「エドワード・ヤンの恋愛時代 4Kレストア版」を観に行ってきました
なんとなくだが、以前観たウォン・カーウァイ『恋する惑星』みたいな感じの気分でこの映画を観に行った。僕にとって『恋する惑星』は超絶好きな作品だったから、ちょっとハードルが上がっていたかもしれない。決してつまらなくはないし、良いなと思うシーンも色々とあったのだけど、ズバッと刺さるというところまではいかなかった。
さて、まずはこの映画の「修復」について少しだけ書いておこう。映画の冒頭でその説明が字幕で表示された。『エドワード・ヤンの恋愛時代』は1994年の公開だそうだが、その35ミリフィルムを2020年に修復し終えたそうだ。フィルムの劣化が激しかったため、異音などはAI的なものを使って修正し、水濡れやフィルムの破れなどは1コマ1コマ手作業で直したそうだ。
しかし、そもそも不思議なのだが、どうしてたかだか30年前の映画のフィルムがそんなに劣化してるんだろう? 映画のフィルムはそういうものなんだろうか? 公式HPを見ると、エドワード・ヤンという監督(そう、なんとこの映画、監督の名前がタイトルに含まれているのだ)は、1991年公開の「牯嶺街少年殺人事件」で高く評価されたそうだ。であれば、その3年後に公開された映画のフィルムも、それなりに大事に扱われると思うんだけど、なんでそんな劣化が激しい状態だったのかが謎だ。
さて、話を映画の内容の方に戻そう。まずは少しだけ、この映画が撮られた時の台北について。映画の冒頭で、孔子の文章が引用され、「豊かさを手に入れた後、人間はどう生きるか?」みたいな問いかけがなされる。その後、「台北は僅か20年で、世界で最も豊かな都市の1つになった」という字幕が表示される。要するに、日本のバブル期みたいな時代だったのだと思う。そういう、国中に活気が溢れる時代の若者たちを切り取っていく映画というわけだ。
物語は、モーリーという女性経営者を中心に展開していく。彼女は、出版や映像などのカルチャー・ビジネスを行っている。モーリーは20代か30代ぐらいであり、かなり大きな会社の経営者としては不自然な存在だが、物語を追っていくと、婚約者であるアキンから与えられたビジネスであることが分かる。彼女が自身の会社についてどの程度思い入れがあるのかなかなか分からないが、少なくとも会社は財務状況が良くなく、さらに気まぐれで人を突発的に解雇するモーリーのやり方もあって、恐らく社内の雰囲気もあまり良くはない。モーリーは、アキンとの関係でもモヤモヤしたものを抱えており、それはアキンにしても同じである。
さて、そんなモーリーの右腕となって支えているのが、親友のチチだ。彼女はモーリーと同級生(いつの時代の同級生なのかはよく分からなかった)であり、気まぐれなモーリーの差配に色々思うところがありながらも、普段は誰に対しても可愛い笑顔を向けている。モーリーはチチを信頼しているが、彼女には、恋人である公務員のミンの親族から持ち込まれた転職の話が来ている。ミンは、その転職の話を持ち込んだ人物に忸怩たる思いを抱いてはいるものの、チチはモーリーから離れるべきだと考えており、その転職の話を積極的に進めようとする。ちなみに、ミンもまた、モーリー、チチと同級生である。
このモーリー、チチ、ミンの関係性を中心軸としながら、さらに様々な人間模様が描かれる。同じく彼らと同級生であり、演劇の演出家として出世したバーディ。彼の演劇はある小説家の盗作だと疑われるのだが、その小説家は、モーリーの姉の夫である。2人は別居中だが、テレビタレントとして活躍する姉と、恋愛小説で人気を博し一定のファンがいる小説家は、別居の事実を隠している。一方、アキンの右腕として活躍する投資コンサルタントのラリーと、ラリーの紹介でモーリーの会社に入社したフォン。
彼らはそれぞれに「持っているもの」がある。つまり「豊か」と言っていいだろう。しかし裏腹に、彼らは皆彼らなりの「寂しさ」を抱えている。その「寂しさ」を何かで埋めようと、そこに「恋愛」を嵌め込もうとするのだが、お互いの「寂しさ」の形が上手く合致せず、結局お互いの「寂しさ」を見せ合うだけで終わる。そんな「寂しさ」を最初から最後まで描き出している作品だ。
彼らは本当は、今手にしているものでも十分に「幸せ」を感じられるはずだ。しかし、時代がそうはさせない。一昔前ならそう言えたかもしれないが、国全体が「豊か」になったため、「他の人よりも更に『豊か』な私」が確認できないと「幸せ」を感じられなくなってしまったのだ。映画のような形で客観的に見せられれば、僕らも、「なんでお前たちは、自分が『幸せ』だって気づかないんだ」って思える。でも、自分がそこにいたら、きっと気づかないのだ。
映画の中の誰もが、目の前にいる相手の「向こう側」に誰かの存在を感じ取ろうとする。それは「嫉妬」だったり「防衛」だったり「攻撃準備」だったりするのだが、いずれにせよ、その態度は、目の前にいる相手をないがしろにすることに繋がる。映画全体を思い返してみても、「目の前にいる相手と向き合っている」と感じるシーンはとても少ない。これも、客観的に観ていれば、「そりゃあすれ違っちゃうよね」と感じるのだが、自分がその場にいたら気づかないかもしれない。
誰もが「今自分が手にしているもの」や「目の前にいる相手」を無視して現実を進んでいこうとするのに対して、モーリーの義兄である小説家の男性だけはそのややこしさから抜け出ているように感じられたので、映画の中では特異な存在に思えた。が、必ずしもそうとは言えないという展開に巻き込まれることになり、やはりなかなか難しいものだなぁ、と感じる。
モーリーの奇抜さが物語を駆動させていくのは間違いないが、映画の中でやはり興味深いと感じる存在はチチだろう。なんというのか、一番「何を考えているのか分からないタイプ」という感じだ。だから面白い。
チチは誰からも「朝一番で君に会えると元気が出るよ」「あの子はいつもニコニコして可愛らしい」と言われるような存在だ。もちろん、チチも色んなことでイライラしたりするし、恋人のミンとケンカしたりもする。ただ、表向きはいつも「良い子」の仮面を被ってしまうのだ。
「被ってしまう」という表現は正しくないかもしれない。興味深いことに、チチはモーリーに、「どうして人に好かれるのか、考えたことがある」みたいな話をする場面がある。つまり、「意識的にそういう風にしているわけじゃない」という意味だろう。「生来の習い癖」みたいなものと言えばいいだろうか。そしてある意味ではそのことが、彼女のコンプレックスになっている。「自分には『自分』がないんじゃないか」というわけだ。それは、「『自分』しか存在しない」ようなモーリーの近くにいることで、余計に強化されると言えるだろう。
分かりやすい人間にはあまり興味が持てない僕は、あまりにも分かりやすい(ように映る)モーリーにはさほど興味が持てなかったのだが、観れば観るほどなんだか分からなくなっていくチチの存在感はとても気になった。チチが号泣するシーンも印象的だったし、映画のラストシーンのチチも良い。
あとやはり、関係性で言っても、モーリーとチチの関係が一番興味深い。特に映画の後半、朝会社で2人が鉢合わせるシーンはとても印象的だ。詳しくは触れないが、それまでの流れの中で「終わった」と表現して良いような2人の関係がするっと変質していく。もちろん、こんなややこしいモーリーと長年親友をやってきたのだが、その関係があっさりと終わってしまうようなことはないのかもしれないとは思うが、それでも、映画を追っている観客としては、「なるほど、そこでそうなるんだな」と思うんじゃないかと思う。
一方で、映画では「なかなかいけ好かない男」がたくさん描かれている。アキンは全然可愛い方で、アキンの右腕であるラリーはなかなか酷いし、演出家のバーディも結構ヤバい。まあ、こういういけ好かない奴が出てくるからこそ、たった2日半で展開される物語に緩急がつくわけだが、だからと言って彼らに興味が持てるというわけでもない。
そう、この作品は、たった2日半の物語を描くものであり、その中で、主要な登場人物のほとんどが、何らかの形で「人生の転機」を迎える。ほとんど「玉突き事故」のような人間関係が描かれる物語であり、そんな物語が、最終的にそれぞれの「人生の転機」を引き寄せるという構成は、なかなかに絶妙と言えるだろう。
そして、興味深いのは、その「人生の転機」に関わる決断が、「既に持っているものを手放すこと」であることだろう。全員が全員そうというわけではないが、多くが、「自分が持っている『豊かさ』だと思っていたものを手放すことで、本当の『豊かさ』を手に入れようとする」という行動を取る。
そしてこの帰結は、非常に現代的と言えるだろう。ある意味でとても「豊か」になってしまった僕たちは、どこかでその「豊かさ」を制約しなければ「幸せ」を感じることが出来ない。
例えば、パッと思いついた例なのであまり適切ではないが、最近若い世代の間でフィルムカメラが再び人気になっている、というニュースを見る機会がある。これは要するに、スマホの普及によって「写真を撮る」という行為があまりにも当たり前に行えるようになったことで、「撮った写真をすぐに見れない」「現像にお金が掛かる」という制約を持たせなければそこに価値を見出しにくくなった、という風にも解釈出来るだろう。欧米を中心に、1日に1度だけランダムに指定される時間にしか投稿出来ないSNS「BeReal」が流行っているという話もちょっと前に話題になったが、これも同じような理由だと思う。
そういう、「今手にしているものを手放すことでしか『豊かさ』『幸せ』を実感できなくなった」時代に生きる僕らには、この映画が突きつける問いや現実は、結構グサグサ突き刺さるものなんじゃないかと思う。公式HPには、『エドワード・ヤンの恋愛時代』が公開時に正当な評価を受けたとはいい難い、みたいに書かれているが、時代を先取りしすぎたということなのだろう。恐らく、現代を生きる人の方が、この作品をより深く捉えられるんじゃないかと思う。
しかし個人的には、こういう「恋愛」を間に挟んだ近場の人間関係の円環的なものには巻き込まれたくないなぁ、と思ってしまった。物語ならいいが、自分が経験すると考えると、こういう状況は好きではない。
「エドワード・ヤンの恋愛時代 4Kレストア版」を観に行ってきました
さて、まずはこの映画の「修復」について少しだけ書いておこう。映画の冒頭でその説明が字幕で表示された。『エドワード・ヤンの恋愛時代』は1994年の公開だそうだが、その35ミリフィルムを2020年に修復し終えたそうだ。フィルムの劣化が激しかったため、異音などはAI的なものを使って修正し、水濡れやフィルムの破れなどは1コマ1コマ手作業で直したそうだ。
しかし、そもそも不思議なのだが、どうしてたかだか30年前の映画のフィルムがそんなに劣化してるんだろう? 映画のフィルムはそういうものなんだろうか? 公式HPを見ると、エドワード・ヤンという監督(そう、なんとこの映画、監督の名前がタイトルに含まれているのだ)は、1991年公開の「牯嶺街少年殺人事件」で高く評価されたそうだ。であれば、その3年後に公開された映画のフィルムも、それなりに大事に扱われると思うんだけど、なんでそんな劣化が激しい状態だったのかが謎だ。
さて、話を映画の内容の方に戻そう。まずは少しだけ、この映画が撮られた時の台北について。映画の冒頭で、孔子の文章が引用され、「豊かさを手に入れた後、人間はどう生きるか?」みたいな問いかけがなされる。その後、「台北は僅か20年で、世界で最も豊かな都市の1つになった」という字幕が表示される。要するに、日本のバブル期みたいな時代だったのだと思う。そういう、国中に活気が溢れる時代の若者たちを切り取っていく映画というわけだ。
物語は、モーリーという女性経営者を中心に展開していく。彼女は、出版や映像などのカルチャー・ビジネスを行っている。モーリーは20代か30代ぐらいであり、かなり大きな会社の経営者としては不自然な存在だが、物語を追っていくと、婚約者であるアキンから与えられたビジネスであることが分かる。彼女が自身の会社についてどの程度思い入れがあるのかなかなか分からないが、少なくとも会社は財務状況が良くなく、さらに気まぐれで人を突発的に解雇するモーリーのやり方もあって、恐らく社内の雰囲気もあまり良くはない。モーリーは、アキンとの関係でもモヤモヤしたものを抱えており、それはアキンにしても同じである。
さて、そんなモーリーの右腕となって支えているのが、親友のチチだ。彼女はモーリーと同級生(いつの時代の同級生なのかはよく分からなかった)であり、気まぐれなモーリーの差配に色々思うところがありながらも、普段は誰に対しても可愛い笑顔を向けている。モーリーはチチを信頼しているが、彼女には、恋人である公務員のミンの親族から持ち込まれた転職の話が来ている。ミンは、その転職の話を持ち込んだ人物に忸怩たる思いを抱いてはいるものの、チチはモーリーから離れるべきだと考えており、その転職の話を積極的に進めようとする。ちなみに、ミンもまた、モーリー、チチと同級生である。
このモーリー、チチ、ミンの関係性を中心軸としながら、さらに様々な人間模様が描かれる。同じく彼らと同級生であり、演劇の演出家として出世したバーディ。彼の演劇はある小説家の盗作だと疑われるのだが、その小説家は、モーリーの姉の夫である。2人は別居中だが、テレビタレントとして活躍する姉と、恋愛小説で人気を博し一定のファンがいる小説家は、別居の事実を隠している。一方、アキンの右腕として活躍する投資コンサルタントのラリーと、ラリーの紹介でモーリーの会社に入社したフォン。
彼らはそれぞれに「持っているもの」がある。つまり「豊か」と言っていいだろう。しかし裏腹に、彼らは皆彼らなりの「寂しさ」を抱えている。その「寂しさ」を何かで埋めようと、そこに「恋愛」を嵌め込もうとするのだが、お互いの「寂しさ」の形が上手く合致せず、結局お互いの「寂しさ」を見せ合うだけで終わる。そんな「寂しさ」を最初から最後まで描き出している作品だ。
彼らは本当は、今手にしているものでも十分に「幸せ」を感じられるはずだ。しかし、時代がそうはさせない。一昔前ならそう言えたかもしれないが、国全体が「豊か」になったため、「他の人よりも更に『豊か』な私」が確認できないと「幸せ」を感じられなくなってしまったのだ。映画のような形で客観的に見せられれば、僕らも、「なんでお前たちは、自分が『幸せ』だって気づかないんだ」って思える。でも、自分がそこにいたら、きっと気づかないのだ。
映画の中の誰もが、目の前にいる相手の「向こう側」に誰かの存在を感じ取ろうとする。それは「嫉妬」だったり「防衛」だったり「攻撃準備」だったりするのだが、いずれにせよ、その態度は、目の前にいる相手をないがしろにすることに繋がる。映画全体を思い返してみても、「目の前にいる相手と向き合っている」と感じるシーンはとても少ない。これも、客観的に観ていれば、「そりゃあすれ違っちゃうよね」と感じるのだが、自分がその場にいたら気づかないかもしれない。
誰もが「今自分が手にしているもの」や「目の前にいる相手」を無視して現実を進んでいこうとするのに対して、モーリーの義兄である小説家の男性だけはそのややこしさから抜け出ているように感じられたので、映画の中では特異な存在に思えた。が、必ずしもそうとは言えないという展開に巻き込まれることになり、やはりなかなか難しいものだなぁ、と感じる。
モーリーの奇抜さが物語を駆動させていくのは間違いないが、映画の中でやはり興味深いと感じる存在はチチだろう。なんというのか、一番「何を考えているのか分からないタイプ」という感じだ。だから面白い。
チチは誰からも「朝一番で君に会えると元気が出るよ」「あの子はいつもニコニコして可愛らしい」と言われるような存在だ。もちろん、チチも色んなことでイライラしたりするし、恋人のミンとケンカしたりもする。ただ、表向きはいつも「良い子」の仮面を被ってしまうのだ。
「被ってしまう」という表現は正しくないかもしれない。興味深いことに、チチはモーリーに、「どうして人に好かれるのか、考えたことがある」みたいな話をする場面がある。つまり、「意識的にそういう風にしているわけじゃない」という意味だろう。「生来の習い癖」みたいなものと言えばいいだろうか。そしてある意味ではそのことが、彼女のコンプレックスになっている。「自分には『自分』がないんじゃないか」というわけだ。それは、「『自分』しか存在しない」ようなモーリーの近くにいることで、余計に強化されると言えるだろう。
分かりやすい人間にはあまり興味が持てない僕は、あまりにも分かりやすい(ように映る)モーリーにはさほど興味が持てなかったのだが、観れば観るほどなんだか分からなくなっていくチチの存在感はとても気になった。チチが号泣するシーンも印象的だったし、映画のラストシーンのチチも良い。
あとやはり、関係性で言っても、モーリーとチチの関係が一番興味深い。特に映画の後半、朝会社で2人が鉢合わせるシーンはとても印象的だ。詳しくは触れないが、それまでの流れの中で「終わった」と表現して良いような2人の関係がするっと変質していく。もちろん、こんなややこしいモーリーと長年親友をやってきたのだが、その関係があっさりと終わってしまうようなことはないのかもしれないとは思うが、それでも、映画を追っている観客としては、「なるほど、そこでそうなるんだな」と思うんじゃないかと思う。
一方で、映画では「なかなかいけ好かない男」がたくさん描かれている。アキンは全然可愛い方で、アキンの右腕であるラリーはなかなか酷いし、演出家のバーディも結構ヤバい。まあ、こういういけ好かない奴が出てくるからこそ、たった2日半で展開される物語に緩急がつくわけだが、だからと言って彼らに興味が持てるというわけでもない。
そう、この作品は、たった2日半の物語を描くものであり、その中で、主要な登場人物のほとんどが、何らかの形で「人生の転機」を迎える。ほとんど「玉突き事故」のような人間関係が描かれる物語であり、そんな物語が、最終的にそれぞれの「人生の転機」を引き寄せるという構成は、なかなかに絶妙と言えるだろう。
そして、興味深いのは、その「人生の転機」に関わる決断が、「既に持っているものを手放すこと」であることだろう。全員が全員そうというわけではないが、多くが、「自分が持っている『豊かさ』だと思っていたものを手放すことで、本当の『豊かさ』を手に入れようとする」という行動を取る。
そしてこの帰結は、非常に現代的と言えるだろう。ある意味でとても「豊か」になってしまった僕たちは、どこかでその「豊かさ」を制約しなければ「幸せ」を感じることが出来ない。
例えば、パッと思いついた例なのであまり適切ではないが、最近若い世代の間でフィルムカメラが再び人気になっている、というニュースを見る機会がある。これは要するに、スマホの普及によって「写真を撮る」という行為があまりにも当たり前に行えるようになったことで、「撮った写真をすぐに見れない」「現像にお金が掛かる」という制約を持たせなければそこに価値を見出しにくくなった、という風にも解釈出来るだろう。欧米を中心に、1日に1度だけランダムに指定される時間にしか投稿出来ないSNS「BeReal」が流行っているという話もちょっと前に話題になったが、これも同じような理由だと思う。
そういう、「今手にしているものを手放すことでしか『豊かさ』『幸せ』を実感できなくなった」時代に生きる僕らには、この映画が突きつける問いや現実は、結構グサグサ突き刺さるものなんじゃないかと思う。公式HPには、『エドワード・ヤンの恋愛時代』が公開時に正当な評価を受けたとはいい難い、みたいに書かれているが、時代を先取りしすぎたということなのだろう。恐らく、現代を生きる人の方が、この作品をより深く捉えられるんじゃないかと思う。
しかし個人的には、こういう「恋愛」を間に挟んだ近場の人間関係の円環的なものには巻き込まれたくないなぁ、と思ってしまった。物語ならいいが、自分が経験すると考えると、こういう状況は好きではない。
「エドワード・ヤンの恋愛時代 4Kレストア版」を観に行ってきました