自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」(佐藤幹夫)
内容に入ろうと思います。
本書は、レッサーパンダ帽を被った男が白昼包丁で女性を刺殺したというセンセーショナルな事件について、裁判を傍聴し、また多くの関係者に取材をした著者によるノンフィクションです。
タイトルの通り、本書の被告は「自閉症」です(ただ断言してしまうのも難しい。というのも裁判の中では、自閉傾向はあるが自閉症ではない、という形になっているから)。で、先に、著者の立ち位置を明確にしておこうと思うのですけど、著者は、『自閉症だからこそ凶悪犯罪が起きた』と言いたいわけでは決してない。著者の主張、そして本書を執筆する動機となったものは、『この事件の犯行の外形や動機といったものを考えるとき、障害の特徴への理解が欠かせないのだ』ということだ。
当時マスコミはこの事件を、「責任能力が争点」と報じていた。しかしそれはまったくの誤りだという。弁護人は、『自閉症の障害を主張し、心神喪失・心神耗弱を認めて欲しい、刑を軽くして欲しい』と求めているのでは決してなかった。そうではなく、現行の逮捕拘束・取り調べ・自白供述書の作成。鑑定のあり方、裁判での証言や処遇などについて、自閉症の障害を持つ人の刑事手続きについて考えなおして欲しい、そういう意図を持った裁判だったのだ。
この点については、本書でも繰り返し書かれている。
本書の意図するところを、著者は五つ挙げている。
1、知的障害や発達障害を持つ人たちが、どうすればこのような痛ましい事件の当事者になることを避けることが出来るか
2、障害を持つ人々がなんらかの形で加害者の側に立つことになった時、自己を守ることにおいて極めて弱い立場にいる彼らに、きちんとした法の裁きを受けて欲しい
3、何故浅草の事件を起こしたこの男が、殺人というところにまで追い込まれてしまったのか
4、何故突然凶行に及んでしまったのか
5、彼が自らのなしたことを振り返り、省みるということがどこまで出来るのか、あるいはその機会がきちんと与えられているのか
これらについてきちんと知りたいと取材に臨んだのだ。
著者は元々養護学校の教員であった。本書でも、自らの立ち位置を、公平になるように務めはするけども、やはり障害者側の立ち位置に多少は偏ってしまう部分もあるだろう、というようなことを書いています。
養護学校の教員だったという立場から、著者はこの事件・裁判を、少し異なった視点で見ている。警察や検察は、凶悪犯であり、また反省もしていない、という風に被告を見る。また被害者家族は、障害のあるからと言って刑が軽くなるというのはおかしい、というような趣旨の発言をする。それらは、それぞれの立場に立ってみれば間違ってはいないのだろうと思う(警察・検察の立場については、多くの疑問はあるにせよ、本書は冤罪というわけではない。被告が殺人を犯したことは明白だ。だからこそ警察・検察が、自閉症であるかどうかという点を弁護側が主張するほどに勘案する必要性を感じられない、という点は分からなくもない。僕自身は納得出来ないけども、彼らの立場に立ってみれば、ということ)。
しかし著者は、障害を持つ人たちと関わりのあった者として、被告の態度や言葉、あるいは来歴などを、また違った方向から見る。もちろん、被告が殺人を犯したことは間違いがないし、障害を持っているとはいえ責任を負うべきだというのは、僕も当然だと思う。しかしその一方で、自閉症の障害を持つ人たちにも『正統』な裁判を受ける権利はあるべきだ、という著者の主張にも、非常に賛同できる。
本書では、実際の裁判でのやり取りを多く採録しているのだけども、警察・検察側の主張には、非常に曖昧なものを感じた。どういうやり取りなのかというのは、一部だけ抜き出してここに書いても誤解の余地が残るだろうからしないけども、本書を読んで僕が感じた印象(そしてそれは、裁判を傍聴し続けた著者の感じた印象とも同じなのだけど)、警察・検察側が被告の言葉を都合よく作文して、犯行の状況や動機が作成されたのだろうな、というものだ。
これは、事件モノのノンフィクションをそれなりに読んできた僕の印象では、警察・検察のいつものやり方である。被告が自閉症の障害を持つかどうかという点に関係のない、警察・検察の持つ負の構造だと僕は思う。密室で自白が強要され、その自白が最大の証拠として裁判で扱われる。そこでどんなやり取りがあったかはわからない。表に出てくるのは、自白供述書だけだ。この事件は冤罪ではない、と先ほど書いた。実際冤罪ではないだろう。しかし、だからと言って、被告がどういう理由で女性に近づいたのか、何を思って刃物を突き立てたのか、そういうことを警察・検察が勝手に作文していい、ということにはならないだろう。
この警察・検察の負の構造は、冤罪を生み出す温床でもあるから、本書は障害者にだけ関わる話というわけではないのだけど、この負の構造が、自閉症の障害を持つ人たちにとって、適切な裁判を受けるための障害になっている、ということは考えたことがなかったので、なるほど現実ではそういうことが起こっているのだな、と感じました。
自閉症というのは、多くの特徴があるのだけど、この事件の被告の場合、10言われたことについて1か2ぐらいしか記憶していなかったり、抽象的な概念を説明することが得意ではなかったり、あるいは常に俯き加減で顔を上げることが出来なかったりということがある。裁判では、これらの特徴は自閉症であるという弁護側の主張と、自閉傾向はあるが自閉症ではなく知的障害だという検察側の主張は対立することになったのだけど、被告が自閉症であるかどうか実際のところどちらかわからないにせよ、自閉症の傾向があり、適切なやり方でないと取り調べも裁判も成立しないかもしれない、そういう風に考える向きがあってもいいのではないか、という感じがしました。
とここまで、自閉症の障害を持つ被告のことばかり書いてきたけど、著者はもちろん、被害者家族にも取材をしている。それは、多くの葛藤を伴うものだった。普通のノンフィクションライターであっても、被害者家族に取材をすることは多くの葛藤を生むだろうけど、著者の場合、障害を持つ人たち寄りであるという立ち位置を自らが認識していたことが、より大きな葛藤を生むことになる。こんな自分が、被害者家族に接触することは果たしていいのだろうか、というような懊悩も、本書では描かれていく。著者がこの事件に対して、あらゆる意味で誠実に対しているということが伝わってくると僕には感じられました。
本書では、もちろん自閉症に関する部分が一番深く考えさせられるし、問題としても大きいと感じたのだけど、正直に言って、障害を持つ人が身近にいない僕には、どうしても他人事であるという感覚が拭えないという部分はあります。こういう意識こそ変わるべきなんだろうとは思うのですが、なかなか実感としては難しいと思いました。
そんな僕が、これはちょっと怖いなと感じた裁判の一部分があります。それは、犯行を目撃した証人として裁判に出廷したあるタクシー運転手のくだりです。
このタクシー運転手は70代ですが、被告の服装やあるいは距離感などを実に正確に記憶していました。しかしその供述は、『被告の自白』と食い違う部分があったのです。特に大きく食い違っていたのが、被告が歩道のどちらからやってきてどちらへ行ったのか、という点。被告の自白とタクシー運転手の証言では、それがまったく逆になっていたのです。
タクシー運転手は、裁判の場で初めて自身の証言が『歪められて』いることを知ります。自分が言っていないことを言ったことにされていたり、あるいは言ったのに言ってないことにされていたりということが明らかになります。
それについて、弁護人が検察官に追及します。すると、『タクシー運転手は道の反対側から見ていたのだし、おそらくぼんやり見ていたのだろう。被告がこう主張しているのだから』というような趣旨(もう少し真面目な言い方ですけども)のことを言い、そのタクシー運転手の証言を斥けてしまうわけです。
本書のメインは、自閉症の障害を持つ人間が裁判で裁かれること、という点ですが、僕はこの点が一番恐ろしい、と感じられました。検察官は、『人の記憶は曖昧なものなのだから、被告の自白に合わないなら、その証言をした人間が勘違いをしている可能性がある』というような趣旨のことを堂々と(苦し紛れに、かもしれませんが、まあどっちでも大差はないかなと)主張しているわけです。
もはや問題は、自閉症の障害を持つ人間が正当な裁きを受けられないこと、ではないんだと思うんです。それももちろん重大な問題ですけど、もっと重大なのは、日本の警察・検察・司法が適切に機能していないというその点なんだろうと思います。密室での取り調べによる『自白』こそがすべての物証に勝る、というような現行の捜査・取り調べ・裁判のあり方を変えるというところを出発点にしなければ、本書で問題提起されている自閉症の障害を持つ人たちへの正当な刑事手続、というところまで辿り着けないだろうと思ってしまいました。
本書は、自閉症と裁判制度という部分だけでなく、より多くのことを考えさせてくれる作品だと思いました。障害を持っているのだから減刑を、という形ではない問題提起をしている作品を僕自身は初めて読んだのでそういう点はもちろん深く考えさせられたし、それ以上に、やはり現在の司法のあり方というのは、被告が自閉症であるかどうかに関係なく再考されるべきだよなぁ、とも強く思いました。是非読んでみてください。
佐藤幹夫「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
本書は、レッサーパンダ帽を被った男が白昼包丁で女性を刺殺したというセンセーショナルな事件について、裁判を傍聴し、また多くの関係者に取材をした著者によるノンフィクションです。
タイトルの通り、本書の被告は「自閉症」です(ただ断言してしまうのも難しい。というのも裁判の中では、自閉傾向はあるが自閉症ではない、という形になっているから)。で、先に、著者の立ち位置を明確にしておこうと思うのですけど、著者は、『自閉症だからこそ凶悪犯罪が起きた』と言いたいわけでは決してない。著者の主張、そして本書を執筆する動機となったものは、『この事件の犯行の外形や動機といったものを考えるとき、障害の特徴への理解が欠かせないのだ』ということだ。
当時マスコミはこの事件を、「責任能力が争点」と報じていた。しかしそれはまったくの誤りだという。弁護人は、『自閉症の障害を主張し、心神喪失・心神耗弱を認めて欲しい、刑を軽くして欲しい』と求めているのでは決してなかった。そうではなく、現行の逮捕拘束・取り調べ・自白供述書の作成。鑑定のあり方、裁判での証言や処遇などについて、自閉症の障害を持つ人の刑事手続きについて考えなおして欲しい、そういう意図を持った裁判だったのだ。
この点については、本書でも繰り返し書かれている。
本書の意図するところを、著者は五つ挙げている。
1、知的障害や発達障害を持つ人たちが、どうすればこのような痛ましい事件の当事者になることを避けることが出来るか
2、障害を持つ人々がなんらかの形で加害者の側に立つことになった時、自己を守ることにおいて極めて弱い立場にいる彼らに、きちんとした法の裁きを受けて欲しい
3、何故浅草の事件を起こしたこの男が、殺人というところにまで追い込まれてしまったのか
4、何故突然凶行に及んでしまったのか
5、彼が自らのなしたことを振り返り、省みるということがどこまで出来るのか、あるいはその機会がきちんと与えられているのか
これらについてきちんと知りたいと取材に臨んだのだ。
著者は元々養護学校の教員であった。本書でも、自らの立ち位置を、公平になるように務めはするけども、やはり障害者側の立ち位置に多少は偏ってしまう部分もあるだろう、というようなことを書いています。
養護学校の教員だったという立場から、著者はこの事件・裁判を、少し異なった視点で見ている。警察や検察は、凶悪犯であり、また反省もしていない、という風に被告を見る。また被害者家族は、障害のあるからと言って刑が軽くなるというのはおかしい、というような趣旨の発言をする。それらは、それぞれの立場に立ってみれば間違ってはいないのだろうと思う(警察・検察の立場については、多くの疑問はあるにせよ、本書は冤罪というわけではない。被告が殺人を犯したことは明白だ。だからこそ警察・検察が、自閉症であるかどうかという点を弁護側が主張するほどに勘案する必要性を感じられない、という点は分からなくもない。僕自身は納得出来ないけども、彼らの立場に立ってみれば、ということ)。
しかし著者は、障害を持つ人たちと関わりのあった者として、被告の態度や言葉、あるいは来歴などを、また違った方向から見る。もちろん、被告が殺人を犯したことは間違いがないし、障害を持っているとはいえ責任を負うべきだというのは、僕も当然だと思う。しかしその一方で、自閉症の障害を持つ人たちにも『正統』な裁判を受ける権利はあるべきだ、という著者の主張にも、非常に賛同できる。
本書では、実際の裁判でのやり取りを多く採録しているのだけども、警察・検察側の主張には、非常に曖昧なものを感じた。どういうやり取りなのかというのは、一部だけ抜き出してここに書いても誤解の余地が残るだろうからしないけども、本書を読んで僕が感じた印象(そしてそれは、裁判を傍聴し続けた著者の感じた印象とも同じなのだけど)、警察・検察側が被告の言葉を都合よく作文して、犯行の状況や動機が作成されたのだろうな、というものだ。
これは、事件モノのノンフィクションをそれなりに読んできた僕の印象では、警察・検察のいつものやり方である。被告が自閉症の障害を持つかどうかという点に関係のない、警察・検察の持つ負の構造だと僕は思う。密室で自白が強要され、その自白が最大の証拠として裁判で扱われる。そこでどんなやり取りがあったかはわからない。表に出てくるのは、自白供述書だけだ。この事件は冤罪ではない、と先ほど書いた。実際冤罪ではないだろう。しかし、だからと言って、被告がどういう理由で女性に近づいたのか、何を思って刃物を突き立てたのか、そういうことを警察・検察が勝手に作文していい、ということにはならないだろう。
この警察・検察の負の構造は、冤罪を生み出す温床でもあるから、本書は障害者にだけ関わる話というわけではないのだけど、この負の構造が、自閉症の障害を持つ人たちにとって、適切な裁判を受けるための障害になっている、ということは考えたことがなかったので、なるほど現実ではそういうことが起こっているのだな、と感じました。
自閉症というのは、多くの特徴があるのだけど、この事件の被告の場合、10言われたことについて1か2ぐらいしか記憶していなかったり、抽象的な概念を説明することが得意ではなかったり、あるいは常に俯き加減で顔を上げることが出来なかったりということがある。裁判では、これらの特徴は自閉症であるという弁護側の主張と、自閉傾向はあるが自閉症ではなく知的障害だという検察側の主張は対立することになったのだけど、被告が自閉症であるかどうか実際のところどちらかわからないにせよ、自閉症の傾向があり、適切なやり方でないと取り調べも裁判も成立しないかもしれない、そういう風に考える向きがあってもいいのではないか、という感じがしました。
とここまで、自閉症の障害を持つ被告のことばかり書いてきたけど、著者はもちろん、被害者家族にも取材をしている。それは、多くの葛藤を伴うものだった。普通のノンフィクションライターであっても、被害者家族に取材をすることは多くの葛藤を生むだろうけど、著者の場合、障害を持つ人たち寄りであるという立ち位置を自らが認識していたことが、より大きな葛藤を生むことになる。こんな自分が、被害者家族に接触することは果たしていいのだろうか、というような懊悩も、本書では描かれていく。著者がこの事件に対して、あらゆる意味で誠実に対しているということが伝わってくると僕には感じられました。
本書では、もちろん自閉症に関する部分が一番深く考えさせられるし、問題としても大きいと感じたのだけど、正直に言って、障害を持つ人が身近にいない僕には、どうしても他人事であるという感覚が拭えないという部分はあります。こういう意識こそ変わるべきなんだろうとは思うのですが、なかなか実感としては難しいと思いました。
そんな僕が、これはちょっと怖いなと感じた裁判の一部分があります。それは、犯行を目撃した証人として裁判に出廷したあるタクシー運転手のくだりです。
このタクシー運転手は70代ですが、被告の服装やあるいは距離感などを実に正確に記憶していました。しかしその供述は、『被告の自白』と食い違う部分があったのです。特に大きく食い違っていたのが、被告が歩道のどちらからやってきてどちらへ行ったのか、という点。被告の自白とタクシー運転手の証言では、それがまったく逆になっていたのです。
タクシー運転手は、裁判の場で初めて自身の証言が『歪められて』いることを知ります。自分が言っていないことを言ったことにされていたり、あるいは言ったのに言ってないことにされていたりということが明らかになります。
それについて、弁護人が検察官に追及します。すると、『タクシー運転手は道の反対側から見ていたのだし、おそらくぼんやり見ていたのだろう。被告がこう主張しているのだから』というような趣旨(もう少し真面目な言い方ですけども)のことを言い、そのタクシー運転手の証言を斥けてしまうわけです。
本書のメインは、自閉症の障害を持つ人間が裁判で裁かれること、という点ですが、僕はこの点が一番恐ろしい、と感じられました。検察官は、『人の記憶は曖昧なものなのだから、被告の自白に合わないなら、その証言をした人間が勘違いをしている可能性がある』というような趣旨のことを堂々と(苦し紛れに、かもしれませんが、まあどっちでも大差はないかなと)主張しているわけです。
もはや問題は、自閉症の障害を持つ人間が正当な裁きを受けられないこと、ではないんだと思うんです。それももちろん重大な問題ですけど、もっと重大なのは、日本の警察・検察・司法が適切に機能していないというその点なんだろうと思います。密室での取り調べによる『自白』こそがすべての物証に勝る、というような現行の捜査・取り調べ・裁判のあり方を変えるというところを出発点にしなければ、本書で問題提起されている自閉症の障害を持つ人たちへの正当な刑事手続、というところまで辿り着けないだろうと思ってしまいました。
本書は、自閉症と裁判制度という部分だけでなく、より多くのことを考えさせてくれる作品だと思いました。障害を持っているのだから減刑を、という形ではない問題提起をしている作品を僕自身は初めて読んだのでそういう点はもちろん深く考えさせられたし、それ以上に、やはり現在の司法のあり方というのは、被告が自閉症であるかどうかに関係なく再考されるべきだよなぁ、とも強く思いました。是非読んでみてください。
佐藤幹夫「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
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