NadegataPapaのクラシック音楽試聴記

クラシック音楽の試聴記です。オーケストラ、オペラ、室内楽、音楽史から現代音楽まで何でも聴きます。 カテゴリーに作曲家を年代順に並べていますが、外国の現代作曲家は五十音順にして、日本人作曲家は一番下に年代順に並べています。

マーラー、「大地の歌」

マーラー「大地の歌」クレンペラー指揮フィルハーモニア管

マーラー:交響曲「大地の歌」
クレンペラー(オットー)
EMIミュージック・ジャパン
2002-03-06


往年の名指揮者オットー・クレンペラーによる大地の歌。有名なCDなので何度も再販され、今度はリマスター版のSACDも出ている。私が持っているのは、もう20年以上前に買った普通のCD。
 
クレンペラーはポーランド生まれのユダヤ系ドイツ人。マーラーの交響曲第2番「復活」のピアノ編曲がマーラーの目に留まり、マーラーはクレンペラーの才能を認めることになる。これが縁となり、クレンペラーは22歳でマーラーの推挙を受け、プラハのドイツ歌劇場の指揮者になることができた。
 
以後もマーラーの庇護を受けているが、交響曲を全部演奏したわけではなく、直弟子のワルター程マーラーの音楽を認めていなかったという話だ(ウィキペディア)。
 
第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」での、ヴンダーリッヒの歌が凄い。冒頭から輝かしく強い声で「Schon winkt der Wein!」と叫び、ちっとも喉に無理をさせずによく通る声を出している。こういう声は聴いていてとても気持ちがいい。このCDの高評価はヴンダーリッヒの歌唱によっているのではないだろうか。
 
確かに一本調子な気もするし、声の魅力に寄りかかった歌唱ではないかという思いもチラッと頭をかすめたりする。やるせない雰囲気の箇所は泣きが入ったような歌い方で、ちょっと時代を感じる所もある。それでもこの声の魅力には抗しがたく、やっぱり歌って声の魅力が大きいな~と思うのだ。

オーケストラは、マーラーの厭世的な気分をあまり感じさせず、運しい力強さで押しまくっている。なんとなくクレンペラーって、女々しい表現は縁がなさそうなイメージがあるが、CDを聴いてもやっぱりその通りの剛毅な演奏だ。
 
第2楽章「秋に寂しき者」では、オーケストラが遅めのテンポで密やかな雰囲気を出している。弦の音色はは輝かしく、これを聴くと表現主義的なテンポの揺れや歌い方をしなくてもちゃんと寂しい所を表現できることが分かる。
 
ルートヴィヒの歌唱はさすが。1928年生まれだから、この時36歳。最も脂が乗っていた時期で、1962年にはオーストリア宮廷歌手の称号を受けたほどだ。既に風格を感じるのは、後の活躍を知っているからか?
 
スケールが大きな歌唱で、声はよく伸びて、高音域には輝きもある。ヴィブラートが大きいのには時代を感じるが、味わいがあって深みがあり、フォルテッシモでの追力、ピアノでの語りかけるような表現力はルートヴィヒ以外では聴くことができないだろう。
 
クレンペラーは、意外と遅めのテンポを採っていて、第3楽章「青春について」でもじっくりと明確に表現している。

第4楽章「美について」でも、ちょっと遅めのテンポと明確で見通しのよい音楽作りは変わらない。中間部でオーケストラが大活躍する所でもスピードは上げず、音に込める力で迫力を出している。ルートヴィヒが巧みな語り口で、物語を面白く語って聞かせる。もちろん声の力も十分発揮され、多彩な表現力は流石と言うほかない。
 
第5楽章「春に酔える者」では、ヴンダーリヒの豪快な歌に聴き惚れてしまう。声が強いだけではなく、ここでは歌い方が歌詞のイメージとピッタリマッチしていてとても面白い。思わずニヤッと笑いたくなってしまった。
 
第6楽章「告別」は、テンポを心持ち速めに採り、剛直で張りが深い表現。音色は明るく、健康的なイメージで、退廃的な雰囲気は微塵も感じられない。それでも内容は濃く、迫力は満点だ。
 
ルートヴィヒの歌唱も、密やかで表現の幅は広いが、神経質な所がなく、暗くならない所がクレンペラーの指揮と指向を一にしている。最後の節「愛しき大地に春が来て、ここかしこに百花咲く」の所は凄い声量で、圧倒的なパワーを見せつけた。
 
私の持っているCDは古いので、リマスターされた最新盤とは趣が違っているかも知れないが、オーケストラの立体感がよく出ていて一つ一つの楽器の存在感が明確に伝わってくる。1960年代の録音にしてはキレイに録れているが、ちょっと細部のクローズアツプが過ぎる気もする。トライアングルがやたら聴こえて来たり、独奏の管楽器が迫うてくるようなイメージがあったし 。

グスタフ・マーラー
「大地の歌」    
テノール:フリッツ・ヴンダーリッヒ
メゾ・ソプラノ:クリスタ・ルートヴィヒ
指揮:オットー・クレンペラー(1885‐1973)
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
収録:1964,66年

マーラー「大地の歌」ラトル指揮ウィーン・フィル、T:シャーデ、Ms:コジェナー

あけましておめでとうございます。
年が替わっても私の生活は大して変わりません。今年もクラシック音楽を聴き続けて行きます。去年変わったことと言えば、何と言ってもネット・ラジオでストリーミング放送を聴くようになったことです。最近CDを聴く割合が凄く減って、ほとんどパソコンで音楽を聴いています。CDを買わなくなったのでお金の面では助かっています。この傾向はたぶんしばらく続くでしょう。今年の最初の記事も、ネット音源によるものです。
では、今年もよろしくお願いします。

Rattle_Simon
オーストリア放送協会のウェブ・サイトでラトル指揮、マーラー「大地の歌」を聴いた。オーケストラはベルリン・フィルではなくて、ウィーン・フィル。2018年にベルリン・フィルの音楽監督を辞任することが決まっているラトル、ベルリンの次なる目標はウィーンか?などと勝手な推測をしてしまうけど、クラシック音楽界においてベルリン・フィルと見合うだけの地位となると、ウィーンしか考えられないのでは?。ラトルはベルリン・フィルとマーラーのチクルスを行っていて、大地の歌も演奏しているようなので、ただ手の内に入った曲を持ってきただけかもしれないけど。

ソリストはミヒャエル・シャーデとマグダレーナ・コジェナ一。シャーデの大地の歌は先日ハーディング指揮のボストン響のライブでも聴いた。あっちこっちで大地の歌を歌っているようだ。

シャーデの印象はボストンの時と変わらない。隈取がハッキリしていて、迫力十分。よく通る輝かしい声で立派な歌を聴かせる。第5楽章「春にありて酔える者」で、乱暴な酔っぱらいの風情を巧みな表現で聴かる所も同じように面白く聴けた。

ハーディングとボストン響が透明感のある繊細な表現を追求していたのに対して、ラトルとウィーン・フィルはもっと雄弁で灰汁の強い表現をしている。第2楽章「秋に独りいて寂しき者」ではもうちょっとしんみりしてくれた方が私が持っているイメージに近いんだけどな~と思ってしまった。

オーケストラは凄く立派な演奏で、立体感もよく出ているし、楽器間のバランスにも配慮が行きわたっている。楽章最後に盛り上がる所の表情も多彩でバッチリだけど、どこか力技で、押し切っている印象が残った。それはコジェナーの歌声にも感じられて、枯淡の表情よりは真っ直ぐな美声を瑞々しく聴かせることで表現しているような気がした。

それも真っとうなやり方なんだろうけど、私の中のイメージ、また曲を聴くときの心境がラトルの演奏と噛み合わなかったということで、多分仕方のないことなんだろう。別の機会に同じ演奏を聴いたら、全く違った印象を持つかもしれない。

オーケストラの表現の巧みさは第4楽章「美について」でも十分発揮されていて、特に中間部で主役が馬を駆る少年に切り替わる所では、唖然とするほどの巧みさだった。テンポの急変を含めて、キャラクターの描き分けは大胆にして繊細。全く惚れ惚れさせられる。

長大な第5楽章「告別」は、冒頭から思いっきりしんみりしてくれて、私のイメージ通りだ。その中で雰囲気がほんのり明るくなったり、急に不穏になったりと心の微妙な揺れまで感じることができるのは、ラトルの指示の巧みさだろう。ウィーン・フィルの弦の純粋な音も美しいし、時々管楽器が表現主義的にゾッとする様な表現をしたりする。コントラパスの捻り声なんかは凄かった。

コジェナーも声量&美声一辺倒でなく、静かに繊細な歌を聴かせる。もっとも全体的にはスッキリ伸びる美声が前面に出てくる。これだけ声が美しければ、そうしたくなるのも領けるけど。

第5楽章で突然音が飛んだところがあったのが玉に暇だった。

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)「大地の歌(Das Lied von der Erde)」
テノール:ミヒャエル・シャーデ:(Michael Schade)
メゾ・ソプラノ:マグダレーナ・コジエナー(Magdalena Kozena)
指揮:サイモン・ラトル(Sir Simon Rattle)
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)
収録:2013年12月15日ウィーン、ムジークフェラインザール(aufgenommen am 15. Dezember im Großen Musikvereinssaal in Wien)
オーストリア放送協会 この演奏の紹介ページ

マーラー:交響曲第9番、R.シュトラウス:メタモルフォーゼン
ラトル(サイモン)
EMIミュージックジャパン
2009-09-16
ウィーン・フィルとのマーラーは9番だけ

マーラー「大地の歌」ハーディング指揮ボストン響T:シャーデ、Ms:ストーティン

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↑ちょっとジェームス・ディーンを意識したような写真のハーディング

今年(2013年)の10月26日にボストン・シンフォニーホールで行われたダニエル・ハーディングの演奏会。前半にタネジの「スペランッア」、後半にマーラーの「大地の歌」が演奏された。

ダニエル・ハーディングは1975年イギリス、オックスフォード生まれの指揮者。マーラ一室内管の音楽監督、ロンドン響の首席客演指揮者を務め、2018年からはフランス国立管の音楽監督に決まっている。2018年って、やけに先の話だけど。

ハーディングは現代音楽にも強く、マーラーも10番、4番(マーラ一室内管)を録音しており、ロイヤル・コンセルトヘボウ管と1番が映像で見られる。この日の大地の歌はソリストにクリスティアーネ・ストーティン(メゾ)とミヒャエル・シャーデ(テノール)を迎えて、精妙で透明感に溢れたマーラーを聴かせた。

第1曲DasTrinklied vom Jammer der Erde(酒のみ歌、大地の悲嘆について)は割とゆったりしたテンポで始まる。オーケストラは迫力よりも優美さを優先し、透明感を追求した印象だった。

テノールのシャーデは1965年ジュネーヴ生まれのドイツ系カナダ人。少し鼻に抜けるくぐもった声で、あまり響かず声の通りがよくない。ライブ録音なので、セッション録音されたCDのようにクローズアップされておらず、聴き慣れた演奏とはちょっとバランスが違っているが、ホールで聴いたらこれが普通なんだろう。歌い方はとても立派で、歌詞の内容に合わせてメリハリをつけ、迫力も十分。気合が入っているのがよく伝わってくる。

シャーデは第5曲DerTrunkene im Fruhling(春に酔える者)でも、威勢のいい歌いっぷを披露し、酔っ払いが好き勝手に放言する様子が生き生きと描かれていた。オーケストラもフレーズの強弱にメリハリをつけ、ちょっと速めのテンポでリズムよく表現している。

クリスティアーネ・ストーティンは、1977年オランダ、のデルフト出身のメゾ・ソプラノ。声は適度に暖かみがあり、透明感も持っている。フォルテッシモでも絶叫調にならないし、割と平均的な声と言えるのではないか。

第2曲のDer Einsame im Herbst(秋に孤独な者)でも密やかで寂しい雰囲気の音楽を聴かせたが、第4曲Von der Schonheit(美について)では、とても純度の高い声でクリアな表現を聴かせてくれた。

前半の少女が花を摘む場面では、柔らかく繊細で、思わずドビュッシーを思い出してしまうようなオーケストラの微妙な書法を生き生きと描き出しており、それがやんちゃな少年が馬を駆る場面に変わると、オーケストラと独唱共に、一気ににテンポを上げ目を見張るような鋭い表現を見せてくれる。このメリハリと鮮やかな雰囲気の転換が見事で、惚れ惚れしてしまった。

第6曲Der Abschied(別れ)は、最も長い時間をかけた、この曲のハイライトだが、ハーディングはここでもたっぷり時間をかけ、曲が持つ人生のやるせなさ、諦観と言ったものをじっくり描きだして見せた。音楽の「間」を大きく取って神格的雰囲気を作り出し、細部に拘った繊細な表現で、自己の内面に沈み込んでいくような想いに浸ることができた。

演奏とは関係ないが、こうした歌が大きな部分を占めている曲は、対訳の存在が曲の印象を大きく変えてしまう。私は昔買ったインバル指揮フランクフルト響のCDを持っており、それについている歌詞対訳を見ながら聴こうと思ったが、ちょっと見てみると対訳が口語調で書かれており、とても堅苦しかった。

そこでネットで探すと「マーラー「大地の歌」の歌詞と音楽」という所にとても読み易い歌詞が載っていて重宝した。元のドイツ語と日本語が上手く対応していて、曲を聴きながら読むのにはとてもよかったし、イメージが掴み易かった。

マーラー(MAHLER)「大地の歌(Das Lied von der Erde)」
テノール:ミヒャエル・シャーデ(Michael Schade)
メゾ・ソプラノ:クリスティアーネ・ストーティン(Christianne Stotijn)
指揮:ダニエル・ハーディング(Daniel Harding)
演奏:ボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)
収録: 2013年10月26日ボストン・シンフォニーホール
WGBH この演奏が聴けるサイト  当日のプログラム

マーラー「大地の歌」シナイスキー指揮NHK交響楽団

フランツ・シュミット:交響曲 第4番 ハ長調 他
フランツ・シュミット:交響曲 第4番 ハ長調 他
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こんな曲を録音しているところを見ると、シナイスキーは現代音楽好きか?

先日アバド&ベルリン・フィルがこれと同じプログラムでコンサートを行っていた。第10番「アダージョ」と大地の歌の組み合わせは流行っているのか?去年はマーラー・イヤーだったし、曲の長さがちょうどいいのでこの組み合わせになるのかもしれない。

交響曲と名前がついているが、実質的に大地の歌は大規模な歌曲だ。この点については専門家の間で見解が分かれ、マーラー交響曲全集に大地の歌を入れる人、入れない人と対応が分かれている。インバルなんか入れているが、ジンマンは入れてない。その議論は曲の成立過程や内容から高度な議論がたたかわせられているらしいが、ややこしいことは私には分からない。とにかく全編に渡って歌がついているから歌曲だと思うというだけだ。

歌物は歌手の好みが殆どを決めてしまう。声の質や歌い方が気に入るか気に入らないかがすべてなのだ。いくら世評が高い歌手でも「なんとなく気に入らない」と思えば受け入れられないし、好みの歌手なら大抵のことは許せてしまう。そういうものだ。

テノールのジョン・トレレーベンは全く気に入らなかった。声がつまった様な感じで前に出てこない。声量も足らない。出だしの「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の冒頭ですでに失望してしまった。こうなるともうダメだ。以後ずっと違和感が付きまとって全然感心しなかった。この人、新国立劇場でジークフリートを歌うほどの実力者で、素晴らしいヘルデン・テノールという触れ込みなのだが、私には信じられなかった。

声量が全然足りないのは録音のせいなのか?と思ったが、これはアルトのクラウディア・マーンケが歌い始めたとき、そうではないと確信した。マーンケは素晴らしい声量を聴かせてくれ、ホールの隅々まで響き渡る豊かな声は私の好みにかなりマッチしていた。その上ノーブルで、声を張り上げることがなく、まったく無理をせずに声を出している感じがとても気持ち良かった。よって、マーンケが歌っている楽章はとてもよかった。

シナイスキーはロシアの指揮者で、そこそこ有名らしいが、私は知らなかった。オケを迫力十分に鳴らすところと室内楽的に精妙な表現をするところのメリハリがついていて、及第点を上げてもいいだろう。クレンベラーほど素晴らしいというわけでもないが。最終楽章「告別」をひっそりと暗く沈んでいく表現がよかったが、あまりに精妙で沈み込みのような気がしないでもなかった。

一第1712回N響定期公演一
【曲目】交響曲第10番から「アダージョ」(マーラー)、交響曲「大地の歌」(マーラー)
【出演】管弦楽:NHK交響楽団
アルト:クラウディア・マーンケ
テノール:ジョン・トレレーベン
指揮:ワシーリ・シナイスキー
(2011年11月11日/東京・NHKホールにて収録)

マーラー「大地の歌」アバド指揮ベルリン・フィル

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↑大地の歌の映像は出ていない

2011年5月18日マーラーの命日に、マーラー没後100年記念演奏会がベルリン・フィルハーモニーホールで行われた。指揮するのはクラウディオ・アバド。ラトルの前任のベルリン・フィル音楽監督だ。2000年に胃がんで倒れてベルリン・フィルを辞任したあと、メジャーオーケストラに就任したという話は聞かないので、なんとなくパッとしないというイメージがあった。先日ルツェルン祝祭管弦楽団とのマーラーをテレビで見て、そのこけた頬がいかにもがんと闘った後を物語っていて痛々しかったが、音楽は素直で力強く、マーラーと一緒にのた打ち回るのではなく、さりとて冷徹に突き放すのでもない、温厚な音楽を聴かせてくれ、アバド健在を印象付けられた。そしてマーラーの記念演奏会の指揮を任せられるということは、ベルリン・フィルとも良好な関係を保っている証拠だろう。この人、顔を見ても分かるとおり非常に温厚な人柄で、怒ったり怒鳴ったりするのを見たことがないそうだ。

大地の歌は1908年の夏に作曲されている。その前年マーラーは長女を亡くし、自身も心臓の診断を受けている。さらにウィーン宮廷歌劇場を辞任しニューヨークに活動の場を移すことを余儀なくされるといった人生の不安材料が一気に噴出したような状況だった。こんな時の作曲だったので、詩の内容が厭世的であったり、酒に溺れることを推奨するような内容になったとも考えられるらしい。

そう言われれば第6曲の「別れ」などは、「これはウィーンとの別れを歌ったものだ」と言えなくもなさそうだけど、後世の人間が強引に結び付けるのもどうかと思う。マーラーが何を考えてこの曲を作曲したとしても作品の価値に変わりはないし、マーラーの研究者でもない私がそのことを考えながら聴いても仕方がないだろう。

今まで大地の歌をテレビで見たことはなかった。私は音楽を聴くときはいつも灯りを消して、部屋を真っ暗にして聴いている。その方が曲に集中できるのだ。もちろんオペラなど映像があって初めて作品として成立している曲はテレビをつけて見ているが、演奏会のライブ映像も基本的に画面を消して聴いている。画面をつけていると映像に気持ちが引っ張られて、音に集中できない。音楽の細かいところに気が向けられなくなるのだ。

だが部屋の電気を消して真っ暗にすると歌詞カードが見られない。楽章の間に電気をつけて歌詞カードを見て大体の内容を頭に入れ、また電気を消して曲を聴いたりするが、全体として何を歌っているかは分かるが、今声を張り上げているが、何を叫んでいるのかといったことは分からない。とてももどかしい思いをしているのだ。

言葉の細かいところは気にせずに音楽だけを聴くという方法も考えられるが、私には邪道のような気がする。やはり歌というものは歌調とメロディの相乗効果で成り立っている。曲が一番盛り上がるところで一番訴えたいことを叫ばれることで、詩の朗読ではなく、器楽曲でもない、意味を持った言葉が音楽に乗せられる価値が生まれるのだ。

そういう意味で言うと、この曲のテレビ映像は貴重だ。歌っているところで字幕の歌詞が表示される。今何を歌っているかがほぼリアルタイムで、頭に入ってくる。これは非常にありがたい。私はこの映像を見て、初めて大地の歌で歌われている内容が分かったような気がする。今までは歌詞カードで見て知っていたつもりだが、曲とリアルタイムで歌調を表示されて初めて分かることもあるのだ。

しかし。ああ、しかし、やっぱりテレビ画面を見ていると音楽に没入できない。音楽を聴いているように見えて、歌詞を追っているのだ。頭は音楽に向いていない。歌詞の内容を理解しようと頭を使っている。やっぱり歌曲を理解しようとすれば言葉を理解していなければ本物とは言えないDunkelは暗い、Lebenは生命、Todは死、というドイツ語が分からなければ、ここを歌っているときに「生は暗く、死もまた暗い」と字幕が出ても、この部分を味わう事はできない。もっと言えばDunkelという音が聞こえた時無意識に暗闇をイメージできなければダメだ。「Dunkel?ああdark、暗闇ね」と脳内変換しているうちに音楽は先に進んでしまう。こうなったら大地の歌をドイツ語で暗唱するくらいしなければ本当の理解には達することができないだろうが、クラシック音楽は大地の歌だけではない。そんなことをしている暇も気力もない。まあ仕方ないなということで、歌曲にはあまり足が向かなくなってしまうのだ。

メゾ・ソプラノはアンネ・ソフィー・フォン・オッター。テノールはヨナス・カウフマン。カウフマンは今が旬のイケメン・テノール。メトロポリタン歌劇場でジークムントを歌って大好評だった。この日は最初は力んでいるのか、ちょっと空回りしているような印象だったが、じきに乗ってきていい声を聴かせてくれた。オッターは言わずと知れた名歌手。力強さはないが、ベテランの味わいとはどういうものか見せてくれたような気がする。
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