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最終話「今こそ、決着をつけるとき!」



 前方の信号が黄色に変わった。車が速度をあげ、体が座席に押しつけられる。だが直前で、黄色から赤へ。それでも樽井はスピードをゆるめない。赤信号の下を一気に走り抜ける。

「これで振りきれただろ!?」

 樽井が叫び、僕は肯定をするために頷こうとした。こんなにギリギリで通りぬけた信号だ、後続の亀田たちは停まらなくてはならない。その間に引き離せば、一気に事務所まで行ける。

 しかし首を縦に振るまえに、また樽井が声をあげた。

「くそっ、なんてやつらだよ!」
 その意味が分からず、樽井を見る。樽井はバックミラーに目を向けていたが、ここからそれを見ることはできない。しかたなく窓をあけ顔を出し、後ろを見る。

「信号無視!?」

 風を後頭部に浴びながら、声を出さずにはいられなかった。確かに、横手の道は住宅街に繋がっており、車の往来は激しくない。それにしても大胆。やつらもそれだけ本気ということか。

「ねえ、もっとスピード出せないの」

 朝霧さんは膝立ちで後部座席に座り、亀田の車を見ている。

「追いつかれるわよ」
「ばかやろう、100キロも出してるんだ。警察に見つかったら、一発で捕まるぞ」
「事務所は?」
「まだかかる」

 前を見ると、ぼんやりと信号が見える。今のランプは青だ。直感的にマズイと思った。青はいつか赤になる。その前に通り抜けられるか。
 
 幸い前方に車はない。樽井も青ということで危機感を覚えたのだろう。アクセルを踏み、速度をあげる。

「――くそっ」

 それと同時ぐらいだった。青が黄、そして赤へと変わったのは。まだ遠いが、ここからでも分かるくらいに頻繁に車が行き交っている。信号を無視して突っ込んでいけば、大事故になる。
 
 しかし信号で悠長に止まってもいられない。平気で信号を無視するやつらだ、後ろから追突されるかもしれない。そうなれば僕たちは動けなくなる。後処理なんてどうにでもなるのだろう。
 
 そこまで考えて、ふと考えが頭をよぎる。

 それは今までずっと考えないようにしていたこと。弱気の虫が、心の奥底に封印していた考えを掘り起こしてきた。
 
 亀田たちは僕らが事務所に向かっているのは、当然予測しているだろう。ということは、必ず事務所で追いつかれる。どんなにがんばって引き離しても、それはしょせん、多少の差に過ぎない。僕たちが事務所で峰岸と会って、事情を説明して、納得してもらえるまでに、必ず亀田はやってくる。

 そうなったとき、事態はどちらの味方をするのか。答えは出ている。亀田だ。やつは事務所内部に入れば、味方だらけになる。一方、僕のほうは朝霧さんがいるとはいえ、一ファンに過ぎない。

 事務所の稼ぎ頭と名前も知らないただのファン。

 話せば分かってもらえると思っていた。いや、思い込んでいた。それを頼みにここまできた。

 でも……。

「はじめから勝負はついていたってことか……」

 信号が赤に変わった。横道はない。樽井はしかたなく車のスピードを落としはじめた。

「おい、どういうことだよ、それ」

 僕の呟きを聞いていた樽井の言葉に、目を伏せた。足元も見えないぐらいに車内は暗い。

「僕が甘かったんだ、そうだよ、どうしようもないぐらいに甘かったんだ」
「わけわかんねぇだろ、それじゃ」
「もし、このまま事務所に着けたとしても、すぐに亀田たちはやってくる。そうなったらおしまいだよ。亀田は事務所中のやつらと結託して、この事実をもみ消そうとする。ただの一ファンである僕が、そんなやつらに勝てるわけないだろ」
「ああ、もうっ!」

 樽井が急ブレーキをかけた。

「ちょ――」

 後ろを見ていた朝霧さんが絶句する。僕も樽井が何を考えているのか分からない。このままここに止まっていたら、間違いなく追突される。相手にその気がなくても、もう止まれないだろう。そのぐらい至近距離で、急に止まってみせたのだ。
 
 そうして自車の勢いを殺しながらハンドルを回転させる。車はUターンの形で反対車線へと移動した。亀田の車とすれ違う。中は見えない。
 
 そのまま事務所から遠ざかる道を走行する。

 樽井の機転で難を逃れることができた。でも状況は何も変わっていない。朝霧さんを救うことなんて、できないんだ。

「おい大羽」

 いつかの寮のケンカを思いだした。あのときの樽井も、きつい言いかたで僕を呼んだ。

「勝てるわけないなんて、はじめから知ってたことだろ。何を今さら泣き言、言ってんだ。それじゃ、おまえの無謀な作戦を手伝った俺がバカみたいじゃねぇか。大羽、おまえが言い出したことなんだぞ。最後まで責任持ちやがれ」
「でも……」

 諦めが僕の心を支配してしまった。もう自分の力では、どうにもならない。

「朝霧しずくを救いたかったんじゃねぇのか。おまえの好きな朝霧しずくを」
「救いたいよ。でも、どうすればいいのか……」
「もうここまできちまったんだ。どうすればいいのか、じゃなくて、やるしかないんだよ。そんなこと分かってるだろ」
「そうだけど……」
「だからおまえみたいなやつは困るんだよ。熱くなってるときは周りを見ないで突っ走るくせに、いったん熱が冷めると、とたんに臆病になる。しっかりしてくれよ」
「…………」
「うじうじするな。前に言ってただろ。好きな人が助けを求めてるんだったら、ゼッタイに助けたいって。朝霧は間違いなくおまえに助けを求めてる。それでも、おまえはムリだからって助けないのか」

 そっと後ろを振り返る。朝霧さんがいた。雲の上の存在だった朝霧さんが、確かに目の前にいて、僕を見ている。その瞳は定規で引いたように、まっすぐに僕の瞳に繋がった。

「大羽くん」

 朝霧さんは一瞬、言葉を探すかのように、唇の動きを止めた。そして、続けた。

「今さらだけど、巻き込んじゃってゴメン」

 本当に今さらだよ、と樽井が悪態をつく。そうとうご機嫌斜めだ。僕のせいだけど。
 
 朝霧さんはそれきり、黙ってしまった。

「で?」

 だが、樽井が沈黙を許さなかった。

「それでおまえは何が言いたいんだ。臆病者の腰抜けに言うことがあるんじゃないのか。あと俺にも」
「うん、そうだね」

 振りかえった僕に、彼女は微笑んだ。それは諦観の笑みだった。僕はそれが分かった。だから、笑いかえした。
 
 朝霧さんも疲れたよね。だから、もう写真を警察にでも出版社にでも持ち込んで、楽になろう。朝霧さんは辛いだろうけど、それも少しの辛抱だから。僕はいつまでもファンでいるから。

 殴られた頬が、ズキンと痛んだ。

 朝霧さんが、少し、辛抱す、れば……。僕は、救えな、かった……。結局、何も、できなかった……。な、にも……。

 笑い顔が泣き顔に変わりそうになった。慌てて正面を向く。

「大羽くん、樽井くん」

 背後から朝霧さんの声が聞こえる。涙が溢れそうになった。

「今までありがとう。もう、いい――」
「朝霧」

 彼女の言葉を、樽井が遮る。なんのつもりだ、と横を向くと、樽井と目があった。こっちをじっと見ている。頬を何かが流れた。涙だった。慌てて、袖で拭う。油断したすきに、涙が溢れてしまった。

「大羽のバカが泣いてるぞ」
「え?」

 この妖怪小太りめ。余計なことを言うな。そんなことを言ったら、朝霧さんに心配かけるだろ。百グラム十円で、その脂肪を売りさばくぞ。

「大羽がなんで泣いてるか分かるか」

 彼女は何も答えない。首を振っているのだろうか。

「だろうな。俺も分かんねぇよ」

 何が言いたんだ、こいつは。

「ただ、泣きたいのは俺も一緒なんだよ。俺の場合はな、とにかく悔しいんだ。ここで終わるのは」

 ちょっときついこと言うぞ、と樽井は前置きして、さらに話を続ける。

「俺も大羽も……いや、大羽のバカは俺の数百倍、おまえを助けようと必死になったんだ。あのデカイやつらに殴られても、な。くそ、まだ痛むんだぞ。それなのに、まだすべての可能性を試したわけじゃないのに、おまえは諦めようとした。踏みにじったんだよ、俺らの気持ちを」

 振り返ることができなかった。朝霧さんの顔が見れなかった。

「確かにな、大羽の大馬鹿野郎が最初に諦めやがった。でもな、俺はこいつがどれだけおまえを好きか、嫌というほど知ってる。だから、諦められるわけないんだよ。今はただ弱気になってるだけだ、何かきっかけがあれば、こいつはすぐに元通りになるさ。“いつも”の大馬鹿大羽にな。それにおまえだって、ここで諦めるのはイヤだろう。まだやり尽くしてないんだぜ」
「樽井くん……」

 僕は呆然と樽井を見た。こいつを、こんなにもかっこいいと思ったことはなかった。どんなに太ってて、脂ぎった顔で、似合わない長髪をしてても、かっこいいと感じることはあるんだな。
 
 あまりのショックに、涙なんて引っ込んでしまった。その代わり、沸々と闘争心が生まれてきた。負けてられない、ここで終われない。

「樽井ってすごかったんだな」
「おまえがひどいだけだ」

 あっさりと返されたが、変に恩着せがましいことを言われるよりよっぽどいい。そしてこのぶっきらぼうさが、樽井の優しさだと思った。
 
 樽井が路肩に車を止めたとき、朝霧さんが口を開いた。

「大羽くん、樽井くん」

 僕はすぐに振り返る。朝霧さんは目を伏せている。樽井は振り返らなかったが、彼女の二の句を待っているようだった。

「今までありがとう」

 樽井は何も言わない。僕も黙って、次の言葉を待つ。

 彼女は顔をあげていた。さっきの僕と同じように、その頬は涙で濡れていた。でも、笑っていた。泣きながら、笑っていた。
 
 そして。

「どうなるか分からないけど――」

 涙を拭いてから、よく通る、澱みのない、いつもの澄みきった声で。

「――最後まで、付き合って」

 お願い、と言った。
 
 すぐさま樽井はアクセルを踏む。ハンドルを猛烈な勢いで回転させ、方向転換する。

「飛ばすからな。吹っ飛ばされないようにしろよ」
「お、樽井が冗談言うなんて珍しい」
「ふん。これから戦場に向かうっていうのに、気持ちを盛り上げていかなくてどうする」
「それもそうだ」

 僕は座席の下に手を伸ばし、そこからプラスチックの箱を取りだす。このなかにはCDが数枚入っている。ほとんどが樽井の聴くハードロック音楽だ。しかし、それに紛れて一枚だけ、朝霧さんの曲だけを詰めたCDがある。たまに樽井の車に載せてもらうときは、いつもこれをかけてもらっていた。

 勝手に操作して、朝霧さんのCDを流す。彼女のデビュー曲のイントロが大音量で響きだす。

「テンションあげていくぞ!」

 拳を振り上げて、音量に負けないぐらい大声を出す。いつもだったら、うるさいと怒鳴ってくる樽井だが、今日は何も言わなかった。
 
 イントロが終わり、朝霧さんが元気よく歌いだす。それに合わせて、僕も力の限り歌った。頬の痛みとか、胸の不安とか、声と一緒に吐き出されているかのようだった。
 
 ガンガンに響く音楽のなかで、ありがとう、と朝霧さんが呟く声が聞こえた。





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 男にはやらなくちゃいけないときが、必ずある。

 そんな言葉が頭をよぎった。何かのマンガかドラマで見たのだろうか。いや、歌だろうか。よく覚えていないが、印象深かったのは確かだ。

 僕は今まで何かをやり遂げた経験というのがないように思う。もともと飽き性なのか、すぐに嫌気がさしてしまい、別なことに情熱を注いでしまう。プラモデルを買うことはあっても、決して完成させないタイプだ。

 でも、朝霧さんに関しては違った。はじめて彼女の声を聞いたとき、「この人と出会うために僕は生まれたんだ」と、なんのてらいもなく思った。それからも決して飽きることなく、僕は朝霧さんに入れ込んだ。そしてその彼女が救いを求めたとき、自分の命を賭けて彼女を救おうと、恥じることなく、本気で思えた。

 だから、今なのだ。思いを完遂するときは。男になるときは。

 事務所の前には、電話で話した峰岸がいた。紺のスーツにネクタイ、年は五十前後だろう。短く刈り上げられた頭だが、ところどころに白髪が混じっていた。後ろには、当然のように亀田の姿がある。あの大男はいなかった。僕たちは、峰岸に先導され、事務所に足を踏み入れる。

 知らず知らずのうちに、体に力がはいった。隣にいた樽井が小突いてくる。見ると、リラックスしろよ、小声で囁いてくる。でも、その声が微妙に震えていた。武者震いなのだろう。

 峰岸と亀田が先頭、その後ろを朝霧さん、さらに後ろを僕と樽井が歩く。時間が時間なので、職員は少なかったが、まだ仕事をしている者たちは、必ずこちらに視線を向ける。僕はおもいっきり胸を張ってやった。

 そして以前、朝霧さんとはじめて話をした部屋へと連れてこられた。テーブルを挟んで峰岸と亀田、僕と樽井が向かい合う。朝霧さんはテーブルの隅に座ってもらった。

 ――この場所から、きっとすべてがはじまった。そしてここで今、すべてが終わるのだろう。いや、終わらせなくてはならない。決着をつけるときがきた。

 樽井も朝霧さんも精一杯、自分のやるべきことをやった。あとは僕が、締める。そのためにここにいるのだ。

「早速だがね」

 峰岸が先陣をきる。

「まずはきみたちの目的を聞かせてもらおうか」

 峰岸はそう言うものの、おそらく亀田から、すでに事の顛末を伝え聞いているのだろう。まあ、かなり事実が歪曲されているとは思うけど。そのなかで、僕たちの事情を聞いてくれるのかどうか。それが鍵だったのだが……この物言いだと、僕たちの話は頭から信じてもらえない気がする。

 さあ、どう出るか。
 
「それじゃ、単刀直入に言わせてください」

 直球勝負。というよりも小細工を弄している余裕はなかった。

「朝霧しずくさんは、そこの亀田さんにセクハラを受け、大変な被害にあっています」

 亀田は鼻で笑った。あいかわらず、憎たらしい顔をしている。

「峰岸さん、嘘ですからね、それは」

 ヘラヘラ笑いながら、ぬけぬけと言いやがる。当事者の朝霧さんの前で、よくそんなことを言えるもんだ。

 よーし、それなら洗いざらい、全部を話してやるか。

 僕は朝霧さんから聞いたことを元に、彼女がどんな被害に遭っているかを語り、その後にこれまでの顛末を滔々と語ってやった。そこには少しの嘘もない。真実のみを峰岸に伝えた。

「頬が赤いのは、その大男に殴られた証拠です」

 大男の話になったときに亀田が、そんなやつら知らないですよ、とのたまっていたが、ごく自然に無視してやった。

 峰岸は目を細めて、僕の頬を注視する。

「そして、先ほど言った証拠の写真というのが、これです」

 畳み掛けるように話し、ここで切り札をだした。

 ポケットから全部で五枚の写真を取りだし、音を立ててテーブルに叩きつけた。峰岸は眉ひとつ動かさず、それを一枚一枚眺めた。

「峰岸さん、その写真はですね」

 亀田がまじめぶった声をあげた。僕と樽井が一斉に睨んだが、まったく動じず、隣の峰岸に語りかける。

 どんな言い訳をする気だ、こいつは。

「しずくと合意の上でしたものなんですよ。それをこいつが隠し撮りしてたんです」

 ――こいつ何を!? 朝霧さんが認めるわけないだろ!

「確かにマネージャーとタレントの恋なんて許されることではありません。でも、しずくが私をどうしても、と求めてきたので、私も抗いきれませんでした」

 そんな言い訳が通用すると思ってるのだろうか。そんなもの朝霧さんが、違います、と言えばそれまでなのに。追いつめられておかしくでもなったのか。

「本当なのか、しずく」

 写真を眺めながら、峰岸が言う。朝霧さんは写真を見たくないのか、ずっと顔を逸らしていたが、小さく頭を振って答えた。

「違います」

 毅然とした物言いの朝霧さんを睨みつけ、亀田は静かに言った。

「私としずく、峰岸さんはどちらを信用するんですか。ゴミ同然のファンまで味方につけて、しずくは私を陥れようとしてるんだ。峰岸さんだったら分かってくれま――」
「――ゴミなんかじゃない!」

 亀田の言葉にかぶせるように、朝霧さんが声をあげた。よく通る声が、部屋中に響き、やがておさまる。興奮している彼女は、亀田を真っ正面から見るが、次の言葉が出てこないらしく、ただ肩を震わせている。

 僕はわずかに口元が緩むのが分かった。

 やっぱり僕は、彼女が好きだ。ファンをどこまでも愛する彼女を、僕も愛している。それが再確認できた。

「峰岸さん」

 朝霧さんを見ていた峰岸を、無理やりこちらに向けさせる。

「朝霧さんがどうしてファンに助けを求めたか、分かりますか? ラジオまで使ったんだ、きっとあなたも朝霧さんからSOSがあったのを知っているはずです」

 峰岸は何も答えなかった。じっと僕の目を見ていた。逸らしてしまっては負けだと思い、視線を決して外さない。ここが勝負どころだ。

「でも、あなた達はそれを無視した。誰も朝霧さんを助けようとしなかった。だから、追いつめられた朝霧さんはファンに助けを求めたんです。本当は、セクハラ問題なんてファンの介入することじゃない。ファンはただ、タレントを追うだけの存在のはずなんです。そこに助けを求めるしかなくなった朝霧さんの気持ち、少しは理解してください」

 峰岸が口を開きかけた。しかし、亀田が先に口を開く。

「きみは、どこまで私たち大人を馬鹿にするつもりなんだ。いい加減にしないと……」
「少し黙っていろ、亀田」

 峰岸が亀田を制した。亀田は驚いたように目を見開いたあと、舌打ちをして、目を伏せる。峰岸の視線は僕をとらえて離さない。

「亀田くんは優秀な人材だ。だから彼が嘘をついているとは思えない」
「その根拠のない自信が、朝霧をここまで責めたんだ」

 独り言のように樽井が言う。それでも峰岸の視線は外れなかった。

「彼としずく。どちらを信用するかと聞かれれば、迷わず彼を信じる」

 峰岸はそう言ったあと、「今まではな」とつぶやくように言った。 

 そこで峰岸がようやく視線を外してくれた。僕は安堵のため息をつく。峰岸も同時に息をついたのか、二人のため息が唱和した。おもわず峰岸を見ると、彼もまたこちらを見る。再び交錯する視線。そして、二人して苦笑する。

「大羽くんと言ったか」
「ええ」
「私は今まで面接官として、君ぐらいの歳の若者とたくさん会ってきたがね。君みたいに、物怖じしないで話すような度胸のあるやつは、めったにいないよ」
「それはそうです。僕は喧嘩をしにここに来たんですから。もし、僕がこの会社に面接にきて、その面接官が峰岸さんだったら、こんなに堂々と話せないと思います」
「そうかもしれないな。よし、君の気持ちは確かに伝わった」

 峰岸……峰岸さんは厳しい表情をつくって、朝霧さんを見る。覚悟を決めたのか、彼女もまた峰岸さんを見た。

「まず謝らなくちゃな。よく調べもしないうちに、君の言葉を頭から否定してしまった。悪かった。だから今、本当のことを聞かせてくれ。しずく、大羽くんの言っていることと、亀田くんの言ってること、どちらが本当のことなんだ?」

 またしても亀田が何かを言おうとするが、峰岸さんはそれを目だけで制し、朝霧さんを促す。

「大羽くんの言っていることが本当です。最初はなんだかおかしい人だなって思いましたけど、一緒にいるうちに、こんなに信用できる人はいないって思えるようになりました」

 朝霧さんの言葉に、峰岸さんは何度も頷いた。

「私もしずくと同じだ。電話で話したときは、話す価値もないやつだと思ったが、実際に会ってみて印象が変わったよ。人を信じさせる、何かを持ってる」

 峰岸さんはひとつ大きく頷き、腕を組みながら、隣の亀田を呼んだ。

「まさか峰岸さん、こいつらの話、信じたわけじゃないでしょうね」

 威圧するような声だった。しかし、峰岸さんが動じることはなかった。

「マネージャーを辞めてもらう」
「は? まさか。嘘でしょ」
「解雇とは言わん。これからは違う事務所で雑務に励んでもらう」
「な、なに考えてるんですか、峰岸さん」

 亀田は立ち上がって、大仰に両手を開いた。

「こいつはただのファンですよ。どうしてファンのやつの声を聞いて、マネージャーの俺の声を無視するんですか」

 狼狽した口ぶりの亀田は、見るも無惨だった。亀田にとっては予想外のことだったのだろう、僕たちが峰岸さんを丸め込んだのは。今までと同じように、峰岸さんは自分の味方をしてくれる、そう信じていたからこそ、今まで自信たっぷりだったのだ。
 
 それが今、崩れ去ろうとしている。

「その言葉、だよ」
「……なんですか」
「ファンをないがしろにする。それだけで、マネージャー失格だと、私は思うよ。確かに大羽くんの言葉に心を打たれたということもある。しかし今回の問題は別にしても、君の本心を垣間見ることができた。先ほど君はファンをゴミ同然と言ったね。その言葉は取り返しにならないぐらいの罪だ」
「…………」
「明日改めて、今後のことを伝えよう。今日は帰ってくれ」

 亀田は無言で背中を向けた。部屋から出ていこうとしたとき、肩越しに振り返り、僕を見た。血走った瞳だった。峰岸さんに、亀田くん、と言われてようやく出て行った。

「しずく、本当に今まで悪かったな」

 峰岸さんは小さくため息をつくと、今までにないぐらいの優しい声で朝霧さんに言った。

「もし、これから何かあったら、すぐに連絡してくれ。今度こそ、亀田を辞めさせる」
「どうしてすぐに辞めさせてくれなかったんですか、こんな決定的証拠があるのに」

 僕が不満を言うと、峰岸さんは亀田が出て行った扉を見つめて、寂しげに呟く。

「彼には力があるんだ。でも、最近はその力にかまけて、まじめに仕事をしていなかったところがある。これに懲りて、もう一度、まじめに働いてほしいんだが」
「出て行くときのやつの顔を見る分には、それはなさそうだけどな」

 樽井の意見に、僕も賛成だ。亀田がこれで更正するとは思えない。まだ一波乱ありそうだ。

「まあ何かあったら伝えてくれ。今度はすぐに手を打つから」
「何かあったら、って、そのときにはもう遅いかもしれないんですよ」

 峰岸さんが、うっ、と言葉に詰まる。

「でもまあ、これでひとまず一件落着と言ったところかな」

 樽井が言うと、朝霧さんが亀田の座っていた位置に移動してきた。そして、テーブルにぶつかるんじゃないかというぐらいに頭を下げた。

「本当に……ありがと……」

 涙声だった。僕と樽井はおもわず苦笑いをして、朝霧さんに顔をあげるように言った。朝霧さんの瞳からは、とめどなく涙があふれる。その涙を見て、もう何度も思ったことだが、改めて、僕は朝霧さんを好きだと感じた。

 彼女の涙がおさまったのを見て、峰岸さんがあることを切りだした。

「サマーライブのことなんだけど、今週から告知をはじめるから。これから忙しくなるな」
「サマーライブ?」

 僕は素っ頓狂な声をあげる。そんな話、はじめて聞いた。

「なんだ、しずく。説明してなかったのか?」
「なかなか言い出すタイミングがなくて……」
「そうか。まあ、そういうことなんだよ。朝霧しずくのファーストライブを夏にするんだよ。しずくのはじめてのライブで1回だけの公演だからな、チケットは相当売れるはずだぞ」

 朝霧さんのライブ……。

 今までそういうものに参加したことがなかった。だから、どういうものなのかは分からない。でも、なんだか胸がドキドキしてきた……。

「な、なにがなんでもチケットを手に入れないと」

 拳を強く握り締めると、峰岸さんが笑いながら言った。

「君たち二人は特等席に招待するよ。ステージ中央、最前列。それがしずくを救ってくれたお礼だ」

 一瞬だった。一瞬で、心の奥底から津波のような感情が押し寄せてきて、それが爆発して――。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 言葉が勝手に溢れだして――。

「うっさい!」

 樽井に殴られる。
 
 なんだか、すごく懐かしくなって、目の端に涙がにじんだ。嬉しさが極まって流す涙が、こんなに清々しいものだということを、はじめて知った。ぼやけた視界のなかで、朝霧さんの笑顔が、ゆらゆらと揺れていた。




第1部エピローグへつづく