世界でいちばん美しい(藤谷治)
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誰にでも、居場所はある。
これは、僕の祈りだ。
生きていくということは、居場所を探し続けるということだ。どこでもいいわけではない。誰しもが、自分が落ち着ける、才能を発揮できる、認められる、愛される、そんな居場所を探し続けている。その居場所をすんなりと見つけられる人もいるだろう。生まれた時からそんな居場所を手にできている人もいるかもしれない。でももちろん、相当苦労しなくてはその居場所を手に入れられない人もいれば、死ぬまで居場所を手に入れることが出来ない人もいるだろう。
ヘンリー・ダーガー
本書を読んで、その芸術家のことをふと連想した。
彼は、73歳まで掃除人として働き続けた。最後は、救貧院で死んだ。死後、彼の部屋を見た人物が驚愕した。そこには、彼が19歳の時から書き始めた「非現実の王国で」という<世界一長い小説>が、そしてその小説の挿絵とした大量の絵が残されていた。ヘンリー・ダーガーは死後、アウトサイダー・アートの代表的な作家として評価されるようになった。
彼には居場所はあったのだろうか?半世紀以上に渡って、外では掃除人として働き続け、家では芸術家として存在した。誰にもその存在を知られなかった芸術家ではあったが、彼には「非現実の王国で」という物語の世界そのものが居場所になっていただろうか?彼のことについて、詳しく知っているわけではない。ただ本書を読んで、ふと連想しただけだ。
この物語は、居場所を探し求め続けた二人の男が織りなす物語、と表現できるかもしれない。その一方が、子供の頃天才的なピアノの才能を発揮し、様々な事情から音楽的な教育をきちんと受けられないまま、市井の作曲家として皆に愛された<せった君>だ。
『彼のためにできていないよ、現実は…』
ある人物が発したこの言葉が、彼を端的に表現している。せった君は、音楽以外の場には馴染めなかった。学校の勉強にも、子供らしい友達付き合いも、社会人としての有り様も。特殊な環境に彼がいるのでなければ、せった君はまともに社会の中に自分の居場所を見つけることは出来なかっただろう。
『美しい人間には、人を美しくする力がある。美しい人間とは、人を美しくする人間のことだと。』
そしてまたこの言葉も、せった君の一面を端的に現すだろう。
せった君は、大いに愛された。それは、彼が生み出す音楽の魅力だけでは決してなかった。せった君という、その存在そのものも、大いに愛されたのだ。それは「純真」という表現が一番近いだろうが、主人公の目から見たせつ君は、きっとその表現では表しきれないのだろう。
『これだけえんえんと書いても、私はせった君の美しさを、書ききれているとは思わない』
本書は、小説家である主人公が、せった君の美しさをどうにかこの世界に繋ぎとめようとして書き続けてきた小説でもある。子供の頃から主人公は、せった君についての文章を書いていた。そして主人公は、その時々でせった君に関する文章を書き足していき、せった君という美しい存在を、ごくごく平凡な自分の前に存在した素晴らしい存在を、どうにかこの世界に固着させたいと願うのだ。
『もし、このとき私が彼の目に光っていたものを、彼の目に私がとらえたものを、しっかりと表現できれば、それは芸術の秘密をひとついい当てたことになるのかもしれない。なぜ芸術は、どんなに文明や技術が進んでも、ついに人間のいとなみであるのか。機械でも、情報でもなく、生々しく不完全で限界のある、そして一人の例外もなくちょっと馬鹿みたいな、人間という存在だけが、芸術を作り出すことができるのか。それはあのときのせった君の目の光によって説明できると、私は信じている』
せった君は、主人公が弾いているピアノを「真似して」ピアノを弾き始めた。家にピアノはなかった。それまで弾いたこともなかった。楽譜さえ読めなかった。主人公はそれまで相当に苦労してピアノの練習をし、それでも思うように上達しなかったのに、せった君はあっさりとピアノを弾きこなしてしまった。
主人公の、せった君に対する感情は、時代時代で大きく変化していく。子供の頃は、主人公にとってせった君は、複雑な存在だった。才能というものを見せつけられ、自分がそこに辿りつけないと思いしらされる一方で、せった君が主人公を「音楽家」だとみなし、尊敬してくれていることに対して自尊心と嫌悪感を抱くようになる。主人公は、そのモヤモヤした感じを、きちんと言葉で表すことが出来ない。漠然とした嫌な感じを抱きつつ、しかしどうしていいのか分からない。
大人になるに従って、その感覚が変化していくのかというと、そんなことはない。相変わらずせった君は、主人公をざわざわさせる存在だった。良い意味でも、悪い意味でも。大人になった主人公の一番の変化は、せった君に対する自分の感情を、子供の時よりは正確にはっきりと言葉にすることが出来るようになったということだ。
そして、そうなってみてはっきりするのは、せった君のブレなさだ。主人公は、せった君に対する感情をめまぐるしく変化させていくのだけど、それは主人公自身の環境や心情の変化に左右される。せった君が何か変わったわけではない。変わった面ももちろんあるし、せった君がまったく悪くないわけでもないのだが、とにかくせった君はブレない。変わったのは主人公の方であり、せった君への苛立ちは、結局のところ自己嫌悪でしかなかったということを気付かされることになるのだ。
「島崎君は本当の音楽家なんだもの」
そうせった君に言われた時の主人公の気持ちは、僕にはとてもよく理解できるような気がする。それは、とても残酷な言葉ではないだろうか?自分よりも遥かに才能がある人物が、屈託なく、嘘偽りなく、自分のことを褒めている。そんな状況は、辛すぎる。しかしそれは、せった君に非はないのだ。せった君は、それを本気で言っている。だからこそ、余計に辛い。
『みんながモーツァルトやベートーヴェンになれるわけじゃない。っていうより、みんな、なれない。一人ひとり、自分になるしかない。そして自分には限界がある』
これはどちらかと言えばせった君に向けられた言葉だっただろうが、主人公にも何か届くものがあったのではないかと僕は勝手に思っている。
そして、「一人ひとり、自分になるしかない」という生き方と対極にあったのが、居場所を探し続けているもう一人の男だ。
津々見は、「何者か」になりたかった。「自分になるしかない」という諦念を受け入れる余地は、彼の内側のどこを探してもなかった。彼の肥大した自意識は、自分というちっぽけな存在を認めることが出来なかった。ここは俺の居場所じゃないと、そこにたどり着く前から踵を返していた。
津々見が抱える『正義』は、正直羨ましい。そう、僕にとって、津々見のような考え方は羨ましく映る。何故ならそれは、「目の前の現実」を否定し続けることによってしか生まれ得ない『正義』だからだ。現実を受け入れること。これは本当に辛い。あるいは、辛く思える。現実など受け入れたくない。でも大抵の人は、まあ仕方ない、と思ってしまうのだ。色んな理由から、現実に妥協する。こんなもんだろと思う。そうやって諦めることで居場所を手にする。
しかし、そうやって手に入れた居場所には、不満が蓄積していくことになる。諦念からスタートした安住だから、小さくても無視できない「そうじゃないんだよなぁ」が積もっていく。少しずつ積み重なっていくから、すぐにはその堆積に気づくことが出来ない。その堆積に気づく頃には、何もかもにうんざりしていることになる。
だったら、現実を否定し続けたいと僕は思う。安住出来る居場所は見つけられないだろうが、不満が少しずつ降り積もっていくこともない。何故なら、安住せず動き続けることで、一箇所に何かが降り積もっていくことはなくなるからだ。
しかし、現実を否定し続けることは、強烈なパワーが必要になる。それは、どこから生まれるパワーでもいいのだけど、怒りや叫びや理想と行った火を燃やし続けなくてはいけない。それがナチュラルに出来る、という意味で、僕は津々見が羨ましい。僕には、そんな生き方は、出来そうにない。
せった君は、居場所を求めてはいたけれど、自分が求めている居場所がどんな形をしているのか分かっていなかった。だから彼は、方向を定めて居場所を探し続けることは出来なかった。羅針盤を持たずに、ひたすら「美しく見える道」だけを歩き続けた。その生き様が、結局のところせった君に居場所を与えることになる。
一方の津々見は、はっきりと明確に、自分がたどり着きたい居場所のイメージを持っていた。しかし彼は、そこに至る道筋を見つけられずにいた。いや、それは津々見の直接の敗因ではないかもしれない。津々見は、現在地から一歩も動こうとしなかった。手当たり次第あらゆる方向に進んでみて、間違っていたら引き返すという生き方をよしとしなかった。現在地から、無駄なく華麗に、その居場所へと辿り着くべきだと思っていた。それでこそ自分らしい、と。その考え方が結局、彼から現在地さえ奪うことになった。
この二人が交錯する時、物語は終焉を迎えることになる。
最後に一つ、書いておきたいことがある。それは、本書の「リアルさ」と「脈絡のなさ」についてだ。
僕はなんとなく、本書に「リアリティ」を感じる。かつて著者は、せった君のような存在と関わっていたことがあったのではないか。そう感じる理由には、著者自身が音楽家であり、また本書の主人公が小説家である、という事実も関係しているだろうとは思う。
しかし、たぶんそれだけではない。
僕は本書に、「脈絡のなさ」を感じることが時折ある。どうしてこういう設定なのだろう、どうしてこういう話が出てくるのだろう、と感じる部分がちらほらある。何故、子供時代・浪人時代に「せった君に関する文章を書いていた」という設定が必要だったのだろう?大人になった主人公が、過去を改装して書いたという設定でも、特に問題はなかったはずなのに、どうしてだろう?それを僕は、「著者が実際にせった君のような人と関わりがあり、著者が子供時代実際にその人に関する文章を書いていたのだ」と思いたがっている。
そして僕にとって一番脈絡のなさを感じるのが「棒」の話だ。詳しくは書かないが、これは一体何の話だ?「棒」の話は、最後にも登場し、この「棒」の存在があったからこそこうしてせった君の話を書こうと思った、というような主人公の動機が触れられる。僕は、この「棒」の登場が、とても脈絡なく、落ち着きのないものに感じられてしまう。これも、本書で描かれているような「棒」そのものではないにせよ、実際にあった何かの出来事を「棒」という形で象徴的に描き出しているのではないか、と思いたがっているみたいだ。
実際にはどうかわからないし、著者が自身の経験をベースに本書を書いていようがいまいが、本書の評価に影響があるわけではない。ただ僕は、そういうような理由から、本書に妙な「リアリティ」を感じている。小説を読んで、「リアルな物語だな」と感じるのとは、またちょっと違った意味でのリアリティだ。誰か特定の人に宛てた手紙のようでさえあると思う。さすがにそんな風に書いてしまうと、物語に影響を受けすぎているかもしれないけど。そういう点も、僕を惹きつけるのかもしれない。
世界の片隅で、誰もが居場所を追い求めている。純真さしか武器を持たない者。安住することを恐れる者。与えられた居場所に満足できない者。ここしかないという居場所を見つける者。そして、居場所を与える者。不幸な交錯が、世界を一瞬で奪い去っていく。これは、そういう物語だ。
是非読んでみてください。
藤谷治「世界でいちばん美しい」
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