科学するブッダ 犀の角たち(佐々木閑)
いやはや、面白い本だった!しかし、普通にしてたらまず手に取らない本だから、もったいないなぁ、という気はする。本書の内容に関心を持つ人は、多くはないだろうけど一定数いると思う。ただ、なかなか本書を外側から見ただけでは、自分が関心を持てる本だ、と理解することは難しいだろう。
本書は、「科学するブッダ」となっているが、「ブッダは科学者だった!」と主張したいトンデモ本ではない。科学の本であり、仏教の本であるのだが、いかに両者に共通項を見出すのか、という本である。
しかし本書の中で著者は、「科学と仏教に共通項を見出すこと」に非常に慎重な立場を取る。
【(似たような多くの主張は)自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、「ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです」といった愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である】
【確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点をもって、両者の相対的類似性を主張することなどできない】
【どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。原子論でも相対性理論でも、心理分析でも量子論でもカオスでもなんでもいい。それらと似たものは必ず仏教の中にもある。しかしそれはあくまで「似たもの」にすぎない。意識的に似たものを探そうと思って探せば見つかるということである。同じ人間が考えることだから、洋の東西を問わず、似たような考えが生まれてくるのは当たり前のことだ。だから、それが見つかるからといって仏教が特別にすぐれているという証拠になるわけではない】
著者はこのように、安易に仏教と科学の共通項を探り出すようなことはしない。本書はまずその点が非常に信頼できる、と感じた。
では、著者は一体どの点に共通項を見出しているのか。
それは「神の視点の排除」である。
ここで言う「神」というのは、「GOD」の意味であることもあるのだが、基本的には違う。本書から抜き出してみよう。
【我々の脳が「世界はこうあるべし。こうあった時、それは最も美しく心地よい」と感じるような視点、それを神の視点と呼んでいる】
そしてその視点が、「科学の人間化」によって破壊されていく、という主張を本書はしているのだ。
「GOD」の意味であることもあるというのは、「世界はこうあるべし」というのが「神が世界を作った」と考えられていた時代が長くあった、ということに起因している。ニュートンなど、歴史に名を残す大科学者であっても、当時の宗教観に即して「神(GOD)」の存在を信じていた。そういう場合「神の視点の排除」というのは文字通りの意味である。しかし、「世界はこうあるべし」という考え方が、「神(GOD)」に由来するものである必要はない。何らかの理論を提唱した者が、無意識の内に前提としてしまうこと、それを本書では「神」と呼んでいる。
例えば本書には、「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスが出てくる。ピタゴラスというのは、いわゆる宗教団体の教祖のような人だ。じゃあ何を信奉していたかというと「自然数」である。つまり、宇宙の基本原理は「1,2,3…」という自然数である、ということを根本の教義とした宗教である。
彼らは、「人格を持った神」みたいなものを信奉していたわけではないが、「世界はこうあるべし」という考え方を持っていたのであり、それを本書では「神の視点」と呼んでいる。ちなみにピタゴラス教団は、「無理数」という、自然数とは根本的に違う数を発見してしまい、その発見を外部にもらすことを禁じた。しかし、うっかりもらしてしまった信者を集団リンチで殺してしまった、というのだから、恐ろしいものである。
さてここで整理しよう。本書は科学と仏教についての本であり、その共通項を探ろうとしている。しかし、仏教というのは相当に多様な考えを内包するものであり、似たような考え方はいくらでも見つけられる。しかし、そんなことをしても意味がない。じゃあ著者はどこに共通項を見出しているのか。それが「神の視点の排除」だ。ここでいう「神」というのは「GOD」という意味ではなく、「世界はこうあるべし」という視点そのものだ。
とりあえず、本書の要約はこれで大体済んだと言っていい。しかし多くの人が「神の視点の排除」の意味が分からないだろう。科学、そして仏教から「神の視点」がどの用に排除されているのか、ってかそもそも「神の視点」ってなんだよ、と感じるだろう。この感想の中で、それらについて詳細に書くことはしないが、大雑把な流れだけ書いてみようと思う。
まずは科学側の話。ここでは、物理学・生物学・数学の三つが挙げられている。ここでは、最も説明しやすいので、物理学の話だけに焦点を絞ろう。
天体の運動法則「ケプラーの法則」を導き出したケプラーや、革新的な重力理論を打ち立てたニュートンなどは、実は「神」を信じていた。自分たちは、「神」がどのように世界を動かしているのかを理解しようとしているのだ、という考えを持っていた。
【科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の改名がそのまま神の存在証明になり得たのである】
「科学」という言葉からは、多くの人は「神」を連想しないだろうが、科学は基本的には「神」の御業を捉えるために生み出されたものだったのだ。
しかしこの状況をアインシュタインがまず変える。ここで、アインシュタインがどう状況を変えたのかを理解するために、ニュートンがどんな主張をしたのかを理解しよう。
ニュートンは、「絶対時間・絶対空間」という概念を導入した。これはつまり、「誰にとっても時間・空間は一つしかない」というものだ。この主張は、割と納得しやすいだろう。人によって時間の流れが違うとか、空間の振る舞いが異なる、というのでは困るからだ。そしてこの視点は、ある意味では「神の視点で世界を見ている」と言える。ニュートンは、それを目指していたのだから当然だ。
しかしアインシュタインは、まったく違う主張をした。それは、「人によって時間の流れ方も、空間の振る舞いも異なる」というものだ。これは僕らの直感に反する主張だが、しかし様々な実験により、ニュートンの主張よりもアインシュタインの主張の方が正しいことが分かっている。
なぜそうなるのかと言えば、「光が有限の速度を持っている」からということになる、具体的なことは書かないが、つまりアインシュタインは、「人間の目で見た世界の物理法則」について記述した、ということになるのだ。「光」というものについて詳細に考えた時、ニュートンの「絶対時間・絶対空間」という考え方は成り立たず、アインシュタインが言うように、「人間一人一人が違う時間・空間を感じて生きている」ということになる。これはつまり、アインシュタインが物理法則から「神」を追い出した、ということになるだろう。
しかし話はこれで終わりではない。アインシュタインは「神の視点から見た物理法則」を否定し、「人間の目で見た世界の物理法則」を打ち立てた。ここで大事なことは、アインシュタインは「人間が観察する」ということを大前提にしている、ということだ。まあ、当たり前と言えば当たり前だ。「人間が観察する」ということを疑う必要などないだろうし、それを疑ってしまったら、なんのこっちゃわからなくなってしまうだろう。
しかし、アインシュタイン自身もその創出に一役買った量子論は、まさにその「人間が観察する」ということに疑問を突きつける。量子論はなんと、「人間が観測していない時、世の中で何が起こっているのか記述することは出来ない」と主張する。これについても詳しいことはここでは触れないが、世界で最も不可思議な実験の一つだろう「二重スリット実験」の結果を踏まえれば、「観測するという行為」についてのあやふやさを実感することが出来るだろう。
つまり物理学では、「超越した力を持つ神が世界を動かしている」というニュートンの世界観をアインシュタインが打ち砕き、また「観測しようがしまいが現象は存在している」というアインシュタインの世界観を量子論が打ち砕く、という流れである。この流れこそが「科学の人間化」であり、「神の視点の排除」なのだ。
また、このように物理学を捉えると、物理学がこんなどう進歩するのかという方向性も予見できる。量子論にまだ「神の視点」が残っているとすれば、「人間が唯一の観測主体である」という視点である。つまり、人間以外が世界を認識する場合どうあるべきなのか、についての物理理論はまだ生まれうるのではないか、と著者は書く。なるほど、確かにそういう方向性はあり得るか、と思う。
生物学・数学についてはここでは省略するが、それらについても、パラダイムシフト(本書ではこれを、「頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ現象」と定義する)を起こしたものが、いかにして「神の視点の排除」を行ってきたのかが記述される。
さて、一方の仏教についてである。仏教の「神の視点」について触れる前に、一点非常に重要な点に触れなければならない。
それは、本書で扱われている「仏教」というのは、僕らが知っている「仏教」ではない、ということだ。
日本人が一般的に知っている「仏教」というのは、色んな宗派はあるが、それらはすべて「大乗仏教」としてまとめられる。しかし本書で科学との類似性が語られるのは「大乗仏教」ではなく、釈尊が古代インドにおいて最初に創始した仏教である。本書では、何故「大乗仏教」という多様な仏教が生まれたのかについての考察もあり、非常に面白いが、まずは科学との類似点について、その成立過程を踏まえながら書いていこう。
ざっくり言うと仏教というのは、古代インドのヴァルナ制度に対抗する形で生まれた。ヴァルナ制度というのは、バラモンを最高の地位とするものであり、さらにバラモンというのは生まれによって決定されるものだった。どれだけ富や権力を持とうが、バラモンの家系に生まれなければ最上位の階級にいられない、という事実が、バラモンの一つ下のクシャトリアという階級の人たちの不満を募らせ、ついに、「自分の努力によって幸福を獲得するために修行をする」という考えが生まれた。そして、この流れの中で修行をした釈尊が悟り、仏教が生まれたのだ。
このような成立過程があるからこそ、仏教の重要な要素として「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」というものがある。仏教の世界(釈尊が興した仏教の世界)には、世界を操ったり動かしたり出来る「超越者(神)」は存在しない。釈尊(ブッダ)は、「世の中はこういう原理で動いている(ただし仏教は、外界世界ではなく精神世界についての考え方だ)という法則を理解した人」であり、「超越者」ではない。世の中の法則を理解したからと言って、世の中を操れるわけでもない。そういう世界の中で、自らの努力によって切り拓いていこうとするのが仏教であるのだ。
そして「超越者(神)」の存在を最初から仮定しない仏教というのは、人間化によって「堕落(人間の直覚が裏切られること)」していく科学と非常に親和性が高いのだ。本書には、
【仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい】
とも書かれている。
【科学は、キリスト教社会の中で神と共に生まれ、育ってきたが、次第にその影響を脱して人間化してきた。神の視点を放棄しつつ、人間独自の視点に基づく法則世界を構築しつつあるということである。したがって、それは仏教的な世界観の方へと次第に近づいてきているということになる】
これが本書のメインの主張である。科学の変遷の歴史は、科学の仏教への漸近の歴史でもある、ということだ。
本書の指摘は、非常に面白いと感じた。もちろん、科学と仏教の共通項も面白いのだけど、それ以上に、科学を「神の視点の排除」と捉えることで、今後の科学の進展の方向性を予測出来るかもしれない、という点が非常に面白いと思った。
【方向性が見えない場合と見える場合とで、その価値はまったく違う。方向性を示すことなくただ「変わる」と主張するだけなら、それは単なる状況説明である。過去の経過を後追いして説明しているにすぎない。それに対して、科学の変化の方向性を示すことができれば、それを延長して将来の変化が予想できる。そして現在の科学が今後どのような方向へ進むのかを、どんなにおおかまでもよいから、予想することができるなら、科学者は最初からその方向に向かって視点を設定することができる。つまり次のパラダイムシフトを起こすことのできる可能性が飛躍的に高まるということである】
本書は、外側から見ているだけだと何の本なのかよく分からないが、「科学の方向を予想する」という一つの視点として非常に面白いと思うし、そしてその方向が自然と仏教に接続していくのだ、という捉え方も非常に面白いと思う。
佐々木閑「科学するブッダ 犀の角たち」
本書は、「科学するブッダ」となっているが、「ブッダは科学者だった!」と主張したいトンデモ本ではない。科学の本であり、仏教の本であるのだが、いかに両者に共通項を見出すのか、という本である。
しかし本書の中で著者は、「科学と仏教に共通項を見出すこと」に非常に慎重な立場を取る。
【(似たような多くの主張は)自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、「ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです」といった愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である】
【確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点をもって、両者の相対的類似性を主張することなどできない】
【どんなことでもよいから好きな思想やアイデアをひとつ挙げてみてほしい。それと似たものは必ず仏教の中に見つかる。原子論でも相対性理論でも、心理分析でも量子論でもカオスでもなんでもいい。それらと似たものは必ず仏教の中にもある。しかしそれはあくまで「似たもの」にすぎない。意識的に似たものを探そうと思って探せば見つかるということである。同じ人間が考えることだから、洋の東西を問わず、似たような考えが生まれてくるのは当たり前のことだ。だから、それが見つかるからといって仏教が特別にすぐれているという証拠になるわけではない】
著者はこのように、安易に仏教と科学の共通項を探り出すようなことはしない。本書はまずその点が非常に信頼できる、と感じた。
では、著者は一体どの点に共通項を見出しているのか。
それは「神の視点の排除」である。
ここで言う「神」というのは、「GOD」の意味であることもあるのだが、基本的には違う。本書から抜き出してみよう。
【我々の脳が「世界はこうあるべし。こうあった時、それは最も美しく心地よい」と感じるような視点、それを神の視点と呼んでいる】
そしてその視点が、「科学の人間化」によって破壊されていく、という主張を本書はしているのだ。
「GOD」の意味であることもあるというのは、「世界はこうあるべし」というのが「神が世界を作った」と考えられていた時代が長くあった、ということに起因している。ニュートンなど、歴史に名を残す大科学者であっても、当時の宗教観に即して「神(GOD)」の存在を信じていた。そういう場合「神の視点の排除」というのは文字通りの意味である。しかし、「世界はこうあるべし」という考え方が、「神(GOD)」に由来するものである必要はない。何らかの理論を提唱した者が、無意識の内に前提としてしまうこと、それを本書では「神」と呼んでいる。
例えば本書には、「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスが出てくる。ピタゴラスというのは、いわゆる宗教団体の教祖のような人だ。じゃあ何を信奉していたかというと「自然数」である。つまり、宇宙の基本原理は「1,2,3…」という自然数である、ということを根本の教義とした宗教である。
彼らは、「人格を持った神」みたいなものを信奉していたわけではないが、「世界はこうあるべし」という考え方を持っていたのであり、それを本書では「神の視点」と呼んでいる。ちなみにピタゴラス教団は、「無理数」という、自然数とは根本的に違う数を発見してしまい、その発見を外部にもらすことを禁じた。しかし、うっかりもらしてしまった信者を集団リンチで殺してしまった、というのだから、恐ろしいものである。
さてここで整理しよう。本書は科学と仏教についての本であり、その共通項を探ろうとしている。しかし、仏教というのは相当に多様な考えを内包するものであり、似たような考え方はいくらでも見つけられる。しかし、そんなことをしても意味がない。じゃあ著者はどこに共通項を見出しているのか。それが「神の視点の排除」だ。ここでいう「神」というのは「GOD」という意味ではなく、「世界はこうあるべし」という視点そのものだ。
とりあえず、本書の要約はこれで大体済んだと言っていい。しかし多くの人が「神の視点の排除」の意味が分からないだろう。科学、そして仏教から「神の視点」がどの用に排除されているのか、ってかそもそも「神の視点」ってなんだよ、と感じるだろう。この感想の中で、それらについて詳細に書くことはしないが、大雑把な流れだけ書いてみようと思う。
まずは科学側の話。ここでは、物理学・生物学・数学の三つが挙げられている。ここでは、最も説明しやすいので、物理学の話だけに焦点を絞ろう。
天体の運動法則「ケプラーの法則」を導き出したケプラーや、革新的な重力理論を打ち立てたニュートンなどは、実は「神」を信じていた。自分たちは、「神」がどのように世界を動かしているのかを理解しようとしているのだ、という考えを持っていた。
【科学というのは、世界のありさまを、あるがままの姿で記述することを目的として生まれたものではない。特にキリスト教世界の中で誕生した近代科学が目指したものは、この世界の裏に潜む、人智を超えた神の御業を解明し、理解することにあった。法則性の改名がそのまま神の存在証明になり得たのである】
「科学」という言葉からは、多くの人は「神」を連想しないだろうが、科学は基本的には「神」の御業を捉えるために生み出されたものだったのだ。
しかしこの状況をアインシュタインがまず変える。ここで、アインシュタインがどう状況を変えたのかを理解するために、ニュートンがどんな主張をしたのかを理解しよう。
ニュートンは、「絶対時間・絶対空間」という概念を導入した。これはつまり、「誰にとっても時間・空間は一つしかない」というものだ。この主張は、割と納得しやすいだろう。人によって時間の流れが違うとか、空間の振る舞いが異なる、というのでは困るからだ。そしてこの視点は、ある意味では「神の視点で世界を見ている」と言える。ニュートンは、それを目指していたのだから当然だ。
しかしアインシュタインは、まったく違う主張をした。それは、「人によって時間の流れ方も、空間の振る舞いも異なる」というものだ。これは僕らの直感に反する主張だが、しかし様々な実験により、ニュートンの主張よりもアインシュタインの主張の方が正しいことが分かっている。
なぜそうなるのかと言えば、「光が有限の速度を持っている」からということになる、具体的なことは書かないが、つまりアインシュタインは、「人間の目で見た世界の物理法則」について記述した、ということになるのだ。「光」というものについて詳細に考えた時、ニュートンの「絶対時間・絶対空間」という考え方は成り立たず、アインシュタインが言うように、「人間一人一人が違う時間・空間を感じて生きている」ということになる。これはつまり、アインシュタインが物理法則から「神」を追い出した、ということになるだろう。
しかし話はこれで終わりではない。アインシュタインは「神の視点から見た物理法則」を否定し、「人間の目で見た世界の物理法則」を打ち立てた。ここで大事なことは、アインシュタインは「人間が観察する」ということを大前提にしている、ということだ。まあ、当たり前と言えば当たり前だ。「人間が観察する」ということを疑う必要などないだろうし、それを疑ってしまったら、なんのこっちゃわからなくなってしまうだろう。
しかし、アインシュタイン自身もその創出に一役買った量子論は、まさにその「人間が観察する」ということに疑問を突きつける。量子論はなんと、「人間が観測していない時、世の中で何が起こっているのか記述することは出来ない」と主張する。これについても詳しいことはここでは触れないが、世界で最も不可思議な実験の一つだろう「二重スリット実験」の結果を踏まえれば、「観測するという行為」についてのあやふやさを実感することが出来るだろう。
つまり物理学では、「超越した力を持つ神が世界を動かしている」というニュートンの世界観をアインシュタインが打ち砕き、また「観測しようがしまいが現象は存在している」というアインシュタインの世界観を量子論が打ち砕く、という流れである。この流れこそが「科学の人間化」であり、「神の視点の排除」なのだ。
また、このように物理学を捉えると、物理学がこんなどう進歩するのかという方向性も予見できる。量子論にまだ「神の視点」が残っているとすれば、「人間が唯一の観測主体である」という視点である。つまり、人間以外が世界を認識する場合どうあるべきなのか、についての物理理論はまだ生まれうるのではないか、と著者は書く。なるほど、確かにそういう方向性はあり得るか、と思う。
生物学・数学についてはここでは省略するが、それらについても、パラダイムシフト(本書ではこれを、「頭の中の直覚と、現実から得られる情報とのせめぎ合いにおいて、直覚が負けて情報が勝つ現象」と定義する)を起こしたものが、いかにして「神の視点の排除」を行ってきたのかが記述される。
さて、一方の仏教についてである。仏教の「神の視点」について触れる前に、一点非常に重要な点に触れなければならない。
それは、本書で扱われている「仏教」というのは、僕らが知っている「仏教」ではない、ということだ。
日本人が一般的に知っている「仏教」というのは、色んな宗派はあるが、それらはすべて「大乗仏教」としてまとめられる。しかし本書で科学との類似性が語られるのは「大乗仏教」ではなく、釈尊が古代インドにおいて最初に創始した仏教である。本書では、何故「大乗仏教」という多様な仏教が生まれたのかについての考察もあり、非常に面白いが、まずは科学との類似点について、その成立過程を踏まえながら書いていこう。
ざっくり言うと仏教というのは、古代インドのヴァルナ制度に対抗する形で生まれた。ヴァルナ制度というのは、バラモンを最高の地位とするものであり、さらにバラモンというのは生まれによって決定されるものだった。どれだけ富や権力を持とうが、バラモンの家系に生まれなければ最上位の階級にいられない、という事実が、バラモンの一つ下のクシャトリアという階級の人たちの不満を募らせ、ついに、「自分の努力によって幸福を獲得するために修行をする」という考えが生まれた。そして、この流れの中で修行をした釈尊が悟り、仏教が生まれたのだ。
このような成立過程があるからこそ、仏教の重要な要素として「超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する」というものがある。仏教の世界(釈尊が興した仏教の世界)には、世界を操ったり動かしたり出来る「超越者(神)」は存在しない。釈尊(ブッダ)は、「世の中はこういう原理で動いている(ただし仏教は、外界世界ではなく精神世界についての考え方だ)という法則を理解した人」であり、「超越者」ではない。世の中の法則を理解したからと言って、世の中を操れるわけでもない。そういう世界の中で、自らの努力によって切り拓いていこうとするのが仏教であるのだ。
そして「超越者(神)」の存在を最初から仮定しない仏教というのは、人間化によって「堕落(人間の直覚が裏切られること)」していく科学と非常に親和性が高いのだ。本書には、
【仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい】
とも書かれている。
【科学は、キリスト教社会の中で神と共に生まれ、育ってきたが、次第にその影響を脱して人間化してきた。神の視点を放棄しつつ、人間独自の視点に基づく法則世界を構築しつつあるということである。したがって、それは仏教的な世界観の方へと次第に近づいてきているということになる】
これが本書のメインの主張である。科学の変遷の歴史は、科学の仏教への漸近の歴史でもある、ということだ。
本書の指摘は、非常に面白いと感じた。もちろん、科学と仏教の共通項も面白いのだけど、それ以上に、科学を「神の視点の排除」と捉えることで、今後の科学の進展の方向性を予測出来るかもしれない、という点が非常に面白いと思った。
【方向性が見えない場合と見える場合とで、その価値はまったく違う。方向性を示すことなくただ「変わる」と主張するだけなら、それは単なる状況説明である。過去の経過を後追いして説明しているにすぎない。それに対して、科学の変化の方向性を示すことができれば、それを延長して将来の変化が予想できる。そして現在の科学が今後どのような方向へ進むのかを、どんなにおおかまでもよいから、予想することができるなら、科学者は最初からその方向に向かって視点を設定することができる。つまり次のパラダイムシフトを起こすことのできる可能性が飛躍的に高まるということである】
本書は、外側から見ているだけだと何の本なのかよく分からないが、「科学の方向を予想する」という一つの視点として非常に面白いと思うし、そしてその方向が自然と仏教に接続していくのだ、という捉え方も非常に面白いと思う。
佐々木閑「科学するブッダ 犀の角たち」
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