【注意】

この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。また妄想成分が多大に含まれていますので、閲覧にはじゅうぶんご注意ください。


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――これは、わたしたちが、わたしたちを見つける、わたしたちの物語。


小説<乃木坂>

第2部【おいでシャンプー】


最終話「おいでシャンプー」 





 ――気づくと、雨の中に立っていた。

 どしゃ降りの向こうに、夜闇にそびえる校舎が見える。あれは乃木坂学園。ここは……学園の校庭。

 "彼女"は校舎に向け、足を踏み出そうとする。しかしその足は動かない。足だけではなく、体全体の自由がきかなかった。

 そのときぼんやりしていた頭が一気に冴え渡る。何が起きてこうなったのか。

 思い出す。思い出し、絶望する。

 ああ、そうか……。

 ここに「立たされる」理由もわかった。

 なんて……なんて残酷なことをするのだろう……。

 まばたきすら封じられた瞳から涙があふれる。

 しかしそれは雨にまぎれ、夜に溶け、誰にも気づかれずに消えていく。

 世界は、雨に沈もうとしていた。





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「つまらないことが多いと思わないか」

 なあ生駒里奈、と和田の体を操った”何者”かが言う。

 何も答えられずに震える生駒の奥で、桜井玲香が魂の抜けた表情で座り込んでいる。目はうつろで、ときおり何かを口走るが、それは言葉にはならず、吐息となって消えていく。次々と仲間が消え、自尊心を踏みにじられては、正気を保てるはずはなかった。

 和田はそんな桜井を一瞥して、視線を生駒に戻す。

「思い通りにいかないからこそ、人生はおもしろい」

 何の前触れもなく、そして、音もなく。

「……あっ!」

 生駒里奈の右手が肩口から消失する。

「思い通りにいく世界を生きて何がおもしろいというのか」

 和田はつまらなそうに言って、生駒に近寄る。恐怖に怯える生駒は、その場にぺたんと腰をおろした。後ずさりしようとするものの、片手ではうまくいかずにもがいている。

「この世界は、つまらない。世界の真実とは、つまりそういうことだ」

 生駒を見下ろす。

「世界を変える。すべてが思い通りにいく世界を、思い通りにいかない世界へ。そして生駒里奈。希望よ。この世界に波紋を生む存在。おまえが消えた世界こそ、俺の求める世界……だと思っていた」

 生駒は和田の声を、どこか遠い場所から聞いているようだった。まるでテレビの向こうの話。現実感がない。消えた箇所にも実感がない。痛みもない。ただ透明になっているだけのように感じる。

「でも、本当にそうなのか。むしろおまえが作り出す世界にこそ意味があるのではないか」

 和田は、右手が消えた生駒を哀れむように見る。

 生駒の表情は完全に消えていた。怯えた様子もない。ただうつろな瞳を向けてくる。

「ふん……恐怖で壊れたか。せっかく舞台に出してやったのになんとも情けないやつだな」

 鼻息あらく言うと、和田は生駒の正面に座りこむ。

 生駒の顎をつかみ、強引に目線をあわせ、

「きみは、だれだ」

 言葉をぶつける。

 答えはない。生駒の唇は震えもせず、何の言葉も紡がなかった。

「今回はもう駄目のようだな。おまえが目覚めて、俺に立ち向かってくるのを楽しみにしているよ。おまえだけだからな。その権利があるのは」

 言葉と同時に、生駒は完全に消えてしまう。

「さて」

 和田は、いまだ部屋の片隅でうずくまる桜井に目を向ける。

「……情けないリーダーよ。最後ぐらいは楽しませてくれよ」

 そう言いながら桜井に近寄り、耳元で囁く。

「校庭にいけ。そこにおまえの求めているものがある」

 言葉を発した和田が音もなく消え、その場に残っているのは桜井だけになる。つい数分前までの喧騒はどこにもない。ただ雨の音だけが聞こえる。

 桜井はしばらくその場に座り込んでいた。何も考えられない。何かを考えることを脳が拒否していた。

 どこではじまり、どこで狂ったんだろう。

 はじめは……そうだ、若月が消えたんだ。若月の家に遊びに行って、一緒にお風呂に入って、一緒に寝て……そして、消えた。

「校庭……」

 桜井は立ち上がる。下級生の和田が最後に発した言葉。

 ――そこにおまえの求めているものがある。

 桜井が求めているものは、ただひとつ。心の拠り所。大好きな、誰よりも大好きな、あの姿。

「お願い、助けて、助けて……」

 生徒会室をでて、校庭をめざす。校舎には誰もいない。それを不思議に思う心すら、今の桜井にはなかった。ただ誰かにすがりたかった。誰かに助けてほしかった。そして桜井にとっての誰かは――。

「わか……つき?」

 昇降口をでて、正面に広がる校庭に人影が見える。暗闇のなか、強い雨に打たれ、オブジェのように立っている姿を、目を凝らしてみる。

 そして確信する。

「若月!」

 傘もささずに飛び出す。

 若月、若月、若月――っ!

 口に雨が入るのも厭わず、桜井は叫びながら雨の中を走る。

 そのままの勢いで抱きつくと、若月は体から力が抜けたように倒れこむ。桜井はそれを支え、雨でぬかるんだ校庭に座り、若月の頭を自分の膝に乗せた。汚れなどまるで気にならない。

「……泣くなよ」

 若月がぽつりと言って、桜井の頬を撫でる。しかし叩きつける雨と、とめどない涙によって、桜井の頬が乾くことはない。

「だって……嬉しいんだもん」
「ははは、この状況でよくそんなこと言えるな」
「いいの。若月に会えれば、もう、どうだっていいの」
「玲香らしいな」

 でも、と若月は言う。

「もう、それじゃだめだ。玲香は生徒会長……みんなを率いるキャプテンなんだから。しっかりしないと――」
「わたしそんなのやりたくない!」

 その叫びはすぐに雨音がかき消す。

「リーダー失格とか頼りないとか、そんなの自分が一番よくわかってる! でもそんなわたしを選んだのはみんなでしょ! なんでわたしなのよ!」
「玲香……」

 それはずっと言いたかったこと。どうしてわたしなのか……。今そんなことを言っている場合ではないのはわかる。しかし、心の堤防が崩れたように言葉があふれて止まらなかった。

「わたしは望んでこうなったわけじゃない! 選ばれただけ! どうしたらいいのよ! わたしはどうしたらいいの!?」
「そのままで、いいんじゃないかな」

 若月が静かに言う。

「玲香は玲香なんだ。他と比べることはない」
「でもわたし、いつも誰かに頼ろうとしてる……わたしひとりじゃ何もできない……」
「いいんだよ、それで」

 若月はもう一度、いいんだよ、とつぶやく。

「玲香が頼りなくて、情けないことなんて、みんな知ってる」
「だったら……!」
「でも、玲香しかいない。みんなを束ねられるのは」
「どうして、どうして、わたしなの」
「玲香だから」

 若月がそっと玲香の唇を触る。

「理由なんて後でいい。玲香だからみんながついてくる。玲香はついてきてくれるみんなを信じれば、それでいい。無理しなくていいんだよ。できることをすればいいんだ」
「わたしにできることって……」
「それは自分で探すしかないよ」

 ほんとはさ、と若月は言う。

「玲香がキャプテンに目覚めて活躍するところ……わたしもすぐ側で見ていたかったけどな……」
「見てて……くれないの?」

 若月は寂しそうに笑う。

「わたしは、罪を犯したんだ……だから、一緒にいれない」
「罪?」
「この学園のルールを破った。玲香を守るために」

 結局守れなかったけどな、そう自嘲気味に言う若月に、桜井が詰め寄る。

「わからない、わからないよ……」
「ごめんな、玲香」

 若月は体を起こし、桜井の頭を抱え、その髪を撫でる。桜井は若月の指を感じながら、昨日の夜を思い出していた。

 昨日もこうして優しく頭を撫でてくれた。恥ずかしがるわたしを側において、髪を丁寧にシャンプーして……そう、本当にこんな感じ……。目を閉じるとその様子が浮かぶ。雨で濡れた体が、お湯に浸かった体のように温まってくる。耳をすませばシャンプーの泡の音まで聞こえてきそうだった。

 すべてが夢だったように思える。

 夢ならこのまま冷めないでほしい。

 辛い現実なんか、もう見たくない。

 桜井はその夢の中にいる気持ちで、若月と言葉をかわす。

 若月の体は、徐々に透明になっていく。

 しかし目をつぶった桜井はそのことに気づかない――。

「また遊びにおいで」
「いいの?」
「もちろん。またシャンプーしてあげるよ」
「やった」
「今度は違うシャンプーを試そうか」
「選んでくれる?」
「玲香に一番合うものをね」
「ありがとう」
「そのあとは一緒のベッドで寝ようか」
「うん」
「起きたら、朝ごはんを一緒に食べよう」
「わたし作れないよ」
「だいじょうぶ。全部やってあげるよ」
「食べたいの言っていい?」
「そのときにね」
「うん」
「ねえ玲香」
「なに?」
「……ひとつだけ、覚えておいてくれる?」
「ん?」
「約束できる?」
「わかった。忘れない」

 景色と同化した若月は、辛そうな表情で桜井を見る。

 そして、桜井の耳元に唇を寄せた。


「……、

玲香のこと、

好きだよ」
 

 いろいろと周りから言われてたことは知ってるよ。

 それでも、わたしのことを好きでいてくれて、ありがとう。

 わたしは消えるけど……

 玲香ならだいじょうぶ。

 みんながついてるから。


 でも本当は、玲香が先頭でがんばっているところ、

 一番近くで見たかったな。

 ……。

 さよなら。

 ……。





 桜井はゆっくりと目を開ける。

 雨に閉ざされた世界にいるのは、自分だけ。体に感じていた温かさはない。

 心のどこかで、こうなることはわかっていた。 

 でも、わたしには何もできなかった。

 消えていく友だちを、消えていく大切な人を、ただ見ていることしかできない。

 泣きながら会話をすることしかできないんだ。

 やっぱり……やっぱりだめだよ……。

 わたしには……あなたがいないと……。

 若月……。

 若月……!


 「――――――っ!!」


 絶叫は、誰の耳にも届かない。

 桜井はきつく自分を抱きしめる。

 言葉を胸に直接届かせるように、強く、強く。


 忘れない!

 若月のこと忘れない!

 絶対に!

 ぜったいに――っ!


 雨音が、

 誰かの笑い声のように響き、

 そして世界は、

 雨に沈んだ。
 




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 桜井玲香は教室でクラスメイトと笑っていた。他愛もない話。昨日のドラマで誰がかっこよかった、あの曲が好き、今度の休み何をする……そんな当たり前で普通の会話。

「なぁ」

 そこに西野七瀬が声をかける。

「どうしたの?」

 桜井が聞くと、西野は誰もいない机に手をかけた。そのまま桜井の瞳を見つめる。

「ん? その机がなに?」

 そこは誰も使っていない机だった。このクラスになったときから使い手はいない。それを疑問に思ったことはなかった。その机は、「そういう机」だと、最初から思っていた。今さら疑問は感じない。

「……この机はな」

 西野は外に目を向けながら言う。

「玲香を守ろうとした人が使っていたんやで」

 西野はそう言って、その場を後にする。桜井がどんな表情をしているか、確認したくはなかった。いや、確認しなくてもわかる。大きな目を白黒させて、言葉の意味を考えているのだろう。

 でも、どんなに考えてもわかるわけがない。

 もう、「あの記憶」は桜井にはない。

 桜井を誰よりも愛し、誰よりも守ろうとした彼女の存在は、桜井の心からすっぽりと消えている。

 そんな……そんな悲しい話、ないよな……。

 中庭にでる。見慣れた風景、そして――。

「あ、なぁちゃん」

 生駒里奈が笑顔で待っている。

「生駒ちゃん」

 ベンチに座る生駒の隣に腰かけると、西野は静かに言った。

「みんなが幸せでいられる世界があればいいのにな」
「またよくわからないこと言って……」
「……そしてその世界は、生駒ちゃんが作る」
「だからわからないよ」
「今は、な」

 そう、今は。

 いつか、生駒が中心に立ち、この世界の運命を変えることになる。

 そのとき生駒はどんな世界を作り出すのだろうか。

 西野は顔を上げる。晴れ渡る青空。そよぐ風に身を委ね――

「ちょ、ちょっとどうしたの?」

 生駒の肩に頭を乗せる。

「少しだけ……」

 背負わせるには、あまりに小さな肩。

 でももう、この少女が背負うことは、"決まっている"。

「生駒ちゃん」
「ん?」
「ごめんな」
「もー、全然意味がわからないよ」

 西野は、涙を拭う。

 その涙が誰に向けての者なのか、

 この世界でそれを知るのは、

 西野七瀬、ただひとりだった。





 ここは乃木坂学園。

 彼女たちの世界。

 彼女たちだけの、世界。




 ――ユメナラ、ココニアル。

 ――ダレノ、ユメ?





第2部【おいでシャンプー】 - 完-









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