カルロス・クライバーによる唯一のワーグナー録音。クライバーは厳選された曲だけを完璧に仕上げるというやり方を貫いた人だったので、レパートリーが限られるのは仕方ないことだろう。

しかしクライバーが認めて世に出た録音は、全てが第1級の名演ばかりだ。トリスタンとイゾルデはクライバーお気に入りのレパートリーだったらしく、1973年、ウィ―ン国立歌劇場にデビューしたのもこの演目だったし、同年7月にはバイロイト音楽祭に「トリスタンとイゾルデ」でデビューしている。このバイロイト盤はライブCDが発売されている。

演奏は前奏曲からクライバーの個性がよく表れている。自己の内面に深く沈んでいって、その暗がりの中で自分の心を見つめるような雰囲気。決してテンポを揺らして情念を煽るような真似はしない。静かで整ったフォルムの中から気持ちが高まっていく様は、大きな身振りを振り回すよりも、却って凄味を感じた。

第3幕への前奏曲
第3幕への前奏曲も素晴らしい。情感に満ちた静けさは虚ろな雰囲気を作りだし、清らかな弦の音は鋭く冴え渡る。スッキリした管楽器も音楽に暖かみを与えている。私が持っているのはハイライトCDなので第1幕は、第5場でトリスタンとイゾルデが秘薬を飲む所から幕切れまでしか入っていない。この船の中でのやり取りはたっぶりCD1枚分くらいあるが、私もここはちょっと退屈。それ以後の悲劇的な物語に比べると比重が軽い気がするので、CD1枚に納めるには妥当な選択だろう。

秘薬を飲んでからの盛り上がりは圧倒的。ゾッとするような静けさから、研ぎ澄まされた演奏の中で感情が爆発する過程は、誰とも違うやり方で2人の悲劇を聴く者に体験させてくれる。

ルネ・コロ
トリスタンを歌うルネ・コロは、この録音を行った1980年くらいが絶頂期だった。1937年生まれなのでこの時43歳。甘く鼻にかかったヘルデン・テノールと輝かしい歌声で孤高の英雄を表現している。第2幕、イゾルデと絶望的な愛を歌う所や、第3幕でイゾルデの到来を狂ったように喜ぶ所など、圧倒的な歌唱を聴かせる。

マーガレット・プライス
イゾルデは、マーガレット・プライス。1941年、イギリス、ウェールズのブラックウッド生まれのソプラノで、2011年に心不全で亡くなっている。中心的レパートリーはモーツァルトのオペラのリリック・ソプラノの諸役であるが、リート歌手やコンサート歌手としても評価が高かった。

晩年は重い役にもレパートリーを広げ、アイーダを歌ったりもしたが、イゾルデはこのレコーディングで歌ったのみで、実演では歌っていない。このCDでのイゾルデを聴くと、このことがキレイに腑に落ちる。他のイゾルデにはない、ちょっと軽いがスッキリとして見通しがよく、透明感があって全く力みがない。

ヴィブラートはあまりかけず、どこまでもストレートに伸びていく声は、聴いていてとても気持ちいい。それでいて声量には全く不足がなく、迫力すら感じるんだから、プライスとしても一世一代の歌唱だったと思う。

第2幕第2場の「おお、降り来よ、愛の夜を」でコロとデュエットする所は、透明でクリアな二人の声を、スッキリしたオーケストラが包み込み、3つの個性が完壁に重なり合って夢幻的な世界を作り上げている。これでモヤモヤしない所がいいのだ。

最後の「イゾルデの愛の死」でも、揺ったりしたテンポの中、静けさの中にプライスの清らかな声が響いている。圧倒的な広がりの大きさ、弦の音の純粋さが胸を打つ名演だ。

リヒャルト・ワーグナー
楽劇「トリスタンとイブルデ」
トリスタン:ルネ・コロ(テノール)
イゾルデ:マーガレット・プライス(ソプラノ)
マルケ王:クルト・モル(バス)
クルヴェナール:ディートリヒ,フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ブランゲーネ:ブリギッテ・ファスベンダー(メゾ・ソプラノ)
メロート:ヴェルナー・ゲッツ(テノール)
合唱:ライプツィヒ放送合唱団
管弦楽:ドレスデン国立管弦楽団
指揮:カルロス・クライバー
収録.:1980年8月、10月、1981年2月、4月、1982年2月、4月ドレスデン
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」 [抜粋盤]
1.前奏曲
2:第1幕「トリスタン!」/「イゾルデ!」(イゾルデ、 トリスタン、合唱、ブランゲーネ、クルヴェナール)
3:第2幕二重唱「おお、降り来よ、愛の夜を」(トリスタン、イゾルデ)
4.第2幕「寂しく私が見張るこの夜に」(ブランゲーネ)
5.第2幕「聞いて下さい、恋人よ!」(イゾルデ、 トリスタン)
6.第2幕「けれども私たちの愛は」(イゾルデ、 トリスタン)
7.第2幕「こうして私たちは死ねばよい」/「おお、永遠の夜」(トリスタン、イゾルデ、ブランゲーネ)
8.第2幕「お逃げなさい、 トリスタン様!」(クルヴェナール、 トリスタン、メロート)
9.前奏曲
10.第3幕「おお、幸い!おお、喜び!」(クルヴェナール、トリスタン)
11.第3幕「この太陽!」(トリスタン、イゾルデ)
12.第3幕「あお!」/「私です、私です、あなたが愛するイゾルデです!」(イゾルデ)
13:第3幕「イゾルデ、なぜわしを」(マルケ、ブランゲーネ)
14.第3幕「イゾルデの愛の死」(イゾルデ)
71-xGveplWL._AC_SL1163_