ナガサレール イエタテール(ニコ・ニコルソン)
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内容に入ろうと思います。
本書は、フリーのイラストレーターであり、最近はマンガ家としても活躍しているニコ・ニコルソン氏の家族に起こった実際の出来事をマンガにした作品です。
ニコ・ニコルソン氏は宮城県亘理郡山元町の出身。3.11の東日本大震災時、母親(本書では「母ル」として登場)と祖母(同じく「婆ル」)が山元町の自宅に住んでおり、二人はそこで被災した。
突然の津波。黒い水に飲み込まれながらも、奇跡の生還。自宅の二階で凍えながら朝を待つ。翌朝、知らない家がご近所に!
そんな九死に一生を得た母ルと婆ル。しかしそこからも苦難の道程を辿ることになるニコ・ニコルソン氏一家。地震・津波だけではない、ダブルパンチ、トリプルパンチのような現実と闘いながらも、彼女たちは無謀にも、かつてと同じ場所に家を建てようとしていた!
婆ルがどうしても、地元に帰りたいという。家もない、町の人口も減っている、原発の不安もある、その他様々な問題があるにも拘わらず、婆ルはどうしても地元に帰りたがる。
『婆ルがあの場所にこだわるのはなぜか
住み慣れた土地から川崎に避難して二ヶ月半
婆ルはずっと元気がなかった
山元町は婆ルが何十年も根付いていた場所
そこの土や水や空気
それがなくなればしおれてしまうのだ
植えかえたとたんに枯れてしまう草花のように』
様々な事情から、あらゆる決断の矢面に立つことになるニコ・ニコルソン氏は、ついに家を建てる決断をする!
というような、ノンフィクションです。
マンガって、やっぱり凄いな、と思った。
前にもまったく同じことを書いた。ひうらさとる氏が発起人となり、複数のマンガ家が東北を取材、現地の「個人の物語」をマンガにしたアンソロジー「ストーリー311」を読んだ時も、同じふうに思った。
マンガって、やっぱり凄いな、と。
僕は、震災や原発の本を、それなりに読んできた。基本的には、すべて「文字だけ」の本だ。それらは、事実を正確に伝え、起こったことを記録するのには適したメディアかもしれない。
あるいは、僕はあまり見なかったが、震災や原発を扱ったテレビ番組やドキュメンタリーも数多く放送されたことだろう。映像も、事実を正確に伝え、起こったことを記録するのには文字以上に最適かもしれない。
しかし、どちらのメディアにしても、絶対にマンガに敵わない部分がある。
それは、マンガは、「圧倒的なシリアスさを、“面白く描く”ことが出来る」という点だ。
「ストーリー311」の中で僕がもっとも好きだった話は、うめ氏の描いたマンガだ。震災を描きつつ、完璧にエンターテイメントとして昇華されている作品で、それを読んで僕は衝撃を受けた。震災や原発を、こんな風に表現することが出来るんだ、と思った。
本書も同じだ。著者のニコ・ニコルソン氏(とその家族)が体験した出来事は、もしかしたら著者が初めの方で書くように、「いたってフツーの家族」のことなのかもしれない。被災地では、ニコ・ニコルソン氏の体験は、そこまで珍しいものではないのかもしれないし、もっと辛い現実と立ち向かっている人もきっと多くいるのだろう。
しかし、被災地から遠く、既に大分前からすっかりと日常を取り戻してしまった土地に住んでいる僕らのような人間には、ニコ・ニコルソン氏の体験はとても「フツー」といえるようなものではないだろう。ここでは書かないが、ニコ・ニコルソン氏に振りかかるのは、震災や原発だけではないのだ。まさかこんなタイミングで、こんなにたくさんのことが重なってやってこなくても、と言いたくなるほどの現実の中にいる。
そういう現実を走り抜けた著者。正直、自分の経験を面白おかしくマンガに出来るような心境ではなかっただろう。逃げたいと思ったことだって、何度もあったはずだ。
しかしニコ・ニコルソン氏は、このマンガを描いた。そして出来上がった作品は、シリアスな現実をアクロバティックに“笑い”に変える、凄まじい作品だった。
それは、「マンガ」というメディアが無意識の内に要請する強制力のようなものなのかもしれないと思う。他の多くのメディアは、大きくなりすぎた故に細分化され、映像であれば「報道」という枠組みが、文字であれば「ノンフィクション」という枠組みが用意される。そして、映像を選択するにせよ、文字を選択するにせよ、震災や原発を扱うと決めた時点で、それらは「報道」「ノンフィクション」という枠組みの中に自動的に放り込まれ、その枠からなかなか逃れることは難しい。
しかしマンガは、ここまで大きなメディアになりつつ、未だに「娯楽」というカテゴリーを手放していない。マンガは、それ全体で大きく「娯楽」という枠組みで括られ、その内側はそこまで細かく細分化されていないと僕は思う。
だからこそ、「マンガで書く」ということは、「ある程度の娯楽性を持たせる」ことを要請されるのではないかと思う。それが、「マンガ」という、日本人が育ててきた独特な表現方法の、非常に特殊な部分なのではないかと勝手に思っている。
だから本書は、誤解を恐れずに言うと、とてつもなく面白い。震災や原発を扱った作品に対して「面白い」という評価を与えることに、なんとなく抵抗感がある。あるのだが、しかしこの作品は「面白い」としか言いようがない。「面白い」のは当然、ニコ・ニコルソン氏らの「経験」ではない。「経験」は、恐ろしく、辛く、果てしないものだ。しかしその経験の「表現」が実に面白い。これこそがマンガの力だと僕は思う。「絵」という表現方法だから描き出せる、というのではない。「絵」で描き出せるのであれば、リアルな「映像」の方がより描き出せるという理屈になるはずだ。そうではない。「絵」だからではなく、「マンガという文化」そのものが、この「面白さ」を担保しているのだ。
もちろん、「マンガ特有の文化が担保する面白さ」を、文章で表現できるわけもない。だから本書が「どう面白いのか」をここで書くことは不可能だ。読んでもらうしかない。しかし本当に、よくもここまで面白いマンガに仕立て上げられたものだと思う。しかもそれは、現実の辛さを隠すことで生み出されるものではない。現実の辛さは、ふんだんに表現されている。しかし面白いのだ。
読んでいて、しみじみとさせられる場面がある。その多くが、母ルがポツリと呟く場面だ。
『私はさぁ…どうにかできると思ってたよ』
『なんだかどんどん、不幸な人扱いされてる気分になってきてさ~
毎日毎日ただ生きてるだけなんだけどなぁ』
母ルの素直な呟きには、胸を打たれることが多い。現実的に、母ルが一番苦労を背負い、現実と向き合っていかなくてはいけなくなる。現在も、未来も。そういう中で、母ルは出来る限り前を向こうとする。けれども、周囲を取り巻く状況の変化や、自分自身の心境の変化から、母ルは時々ガス抜きをするようにポツリと呟く。
母ルの言葉で一番印象深かったのは、これだろうか。
『神はいないので神棚はいりません』
この言葉の重さを、しみじみと感じた。
本書では、小さなエピソードも散りばめられていて面白い。東京で揺れを感じた時、ニコ・ニコルソン氏が落ち着きを取り戻したアホくさい一言とか、震災直後であっても大工が作業をしていた現実、あるいは実家とまったく連絡が取れないでいた時にニコ・ニコルソン氏が後悔したことなど、その時々の情景や感情をそうした小さなエピソードを通じて表現しているのがとてもうまいと思いました。
34ページには、実家の片付けをしに実家に戻った際に撮った写真も掲載されている。
『めちゃくちゃになった家。
実際、目にしてもどこか夢みたいな感覚で現実感がなかった。』
とニコ・ニコルソン氏は書くが、本当にそうだろう。
またコラムと称して、様々な知識も描かれていく。津波に耐えた食材の話、真面目な自衛隊員の話、被害判定がなんと目視で行われたことや、被災地の乱開発を防ぐために設けられた建築制限についてなど、役に立たない話や(笑)、知らなかった話など、様々な知識が得られて面白いと思いました。
「フツーの家族の話」と言いながら、その実壮絶な現実と立ち向かうことになった一人の漫画家の物語です。マンガという特殊な表現方法に担保されて、この作品は、震災や原発を扱いながら、物凄く面白い作品に仕上がっています。ハードなノンフィクションはちょっと…という方にもオススメできます。被害に遭っていない人間には、とても「フツー」とは思えない現実。しかし、程度の差はあるだろうけど、この現実を「フツー」と言い切るしかない実情。馬鹿馬鹿しく彩られた作品の向こうから、そんな現実が透けて見えるようにも思います。是非読んでみて下さい。
ニコ・ニコルソン「ナガサレール イエタテール」