしょう、きっと。
でも、僕は本書以外の三国志を知らないわけで、そうなると、三国志ってのはなんてムチャクチャな物語なんだろうなぁ、としか思えなくなってしまいますね。
だって、本書を読む限りどうしたって諸葛孔明は誇大妄想僻のあるただのアホだし(本書は、劉備に仕えるところまでしか描かれないんで、まあ実際戦術とかでは凄かったりするのかもだけど)、劉備はただのマヌケだし(ただ、相手を持ち上げてその気にさせてしまう力は凄くて、ちょっとスティーブ・ジョブズっぽいけど)、それ以外の人間ももろもろいろんなものが破綻しているとしか思えない人たちばっかりで、ちゃんとした三国志の方では、こういう人たちがどんなマジックによってかっこ良く見えているんだろう、と思えてしまいます。
ストーリーや設定もなかなかムチャクチャで、一番笑ったのが諸葛孔明の妻が作る機械人形ですね。孔明の妻はロボット作りの才能があるらしく、とにかくいろんな機械人形が出てくるんだけど、ンなアホな、っていう感じです。冒頭にチラッと出てくるだけだけど、実際の戦闘でも諸葛孔明はロボット兵器軍を使って戦ったそうで、三国志を知らない僕には、ホントかよ?ってな感じなのだけど、斬新だと思います、ホント。
まあ、実際ちゃんとした三国志の方では、劉備も諸葛孔明もちゃんと描かれているんだろう、と思うんです。というか、一応同じ話(「三国志演義」という本があるらしい)をベースにしているはずで、本書も他の三国志と同じ設定・展開で進んでいくはずです。ただそこに、著者の独自の解釈が加わる。この独自の解釈が曲者で、著者の解釈によれば、諸葛孔明はただのアホで、劉備はただのマヌケになってしまう。
ちゃんとした三国志について詳しく知っていれば、どういう点が違うのか、あるいはこういうところは納得出来たみたいな話が書けるんだろうけど、僕は残念ながらちゃんとした三国志を知らないんでそういう話はまるで出来ないわけなんですけど、とにかく言えることは、ちょっと三国志に興味が湧きました。世の中に、『酒見版三国志』から三国志の世界に入った人というのがどれだけいるのか分かりませんが、まあ大分少数派でしょう。でも、結構新鮮でいいかもしれません。三国志っていうと、中国の歴史かぁ、人の名前覚えられねぇなぁ、とマイナスの発想しか浮かんでこないんですけど、本書はそういうものを吹き飛ばしてくれました。
とはいえ、じゃあ何か三国志を読むかというと、読まないだろうなぁ。どれも長いですからね。僕は『酒見版三国志』でいいかな、と思います。
三国志なんか知らないし興味もないし、歴史小説とかホント苦手、という人に是非読んで欲しいです。まさに僕がそういう人間なんですけど、これはメチャクチャ面白かったです!もちろん、何かちゃんとした三国志を先に読んでいる方がより面白いんでしょうけど、他の三国志をまったく読んだことのない僕が断言します。この作品から三国志に入っても全然問題ないです!これは続きが気になるなぁ。これは、「数学ガール」みたいなもので、数学があまり得意ではないという人が「数学ガール」を読んだらたぶんちょっと好きになれるように、歴史の苦手な人間が本書を読んだら、ちょっとだけ歴史に興味を持てるようになるかもしれない、そんな本だと思います。もちろん、歴史・三国志に充分興味も関心も知識もある、という人にも楽しめる作品だと思います(というか、三国志を知ってる方がより楽しめることでしょう)。普通だったら絶対に手に取らない作品なので、この作品を読めたのは凄くよかったと思います。是非読んでみてください!
酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明 第壱部」
シューマンの指(奥泉光)
内容に入ろうと思います。
本書は、『私』が書いた手記、という体裁で物語が進んでいきます。
音大に進んだものの中退し、その後医学部に入り直した私は、音大中退を前後して、音楽からは一切遠ざかっていた。それは、永嶺修人との出会いからすべてが始まった。
シューマンに魅せられた天才ピアニスト・永嶺修人。修人は、私のいる公立高校に入学することになった。他者をあまり寄せ付けない雰囲気を持つ修人とかなり親しく出来たのは、後に【ダヴィッド同盟】という集まりとなる、私と鹿内堅一郎ぐらいなものだった。
私は修人から、音楽について、とりわけシューマンについて多くを学んだ。私は、修人の良き弟子だった。また修人は、『音楽は、弾かなくても常にそこにある』という考え方の持ち主で、だから私が修人のピアノを聞いたのは、生涯でたった三度だけだった。
とあることをきっかけにして、修人は指を失った。
そのはずなのだが、後に留学した鹿内堅一郎から、修人がピアノを弾いているのを目撃した、という手紙が届く。果たして…。
というような話です。というか、というような話ではないのだけど、相変わらず奥泉光の作品は内容紹介が難しいのなんの。
僕は奥泉光が好きで、結構読んでるんだけど、本作も奥泉光らしい作品だったな、という感じです。でも、その『奥泉光らしさ』みたいなものは、ちょっとうまく説明できないんですよね。
淡々としたトーンで進んでいく物語なんですが、深さが凄いですね。本作を大雑把に切り取ってしまえば、『高校時代に出会った、天才ピアニストとの交流』という感じの作品なんですけど、そういう物語だとは思えないほど重厚感があります。この重厚感は、奥泉光のどんなタイプの作品にも共通しているな、という感じがします。
基本的に、私と修人がどんなやり取りをしたのか、という話がメインになります。私が修人のどんなところに憧れ、また悩まされてきたのか。あるは、修人がどれだけ天才で、高校生ながらどれだけ奥の深い人物だったのか。私と修人の周りでどんな出来事が起き、それが二人の関係にどういう影響を与えていったのか、というような話が、事細かに描かれていく。音楽という、僕には馴染みのないモチーフを介してではあるのだけど、その緊密さみたいなのが凄い話だったなぁ、という感じがします。
とはいえ、僕には馴染みのない、音楽というものをモチーフにしている点が、ちょっと辛かったというところもあります。そもそも普段から音楽は聞きませんが、さらに本書で扱われているのは、いわゆるクラシック音楽。シューマンやらバッハやらという昔の作曲家の話とか、ピアノの演奏の微に入り細に入りと言った描写は、正直僕には辛い部分がありました。シューマンがどんな意図で作曲をしたのか、またその背景にはシューマンのどんな個人的な事情があったのか、という話は、正直なところあまり興味が持てなかったし、ピアノの演奏についてあらゆる比喩を駆使してその情感を伝えようとする文章がそこかしこにあるのだけど、これも僕の拙い想像力では、なかなか実感するのが難しいものがありました。そういう、僕の不得意とするような描写・文章が、作中で結構な割合を占めているので、僕にとってはかなり取っ付きにくい作品で、最後までなかなか慣れない作品ではありました。
正直、初めて読む奥泉作品が本書だったら、もしかしたら途中で諦めてたかもしれないなぁ、と思います。僕は、奥泉光という作家が好きだし、凄い作家だと思っているので、最後まで読もうと思いますが、そういうことを知らないまま読み始めたら、ちょっと途中で断念した可能性もあります。いや、さすがにそこまではいかなかったかな。とはいえ、ちょっと読むのに苦労する作品ではありました。
ラストはなかなかの展開です。ただ、帯に『ラスト20ページに待ち受ける、未体験の衝撃と恍惚』と書くのは、ちょっと間違ってるような気はしました。そういう風に書くと、物語の主眼がそこ(つまりラストの衝撃)にあるように思えちゃうけど、やっぱりあくまでそれはプラスアルファであって、本書の主眼は、私と修人の濃密なやり取りの描写です。帯にそんな風に書くことで、『ラストにどんなことが待ち受けているんだろう』という過剰な期待をさせるばかりか、ラストに至る過程までを疎かに読ませてしまう可能性があるよなぁと思うと、やっぱりこういう帯の文句はちょっとなぁ、と思うのでした。
さすが奥泉光と思える作品でした。正直、クラシック音楽に関する描写がかなり多いので、そういう部分を辛く感じられるという人はいるだろうと思いますけど、是非最後まで読んでほしいです。僕のオススメとしては、奥泉光の作品を別に先で何冊か読んで、なるほどこういう作家なのか、と思ってから読むといいんじゃないかなぁ、という気がします。
奥泉光「シューマンの指」
本書は、『私』が書いた手記、という体裁で物語が進んでいきます。
音大に進んだものの中退し、その後医学部に入り直した私は、音大中退を前後して、音楽からは一切遠ざかっていた。それは、永嶺修人との出会いからすべてが始まった。
シューマンに魅せられた天才ピアニスト・永嶺修人。修人は、私のいる公立高校に入学することになった。他者をあまり寄せ付けない雰囲気を持つ修人とかなり親しく出来たのは、後に【ダヴィッド同盟】という集まりとなる、私と鹿内堅一郎ぐらいなものだった。
私は修人から、音楽について、とりわけシューマンについて多くを学んだ。私は、修人の良き弟子だった。また修人は、『音楽は、弾かなくても常にそこにある』という考え方の持ち主で、だから私が修人のピアノを聞いたのは、生涯でたった三度だけだった。
とあることをきっかけにして、修人は指を失った。
そのはずなのだが、後に留学した鹿内堅一郎から、修人がピアノを弾いているのを目撃した、という手紙が届く。果たして…。
というような話です。というか、というような話ではないのだけど、相変わらず奥泉光の作品は内容紹介が難しいのなんの。
僕は奥泉光が好きで、結構読んでるんだけど、本作も奥泉光らしい作品だったな、という感じです。でも、その『奥泉光らしさ』みたいなものは、ちょっとうまく説明できないんですよね。
淡々としたトーンで進んでいく物語なんですが、深さが凄いですね。本作を大雑把に切り取ってしまえば、『高校時代に出会った、天才ピアニストとの交流』という感じの作品なんですけど、そういう物語だとは思えないほど重厚感があります。この重厚感は、奥泉光のどんなタイプの作品にも共通しているな、という感じがします。
基本的に、私と修人がどんなやり取りをしたのか、という話がメインになります。私が修人のどんなところに憧れ、また悩まされてきたのか。あるは、修人がどれだけ天才で、高校生ながらどれだけ奥の深い人物だったのか。私と修人の周りでどんな出来事が起き、それが二人の関係にどういう影響を与えていったのか、というような話が、事細かに描かれていく。音楽という、僕には馴染みのないモチーフを介してではあるのだけど、その緊密さみたいなのが凄い話だったなぁ、という感じがします。
とはいえ、僕には馴染みのない、音楽というものをモチーフにしている点が、ちょっと辛かったというところもあります。そもそも普段から音楽は聞きませんが、さらに本書で扱われているのは、いわゆるクラシック音楽。シューマンやらバッハやらという昔の作曲家の話とか、ピアノの演奏の微に入り細に入りと言った描写は、正直僕には辛い部分がありました。シューマンがどんな意図で作曲をしたのか、またその背景にはシューマンのどんな個人的な事情があったのか、という話は、正直なところあまり興味が持てなかったし、ピアノの演奏についてあらゆる比喩を駆使してその情感を伝えようとする文章がそこかしこにあるのだけど、これも僕の拙い想像力では、なかなか実感するのが難しいものがありました。そういう、僕の不得意とするような描写・文章が、作中で結構な割合を占めているので、僕にとってはかなり取っ付きにくい作品で、最後までなかなか慣れない作品ではありました。
正直、初めて読む奥泉作品が本書だったら、もしかしたら途中で諦めてたかもしれないなぁ、と思います。僕は、奥泉光という作家が好きだし、凄い作家だと思っているので、最後まで読もうと思いますが、そういうことを知らないまま読み始めたら、ちょっと途中で断念した可能性もあります。いや、さすがにそこまではいかなかったかな。とはいえ、ちょっと読むのに苦労する作品ではありました。
ラストはなかなかの展開です。ただ、帯に『ラスト20ページに待ち受ける、未体験の衝撃と恍惚』と書くのは、ちょっと間違ってるような気はしました。そういう風に書くと、物語の主眼がそこ(つまりラストの衝撃)にあるように思えちゃうけど、やっぱりあくまでそれはプラスアルファであって、本書の主眼は、私と修人の濃密なやり取りの描写です。帯にそんな風に書くことで、『ラストにどんなことが待ち受けているんだろう』という過剰な期待をさせるばかりか、ラストに至る過程までを疎かに読ませてしまう可能性があるよなぁと思うと、やっぱりこういう帯の文句はちょっとなぁ、と思うのでした。
さすが奥泉光と思える作品でした。正直、クラシック音楽に関する描写がかなり多いので、そういう部分を辛く感じられるという人はいるだろうと思いますけど、是非最後まで読んでほしいです。僕のオススメとしては、奥泉光の作品を別に先で何冊か読んで、なるほどこういう作家なのか、と思ってから読むといいんじゃないかなぁ、という気がします。
奥泉光「シューマンの指」
天使の眠り(岸田るり子)
内容に入ろうと思います。
京都の医大に勤める秋沢は、同僚の結婚式の場で、かつてほんの短い期間だけ付き合っていたことのある亜木帆一二三と13年ぶりに再会した。一二三はある日突然秋沢の前から姿を消してしまい、秋沢の中にしこりを残していたのだ。
一二三は、40代とは思えない若さと美貌を維持していた。しかし、どうも秋沢にはおかしく見える。一二三がどうにも別人のようにしか見えないのだ。しかし一二三の隣には、13年前既に生まれていた娘の江真がいた。別人のはずがない。一体どういうことなのだろうか。
それから秋沢は一二三のことで頭がいっぱいになってしまうのだけど、それから驚くべき事実を知ることになる。なんと一二三の愛した男たちが、次々と殺されているのだった…。
というような話です。
うーむ、って感じですね。もしこの作品を、僕が読書をし始めた頃に読んでれば、ほどほどに面白いかな、と思える作品だったかもしれません。でも、色んな素晴らしい本をたくさん読んできた僕としては、なんともなぁ、という感じでした。
いや、特別悪い点があるわけではないと思います。文章もキャラクターも設定も展開も、全体的にまあまあです。大きな欠点はない。でも、これと言って魅力的な部分もないんですよね。凄く良い、というところも特にない。
でも、あくまでこれは僕の印象なんですけど、そういうタイプの本が結構売れるんだよなぁ。平均的というか、誰が読んでも『凄くつまらなくもなかったけど凄く良かったってほどでもない』という感想になりそうな本が、最近はベストセラーになってしまうような印象があります。
まあそんなわけで、僕としてはオススメはしません。
岸田るり子「天使の眠り」
京都の医大に勤める秋沢は、同僚の結婚式の場で、かつてほんの短い期間だけ付き合っていたことのある亜木帆一二三と13年ぶりに再会した。一二三はある日突然秋沢の前から姿を消してしまい、秋沢の中にしこりを残していたのだ。
一二三は、40代とは思えない若さと美貌を維持していた。しかし、どうも秋沢にはおかしく見える。一二三がどうにも別人のようにしか見えないのだ。しかし一二三の隣には、13年前既に生まれていた娘の江真がいた。別人のはずがない。一体どういうことなのだろうか。
それから秋沢は一二三のことで頭がいっぱいになってしまうのだけど、それから驚くべき事実を知ることになる。なんと一二三の愛した男たちが、次々と殺されているのだった…。
というような話です。
うーむ、って感じですね。もしこの作品を、僕が読書をし始めた頃に読んでれば、ほどほどに面白いかな、と思える作品だったかもしれません。でも、色んな素晴らしい本をたくさん読んできた僕としては、なんともなぁ、という感じでした。
いや、特別悪い点があるわけではないと思います。文章もキャラクターも設定も展開も、全体的にまあまあです。大きな欠点はない。でも、これと言って魅力的な部分もないんですよね。凄く良い、というところも特にない。
でも、あくまでこれは僕の印象なんですけど、そういうタイプの本が結構売れるんだよなぁ。平均的というか、誰が読んでも『凄くつまらなくもなかったけど凄く良かったってほどでもない』という感想になりそうな本が、最近はベストセラーになってしまうような印象があります。
まあそんなわけで、僕としてはオススメはしません。
岸田るり子「天使の眠り」
猫鳴り(沼田まほかる)
内容に入ろうと思います。
本書は、ある家で飼われることになったモンという猫を描いた作品です。
かなり高齢で妊娠した信枝は、しかし流産してしまう。夫の藤治との二人暮らし。生まれてくるはずだった子どものことにはなかなか触れられない重苦しい空気が続く。
ある日猫の鳴き声を耳にした信枝。近くで泣いているのが気に障り、少し遠くまで捨てに行く。しかし、何度捨てても、その猫は信枝の家まで戻ってくるのだった。
生き物は好きじゃない。そういう信枝に、藤治は言う。俺たち夫婦は、これから何度も喪った子どものことを思い返すんだ。飼ってやればいいじゃないか、と。
というような話です。
生き物を飼うというのが殊更苦手な僕には、凄く感動できる物語、という感じではなかったですね。恐らくこの物語は、猫じゃなくてもいいんだけど、ちゃんと生き物を飼ったことがあるか、生き物の死を看取ったことがある人にはなかなかグッと来る物語なんではないかな、と思いました。
生き物を飼うのが苦手なのは、いつか死ぬっていうのもあるけど、基本めんどくさがりなんで、世話とか出来ないんですね。というか逆か。その命を左右するのは自分だという責任感が強すぎるので、たぶん飼ったら物凄くきちんと世話してしまうことでしょう。それが想像できてしまうのがめんどくさいんだろうな、きっと。
昔実家でうさぎを飼ってたことがある。兄弟の誰かが飼いたいと言ったはずなのだけど(僕ではないはず)、結局最終的には母親がすべて世話をしていた。名前がついていたかどうかも覚えてないし、なんと死んだのかどうかも覚えてないんだよなぁ。誰かにあげたなんてことはないだろうから、いつか死んだんだろうとは思うんだけど、その記憶が全然ないのだ。こういうことを書くと、ショックでその記憶だけ抜け落ちてるんだろう、なんて思ってくれる人もいるかもしれないけど、僕の場合ただ記憶力が悪いだけで、小中高の頃のありとあらゆることをもはやほぼ忘れているんで、まあ別に普通です。
物語は、第一部と第三部は分かるんだけど、第二部だけがどうしても唐突で、何でいきなりこんな物語になるんだろうか、と思ってしまいました。いや、舞台とか設定とかは繋がってるんだけど、猫あんまり関係ないし、何故にいきなり少年の話?と思ったりしました。あれはちょっと唐突だったなぁ。
ちょっと僕にはあんまりという感じの作品でしたけど、生き物を飼ったことがある人、生き物の死を看取ったことがある人には胸に迫ってくるものがある作品なんじゃないかな、と思いました。興味がある人は読んでみてください。
沼田まほかる「猫鳴り」
本書は、ある家で飼われることになったモンという猫を描いた作品です。
かなり高齢で妊娠した信枝は、しかし流産してしまう。夫の藤治との二人暮らし。生まれてくるはずだった子どものことにはなかなか触れられない重苦しい空気が続く。
ある日猫の鳴き声を耳にした信枝。近くで泣いているのが気に障り、少し遠くまで捨てに行く。しかし、何度捨てても、その猫は信枝の家まで戻ってくるのだった。
生き物は好きじゃない。そういう信枝に、藤治は言う。俺たち夫婦は、これから何度も喪った子どものことを思い返すんだ。飼ってやればいいじゃないか、と。
というような話です。
生き物を飼うというのが殊更苦手な僕には、凄く感動できる物語、という感じではなかったですね。恐らくこの物語は、猫じゃなくてもいいんだけど、ちゃんと生き物を飼ったことがあるか、生き物の死を看取ったことがある人にはなかなかグッと来る物語なんではないかな、と思いました。
生き物を飼うのが苦手なのは、いつか死ぬっていうのもあるけど、基本めんどくさがりなんで、世話とか出来ないんですね。というか逆か。その命を左右するのは自分だという責任感が強すぎるので、たぶん飼ったら物凄くきちんと世話してしまうことでしょう。それが想像できてしまうのがめんどくさいんだろうな、きっと。
昔実家でうさぎを飼ってたことがある。兄弟の誰かが飼いたいと言ったはずなのだけど(僕ではないはず)、結局最終的には母親がすべて世話をしていた。名前がついていたかどうかも覚えてないし、なんと死んだのかどうかも覚えてないんだよなぁ。誰かにあげたなんてことはないだろうから、いつか死んだんだろうとは思うんだけど、その記憶が全然ないのだ。こういうことを書くと、ショックでその記憶だけ抜け落ちてるんだろう、なんて思ってくれる人もいるかもしれないけど、僕の場合ただ記憶力が悪いだけで、小中高の頃のありとあらゆることをもはやほぼ忘れているんで、まあ別に普通です。
物語は、第一部と第三部は分かるんだけど、第二部だけがどうしても唐突で、何でいきなりこんな物語になるんだろうか、と思ってしまいました。いや、舞台とか設定とかは繋がってるんだけど、猫あんまり関係ないし、何故にいきなり少年の話?と思ったりしました。あれはちょっと唐突だったなぁ。
ちょっと僕にはあんまりという感じの作品でしたけど、生き物を飼ったことがある人、生き物の死を看取ったことがある人には胸に迫ってくるものがある作品なんじゃないかな、と思いました。興味がある人は読んでみてください。
沼田まほかる「猫鳴り」
悪の教典(貴志祐介)
内容に入ろうと思います。
本書は、今年あらゆるランキングをかっさらった話題作で、貴志祐介の久々の長編小説です。
舞台は町田市にあるとある高校。そこに昨年から英語教師として勤務している蓮実聖司が主人公。
蓮実は学校内で「ハスミン」という愛称で呼ばれ、絶大な人気を誇っている。キレの良い口調で進められる授業は大人気だし、生徒のトラブルにもいち早く気づき、相談に乗り、解決してくれる。蓮実が受け持つクラスには、ハスミンの親衛隊なる組織まであり、学校側もあらゆるトラブルに強い蓮実に頼り切っているところがあった。
しかし中には、蓮実に対して不信感を抱く人間もいる。それは、ある種の「勘」としか言いようがない。周りを納得させるだけの理由は言えないのだけど、なんとなく危険を感じるのだ。
実際蓮実は、実に危険な人間であった。蓮実の真の目的な、学校内に王国を築くことであり、その目的のためにありとあらゆることを利用し、また問題が起これば、誰かを陥れあるいは殺すことも厭わない、そんなサイコパスだったのだ。もちろん、ボロを出すような人間ではない。その異常に高いIQと、周囲を洗脳してしまう強い力を利用して、邪魔な者は排除し、かつ欲しいものはすべて手に入れる、ということをずっとやってきた。
学校では、様々なトラブルが起こっていた。生徒が試験で大規模なカンニングを計画している、なんていうのはまだ可愛いもので、教師の飲酒運転や教師の自殺など、次から次へと大事件が起こる。もちろん裏では、蓮実があらゆる糸を引きつつ、自分の有利な状況を生み出そうとしているのだ。
そうやって、徐々に王国を築きあげてきた蓮実だったが、ある時これまでの努力を完全に放棄せざるおえない事態になってしまい…。
というような話です。
僕の感想は、『面白い!』というより、『巧い』という感じでした。このニュアンスの違い、分かってもらえるかなぁ。
面白いことはもちろん面白いんです。というか、当然のことではあるけど、並の作家の作品と比べると圧倒的に面白い。ただ、物凄く面白いんだけど、どことなく物足りなさを感じてもしまうんです。
これはちょっとうまくは説明できないですね。なんだろう。面白くないわけじゃないし、凄く面白いんだけど、でも突き抜けないというか。
だから、本書への印象は、『面白い!』というより『巧い』という感じなんですよね。
巧さは本当に際立っている、と感じました。まずもって、これだけの分量の作品を、まったく長さを感じさせずにスイスイ読ませてしまうというのは、物凄い力量だと感じました。『読みやすい文章を書く』というのは簡単なようで実は相当難しくて、それだけとってもこの作品の巧さはずば抜けていると思います。
それに、これだけ長い物語なのに、飽きさせないで最後まで読ませる、というのも凄い。全体の構成力が凄いし、テンポもいい。ドキドキハラハラさせて盛り上げるし、緩急もいい。とにかく、『小説』という器の完璧さっぷりはちょっと凄いですね。長い物語を破綻なく書ける作家はいるだろうし、長い物語を飽きさせずに読ませる作家もいるだろうし、読みやすい文章を書ける作家もいるだろうけど、それらを全部完璧にやってのける作家っていうのはなかなかいないんじゃないかな、と思います。
しかし、それだけ巧いのに、どうしてかこの物語は、『消費されていく物語』という印象が強いのだなぁ。これを引き合いに出すのはフェアではないと思うのだけど、ライトノベルを読んだ時のような感じ。凄く読みやすいし、面白いけど、でも『消費されていく物語』だなぁ、という感じ。そういう感じが本作にもあると思います。
まあ、題材もあると思いますけどね。貴志祐介の作家としての力量が高いんでそうは見えないけど、本書の題材って、ある種マンガ的というか映画的というか(マンガや映画を下に見てるとかそういうつもりはまったくないですよ)、そういう感じがします。だって、ハスミンみたいなサイコパスが教師をやってて自分の王国を作ろうとしてる、っていう設定だったらマンガみたいじゃないですか?貴志祐介の料理の仕方が巧いから、リアリティも抜群だし、作品自体は全然マンガ的ではないのだけど、題材だけみたら、という話。凄くライトな設計をされているのだけど、分量は重厚なので、そのギャップが何か変な感じを醸し出しているのかなぁ、という感じはします。
ホントにうまく説明は出来ないんだけど、ムチャクチャ面白いのは確かなんだけど、暇つぶしに読むような本を読んだみたいな読後感なんですね。それが不思議。
個人的には、蓮実の感覚は分かる。なんて書くと危険人物扱いされそうだけど。僕もどちらかと言えば、他人への共感が薄いと思う(それでよく小説が読めるな、と言われそうだけども)。蓮実のようにほぼゼロ、なんていうことはないから別に支障はないけど、時々、あーやっぱ俺は感情が薄いなぁ、と思うことがある。僕も蓮実のようにとんでもないIQの持ち主だったら、蓮実のような生き方を目指したかもしれないなぁ。凡人でよかった。
とにかく、純粋なエンタメだと思って読むと、メチャクチャ楽しめると思います。実際、すっげー面白いです。でもだからと言って、人に積極的に勧めるかというと、ちょっと微妙なラインですね。すっげー面白いんだけど、人に勧めるのはなんか違うような気がする、という不思議な作品です。なんだろうなぁ、ホントにうまく説明できない。買って損するような作品ではないので、ちょっと興味あるんだけど、という人は是非読んでみてください。
貴志祐介「悪の教典」
本書は、今年あらゆるランキングをかっさらった話題作で、貴志祐介の久々の長編小説です。
舞台は町田市にあるとある高校。そこに昨年から英語教師として勤務している蓮実聖司が主人公。
蓮実は学校内で「ハスミン」という愛称で呼ばれ、絶大な人気を誇っている。キレの良い口調で進められる授業は大人気だし、生徒のトラブルにもいち早く気づき、相談に乗り、解決してくれる。蓮実が受け持つクラスには、ハスミンの親衛隊なる組織まであり、学校側もあらゆるトラブルに強い蓮実に頼り切っているところがあった。
しかし中には、蓮実に対して不信感を抱く人間もいる。それは、ある種の「勘」としか言いようがない。周りを納得させるだけの理由は言えないのだけど、なんとなく危険を感じるのだ。
実際蓮実は、実に危険な人間であった。蓮実の真の目的な、学校内に王国を築くことであり、その目的のためにありとあらゆることを利用し、また問題が起これば、誰かを陥れあるいは殺すことも厭わない、そんなサイコパスだったのだ。もちろん、ボロを出すような人間ではない。その異常に高いIQと、周囲を洗脳してしまう強い力を利用して、邪魔な者は排除し、かつ欲しいものはすべて手に入れる、ということをずっとやってきた。
学校では、様々なトラブルが起こっていた。生徒が試験で大規模なカンニングを計画している、なんていうのはまだ可愛いもので、教師の飲酒運転や教師の自殺など、次から次へと大事件が起こる。もちろん裏では、蓮実があらゆる糸を引きつつ、自分の有利な状況を生み出そうとしているのだ。
そうやって、徐々に王国を築きあげてきた蓮実だったが、ある時これまでの努力を完全に放棄せざるおえない事態になってしまい…。
というような話です。
僕の感想は、『面白い!』というより、『巧い』という感じでした。このニュアンスの違い、分かってもらえるかなぁ。
面白いことはもちろん面白いんです。というか、当然のことではあるけど、並の作家の作品と比べると圧倒的に面白い。ただ、物凄く面白いんだけど、どことなく物足りなさを感じてもしまうんです。
これはちょっとうまくは説明できないですね。なんだろう。面白くないわけじゃないし、凄く面白いんだけど、でも突き抜けないというか。
だから、本書への印象は、『面白い!』というより『巧い』という感じなんですよね。
巧さは本当に際立っている、と感じました。まずもって、これだけの分量の作品を、まったく長さを感じさせずにスイスイ読ませてしまうというのは、物凄い力量だと感じました。『読みやすい文章を書く』というのは簡単なようで実は相当難しくて、それだけとってもこの作品の巧さはずば抜けていると思います。
それに、これだけ長い物語なのに、飽きさせないで最後まで読ませる、というのも凄い。全体の構成力が凄いし、テンポもいい。ドキドキハラハラさせて盛り上げるし、緩急もいい。とにかく、『小説』という器の完璧さっぷりはちょっと凄いですね。長い物語を破綻なく書ける作家はいるだろうし、長い物語を飽きさせずに読ませる作家もいるだろうし、読みやすい文章を書ける作家もいるだろうけど、それらを全部完璧にやってのける作家っていうのはなかなかいないんじゃないかな、と思います。
しかし、それだけ巧いのに、どうしてかこの物語は、『消費されていく物語』という印象が強いのだなぁ。これを引き合いに出すのはフェアではないと思うのだけど、ライトノベルを読んだ時のような感じ。凄く読みやすいし、面白いけど、でも『消費されていく物語』だなぁ、という感じ。そういう感じが本作にもあると思います。
まあ、題材もあると思いますけどね。貴志祐介の作家としての力量が高いんでそうは見えないけど、本書の題材って、ある種マンガ的というか映画的というか(マンガや映画を下に見てるとかそういうつもりはまったくないですよ)、そういう感じがします。だって、ハスミンみたいなサイコパスが教師をやってて自分の王国を作ろうとしてる、っていう設定だったらマンガみたいじゃないですか?貴志祐介の料理の仕方が巧いから、リアリティも抜群だし、作品自体は全然マンガ的ではないのだけど、題材だけみたら、という話。凄くライトな設計をされているのだけど、分量は重厚なので、そのギャップが何か変な感じを醸し出しているのかなぁ、という感じはします。
ホントにうまく説明は出来ないんだけど、ムチャクチャ面白いのは確かなんだけど、暇つぶしに読むような本を読んだみたいな読後感なんですね。それが不思議。
個人的には、蓮実の感覚は分かる。なんて書くと危険人物扱いされそうだけど。僕もどちらかと言えば、他人への共感が薄いと思う(それでよく小説が読めるな、と言われそうだけども)。蓮実のようにほぼゼロ、なんていうことはないから別に支障はないけど、時々、あーやっぱ俺は感情が薄いなぁ、と思うことがある。僕も蓮実のようにとんでもないIQの持ち主だったら、蓮実のような生き方を目指したかもしれないなぁ。凡人でよかった。
とにかく、純粋なエンタメだと思って読むと、メチャクチャ楽しめると思います。実際、すっげー面白いです。でもだからと言って、人に積極的に勧めるかというと、ちょっと微妙なラインですね。すっげー面白いんだけど、人に勧めるのはなんか違うような気がする、という不思議な作品です。なんだろうなぁ、ホントにうまく説明できない。買って損するような作品ではないので、ちょっと興味あるんだけど、という人は是非読んでみてください。
貴志祐介「悪の教典」
株式会社ハピネス計画(平山瑞穂)
内容に入ろうと思います。
氏家譲は、とある事情からリストラされ、それが理由ではないが婚約破棄もされ、生きる気力を失い、実家に戻ってブラブラしていた。そんなタイミングで、中学時代の友人である武蔵から連絡があり、仕事を手伝ってくれないか、という話がくる。
しかしその武蔵が頼んできた仕事というのが、夫婦で住んでいる武蔵の住居と同じ敷地内に住まわせている武蔵の愛人の『世話』をしてほしい、というものだった。
なぜかその愛人に『ロリコン』だと勘違いされた譲は、怪しげな神社でインチキ臭い占いのようなことをされる。
そこで譲は、中学時代同級生だった藤原たまりの姿を見かけるのだ。たまりの後ろ姿を追った譲は…。
というような話です。
文章と物語の構成力はさすが、という感じ。でも、他の平山瑞穂作品(とはいえ僕が読んだことがあるのは「ラス・マンチャス通信」「シュガーな俺」「プロトコル」だけだけど)と比べると若干弱いかな、という感じもする。平山瑞穂だったら、もう少し巧く、そして面白い物語に仕上げられたのではないか、という期待の現れですけども。
なんというか、物語がちょっと直線的に進んでいくな、という感じなんですね。普通の作家ならまあいいんですけど、平山瑞穂ならもう少し違う感じで書けるんじゃないか、と思ってしまいます。譲が失職して実家に戻ってから、藤原たまりに遭遇するまでの展開は、確かに面白いんだけど、でも直線的すぎるなぁ、と。ドミノが倒れていくように物事が進んでいってしまったのが、個人的にはちょっともったいないな、という感じがしました。
とはいえ、やっぱり変な話っぷりはさすがだな、と思います。直線的ではあるけど、譲がたまりに遭遇するまでの展開は、よくもまあこんな変なことが続くものだ、と思うような感じで楽しい。そもそも、譲が会社を辞めた(辞めさせられた)理由というのが平山瑞穂らしいし(こういう細かい話をさせたら平山瑞穂は強い、という印象がある)、インチキ神社の描写なんか、すごくクールに書いているのが逆に楽しい。こういう、ストーリーの展開そのものではない細かな描写がツボにハマることが多いんで、平山瑞穂の作品はかなり楽しいです。
たまりに遭遇してからの物語の展開も、さすが平山瑞穂という感じではあったのだけど、個人的には現実か異界か、立ち位置をどっちかに定めて欲しかったかも、という感じもしました。「ラス・マンチャス通信」のような異界めいた話でもいいし、「プロトコル」みたいに現実に即した物語でもいいんだけど、本書はそれが、僕の感覚では『中途半端に』融合されている感じがしてもったいない気がした。いや、それはさすがにちょっと著者に厳しすぎるかな。これはこれでいいんだけど、僕の好みとしては、という話です。結構変わった話が好きな僕としては、たまりに遭遇してからの展開は、そのまま異界にどっぷり、みたいなバージョンでもよかったなぁ、と思ってしまったのでした。
武蔵も、武蔵の愛人の優璃亜も、武蔵が経営する会社で働く倉田も、なんか凄いダメな人間なんです。ダメというか、アウトローというか、社会の規範からこぼれ落ちているというか…。でも僕には、彼らのたくましさがちょっと羨ましいんですね。僕はどちらかというと譲みたいな、ウダウダ悩んだり、小心者だったり、何かを適当にやるということがあんまり出来ない人間なんで、いいなぁと思いながら読んでました。まあ、彼らのような生き方はあんまりしたくはないですけど(笑)、ちょっとそういう性格に憧れます。
優璃亜の娘である樹雲が凄くよかったですね。いいキャラだったなと思います。子供が嫌いな僕でも可愛がれそうな気がします。
本書は、譲とたまりの物語という感じなんだけど、たまりの存在感はなかなかのものでした。色んな装飾を外してたまりという女性を見れば、たぶん凄くどこにでもいる女の子なんだろうけど、本書で様々な装飾がゴテゴテとつけられているので、なんか凄い女の子みたいな感じになってます。割と好きですね、こういう謎めいた女の子。
僕が平山瑞穂に勝手に抱いているイメージにちょっと届かなかった、みたいなところのある物語なので、僕的には凄くいいとは言えないんですけど、そういう事前知識なしで読めば、物語としてやっぱりさすがだなと思います。文章がとにかくうまいし、物語の展開のさせ方とか全体の構成とかもデビュー間もない新人の作品とは思えないです。表紙の絵は、単体では素敵だけど、作品には合ってないような気がするのは僕だけかなぁ。読んでみてください。
平山瑞穂「株式会社ハピネス計画」
氏家譲は、とある事情からリストラされ、それが理由ではないが婚約破棄もされ、生きる気力を失い、実家に戻ってブラブラしていた。そんなタイミングで、中学時代の友人である武蔵から連絡があり、仕事を手伝ってくれないか、という話がくる。
しかしその武蔵が頼んできた仕事というのが、夫婦で住んでいる武蔵の住居と同じ敷地内に住まわせている武蔵の愛人の『世話』をしてほしい、というものだった。
なぜかその愛人に『ロリコン』だと勘違いされた譲は、怪しげな神社でインチキ臭い占いのようなことをされる。
そこで譲は、中学時代同級生だった藤原たまりの姿を見かけるのだ。たまりの後ろ姿を追った譲は…。
というような話です。
文章と物語の構成力はさすが、という感じ。でも、他の平山瑞穂作品(とはいえ僕が読んだことがあるのは「ラス・マンチャス通信」「シュガーな俺」「プロトコル」だけだけど)と比べると若干弱いかな、という感じもする。平山瑞穂だったら、もう少し巧く、そして面白い物語に仕上げられたのではないか、という期待の現れですけども。
なんというか、物語がちょっと直線的に進んでいくな、という感じなんですね。普通の作家ならまあいいんですけど、平山瑞穂ならもう少し違う感じで書けるんじゃないか、と思ってしまいます。譲が失職して実家に戻ってから、藤原たまりに遭遇するまでの展開は、確かに面白いんだけど、でも直線的すぎるなぁ、と。ドミノが倒れていくように物事が進んでいってしまったのが、個人的にはちょっともったいないな、という感じがしました。
とはいえ、やっぱり変な話っぷりはさすがだな、と思います。直線的ではあるけど、譲がたまりに遭遇するまでの展開は、よくもまあこんな変なことが続くものだ、と思うような感じで楽しい。そもそも、譲が会社を辞めた(辞めさせられた)理由というのが平山瑞穂らしいし(こういう細かい話をさせたら平山瑞穂は強い、という印象がある)、インチキ神社の描写なんか、すごくクールに書いているのが逆に楽しい。こういう、ストーリーの展開そのものではない細かな描写がツボにハマることが多いんで、平山瑞穂の作品はかなり楽しいです。
たまりに遭遇してからの物語の展開も、さすが平山瑞穂という感じではあったのだけど、個人的には現実か異界か、立ち位置をどっちかに定めて欲しかったかも、という感じもしました。「ラス・マンチャス通信」のような異界めいた話でもいいし、「プロトコル」みたいに現実に即した物語でもいいんだけど、本書はそれが、僕の感覚では『中途半端に』融合されている感じがしてもったいない気がした。いや、それはさすがにちょっと著者に厳しすぎるかな。これはこれでいいんだけど、僕の好みとしては、という話です。結構変わった話が好きな僕としては、たまりに遭遇してからの展開は、そのまま異界にどっぷり、みたいなバージョンでもよかったなぁ、と思ってしまったのでした。
武蔵も、武蔵の愛人の優璃亜も、武蔵が経営する会社で働く倉田も、なんか凄いダメな人間なんです。ダメというか、アウトローというか、社会の規範からこぼれ落ちているというか…。でも僕には、彼らのたくましさがちょっと羨ましいんですね。僕はどちらかというと譲みたいな、ウダウダ悩んだり、小心者だったり、何かを適当にやるということがあんまり出来ない人間なんで、いいなぁと思いながら読んでました。まあ、彼らのような生き方はあんまりしたくはないですけど(笑)、ちょっとそういう性格に憧れます。
優璃亜の娘である樹雲が凄くよかったですね。いいキャラだったなと思います。子供が嫌いな僕でも可愛がれそうな気がします。
本書は、譲とたまりの物語という感じなんだけど、たまりの存在感はなかなかのものでした。色んな装飾を外してたまりという女性を見れば、たぶん凄くどこにでもいる女の子なんだろうけど、本書で様々な装飾がゴテゴテとつけられているので、なんか凄い女の子みたいな感じになってます。割と好きですね、こういう謎めいた女の子。
僕が平山瑞穂に勝手に抱いているイメージにちょっと届かなかった、みたいなところのある物語なので、僕的には凄くいいとは言えないんですけど、そういう事前知識なしで読めば、物語としてやっぱりさすがだなと思います。文章がとにかくうまいし、物語の展開のさせ方とか全体の構成とかもデビュー間もない新人の作品とは思えないです。表紙の絵は、単体では素敵だけど、作品には合ってないような気がするのは僕だけかなぁ。読んでみてください。
平山瑞穂「株式会社ハピネス計画」
ボクの彼氏はどこにいる?(石川大我)
内容に入ろうと思います。
本書は、あるゲイの青年が、自分がゲイだと気づき、それに悩み、それを隠すことに全身全霊をかけ、やがて自分以外のゲイに出会う機会を得て世界が広がっていくという、著者の実体験を描いた作品です。
小学生の頃から男の子を好きになっていた著者は、自分が他の人とは違うのだということを少しずつ分かっていく。でも、どうしたらいいのかがわからない。本当は光GENJIが好きなのに、周囲には浅香唯のファンだと言い続けなくてはいけないし、好きな子が出来ても、親友という立ち位置までしか行けない。本には、「同性愛の傾向は思春期を過ぎたら治る」と書かれていて(これは現在では否定されているらしい)、それを信じて、「思春期よ、早く終われ」と願っていたり。
でも、大学生になっても変わらなかった。著者は、ゲイであることを周囲に隠さなくてはいけないと必死になり、辛いこともたくさん経験した。
著者はそれまで、自分以外のゲイには出会ったことがなかった。自分以外に、そういう人が本当にいるんだろうか、と半信半疑でもあった。
そんなある日著者の家にパソコンがやってきた。洋品店を営む父親が、これで店のHPを作ってくれよ、と著者に言ってきたのだ。
これが著者の世界を変えた。まだパソコンが家庭にそこまで普及していなかった時代、著者はインターネットを通じて様々なゲイの存在や知識を知ることが出来、そこから世界がどんどん広がっていったのだ。
そうして著者が、ゲイの人たち向けのイベントを行う「ピアフレンズ」の主催者になるまでを描いた作品です。
なかなか面白かったです。僕は実生活の中でゲイの人(というか、ゲイであるとカミングアウトしている人)に出会ったことがないので、なるほどそういうところに苦労させられるのか、と思う話がたくさんありました。
例えば、男の子を好きになって、でもその男の子に彼女が出来てしまう、というのは、そういうことが起こるなということは想像出来る範囲だなと思うんです。でも例えば、修学旅行に行った時、寝言で好きな男性アイドルの名前を言ってしまうかもしれないから、誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きようと決めるとか、突然家に友人がやってきた時、「ゲイ関係の本」を見つけられないように「風呂が好きではない」という嘘をついてまで風呂からすぐ上がるとか、そういうのはやっぱりなかなか想像の及ばないことだなぁ、と思うんですね。そういう、知らなかった世界を知ることが出来る、という点でなかなか面白いと思いました。
この作品を読むと、『異性愛が当然とされている社会』が、どれだけ同性愛者を傷つけているのか、ということが、実感は出来ないにしてもなんとなく分かるようになります。僕らが何気なく発言していることが、実はゲイであることを隠して生きている人を無意識のウチに傷つけてしまっている、なんていうことは多いんだろうな、と思うんです。それは、同性愛者が傷つくという点でもちろんよくないことだけど、その一方で、異性愛者にしたって傷つけたくて傷つけているわけではないわけではないという点でも不幸だなと思うんです。
やはり今の日本では、ゲイであるということをカミングアウトするのは難しいんでしょうね。石原慎太郎がムチャクチャなことを言ってたりするっていうのもあるし、テレビでも面白おかしく取り上げられるというのもあるだろうけど(まあ僕もそういうテレビとか見て笑ってる人間なんで人のことは言えませんが)、それ以上に、僕らが同性愛者のことを知らなすぎるというのも大きいんだろうな、と思います。例え法律やメディアが同性愛者をどう扱おうと、周囲の人間の理解があればまだ気を楽にして生きられるだろうけど、やっぱりそれも難しいんだろうな、と思います。
僕はこれまでゲイだとカミングアウトしている人に出会ったことがないけど、もしかしたらゲイであることを隠している人には出会っているかもしれません。例えばそういう人にカミングアウトされたとして、自分だったらどういう反応になるだろうなぁ、と考えてみるんだけど、これが結構難しいですね。僕は相手がゲイだろうがなんだろうが気にならない、と頭ではもちろん思っているけど(実際頭で考えている分には、ゲイだからどうこうという発想は特に浮かばない)、でもそれは、実際に身近にゲイの人がいる、という経験をしてみないとなんとも言えないよなぁ、と思います。僕みたいな人もいれば、ゲイの友人はたくさんいて抵抗なんてないっていう人もいれば、逆にゲイはちょっと…という人もいるだろうし、ホントゲイをカミングアウトしたりするのも大変だろうなぁ、と思います。
そんなわけで、普通に生きているとなかなか気づかないようなことがたくさん描かれていて新鮮です。こんな風に苦労して生きている人もいるんだ、と思うと、もう少し同性愛者の人も住みやすい世の中になったらいいのに、と漠然と思います(残念ながら、自分から何か行動したりはしないけども)。ゲイの人に限らず、読んでみたら面白いんじゃないかなと思います。
石川大我「ボクの彼氏はどこにいる?」
本書は、あるゲイの青年が、自分がゲイだと気づき、それに悩み、それを隠すことに全身全霊をかけ、やがて自分以外のゲイに出会う機会を得て世界が広がっていくという、著者の実体験を描いた作品です。
小学生の頃から男の子を好きになっていた著者は、自分が他の人とは違うのだということを少しずつ分かっていく。でも、どうしたらいいのかがわからない。本当は光GENJIが好きなのに、周囲には浅香唯のファンだと言い続けなくてはいけないし、好きな子が出来ても、親友という立ち位置までしか行けない。本には、「同性愛の傾向は思春期を過ぎたら治る」と書かれていて(これは現在では否定されているらしい)、それを信じて、「思春期よ、早く終われ」と願っていたり。
でも、大学生になっても変わらなかった。著者は、ゲイであることを周囲に隠さなくてはいけないと必死になり、辛いこともたくさん経験した。
著者はそれまで、自分以外のゲイには出会ったことがなかった。自分以外に、そういう人が本当にいるんだろうか、と半信半疑でもあった。
そんなある日著者の家にパソコンがやってきた。洋品店を営む父親が、これで店のHPを作ってくれよ、と著者に言ってきたのだ。
これが著者の世界を変えた。まだパソコンが家庭にそこまで普及していなかった時代、著者はインターネットを通じて様々なゲイの存在や知識を知ることが出来、そこから世界がどんどん広がっていったのだ。
そうして著者が、ゲイの人たち向けのイベントを行う「ピアフレンズ」の主催者になるまでを描いた作品です。
なかなか面白かったです。僕は実生活の中でゲイの人(というか、ゲイであるとカミングアウトしている人)に出会ったことがないので、なるほどそういうところに苦労させられるのか、と思う話がたくさんありました。
例えば、男の子を好きになって、でもその男の子に彼女が出来てしまう、というのは、そういうことが起こるなということは想像出来る範囲だなと思うんです。でも例えば、修学旅行に行った時、寝言で好きな男性アイドルの名前を言ってしまうかもしれないから、誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きようと決めるとか、突然家に友人がやってきた時、「ゲイ関係の本」を見つけられないように「風呂が好きではない」という嘘をついてまで風呂からすぐ上がるとか、そういうのはやっぱりなかなか想像の及ばないことだなぁ、と思うんですね。そういう、知らなかった世界を知ることが出来る、という点でなかなか面白いと思いました。
この作品を読むと、『異性愛が当然とされている社会』が、どれだけ同性愛者を傷つけているのか、ということが、実感は出来ないにしてもなんとなく分かるようになります。僕らが何気なく発言していることが、実はゲイであることを隠して生きている人を無意識のウチに傷つけてしまっている、なんていうことは多いんだろうな、と思うんです。それは、同性愛者が傷つくという点でもちろんよくないことだけど、その一方で、異性愛者にしたって傷つけたくて傷つけているわけではないわけではないという点でも不幸だなと思うんです。
やはり今の日本では、ゲイであるということをカミングアウトするのは難しいんでしょうね。石原慎太郎がムチャクチャなことを言ってたりするっていうのもあるし、テレビでも面白おかしく取り上げられるというのもあるだろうけど(まあ僕もそういうテレビとか見て笑ってる人間なんで人のことは言えませんが)、それ以上に、僕らが同性愛者のことを知らなすぎるというのも大きいんだろうな、と思います。例え法律やメディアが同性愛者をどう扱おうと、周囲の人間の理解があればまだ気を楽にして生きられるだろうけど、やっぱりそれも難しいんだろうな、と思います。
僕はこれまでゲイだとカミングアウトしている人に出会ったことがないけど、もしかしたらゲイであることを隠している人には出会っているかもしれません。例えばそういう人にカミングアウトされたとして、自分だったらどういう反応になるだろうなぁ、と考えてみるんだけど、これが結構難しいですね。僕は相手がゲイだろうがなんだろうが気にならない、と頭ではもちろん思っているけど(実際頭で考えている分には、ゲイだからどうこうという発想は特に浮かばない)、でもそれは、実際に身近にゲイの人がいる、という経験をしてみないとなんとも言えないよなぁ、と思います。僕みたいな人もいれば、ゲイの友人はたくさんいて抵抗なんてないっていう人もいれば、逆にゲイはちょっと…という人もいるだろうし、ホントゲイをカミングアウトしたりするのも大変だろうなぁ、と思います。
そんなわけで、普通に生きているとなかなか気づかないようなことがたくさん描かれていて新鮮です。こんな風に苦労して生きている人もいるんだ、と思うと、もう少し同性愛者の人も住みやすい世の中になったらいいのに、と漠然と思います(残念ながら、自分から何か行動したりはしないけども)。ゲイの人に限らず、読んでみたら面白いんじゃないかなと思います。
石川大我「ボクの彼氏はどこにいる?」
竜巻ガール(垣谷美雨)
内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された短篇集です。
「竜巻ガール」
僕に突然、妹が出来た。
父が再婚し、その再婚相手の娘が涼子だ。再婚するとは聞いてたものの、娘がいるとは知らなかった僕は、初めて会った日驚いた。涼子はなんと、ガングロメイクだったのだ。
一緒に住むことになったが、とんでもない美人の涼子と一緒に住むのは何かと気苦労があった。父親の再婚相手が料理が出来ないというのも困ったものだった。
ある雷の日…。
「旋風マザー」
俺の父親は、詐欺まがいの商売で金を稼いでは、愛人に貢いでしまうダメ親父だ。今、父親は失踪していることになっている。騙された人からの連絡が絶えないからだ。実際、警察に失踪届を出した。母親はとうに家を出ている。まだ離婚はしていないけども。
あと少しの我慢だ。そうすれば、父親の年金が入ってくるはず。そんなある日、我が家に物凄い美人の女性がやってきて…。
「渦潮ウーマン」
会社の上司と不倫旅行に出かけている最中、その上司が溺死してしまう。思わず逃げ出して、素知らぬ顔をして普段の生活に戻った。内心ではビクビクしていたが、大丈夫、誰も私たちのことを知らなかったはずだ。
しかしある時、夫が働いていた職場を見たいと、亡き上司の未亡人がやってくることになって…。
「霧中ワイフ」
菓子箱の中の大量の手紙と一葉の写真が、私を動揺させる。中国人の夫は、実は中国に奥さんと子供がいるのかもしれない…。
中国語の出来る友人に翻訳してもらって手紙は、さらにそれを裏付けるものだった。それ以来、夫の言動を素直に受け取ることが出来ないでいる。私は、ただの都合のいい女だったの…?
というような話です。
全体的に、決して悪くはないんだけど、ちょっと弱いかな、というのが僕の感想です。
設定は凄くうまいと思うし、描写や文章は新人にしては相当うまいと思います。けど、残念ながら僕の中では、物語の展開に粗が目立つ感じがしてしまいます。
表題作の「竜巻ガール」はそれなりにいいと思うんです。主人公と涼子があっさりセックスするような関係になっちゃうのはちょっとなぁ…、という気はするんですけど、短い話の中でよくまとまってたかな、という感じがします。
でも、残りの三篇は、ちょっと無理があるかなぁ、という感じ。どれもこれも、伏線の張り方があんまりうまくない気がする。もちろん、最後のオチが分かるとかそういうことではないんだけど、でも、あぁなるほど、読者にこういう風に誤解させたいのね、みたいなのは分かってしまう。その辺りの処理が、ちょっと未熟だな、という感じがしてしまいました。
文章はこなれている感じがするし、情景なんかの視覚から入ってくる情報をうまく文章化するのがうまい感じがするんで、結構書ける作家ではないかな、とは思います。割と最近、この著者の「リセット」という作品の評判を耳にするんで、ちょっと読んでみるかもしれません。
デビュー作にしてはそこそこうまくまとまっているのかもしれませんけど、ちょっと粗い感じがします。ただ文章は巧いと思うんで、これからに期待できる作家かな、という感じです。
垣谷美雨「竜巻ガール」
本書は、4編の短編が収録された短篇集です。
「竜巻ガール」
僕に突然、妹が出来た。
父が再婚し、その再婚相手の娘が涼子だ。再婚するとは聞いてたものの、娘がいるとは知らなかった僕は、初めて会った日驚いた。涼子はなんと、ガングロメイクだったのだ。
一緒に住むことになったが、とんでもない美人の涼子と一緒に住むのは何かと気苦労があった。父親の再婚相手が料理が出来ないというのも困ったものだった。
ある雷の日…。
「旋風マザー」
俺の父親は、詐欺まがいの商売で金を稼いでは、愛人に貢いでしまうダメ親父だ。今、父親は失踪していることになっている。騙された人からの連絡が絶えないからだ。実際、警察に失踪届を出した。母親はとうに家を出ている。まだ離婚はしていないけども。
あと少しの我慢だ。そうすれば、父親の年金が入ってくるはず。そんなある日、我が家に物凄い美人の女性がやってきて…。
「渦潮ウーマン」
会社の上司と不倫旅行に出かけている最中、その上司が溺死してしまう。思わず逃げ出して、素知らぬ顔をして普段の生活に戻った。内心ではビクビクしていたが、大丈夫、誰も私たちのことを知らなかったはずだ。
しかしある時、夫が働いていた職場を見たいと、亡き上司の未亡人がやってくることになって…。
「霧中ワイフ」
菓子箱の中の大量の手紙と一葉の写真が、私を動揺させる。中国人の夫は、実は中国に奥さんと子供がいるのかもしれない…。
中国語の出来る友人に翻訳してもらって手紙は、さらにそれを裏付けるものだった。それ以来、夫の言動を素直に受け取ることが出来ないでいる。私は、ただの都合のいい女だったの…?
というような話です。
全体的に、決して悪くはないんだけど、ちょっと弱いかな、というのが僕の感想です。
設定は凄くうまいと思うし、描写や文章は新人にしては相当うまいと思います。けど、残念ながら僕の中では、物語の展開に粗が目立つ感じがしてしまいます。
表題作の「竜巻ガール」はそれなりにいいと思うんです。主人公と涼子があっさりセックスするような関係になっちゃうのはちょっとなぁ…、という気はするんですけど、短い話の中でよくまとまってたかな、という感じがします。
でも、残りの三篇は、ちょっと無理があるかなぁ、という感じ。どれもこれも、伏線の張り方があんまりうまくない気がする。もちろん、最後のオチが分かるとかそういうことではないんだけど、でも、あぁなるほど、読者にこういう風に誤解させたいのね、みたいなのは分かってしまう。その辺りの処理が、ちょっと未熟だな、という感じがしてしまいました。
文章はこなれている感じがするし、情景なんかの視覚から入ってくる情報をうまく文章化するのがうまい感じがするんで、結構書ける作家ではないかな、とは思います。割と最近、この著者の「リセット」という作品の評判を耳にするんで、ちょっと読んでみるかもしれません。
デビュー作にしてはそこそこうまくまとまっているのかもしれませんけど、ちょっと粗い感じがします。ただ文章は巧いと思うんで、これからに期待できる作家かな、という感じです。
垣谷美雨「竜巻ガール」
夜の朝顔(豊島ミホ)
内容に入ろうと思います。
本書は、7編の短編を収録した連作短編集です。主人公は田舎に住む小学生のセンリ。クラスは一クラスで、卒業までクラス替えはない、そんな小学校です。小学一年生から小学六年生までを描いています。
「入道雲が消えないように」
センリには、喘息持ちの妹・チエミがいる。チエミは身体が弱いから、あまり遠出が出来ない。だから、友達が海や山に行く時も、センリは行けない。チエミを一人にしちゃ可哀想だ、と言われるからだ。
そんなセンリが、堂々と海に行ける時がある。洸兄が来る時だ。親戚が泊まりにくる一週間は、マリさんがチエミの相手をしてくれるから、センリは洸兄と海に遊びにいけるのだ。
毎年洸兄が来るのを楽しみに待っている。でも、センリは分かってしまう。きっと来年はもう、洸兄は来ないんだろうな、と…。
「ビニールの下の女の子」
隣町で、女の子が行方不明になるという事件が起こり、センリのいる小学校も集団下校をすることになった。家が近くていつも一緒に帰っている塔子が、「その女の子、死んじゃったのかなぁ」というので、センリと茜はびっくりする。
家に入ろうとすると、塔子がセンリを呼ぶ。近くの竹やぶに、大きなビニール袋が捨てられているのだ。塔子は心配なのだ。まさかこれ、女の子の死体とかじゃないよね…
「ヒナを落とす」
シノくんは、クラスでいじめられている。クラス替えはないから、きっとずっとこのままいじめられ続けるのだろう。センリは、止める勇気もないけど、一緒になっていじめるわけでもない、そんなモヤモヤした立ち位置にいる。
ある日シノくんが、巣から落ちた鳥のヒナを拾ってきた。教室で飼うことになって、シノくんは一瞬だけクラスの中心にいることになった。でもそのヒナはやっぱり…。
「五月の虫歯」
毎年恐怖の歯科検診でやっぱり虫歯が見つかって、歯医者に行かなくちゃいけない。今年は色々あって、それまで行っていたのとは違う、隣町の歯医者に行くことになった。治療の間買い物に出かける両親に、治療が終わったら隣の公園で遊んでいなさいと言われる。そこで、アザミと出会ったのだ。フィリピンから日本にやってきた有名な歌手の娘だというアザミに…。
「だって星はめぐるから」
カツラちゃんという、いつも男子とばっかり喋っている「女子らしくない」女の子は、よく万引き自慢をしている。それを聞かされるのがもううんざりだという茜は、カツラちゃんと対立するような感じになっている。センリはそういうのに巻き込まれたくない。茜と塔子とも、なんだか一緒に帰りたくないような気がしてしまう。それで妹のチエミに、一緒に帰らない?って聞いてみたんだけど…。
「先生のお気に入り」
担任の大場先生は、なんだか先生らしくない。授業は脱線するし、破棄がない。白髪を抜かせたりもするし。よくわからない。
周りの女子は、バレンタインがなんとかってはしゃいでいる。よくわからないし、話に入っていけない。茜が、先生にチョコを渡すから、他の人は渡さないで、という案内を紙に書いて回している。センリは…。
「夜の朝顔」
杳一郎が夢に出てくる。これは杳一郎のことが…いや、好きなんてはずがない。体育の時間は乱暴だし、それなのに数学の宿題は下手に出て見せてもらおうとするし。
妹に、ねえちゃんくらい見た目に気を使わない人はいないよ、と言われて、初めてクラスの女子をちゃんと観察してみた。ほんとだ。みんな、寝ぐせなんかない…。どうやって寝ぐせを直すのか、全然知らないのに…。
というような話です。
やっぱりいいですね、豊島ミホ。実はごく最近、豊島ミホを「としまみほ」と読むことを知ったわたくしです。ずっと「とよしまみほ」だと思っていましたわオホホホホ。
正直、これまで読んできた「檸檬の頃」「エバーグリーン」「神田川デイズ」なんかと比べると、僕の感じ方としては若干落ちますけども、十分いい作品だと思いました。
小学生、という設定が実によく活かされている、ということを強く感じました。
まず、高学年になれば多少は出てくるものの、基本的に恋愛という感じの話は少ないです。高学年のところで出てくる恋愛の話も、恋愛というには淡い感じだし、恋愛以外の要素も結構強く出ている感じがします。
本書でメインに描かれているのは、シンプルな意味での人間関係、なんですね。シンプルな意味での、と描いたのは、大人の世界を描くとどうしても、恋愛というものを避けて物語を書くことは難しいんだと思うんです。もちろん、恋愛がダメだとか邪魔だとかそういうわけではないけど、でも僕らは別に常に恋愛してるわけでもないし、人生の中でそれだけが特別大事だという理由もないと思うんですね。でもやっぱり物語の中では、ある種の恋愛的要素みたいなものが期待されてしまう。
それを、小学生の世界を描くことで、かなり自然とシンプルな人間関係を描き出すことが出来ているような感じがしました。
あと、小学生って、やっぱりまだ色んなことを明確に言葉に出来ないと思うんですね。そういう、うまく言葉には出来ない内面描写というのを実にうまくやっていて、これも小学生という設定ならではの良さかな、と感じました。中高生ぐらいになると、自分の感情なんかを割と適切な言葉で表現出来たりすると思うけど、小学生にはまだまだ難しい。だからセンリの内面描写も、雄弁な言葉では決して語られません。自分の中でもどんな風に表現したらいいのか言葉を探せないでいるような、そういう曖昧な感情の揺らぎみたいなものを、色んな形で描写していて、豊島ミホさすがだなぁ、と感じました。たぶん並の作家なら、小学生にはそんな言葉・感情の切り取り方は思いつかないでしょう、というような内面描写をさせてお終いだと思うんですけど、そこが凄いと思いました。しかもきちんと、年代ごとにどこまで描くかみたいなバランスも考えられているように感じられたので、改めて作家としての力量を感じました。
センリは、これまでの豊島ミホの登場人物とやっぱり同じで、常に『何か』に対して違和感を抱いている女の子です。喘息持ちで大切に扱われている妹だったり、いじめられている同級生だったり、友達の悪口を言う仲良しの女の子だったり、バレンタインなんかに浮かれてる女の子だったり。センリには、周りが『普通だ』と思っていることがどうもストレートに受け取ることが出来なくて、あれこれ考えてしまいます。こういうところは僕も昔からあって、凄くよくわかるなぁ、という感じです。
本書には、あんまりたくさんの大人は出てこないけど、でも大人はやっぱりセンリみたいな女の子を、『普通』の枠に入れてしまおうとするんですね。『普通』の枠には嵌らないものを抱えているから悩んでいるのに、そこに嵌りなさいと言われたって子供は困る。子供だって色んなことを感じたり考えたりしているんだということを、やっぱり大人になるとどうしても忘れちゃうんですよね。僕は大場先生みたいな大人は好きですね。子供を子供としてではなくて、きちんと一人の人間として扱っている、みたいなところが好きです。
しかしあとがきで豊島ミホが、小学校時代に行った遠足の行き先を全学年分覚えてると書いていたのは驚きました。僕なんか、遠足の行き先どころか、担任やクラスメートの名前からして忘却の彼方。小学校時代に覚えていることなんか本当に、断片のさらに断片みたいなレベルのものしかなくて、そういうのを覚えてられるというのはちょっとだけ羨ましいなと思いました。
まあそんなわけで、豊島ミホの作品を何か勧めて欲しい、と言われたら別の作品を勧めるけど、これも良い作品だったと思います。小学生だってちゃんと色々考えたり感じたりしてるんだ、ということをもう一度思い出してみてください。
豊島ミホ「夜の朝顔」
本書は、7編の短編を収録した連作短編集です。主人公は田舎に住む小学生のセンリ。クラスは一クラスで、卒業までクラス替えはない、そんな小学校です。小学一年生から小学六年生までを描いています。
「入道雲が消えないように」
センリには、喘息持ちの妹・チエミがいる。チエミは身体が弱いから、あまり遠出が出来ない。だから、友達が海や山に行く時も、センリは行けない。チエミを一人にしちゃ可哀想だ、と言われるからだ。
そんなセンリが、堂々と海に行ける時がある。洸兄が来る時だ。親戚が泊まりにくる一週間は、マリさんがチエミの相手をしてくれるから、センリは洸兄と海に遊びにいけるのだ。
毎年洸兄が来るのを楽しみに待っている。でも、センリは分かってしまう。きっと来年はもう、洸兄は来ないんだろうな、と…。
「ビニールの下の女の子」
隣町で、女の子が行方不明になるという事件が起こり、センリのいる小学校も集団下校をすることになった。家が近くていつも一緒に帰っている塔子が、「その女の子、死んじゃったのかなぁ」というので、センリと茜はびっくりする。
家に入ろうとすると、塔子がセンリを呼ぶ。近くの竹やぶに、大きなビニール袋が捨てられているのだ。塔子は心配なのだ。まさかこれ、女の子の死体とかじゃないよね…
「ヒナを落とす」
シノくんは、クラスでいじめられている。クラス替えはないから、きっとずっとこのままいじめられ続けるのだろう。センリは、止める勇気もないけど、一緒になっていじめるわけでもない、そんなモヤモヤした立ち位置にいる。
ある日シノくんが、巣から落ちた鳥のヒナを拾ってきた。教室で飼うことになって、シノくんは一瞬だけクラスの中心にいることになった。でもそのヒナはやっぱり…。
「五月の虫歯」
毎年恐怖の歯科検診でやっぱり虫歯が見つかって、歯医者に行かなくちゃいけない。今年は色々あって、それまで行っていたのとは違う、隣町の歯医者に行くことになった。治療の間買い物に出かける両親に、治療が終わったら隣の公園で遊んでいなさいと言われる。そこで、アザミと出会ったのだ。フィリピンから日本にやってきた有名な歌手の娘だというアザミに…。
「だって星はめぐるから」
カツラちゃんという、いつも男子とばっかり喋っている「女子らしくない」女の子は、よく万引き自慢をしている。それを聞かされるのがもううんざりだという茜は、カツラちゃんと対立するような感じになっている。センリはそういうのに巻き込まれたくない。茜と塔子とも、なんだか一緒に帰りたくないような気がしてしまう。それで妹のチエミに、一緒に帰らない?って聞いてみたんだけど…。
「先生のお気に入り」
担任の大場先生は、なんだか先生らしくない。授業は脱線するし、破棄がない。白髪を抜かせたりもするし。よくわからない。
周りの女子は、バレンタインがなんとかってはしゃいでいる。よくわからないし、話に入っていけない。茜が、先生にチョコを渡すから、他の人は渡さないで、という案内を紙に書いて回している。センリは…。
「夜の朝顔」
杳一郎が夢に出てくる。これは杳一郎のことが…いや、好きなんてはずがない。体育の時間は乱暴だし、それなのに数学の宿題は下手に出て見せてもらおうとするし。
妹に、ねえちゃんくらい見た目に気を使わない人はいないよ、と言われて、初めてクラスの女子をちゃんと観察してみた。ほんとだ。みんな、寝ぐせなんかない…。どうやって寝ぐせを直すのか、全然知らないのに…。
というような話です。
やっぱりいいですね、豊島ミホ。実はごく最近、豊島ミホを「としまみほ」と読むことを知ったわたくしです。ずっと「とよしまみほ」だと思っていましたわオホホホホ。
正直、これまで読んできた「檸檬の頃」「エバーグリーン」「神田川デイズ」なんかと比べると、僕の感じ方としては若干落ちますけども、十分いい作品だと思いました。
小学生、という設定が実によく活かされている、ということを強く感じました。
まず、高学年になれば多少は出てくるものの、基本的に恋愛という感じの話は少ないです。高学年のところで出てくる恋愛の話も、恋愛というには淡い感じだし、恋愛以外の要素も結構強く出ている感じがします。
本書でメインに描かれているのは、シンプルな意味での人間関係、なんですね。シンプルな意味での、と描いたのは、大人の世界を描くとどうしても、恋愛というものを避けて物語を書くことは難しいんだと思うんです。もちろん、恋愛がダメだとか邪魔だとかそういうわけではないけど、でも僕らは別に常に恋愛してるわけでもないし、人生の中でそれだけが特別大事だという理由もないと思うんですね。でもやっぱり物語の中では、ある種の恋愛的要素みたいなものが期待されてしまう。
それを、小学生の世界を描くことで、かなり自然とシンプルな人間関係を描き出すことが出来ているような感じがしました。
あと、小学生って、やっぱりまだ色んなことを明確に言葉に出来ないと思うんですね。そういう、うまく言葉には出来ない内面描写というのを実にうまくやっていて、これも小学生という設定ならではの良さかな、と感じました。中高生ぐらいになると、自分の感情なんかを割と適切な言葉で表現出来たりすると思うけど、小学生にはまだまだ難しい。だからセンリの内面描写も、雄弁な言葉では決して語られません。自分の中でもどんな風に表現したらいいのか言葉を探せないでいるような、そういう曖昧な感情の揺らぎみたいなものを、色んな形で描写していて、豊島ミホさすがだなぁ、と感じました。たぶん並の作家なら、小学生にはそんな言葉・感情の切り取り方は思いつかないでしょう、というような内面描写をさせてお終いだと思うんですけど、そこが凄いと思いました。しかもきちんと、年代ごとにどこまで描くかみたいなバランスも考えられているように感じられたので、改めて作家としての力量を感じました。
センリは、これまでの豊島ミホの登場人物とやっぱり同じで、常に『何か』に対して違和感を抱いている女の子です。喘息持ちで大切に扱われている妹だったり、いじめられている同級生だったり、友達の悪口を言う仲良しの女の子だったり、バレンタインなんかに浮かれてる女の子だったり。センリには、周りが『普通だ』と思っていることがどうもストレートに受け取ることが出来なくて、あれこれ考えてしまいます。こういうところは僕も昔からあって、凄くよくわかるなぁ、という感じです。
本書には、あんまりたくさんの大人は出てこないけど、でも大人はやっぱりセンリみたいな女の子を、『普通』の枠に入れてしまおうとするんですね。『普通』の枠には嵌らないものを抱えているから悩んでいるのに、そこに嵌りなさいと言われたって子供は困る。子供だって色んなことを感じたり考えたりしているんだということを、やっぱり大人になるとどうしても忘れちゃうんですよね。僕は大場先生みたいな大人は好きですね。子供を子供としてではなくて、きちんと一人の人間として扱っている、みたいなところが好きです。
しかしあとがきで豊島ミホが、小学校時代に行った遠足の行き先を全学年分覚えてると書いていたのは驚きました。僕なんか、遠足の行き先どころか、担任やクラスメートの名前からして忘却の彼方。小学校時代に覚えていることなんか本当に、断片のさらに断片みたいなレベルのものしかなくて、そういうのを覚えてられるというのはちょっとだけ羨ましいなと思いました。
まあそんなわけで、豊島ミホの作品を何か勧めて欲しい、と言われたら別の作品を勧めるけど、これも良い作品だったと思います。小学生だってちゃんと色々考えたり感じたりしてるんだ、ということをもう一度思い出してみてください。
豊島ミホ「夜の朝顔」
お縫い子テルミー(栗田有起)
内容に入ろうと思います。
本書は2編の中編が収録された作品です。
「お縫い子テルミー」
テルミーは一人島から出て、東京・歌舞伎町で暮らしている。暮らしているとはいえ、家はない。島にいる頃からテルミーの家族は、依頼人の家に住みこんで衣類を仕立てる、という仕事を生業としてきたのだ。
東京に出てきた当初、仕立ての仕事では食べていけないだろうと判断したテルミーは水商売の仕事を始める。そこでテルミーは、女装の歌手・シナイちゃんに出会う。シナイちゃんとの出会いが、流しの仕立て屋「お縫い子テルミー」の誕生のきっかけとなった。しかしそれ以上にテルミーにとって、シナイちゃんは大事な存在なのだけど…。
「ABARE・DAICO」
小学生の小松君は、母子家庭で貧乏。父親とは別居状態。普段働いている母親の代わりに、家事全般はやっているし、家計の状況を知っているから、なるべくお金を使わないという金銭感覚もしっかりしている。
そんな小松君は、近くのスーパーの伝言掲示板みたいなところにある張り紙をした。「夏休みの間、留守番します。1時間100円。お母さんを助けたいんです」その張り紙を見て連絡してくれた人の留守番に行くのだけど…。
というような話です。
「お縫い子テルミー」は正直あんまりよくわからないなぁ、という感じだったんですけど、「ABARE・DAICO」は凄い好きです。
「お縫い子テルミー」は、設定は凄い好きなんです。流しの仕立て屋っていうのが、吉田篤弘の「空ばかり見ていた」の流しの床屋みたいな感じで、設定は凄くいいと思います。ただ、テルミーのシナイちゃんに対する叶わぬ恋心みたいなのは、正直イマイチ僕にはよく分かりませんでした。全体的なストーリー展開は、うーむ、という感じ。
一方の「ABARE・DAICO」はよかったですね。小松君のキャラが実に素敵です。小松君は、同級生の水尾君のことを凄いと思っていて、出来る限り対抗してやろう、と思っている。水尾君は何でも知ってるし、難しい話をしてくるし、それに背も高いしカッコいい。だから小松君は、まず背を伸ばすために毎日牛乳を飲むこと、そして言葉をたくさん知るために辞書を必ず読むことを心がけているのだ。
それだけでもなんだかおかしいキャラで好きなんだけど、家計を助けるため(とある理由でお金が必要になったのだけど、家計が苦しいことを知ってるから母親には言えないのだ)にアルバイトをするなんていうところも素敵。しかしそれが、小松君の予想だにしなかった事態を引き起こしてしまうわけです。それを知った小松君はショックで、毎日口から真っ黒なドロドロのものが溢れでてきてしまいそうになる。でも最後は、それまで『少年らしさ』の殻の中にいた小松君がちょっとそこを打ち破れたみたいな展開になっていって、凄くいい。大人の知らないところで子供は傷ついていくし、子供だからと言って子供らしいことを考えているわけでもない。大人と同じように悩むし、抱えきれないものを抱え込んでいたりもするのだ。そういうところがうまく表現されてていいな、と思った。
栗田有起の作品は初めて読んだけど、文章の雰囲気みたいなものは結構好きだな、と思います。文章が巧いのかどうかは正直よくわからないけど、僕には合うな、という感じがします。ちょっと他の作品も読んでみるかもしれない、と思わせるぐらいには興味の持てる作家です。ちょっとまた気が向いたら別の作品も読んでみるかもしれません。僕としては「ABARE・DAICO」がオススメです。興味があったら読んでみてください。
栗田有起「お縫い子テルミー」
本書は2編の中編が収録された作品です。
「お縫い子テルミー」
テルミーは一人島から出て、東京・歌舞伎町で暮らしている。暮らしているとはいえ、家はない。島にいる頃からテルミーの家族は、依頼人の家に住みこんで衣類を仕立てる、という仕事を生業としてきたのだ。
東京に出てきた当初、仕立ての仕事では食べていけないだろうと判断したテルミーは水商売の仕事を始める。そこでテルミーは、女装の歌手・シナイちゃんに出会う。シナイちゃんとの出会いが、流しの仕立て屋「お縫い子テルミー」の誕生のきっかけとなった。しかしそれ以上にテルミーにとって、シナイちゃんは大事な存在なのだけど…。
「ABARE・DAICO」
小学生の小松君は、母子家庭で貧乏。父親とは別居状態。普段働いている母親の代わりに、家事全般はやっているし、家計の状況を知っているから、なるべくお金を使わないという金銭感覚もしっかりしている。
そんな小松君は、近くのスーパーの伝言掲示板みたいなところにある張り紙をした。「夏休みの間、留守番します。1時間100円。お母さんを助けたいんです」その張り紙を見て連絡してくれた人の留守番に行くのだけど…。
というような話です。
「お縫い子テルミー」は正直あんまりよくわからないなぁ、という感じだったんですけど、「ABARE・DAICO」は凄い好きです。
「お縫い子テルミー」は、設定は凄い好きなんです。流しの仕立て屋っていうのが、吉田篤弘の「空ばかり見ていた」の流しの床屋みたいな感じで、設定は凄くいいと思います。ただ、テルミーのシナイちゃんに対する叶わぬ恋心みたいなのは、正直イマイチ僕にはよく分かりませんでした。全体的なストーリー展開は、うーむ、という感じ。
一方の「ABARE・DAICO」はよかったですね。小松君のキャラが実に素敵です。小松君は、同級生の水尾君のことを凄いと思っていて、出来る限り対抗してやろう、と思っている。水尾君は何でも知ってるし、難しい話をしてくるし、それに背も高いしカッコいい。だから小松君は、まず背を伸ばすために毎日牛乳を飲むこと、そして言葉をたくさん知るために辞書を必ず読むことを心がけているのだ。
それだけでもなんだかおかしいキャラで好きなんだけど、家計を助けるため(とある理由でお金が必要になったのだけど、家計が苦しいことを知ってるから母親には言えないのだ)にアルバイトをするなんていうところも素敵。しかしそれが、小松君の予想だにしなかった事態を引き起こしてしまうわけです。それを知った小松君はショックで、毎日口から真っ黒なドロドロのものが溢れでてきてしまいそうになる。でも最後は、それまで『少年らしさ』の殻の中にいた小松君がちょっとそこを打ち破れたみたいな展開になっていって、凄くいい。大人の知らないところで子供は傷ついていくし、子供だからと言って子供らしいことを考えているわけでもない。大人と同じように悩むし、抱えきれないものを抱え込んでいたりもするのだ。そういうところがうまく表現されてていいな、と思った。
栗田有起の作品は初めて読んだけど、文章の雰囲気みたいなものは結構好きだな、と思います。文章が巧いのかどうかは正直よくわからないけど、僕には合うな、という感じがします。ちょっと他の作品も読んでみるかもしれない、と思わせるぐらいには興味の持てる作家です。ちょっとまた気が向いたら別の作品も読んでみるかもしれません。僕としては「ABARE・DAICO」がオススメです。興味があったら読んでみてください。
栗田有起「お縫い子テルミー」
誕生日のできごと(加藤千恵)
内容に入ろうと思います。
本書は一人の女性の、18歳から25歳までの『誕生日』を観測点とした長編というか連作短編集という感じの小説です。
高校時代付き合っていたクラスメートと、大学進学で離れ離れになってしまったり、その距離が結局別れに繋がったり、東京で出来た友人と過ごしたり、思わぬところから恋に発展したり、就職活動にてこずったり、そういう、誰しもが通る人生の節目節目を、主人公が誕生日を迎えたまさにその日に焦点を当てて描いていく物語です。
まあまあ、という感じでしょうか。「ハニービターハニー」がそれなりによかったので、長編も割と期待していたんですけど、まあまあという感じかなぁ。
決して悪いわけではないんだけど、ちょっと物足りない、という感じがしました。
「ハニービターハニー」の時、言葉の鋭さとか、情景の切り取り方の繊細さみたいなのを若干感じた記憶があるんですけど、この作品ではその辺りがちょっと薄まっているかなぁ、という感じです。特に、言葉の鋭さという点ではちょっと劣っている感じがします。
誕生日を定点観測に物語を進めていくというのは面白いし、恋愛だけじゃなくていろんな出来事を盛り込んでいるのはいいと思いました。個人的には、就職活動の話がよかったかな。僕自身は就職活動をしたことがないんで共感とかそういうのは出来ませんけど、人間関係に緊迫感があって、よかったと思います。
ちょっと時間がないので感想はこれぐらいにさせてもらいますけど、全体的にはまあまあという感じだと思います。やっぱり、中高生ぐらいには受け入れやすい作品かもしれません。結構本読んでる人には、ちょっと物足りないかも、という感じかな、と。
加藤千恵「誕生日のできごと」
本書は一人の女性の、18歳から25歳までの『誕生日』を観測点とした長編というか連作短編集という感じの小説です。
高校時代付き合っていたクラスメートと、大学進学で離れ離れになってしまったり、その距離が結局別れに繋がったり、東京で出来た友人と過ごしたり、思わぬところから恋に発展したり、就職活動にてこずったり、そういう、誰しもが通る人生の節目節目を、主人公が誕生日を迎えたまさにその日に焦点を当てて描いていく物語です。
まあまあ、という感じでしょうか。「ハニービターハニー」がそれなりによかったので、長編も割と期待していたんですけど、まあまあという感じかなぁ。
決して悪いわけではないんだけど、ちょっと物足りない、という感じがしました。
「ハニービターハニー」の時、言葉の鋭さとか、情景の切り取り方の繊細さみたいなのを若干感じた記憶があるんですけど、この作品ではその辺りがちょっと薄まっているかなぁ、という感じです。特に、言葉の鋭さという点ではちょっと劣っている感じがします。
誕生日を定点観測に物語を進めていくというのは面白いし、恋愛だけじゃなくていろんな出来事を盛り込んでいるのはいいと思いました。個人的には、就職活動の話がよかったかな。僕自身は就職活動をしたことがないんで共感とかそういうのは出来ませんけど、人間関係に緊迫感があって、よかったと思います。
ちょっと時間がないので感想はこれぐらいにさせてもらいますけど、全体的にはまあまあという感じだと思います。やっぱり、中高生ぐらいには受け入れやすい作品かもしれません。結構本読んでる人には、ちょっと物足りないかも、という感じかな、と。
加藤千恵「誕生日のできごと」
檸檬のころ(豊島ミホ)
内容に入ろうと思います。
本書は、7編の短編が収録された連作短編集です。とはいえ、「神田川デイズ」と同様、同じ高校を舞台にしている、というぐらいのユルい繋がりの連作短編集です。もちろん、それぞれの短編で共通して出てくる人物なんかもちらほらいますけどね。
「タンポポのわたげみたいだね」
私は、時々保健室に行って、サトの様子を見に行く。授業に出よう、と声を掛ける。サトは相変わらず、保健室から出てこないけど。
高校への初めての登校日、田舎から出てきて不安いっぱいだった私に電車の中で声を掛けてくれたのがサトだった。ホッとした。高校にはうまく馴染めないかもしれない、と思っていたから、安心した。
サトとよく一緒に過ごしたのだけど、二年になってから、サトは突然授業に出なくなった。
周りからは、サトのことなんてほっといてもっと他の人と絡みなよ、と言われることもある。私だって、そうできるならそうしたい。
そんなある日、目立つ男子から、朝一緒に通学しない?と誘われて…。
「金子商店の夏」
腹を下してトイレに入っていると、外の会話が聞こえてきてしまった。明らかに年食ってる人、何回落ちたんだよ。痛々しいんだよ。
俺のことだ。
司法試験合格を目指し、資格試験予備校に通う俺は、自分だって何か突き抜けられる、と思っていたのだ。司法試験ぐらい合格して、すげーことがやれるんだ、と。周りも家族も、直接的にはあまり言わないけど、もう諦めろという顔をしている。
母親から電話があった。おじいちゃんが死にそうだ、と。
慌てて実家に帰るも、じいちゃんはピンピンしてた。金子商店。俺の実家。父親が継がなかったこの店を、俺に継がせようとしていることは、もちろん分かっている…。
「ルパンとレモン」
中学時代、俺は野球部で、秋元は吹奏楽部。同じクラスだったけど、特に接点はなかった。
ある日秋元に聞かれた。「自分のテーマ何がいい?」
それが、バッターボックスに立った時吹奏楽部が演奏する音楽だと気づくのに時間が掛かった。
何でもいい、と返すと秋元は、「じゃあルパンにするね」と決めた。
目指す高校が同じだと分かって、一緒に勉強するようになって、同じ高校に合格して…。俺は一体、どこで何を間違えたのだろう。今秋元の隣に最も近いのは、野球部のエースである佐々木富蔵だ。
「ジュリエット・スター」
私は母親から珠紀のことを押し付けられた形になって、正直めんどくさい。高校生専用の下宿を営んでいる我が一家では、下宿内恋愛は禁止、ということにしている。これまでそれが破られることはなかった。しかし今、珠紀と林の間で、それが破られようとしている。
頭ごなしに言っても聞かないだろう。それでなくても珠紀は厄介な性格をしている。とりあえず林と話をしてみるものの…。
「ラブソング」
私はいつだってヘッドフォンをして、ラジオからダビングした音楽を聴いている。音楽ライターになるのが夢で、それには学歴があった方が有利なんじゃないか、という理由でこの進学校にいる。だから周りの、どうでもいい会話しかしていないような連中には興味はないし、音楽以外のことにはほとんど興味が持てない。
うるさい教室を出て廊下で音楽を聴きながら雑誌を見ていると、一人の男子が目の前に立った。同じくらすだけど、名前が思い出せない。それでも、相手がイヤホンをしているのが目に入って、似たもの同士かもしれない、と思った。
辻本、と彼は呼ばれていた。まさか音楽漬けの私の生活の中に、それ以外のものが入り込む余地があるとは、全然想像もしていなかった…。
「担任稼業」
志望校を決める面談の時期。俺は生徒に、容赦のない判断を突きつける。進学校っていうのは、表立ったトラブルを起こす奴が少ないのはいいが、それはそれで厄介なこともたくさんある。俺もこの高校の卒業生だから、よく分かる。
そんな中でも一番の問題は、不登校の小嶋智だ。学校には来るが、保健室直行で、このままだと卒業も危うい。しかし小嶋が何を考えているのかは、まったくわからない。まったく、教師なんて、本当に報われない…。
「雪の降る町、春に散る花」
秋元は佐々木と一緒に、佐々木の合否発表を公衆電話で聞いていた。佐々木は神奈川の大学を落ちた。後は離れるまでのカウントダウンの日々だ。
東京の大学に行く以外の選択肢を持っていなかった秋元は、自分があと少しで佐々木と離れなくてはいけないという現実を、うまく消化できないでいた。自分がこれほど物分りがよくなかったという事実に驚くぐらいだった。
周りの女子は、先のことばっかり考えてて今を楽しめないのはもったいない、という。その通りだ。実際佐々木とも、最近では重苦しい雰囲気になっている。でも、離れることが分かっていて、なお楽しく振舞えというのか。私には出来ない…。
というような話です。
ここまで3連チャンで豊島ミホの作品を読んできましたけど、本当にこの作家は凄い、ということを確認するような読書でした。作品を読んだ順番もあるのかもですけど、読むたびに凄いと感じました。何度も書くけど、ホントつい1週間ぐらい前まではまったく読んだことのなかった作家で、こんな素晴らしい作家をまだ僕は知らなかったんだなぁ、と思いました。
解説氏が、『豊島ミホは、普通をかがやかす達人である。』と書いていて、まさにその通りだな、と思いました。この作品に出てくる人は、本当にごく普通の人が多いんです。特別『こういう人』っていう風に表現できないような、どの高校にも普通にいそうな、僕らも高校時代こんな人らと一緒にいたよな、というような人たちが物語の主人公になっているんです。
その、ごくごく普通の人たちを、本当に『かがやかす』んです。物語自体も、特別なことが起こるわけじゃないのに、です。普通の、僕らが想像できる範囲の高校時代という枠の中で、そういう普通の人達の生活がものすごく輝いて見える。
これが豊島ミホの凄さだなと思います。ありきたりの人、ありきたりの状況を使って、ここまでグッとくる物語を書けるものなのか、と思いました。
この作品を読むと、実は誰でも主人公なんじゃないか、っていう気がしちゃいます。よく、「あいつは物語の主人公になれるけど、俺はそうじゃない」みたいな感覚ってあると思うんだけど、でもこの作品を読んでいると、ちゃんと自分の目の前に広がっているものを見れば、誰しもが物語の主人公なんじゃないか、という錯覚が沸き起こってきます。
本書は決して恋愛小説というわけではないんだけど、恋愛をメインに据えた作品も結構あります。でも、僕が凄いと思うのが、そういう物語が、僕には『恋愛小説』には思えない、ということなんですね。
僕は基本的に、恋愛だけがメインになっている物語っていうのはあんまり得意ではないんです。それは、『恋愛小説の文法』みたいなものにあんまり馴染めないからだろうな、と思うんです。物語の展開や主人公の心の動き、そして文章なんかも、恋愛小説の場合基本的に『恋愛小説の文法』に従っているように思えてしまうんですね。僕が恋愛がメインになっている物語が得意ではないのは、こういう風に『恋愛小説の文法』に従わないと恋愛小説って成り立たないんだろうなぁ、と思ってしまうからかもしれません。
でも本書の場合、恋愛がメインになっている物語であっても、『恋愛小説』という感じがしない。豊島ミホが、『恋愛小説の文法』を無視して恋愛小説を書いている、という感じが僕にはするんです。僕が感じる凄さをうまく伝えられているかどうか不安ですけど、これは凄いな、と思うんです。恋愛小説なんだけど、なんか違う。たぶん、恋愛というものを殊更賛美していないその姿勢が、こういう物語を書かせるのではないか、と思うんですけどね。
どの話も凄く好きなんだけど、一番を挙げろと言われれば、僕は「ラブソング」かな、という気がします。いろんな意味でハラハラするし、ドキドキします。なんかもう、あーっ、って感じの物語なんだけど、でも爽快さは失われていない、みたいな。このバランス感覚は凄まじいとさえ思います。
というわけで、豊島ミホの凄さに驚かされた数日でした。もっと読みたい、という気にさせられる作家ですね。是非読んでみてください。
豊島ミホ「檸檬のころ」
本書は、7編の短編が収録された連作短編集です。とはいえ、「神田川デイズ」と同様、同じ高校を舞台にしている、というぐらいのユルい繋がりの連作短編集です。もちろん、それぞれの短編で共通して出てくる人物なんかもちらほらいますけどね。
「タンポポのわたげみたいだね」
私は、時々保健室に行って、サトの様子を見に行く。授業に出よう、と声を掛ける。サトは相変わらず、保健室から出てこないけど。
高校への初めての登校日、田舎から出てきて不安いっぱいだった私に電車の中で声を掛けてくれたのがサトだった。ホッとした。高校にはうまく馴染めないかもしれない、と思っていたから、安心した。
サトとよく一緒に過ごしたのだけど、二年になってから、サトは突然授業に出なくなった。
周りからは、サトのことなんてほっといてもっと他の人と絡みなよ、と言われることもある。私だって、そうできるならそうしたい。
そんなある日、目立つ男子から、朝一緒に通学しない?と誘われて…。
「金子商店の夏」
腹を下してトイレに入っていると、外の会話が聞こえてきてしまった。明らかに年食ってる人、何回落ちたんだよ。痛々しいんだよ。
俺のことだ。
司法試験合格を目指し、資格試験予備校に通う俺は、自分だって何か突き抜けられる、と思っていたのだ。司法試験ぐらい合格して、すげーことがやれるんだ、と。周りも家族も、直接的にはあまり言わないけど、もう諦めろという顔をしている。
母親から電話があった。おじいちゃんが死にそうだ、と。
慌てて実家に帰るも、じいちゃんはピンピンしてた。金子商店。俺の実家。父親が継がなかったこの店を、俺に継がせようとしていることは、もちろん分かっている…。
「ルパンとレモン」
中学時代、俺は野球部で、秋元は吹奏楽部。同じクラスだったけど、特に接点はなかった。
ある日秋元に聞かれた。「自分のテーマ何がいい?」
それが、バッターボックスに立った時吹奏楽部が演奏する音楽だと気づくのに時間が掛かった。
何でもいい、と返すと秋元は、「じゃあルパンにするね」と決めた。
目指す高校が同じだと分かって、一緒に勉強するようになって、同じ高校に合格して…。俺は一体、どこで何を間違えたのだろう。今秋元の隣に最も近いのは、野球部のエースである佐々木富蔵だ。
「ジュリエット・スター」
私は母親から珠紀のことを押し付けられた形になって、正直めんどくさい。高校生専用の下宿を営んでいる我が一家では、下宿内恋愛は禁止、ということにしている。これまでそれが破られることはなかった。しかし今、珠紀と林の間で、それが破られようとしている。
頭ごなしに言っても聞かないだろう。それでなくても珠紀は厄介な性格をしている。とりあえず林と話をしてみるものの…。
「ラブソング」
私はいつだってヘッドフォンをして、ラジオからダビングした音楽を聴いている。音楽ライターになるのが夢で、それには学歴があった方が有利なんじゃないか、という理由でこの進学校にいる。だから周りの、どうでもいい会話しかしていないような連中には興味はないし、音楽以外のことにはほとんど興味が持てない。
うるさい教室を出て廊下で音楽を聴きながら雑誌を見ていると、一人の男子が目の前に立った。同じくらすだけど、名前が思い出せない。それでも、相手がイヤホンをしているのが目に入って、似たもの同士かもしれない、と思った。
辻本、と彼は呼ばれていた。まさか音楽漬けの私の生活の中に、それ以外のものが入り込む余地があるとは、全然想像もしていなかった…。
「担任稼業」
志望校を決める面談の時期。俺は生徒に、容赦のない判断を突きつける。進学校っていうのは、表立ったトラブルを起こす奴が少ないのはいいが、それはそれで厄介なこともたくさんある。俺もこの高校の卒業生だから、よく分かる。
そんな中でも一番の問題は、不登校の小嶋智だ。学校には来るが、保健室直行で、このままだと卒業も危うい。しかし小嶋が何を考えているのかは、まったくわからない。まったく、教師なんて、本当に報われない…。
「雪の降る町、春に散る花」
秋元は佐々木と一緒に、佐々木の合否発表を公衆電話で聞いていた。佐々木は神奈川の大学を落ちた。後は離れるまでのカウントダウンの日々だ。
東京の大学に行く以外の選択肢を持っていなかった秋元は、自分があと少しで佐々木と離れなくてはいけないという現実を、うまく消化できないでいた。自分がこれほど物分りがよくなかったという事実に驚くぐらいだった。
周りの女子は、先のことばっかり考えてて今を楽しめないのはもったいない、という。その通りだ。実際佐々木とも、最近では重苦しい雰囲気になっている。でも、離れることが分かっていて、なお楽しく振舞えというのか。私には出来ない…。
というような話です。
ここまで3連チャンで豊島ミホの作品を読んできましたけど、本当にこの作家は凄い、ということを確認するような読書でした。作品を読んだ順番もあるのかもですけど、読むたびに凄いと感じました。何度も書くけど、ホントつい1週間ぐらい前まではまったく読んだことのなかった作家で、こんな素晴らしい作家をまだ僕は知らなかったんだなぁ、と思いました。
解説氏が、『豊島ミホは、普通をかがやかす達人である。』と書いていて、まさにその通りだな、と思いました。この作品に出てくる人は、本当にごく普通の人が多いんです。特別『こういう人』っていう風に表現できないような、どの高校にも普通にいそうな、僕らも高校時代こんな人らと一緒にいたよな、というような人たちが物語の主人公になっているんです。
その、ごくごく普通の人たちを、本当に『かがやかす』んです。物語自体も、特別なことが起こるわけじゃないのに、です。普通の、僕らが想像できる範囲の高校時代という枠の中で、そういう普通の人達の生活がものすごく輝いて見える。
これが豊島ミホの凄さだなと思います。ありきたりの人、ありきたりの状況を使って、ここまでグッとくる物語を書けるものなのか、と思いました。
この作品を読むと、実は誰でも主人公なんじゃないか、っていう気がしちゃいます。よく、「あいつは物語の主人公になれるけど、俺はそうじゃない」みたいな感覚ってあると思うんだけど、でもこの作品を読んでいると、ちゃんと自分の目の前に広がっているものを見れば、誰しもが物語の主人公なんじゃないか、という錯覚が沸き起こってきます。
本書は決して恋愛小説というわけではないんだけど、恋愛をメインに据えた作品も結構あります。でも、僕が凄いと思うのが、そういう物語が、僕には『恋愛小説』には思えない、ということなんですね。
僕は基本的に、恋愛だけがメインになっている物語っていうのはあんまり得意ではないんです。それは、『恋愛小説の文法』みたいなものにあんまり馴染めないからだろうな、と思うんです。物語の展開や主人公の心の動き、そして文章なんかも、恋愛小説の場合基本的に『恋愛小説の文法』に従っているように思えてしまうんですね。僕が恋愛がメインになっている物語が得意ではないのは、こういう風に『恋愛小説の文法』に従わないと恋愛小説って成り立たないんだろうなぁ、と思ってしまうからかもしれません。
でも本書の場合、恋愛がメインになっている物語であっても、『恋愛小説』という感じがしない。豊島ミホが、『恋愛小説の文法』を無視して恋愛小説を書いている、という感じが僕にはするんです。僕が感じる凄さをうまく伝えられているかどうか不安ですけど、これは凄いな、と思うんです。恋愛小説なんだけど、なんか違う。たぶん、恋愛というものを殊更賛美していないその姿勢が、こういう物語を書かせるのではないか、と思うんですけどね。
どの話も凄く好きなんだけど、一番を挙げろと言われれば、僕は「ラブソング」かな、という気がします。いろんな意味でハラハラするし、ドキドキします。なんかもう、あーっ、って感じの物語なんだけど、でも爽快さは失われていない、みたいな。このバランス感覚は凄まじいとさえ思います。
というわけで、豊島ミホの凄さに驚かされた数日でした。もっと読みたい、という気にさせられる作家ですね。是非読んでみてください。
豊島ミホ「檸檬のころ」
エバーグリーン(豊島ミホ)
内容に入ろうと思います。
中学生であるアヤコとシン。アヤコはクラスではオタク集団に属していて、大人しいけど将来の夢は漫画家。シンも大人しいタイプで、教室の端にいるような感じだけど、ギターが好きでミュージシャンになりたいと思っている。
二人は同じクラスだけど、話したことはなかった。話すようになったのは、シンが学園祭で出るはずだったバンドが、学園祭二週間前に突如解散してしまった、その場面にアヤコが遭遇したからだ。
アヤコはずっと、シンのことを見ていた。クラスでも目立たない男の子だったけど、アヤコにとってはすべてだとも言える男の子だった。いつだってシンのことを考えていたし、登下校中にシンが歌を歌っているのに気づいて、シンは将来絶対凄い人になるんだ、と疑わなかった。
アヤコは勇気を出して、学園祭一人で出ればいい、と言ってみた。それから、放課後一緒に帰ったりと、時々シンと関わるようになっていった。
あることがきっかけで気まずくなってしまった二人は、卒業式の日、その場の勢いである約束を交わす。10年後、ここでまた会おう。シンはミュージシャンになって、そしてアヤコは漫画家になって、またここで再開しよう。
その約束の日が近付いている10年後、シンはリネンの会社でシーツや枕カバーなんかをトラックで運んでいる…。
というような話です。
今連チャンで豊島ミホを読んでいるんですけど、ホントいいですね。1週間ぐらい前に「日傘のお兄さん」を読むまでまったく読んだことない作家で、こんな良い作家をまだ知らなかったんだなぁ、と思っているところです。
本書は、大雑把な括り方をすれば、『結構リアルな少女マンガ』という感じかも、と思います。少女マンガ、ほとんど読んだことないですけど。特にアヤコの心情は、僕が勝手に想像している少女マンガの感じに近い気がします。中学生の頃好きで好きで仕方なかった男の子のことが24歳になった今でも心の大部分を占めていて、アヤコは夢を叶えて少女マンガ家になっているのに、恋愛をしたことがない。卒業式以来一度も会っていないシンだけを胸に10年間ずっと過ごしてきた、という女性です。
これだけ書くと、うわぁーリアリティーなさそうな小説、という感じがしてしまうかもしれませんが、これがそんなことまったくないんです。もちろん、シンとアヤコどちらのキャラクターの方が現実にいそうか、と聞かれれば、それはシンの方がいそうですけど、でも、著者の描き方がうまいので、アヤコもそんな設定にも関わらず、ホントに現実にいそうな人物としてきちんと輪郭を持っています。
シンとアヤコはホントに、中学の卒業式以来10年間、約束の日まで一度も会わないし連絡も取らない。よくもまあそんな設定で、二人を主軸とした長編を書けるものだな、と感心しました。だって物語のほとんどのシーンが、シンとアヤコが別々のところにいる場面なわけで、それで長編を書くって物凄く大変だと思うんですね。
アヤコの、ただ奥手というわけではない恋愛未経験者の描き方は凄くうまいと感じました。ただ奥手だというだけの物語なら結構あるかもしれないけど、本書の場合アヤコは、確かに奥手であることは間違いないんだけど、その背景に、中学時代のシンの存在と彼とした約束、というのがでーんと横たわっているんです。アヤコにとっては、たとえ10年経とうとも、シンの存在感は変わらないままだし、かつて交わした会話や、沸き上がってきた感情なんかも、すべてありのままに思い出せる。かと言ってアヤコには、シンと付き合いたい、という感情はないわけです。付き合うとか付き合わないとかそういうことではなくて、もっと別次元の存在としてアヤコの中ではしまいこまれているわけなんですね。その絶妙なバランスみたいなものが丁寧に描かれていて凄くいい。
一方のシンは、高校を卒業した辺りからあっさりと音楽の道は諦めて、普通に就職。彼女とも家族ぐるみの付き合いだし、仕事も楽しくはないけどきちんとやっているしという感じで、田舎で暮らしていく自分、という現実に疑問を抱かずに日々を過している。でも、決してそういう自分を『受け入れた』わけではなかったことを自覚させられる出来事がある。彼女がアヤコが描く少女マンガの大ファンで、それでシンは、アヤコが本当に夢を叶えたのだということを知ってしまう。
そこからシンは足掻く。約束のことはもちろん忘れてはいなかった。けど当然、アヤコも夢を叶えることは出来なかったはずだ、と思っていた。再開して、やっぱりこうだよね、と言って笑って終わるはずだった。でもそうじゃなかった。
そうやってシンは、このまま田舎で終わっていく自分を少しも受け入れていなかったことを自覚させられる。トラックに乗って相棒であるオッサンとくだらない話をしてる自分とか、彼女の家の雪下ろしを手伝っちる自分とか、そういう自分がやっぱり違う、と思えてくる。10年間一度も会うことのなかったアヤコによって、シンの中の何かが動き出すことになる。
そうやって二人は、決して会うことはないままにお互いに影響を与え続け、そして約束の日を迎えるんです。その流れがホントうまくて、豊島ミホやるなぁ、と思ってしまいました。
あと、これは何作か豊島ミホの作品を読んできた感想なんだけど、ホントに文章がうまい。文章というか、なんだろう、感情の切り取り方、とでもいうのかな。僕が同じことを表現するのに10行ぐらい掛かりそうなことを、たった1行でスパッと表現してしまう、みたいな印象があります。僕とほぼ同い年のはずなのに、こんな表現が出来るのか、と思うと、ちょっと凹みますよね。
劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ二人の日常が丁寧に掬い取られていくだけの物語なんですけど、ジワジワと胸に迫ってくるものがあります。僕が勝手にそう思ってるだけだけど、豊島ミホの作品には割と、『自分は何者かになれるはず』という期待が打ち砕かれた人々が描かれている、という印象があるのだけど、そういう諦念や焦燥みたいな描写も本当にうまくて、『何者にもなれなかった自分』を受け入れたことのある人にはグッと来るものがある作品ではないか、と思いました。
文庫裏の内容紹介を読むと、ちょっと稚拙な物語のような気がしてしまうかもしれないし、僕が冒頭で書いた『結構リアルな少女マンガ』っていう表現に、少女マンガならいいや、と思ったりする人もいるかもしれないけど、これは素敵な作品だと思います。女性だけではなくて男でも、シンに容易に感情移入出来るのではないか、という感じがします。是非読んでみてください。
豊島ミホ「エバーグリーン」
中学生であるアヤコとシン。アヤコはクラスではオタク集団に属していて、大人しいけど将来の夢は漫画家。シンも大人しいタイプで、教室の端にいるような感じだけど、ギターが好きでミュージシャンになりたいと思っている。
二人は同じクラスだけど、話したことはなかった。話すようになったのは、シンが学園祭で出るはずだったバンドが、学園祭二週間前に突如解散してしまった、その場面にアヤコが遭遇したからだ。
アヤコはずっと、シンのことを見ていた。クラスでも目立たない男の子だったけど、アヤコにとってはすべてだとも言える男の子だった。いつだってシンのことを考えていたし、登下校中にシンが歌を歌っているのに気づいて、シンは将来絶対凄い人になるんだ、と疑わなかった。
アヤコは勇気を出して、学園祭一人で出ればいい、と言ってみた。それから、放課後一緒に帰ったりと、時々シンと関わるようになっていった。
あることがきっかけで気まずくなってしまった二人は、卒業式の日、その場の勢いである約束を交わす。10年後、ここでまた会おう。シンはミュージシャンになって、そしてアヤコは漫画家になって、またここで再開しよう。
その約束の日が近付いている10年後、シンはリネンの会社でシーツや枕カバーなんかをトラックで運んでいる…。
というような話です。
今連チャンで豊島ミホを読んでいるんですけど、ホントいいですね。1週間ぐらい前に「日傘のお兄さん」を読むまでまったく読んだことない作家で、こんな良い作家をまだ知らなかったんだなぁ、と思っているところです。
本書は、大雑把な括り方をすれば、『結構リアルな少女マンガ』という感じかも、と思います。少女マンガ、ほとんど読んだことないですけど。特にアヤコの心情は、僕が勝手に想像している少女マンガの感じに近い気がします。中学生の頃好きで好きで仕方なかった男の子のことが24歳になった今でも心の大部分を占めていて、アヤコは夢を叶えて少女マンガ家になっているのに、恋愛をしたことがない。卒業式以来一度も会っていないシンだけを胸に10年間ずっと過ごしてきた、という女性です。
これだけ書くと、うわぁーリアリティーなさそうな小説、という感じがしてしまうかもしれませんが、これがそんなことまったくないんです。もちろん、シンとアヤコどちらのキャラクターの方が現実にいそうか、と聞かれれば、それはシンの方がいそうですけど、でも、著者の描き方がうまいので、アヤコもそんな設定にも関わらず、ホントに現実にいそうな人物としてきちんと輪郭を持っています。
シンとアヤコはホントに、中学の卒業式以来10年間、約束の日まで一度も会わないし連絡も取らない。よくもまあそんな設定で、二人を主軸とした長編を書けるものだな、と感心しました。だって物語のほとんどのシーンが、シンとアヤコが別々のところにいる場面なわけで、それで長編を書くって物凄く大変だと思うんですね。
アヤコの、ただ奥手というわけではない恋愛未経験者の描き方は凄くうまいと感じました。ただ奥手だというだけの物語なら結構あるかもしれないけど、本書の場合アヤコは、確かに奥手であることは間違いないんだけど、その背景に、中学時代のシンの存在と彼とした約束、というのがでーんと横たわっているんです。アヤコにとっては、たとえ10年経とうとも、シンの存在感は変わらないままだし、かつて交わした会話や、沸き上がってきた感情なんかも、すべてありのままに思い出せる。かと言ってアヤコには、シンと付き合いたい、という感情はないわけです。付き合うとか付き合わないとかそういうことではなくて、もっと別次元の存在としてアヤコの中ではしまいこまれているわけなんですね。その絶妙なバランスみたいなものが丁寧に描かれていて凄くいい。
一方のシンは、高校を卒業した辺りからあっさりと音楽の道は諦めて、普通に就職。彼女とも家族ぐるみの付き合いだし、仕事も楽しくはないけどきちんとやっているしという感じで、田舎で暮らしていく自分、という現実に疑問を抱かずに日々を過している。でも、決してそういう自分を『受け入れた』わけではなかったことを自覚させられる出来事がある。彼女がアヤコが描く少女マンガの大ファンで、それでシンは、アヤコが本当に夢を叶えたのだということを知ってしまう。
そこからシンは足掻く。約束のことはもちろん忘れてはいなかった。けど当然、アヤコも夢を叶えることは出来なかったはずだ、と思っていた。再開して、やっぱりこうだよね、と言って笑って終わるはずだった。でもそうじゃなかった。
そうやってシンは、このまま田舎で終わっていく自分を少しも受け入れていなかったことを自覚させられる。トラックに乗って相棒であるオッサンとくだらない話をしてる自分とか、彼女の家の雪下ろしを手伝っちる自分とか、そういう自分がやっぱり違う、と思えてくる。10年間一度も会うことのなかったアヤコによって、シンの中の何かが動き出すことになる。
そうやって二人は、決して会うことはないままにお互いに影響を与え続け、そして約束の日を迎えるんです。その流れがホントうまくて、豊島ミホやるなぁ、と思ってしまいました。
あと、これは何作か豊島ミホの作品を読んできた感想なんだけど、ホントに文章がうまい。文章というか、なんだろう、感情の切り取り方、とでもいうのかな。僕が同じことを表現するのに10行ぐらい掛かりそうなことを、たった1行でスパッと表現してしまう、みたいな印象があります。僕とほぼ同い年のはずなのに、こんな表現が出来るのか、と思うと、ちょっと凹みますよね。
劇的な何かが起こるわけでもなく、ただ二人の日常が丁寧に掬い取られていくだけの物語なんですけど、ジワジワと胸に迫ってくるものがあります。僕が勝手にそう思ってるだけだけど、豊島ミホの作品には割と、『自分は何者かになれるはず』という期待が打ち砕かれた人々が描かれている、という印象があるのだけど、そういう諦念や焦燥みたいな描写も本当にうまくて、『何者にもなれなかった自分』を受け入れたことのある人にはグッと来るものがある作品ではないか、と思いました。
文庫裏の内容紹介を読むと、ちょっと稚拙な物語のような気がしてしまうかもしれないし、僕が冒頭で書いた『結構リアルな少女マンガ』っていう表現に、少女マンガならいいや、と思ったりする人もいるかもしれないけど、これは素敵な作品だと思います。女性だけではなくて男でも、シンに容易に感情移入出来るのではないか、という感じがします。是非読んでみてください。
豊島ミホ「エバーグリーン」