【注意】
この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。また妄想成分が多大に含まれていますので、閲覧にはじゅうぶんご注意ください。

 20160617-01

 ぼんやりと目を覚ます。頬を触るとかすかに濡れていた。なぜか泣いていたらしい。

「……あ」

 はっと横を見る。いない。そこにいるはずの彼女がいない。

 俺は慌てて寝室を飛び出し、台所へと向かう。

「麻衣!」

 ドアを開けるなり叫ぶと、彼女は包丁を洗いながら怪訝そうな顔を向けてくる。

 でもそんなことは気にせず、勢いそのままに麻衣をきつく抱きしめた。

「ちょっと! 危ないって、包丁、ほうちょー!」

 彼女が胸の中で叫んでいるが、離すつもりはない。失いたくない。彼女がいるから俺がいる。彼女のいない生活なんて考えられない。

 抱きしめたまま、麻衣の耳元で決意を込めて言う。

「卒業なんてしないでくれ」

 その必死の懇願に、

「卒業って……何から?」

 麻衣は間の抜けた返事をする。

 遠くから、現実を主張するかのように、アラームの鳴る音が聞こえてきた。





 向かい合って朝食を食べる。朝はいつも麻衣が作ってくれた。朝食に限らず、炊事洗濯とすべての家事を彼女が担っている。本人は家事を苦に思ってはいないらしく、俺もそれに甘えてしまっていた。

 麻衣に怒られたことも、ほとんど記憶にない。周りからは、「あんなダメ男と同棲してもったいない」と言われているのは知っている。確かに俺は弁解のしようがないぐらいのダメ男だった。就職してもすぐに辞めてしまい、今は無職。同棲相手の麻衣の収入に頼っている。

 なんで俺みたいなのと……?

 それは誰もが思う疑問。俺も不思議でならない。でもそのことを聞くと、麻衣は決まってこう言う。

「好きだから、かな」

 嬉しい気持ちよりも、申し訳ない気持ちが先に立つ。

 早く仕事を見つけて、彼女と結婚しよう。

「それで卒業ってどういうこと?」

 俺のコップに水を注ぎながら麻衣は言う。咎めるような口ぶりではなく、どこかからかうようだった。

「……夢を見たんだ」
「夢?」

 塩分が控えられた味噌汁を一口すする。麻衣の気配りは料理の隅々にまで行き渡っていた。彼女が仲間内から「聖母」と呼ばれているのは知っている。中には、俺のようなダメ男まで養うという「悪い意味」でそう呼ぶやつもいるが、ほとんどは彼女のその包容力を指して言っている。

 聖母。人徳を極めた女性。彼女は慈愛に満ちている。一緒に生活しているうちに、それがよく分かった。本当に自分にはもったいなさ過ぎる。

「麻衣が卒業する夢」
「何から?」
「乃木坂46」
「え……?」

 麻衣は口元に手をあてて驚く。20歳を越えてなお少女のようなリアクションはいつも新鮮だった。

「乃木坂って、アイドルグループの? そこからわたしが卒業?」

 俺は頷いて、続きを話す。

「夢の中で、麻衣は乃木坂で活動するアイドル。俺はそれを応援するファン」
「その関係は、ちょっと寂しいね」

 アイドルとファンは付き合えない。それが暗黙のルール。麻衣が言うように、そんな関係だったらどれだけ辛い思いをしたのだろうか。彼女が普通の女性で良かったと心底思う。

「そうなんだよ。だから俺は麻衣を遠くから見ていることしかできない。大好きなのに決して手が届かない。その麻衣が卒業を発表した」

 夢の中でね、と彼女が付け加えてくれる。そう、これは夢の話。実際にそんな状況だったらと考えると胸が張り裂けそうになる。

「アイドルとファンを結ぶ線なんて薄い。どちらかが線を断てば、繋がりはなくなってしまう。卒業してしまった麻衣とは、もう会うことも話すこともできない」
「うん……」

 麻衣は悲しそうに俯くと、目を伏せたまま言う。

「あなたってそんなにアイドルのこと好きだった?」
「え?」
「すごく詳しいなって思って」

 言われてみれば、生まれてこの方、アイドルにはまったことはない。それなのになんでこんなスラスラとアイドルのことが語れるのだろうか。

「もしも、の話だけどね」

 麻衣と目線が合う。彼女は笑っていた。いつものように。でもなぜだろう、少しだけ、遠くに感じる。

「わたしが乃木坂にいたらね、卒業ってなかなか考えられないと思う。だってアイドルに興味がないわたしたちが知ってるぐらいのグループなんだから。そこを卒業するってすごく大きな理由があったと思うの」
「……そう、だな」

 味噌汁をすするも味がしない。まだ夢のなかにいるかのような浮遊感がある。

「でもそれでも卒業を決めたなら、ちゃんと前を向いて歩いていくよ。ほら、わたし、みんなに助けてもらって、励ましてもらってばかりだったから。後ろなんて向いたらみんなに申し訳ないもん」
「違う。いつも助けてもらっているのは、俺のほうなんだ」

 なんだ?

 どうして麻衣はこんなにも自分のことのように話しているんだ?

 それに俺は何をこんなに熱くなっているんだろう。麻衣は卒業なんかしない。どこにもいかない。ずっと側にいる。あくまでこれは想像の話。なのに……胸の奥が苦しくてしかたない。

 言葉は止まらなかった。まるで誰かに操られているかのように、口が勝手に動き続ける。

「寂しいんだ、すごく」
「もう会えなくなっちゃうからね」
「卒業なんてしてほしくない」
「うん」
「でもまいまいが決めたことに文句を言いたくない」

 ……まいまい? そんな呼び方、今までしたことがない。

 しかし麻衣は気にした様子もなく、笑顔のまま言葉を返してくれる。

「ありがとう」
「伝えたいことがあるんだ」
「聞くよ、全部」
「今までなら握手会で直接話せた。お礼を言えた。でももうそれはできない。どれだけ伝えたいことがあっても、直接届けることはできない」
「そうだね」
「辛いな、届けたい言葉を、届けられないのは」
「わたしで良ければ聞くよ。教えて」

 麻衣に促され、感情のままに、伝えたかったことを叫ぶ。

 それは俺自身の叫びでもあり、"本当の俺"の叫びでもあった。

 伝わったよ、きっと。

 そう微笑む彼女が、光の中に消えていくような気がした。










 目を開けると、知らない天井が広がっている。ベッドもいつもより質がいい。ここはどこだろう。俺は無意識につぶやきながら、隣を見る。麻衣はそこにいて、「また寝ぼけてるの?」と微笑みながら返してくれる――。

 ――はずだった。

 いない。麻衣がいない。シングルベッドでひとり寝ている。ホテル。そう、ここはホテルだ。なんでホテルに泊まっている?

 テーブルに散乱したビールの空き缶。ひとりで飲みきれる量ではない。

「くっ」

 思い出したかのように強烈な頭痛が襲ってくる。自分の吐き出す息が酒臭い。ここに散らばったビールをすべて飲んだのは自分らしい。

 ということは酔いつぶれて、そのまま寝てしまったのだろうか。

 朦朧とする意識のなか、部屋の片隅にあるゴミ箱が目に映る。その横にずたずたに切り裂かれたノートが落ちていた。ふらふらとゴミ箱の中を覗くとノートの切れ端が大量に捨てられている。誰かがノートを破り、それを1枚1枚破り捨てた。

 誰か……。

 俺は、泣いていた。涙が自然とあふれていた。"自分の手"で破り捨てたノートをいたわるように拾い上げ、抱きしめる。
 
 ここに書いてあったのは、まいまいとの思い出。昨日卒業ライブを行った深川麻衣と自分の記録だった。

 思い出したくない。しかし意識は否応がなしに記憶を呼び起こす。

 ライブを見終えた俺は、まいまいの卒業に放心状態となり、ひとりホテルに戻るなり、ビールを大量に飲んだ。とても平静ではいられない。アルコールに身を委ねなければ、この悲しみは乗り越えられなかった。しかし酒は混乱をさらに加速させる。

 まいまいとは数え切れないぐらいに握手会で話をした。イベントもできる限り参加した。その記録をすべてノートに書き留めていた。我ながら古いやり方だと思ったが、パソコンで保存しておくより、直筆で書いておくほうが暖かみがある。その暖かさこそ、まいまいからもらったものだった。

 卒業を受け止められなかった俺は、酔いに任せ、そのノートを破り捨てた。泣きながら破った。

 思い出があるから辛いんだ。思い出を消せばこの悲しみから逃れられる。

 1枚破るごとにノートから暖かさは消えていく。

 しかし思い出は、どんなにノートを破いても、消えることはない。

 そのあとの記憶は残っていなかった。酔いつぶれてそのまま寝てしまったのだろう。ベッドで寝ていたのが奇跡のようだった。

「そうか、だからあんな夢を……」

 夢の中身はおぼろげにしか覚えていない。しかしうっすらと、まいまいと同棲していた気がする。夢の中でも、あいかわらず俺はダメ人間だったな……。まいまいとの同棲が夢なら、俺のダメ人間っぷりも夢であってほしかったが、現実はそうはいかない。

 まいまいが卒業しようとも、時間はいつものように回り始める。

 俺はノートを開き、中を確認する。ほとんどのページが破られているが、数ページは無事に残っている。そこに、彼女が卒業を発表したあと、最後に握手をしたときの会話が記されていた。

 何度話しても敬語が取れない俺を、まいまいはいつも優しくリードしてくれた。


「本当にこれが最後になります。なんだか実感がわかなくて」
「わたしもだよ」
「でも本当に卒業なんですよね」
「うん、今までありがとう」
「これからも応援してます」
「一緒にがんばろうね」


 一緒にがんばろう……か。涙がノートに落ちる。文字がにじむ。

 乃木坂46の深川麻衣は卒業した。でも、自分たちの心にいつでもまいまいは存在して、励ましてくれている。

 記憶は消えない。まいまいの言葉、一緒に歩んだ道、別れの時間。すべては心の中にある。

 ふと、夢の中で聞いた言葉を思い出した。

「伝わったよ、きっと」

 そうだ、気持ちは伝わる。だからこそ、まいまいはあんなにみんなから愛された。彼女がみんなを本当に好きだったから、みんなも彼女の気持ちに応えた。

 しょせんアイドルとファンの関係なんて刹那だ。その刹那にある永遠の価値を、彼女は教えてくれた。短い時間で彼女からもらった、努力、感謝、笑顔は、一生の宝物になる。これからも俺はそれを糧に生きていく。

 もしかしたらあの切ない夢も、まいまいの力がもたらしたものかもしれない。

 なんだか清々しい気持ちになった。あいかわらず二日酔いで頭は痛い。それでも笑える。笑うことができる。

 本当はこの気持ち、直接伝えたかったんだけどな。夢の話なんてきっと笑いながら聞いてくれたはずだ。

 ノートを見ながら思う。しかしその機会はもうない。

 だったら……。

 俺は立ち上がり、ベッドに飛び込む。そして仰向けのまま、天井に向かっておもいっきり叫ぶ。

 気持ちは伝わる。だから叫び続ければ、この想いもいつかどこかで――。










 世界は偶然でできている。

 この世に生まれてきたことも、たくさんの人に出会ったことも。

 そしてこの先、出会う人たちも。

 すべては偶然によって仕組まれる。

 だったら――。
 
 未来にどんな偶然があっても、おかしくない。


「深川麻衣さん、ですか?」
「はい。そうですよ」
「あ、あの、あの……」
「あ、いつも握手会に来てくれてたよね?」
「覚えてくれてたんですか!」
「もちろん」
「卒業ライブ、すごくよかったです!」
「きてくれたんだ、ありがとう」
「ずっと……」
「うん」
「ずっと伝えたかったことがあるんです!」


 もしまた偶然のいたずらが起きるなら。

 夢で、現実で、叫んだことを。

 最後伝えられなかったことを。

 心からの言葉を、あなたに届けます。



「出会ってくれて、ありがとうございました!」



 
 20160617-02