【注意】

この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。また妄想成分が多大に含まれていますので、閲覧にはじゅうぶんご注意ください。

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――これは、わたしたちが、わたしたちを見つける、わたしたちの物語。


小説<乃木坂>

第3部【走れ!Bicycle】


第2話「海流の島よ」 


※目次はこちら 





 樋口日奈は、教室を小走りで去っていく齋藤飛鳥を笑顔で見送る。

「あれ、飛鳥は?」

 教室を駆け回る和田まあやを見て笑っていた川後陽菜が、樋口の前の席に座る。

「みなみを誘いに行ったよ」
「みなみ? 星野みなみ?」
「うん。サイクリングに。みんなで行ったほうが楽しいでしょ?」
「それはそうだけど……」

 川後は樋口の机に肘をつき、その上に顔を乗せた。樋口はあくまで穏やかに尋ねる。

「みなみと一緒は嫌?」
「ううん。そうじゃない……」

 歯切れの悪い川後は、そのままうーんと唸り、樋口を下からのぞきこむ。

「だってさ、みなみ、わたしのこと嫌いだもん」
「そんなことないよ」

 樋口が即座に否定した。でも、と反論しようとした川後の唇に人差し指をそっと押しあてる。

「みなみはね、誰も嫌ってないよ。ただ不器用なだけ」

 樋口は目線を教室の奥へと向ける。今は誰も座っていない机。その主を思いながら、言葉を続ける。

「みなみってすごくかわいいから。きっと何もしなくてもみんな好意を寄せてくれる。だから愛情表現がわからない。もしかしたら、本当の好きや、本当の嫌いを知らないのかもね」

 そう言って樋口は、川後の頭を抱きしめ、胸に埋める。

「ちょ、ちょ、ひなちま!? なにしてんの!」

 両手をばたばたさせる川後を、樋口は離さない。

「大好き! だーいすき!」
「ぐるじいっで――っ!」

 川後は樋口のロックを外すと、真っ赤な顔で樋口に指を突きつける。

「殺す気か!」
「え、わたしは愛情表現をしただけだよ?」
「強過ぎるわ! その表現が!」

 ぜーぜーと息を切らす川後の肩を誰かが叩く。ばっと川後が振り向くと、教室を駆け回っていたはずの和田が口に手をあて、いやらしい笑みを浮かべている。

「見ちゃったー。見ちゃったー」
「なにをよ?」

 川後が気色ばんで言うと、和田はぱっと離れて教室に響く声で叫ぶ。

「陽菜ちゃんがひなちまにセクハラしたぞー! みんな逃げろー!」
「なんでわたしが悪者なのよ! まあや、こら!」
「きゃー! セクハラされるー!」
「おまえは小学生か!」

 逃げ回る和田を川後が追いかける。その様子を楽しげに見ていた樋口は、大きな声で和田に問いかける。

「ねえ、まあや」
「なーにー?」
「みなみのこと、好き?」

 和田はその場で急に立ち止まり、川後がその背中に激突した。顔をしかめる川後と違って、和田は満面の笑みで答える。

「大好きだよ!」

 樋口は、うん、と静かに頷く。


 ねえ、みなみ。わたしみたいに、まあやみたいに愛情表現できたら、もっとすばらしい世界があるんだよ。

 みなみはきっと、周りのことを自分に都合の良い人ばかりと思ってる。だから心を開かない。笑顔を見せても、心の底では笑ってない。いつも心で何かに反抗してる。その何かがわからないから、ずっと苛立っている。その苛立っている姿すら、周りに「かわいい」ともてはやされる。

 本当はわかってほしいんだよね、本当の気持ちを認めてもらいたいんだよね。

 でも、だいじょうぶだよ、みなみ。

 今、あなたと同じ悩みを抱えた人がいくから。

 だから、あとは――。


 樋口は天井を見る。その奥で向かい合うふたりに想いを馳せて。


 みなみが気づくだけよ。

 みんなに愛されているって。





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 風が吹く。スカートがたなびく。揺れる髪が視界を遮る。星野みなみは、うっとうしい髪をかきわける。目の前の齋藤飛鳥も同じように髪を手で抑えていた。

 星野は風がやんだと同時に、飛鳥に言う。

「どういうこと?」
「わからないの?」
「さっぱり」
「バカね」
「なっ!?」

 星野の顔が一気に紅潮する。

 これだ、わたしは飛鳥のこういうところがだいっきらいなんだ!

 星野自身、今まで甘やかされてきた自覚はある。でもそれは自分が望んだわけではない。自然と周りが甘やかしてくれる。笑えばみんなが笑ってくれる。冷たくすれば心配してくれる。みんな自分の思い通りに動く。

 でも飛鳥は、今まで接してきたどのタイプとも違う。思い通りにいかない。甘やかしてもくれない。真っ向から言葉をぶつけてくる。うっとうしい。視界を遮る髪のようにうっとうしい。

 星野は飛鳥に叫んだ。

「そんなバカなわたしを誘う飛鳥はもっとバカでしょ!」
「なんだ、誘われてるのわかってるんじゃん」
「そういうことじゃないの! なんでわたしを誘うのよ! わたしのこと嫌いでしょ!」
「うん、だいっきらい」

 飛鳥は淡々と言って、少しだけ口角を上げる。

「みなみだってわたしのこと嫌いだよね?」
「あたりまえでしょ!」
「そ、あたりまえ。わたしはみなみが嫌い、みなみはわたしが嫌い」

 でもさ、と飛鳥は笑顔を見せた。

「わたしはあなたのこと、友だちだと思ってる」
「え?」

 意外な言葉に、星野は目を丸くする。友だち? 嫌いなのに?

「なに言ってるの?」
「そのままの意味よ」
「友だちって?」
「そう。友だち」

 自分と飛鳥を現す言葉として、もっとも適していないと思った。友だち。

 今まで自分を甘やかしたり、褒めてくれた人を友だちと思ったことは一度もない。みんなわたしを見ていないから。ただわたしの外見だけを見ている。そんな付き合いを増やしたところで心は満ちない。だからといって、まるで甘やかしてくれない、むしろ厳しくあたってくる飛鳥を友だちとも思えなかった。

 睨むように飛鳥を見ながら、星野は考えを巡らす。一体、飛鳥は何を考えているのだろうか。

「もし、わたしが誰かに傷つけられていたら、みなみはどうする?」

 また意味がわからないことを……。星野は答えずに飛鳥を見た。

 飛鳥は強い口調で言葉を続ける。

「きっとみなみは、全力でわたしを助けてくれる」
「なんで助けなくちゃいけないの、飛鳥のこと」
「友だちだから」
「わたしは飛鳥を友だちだなんて思ってないもん」
「今は、ね」
「ずっと!」

 飛鳥はみなみの毒気を抜くように、ふっと肩の力を抜く。

「もし逆の立場だったら、みなみが傷つけられていたら、わたしは全力で助けるよ」

 友だちだからね、そう言って飛鳥はみなみを見る。

「なんでよ……わたしのこと、嫌いなんでしょ?」
「嫌いだよ。でも友だち」
「だからわたしは――っ!」
「みなみは意地っ張りだから。意地っ張りで、強がりで、でも、弱虫で、本当は誰よりも寂しがり屋」
「決め付けないで!」
「わかるんだよ、みなみのこと」
「なんでよ」
「同じ問題児だからかな」

 え――。

 みなみの思考が一瞬止まる。こんな会話、飛鳥としたことがない。ないはずだ。でも今、確かに感じた。


 ”今の言葉、前に聞いたことがある。飛鳥の口から。"


 いや、言葉だけじゃない。このやりとり。屋上という場所。記憶を探る。しかし記憶のどこにもない。記憶じゃない部分、心の中のブラックボックス。自分の内部にありながら、自分では開けることのできない領域が疼いている。

「なーんてね」

 急にそう言って飛鳥は踵を返すと、屋上の出入り口へと向かう。

「来たいなら来ればいいし、来たくないなら来なければいいよ。わたしはどっちでもいいし」
「なによ、急に」
「別にみなみが来ても来なくてもどっちでもいいって言ったの」

 それとも。飛鳥がいじわるな口ぶりで続ける。

「もっと誘ってほしかった?」
「はぁ? そんなわけないでしょ!」

 星野は先ほど感じた違和感を忘れて、飛鳥の背中に言う。

 なんなのよ! 

 友だちって言ったでしょ!

 わたしは友だちだなんて思ってない。

 けど!

 友だちなら、

 もっと誘ってくれても――。

 ――っ!

「バカ!!」

 みなみは叫ぶ。飛鳥は片手をあげて屋上から去っていく。

 バカ……バカなのは……。

 拳を握り締め、みなみはその場に立ち尽くす。

 バカ……自分のバカ……もっと誘ってほしいなら……そう言えば……。

 風が吹いた。髪が乱れる。うっとうしい気持ちはもう、湧いてはこなかった。





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 飛鳥は屋上を出て、その扉に背中を付ける。苦笑を止めることができない。右手でその自分の顔をつかむ。

 なにやってんのよ、わたし……。

 みなみとの会話を思い出す。途中まではうまくいっていた。もう一歩できっとみなみは誘いに乗ってくれただろう。今は渋々でもいい。でもみんなと一緒に自転車で走れば、きっと楽しいはずだ。その確信があった。

 けど最後のところで、急に心と言葉が離れた。心は誘うつもりが、言葉は突き放している。

 天邪鬼。

 自分の中に眠る鬼を、飛鳥は握りつぶそうとする。しかしもうその鬼はどこにもいない。心の奥底に隠れてしまった。

 今さら引き返して、もう一度誘うこともできない。みなみの気持ちもささくれ立っているだろう。

 しかたなく飛鳥はクラスへと戻る。

 廊下を歩いていると、前から二人組の上級生が歩いてきた。見るからに仲のよさそうな雰囲気。静かな廊下にふたりの声が響く。

「絶対に気持ちいいよ! さいっこーの風を感じられるから!」
「わかったって。何度も言わなくたって万理華のこと信じてるから」
「嘘だー! どうせたいしたことないって思ってるでしょ? 寧々の顔を見れば、思ってることわかるんだから」
「それじゃ、わたし今、なに考えてる?」
「うーん……万理華はうるさい」
「正解」
「ちょっとー!」
「冗談だよ、万理華がうるさいなんて思ったことないから」
「ほんと?」
「やっぱり嘘」
「寧々ー!」
「ほら。早く屋上行くよ」

 すれ違いざま、寧々と呼ばれていた背の小さい上級生が会釈をした。もうひとりは飛鳥の存在など目に入っていないようだった。

 飛鳥は振り返り、ふたりの背中を見る。

 あのふたり、屋上に行くんだ……。

 顔は見えない。でも背中から確かに楽しそうな雰囲気を感じる。ふたりでいることを心から楽しんでいるようだった。

 その背中に、自分と星野を重ねてみる。

 手を繋いで、笑い合って、一緒に何かを成し遂げられたら――。

 なんで自分はこんなにみなみが気になるんだろう。似たもの同士だけでは片付けられない衝動がある。大嫌いなのに、大好き。自分の感情がわからない。わからないけど、ひとつだけわかること。

 みなみは大事な友だち、仲間だ。

 一定の方向に流れる海流のように、気持ちが交錯しない。

 わたしの天邪鬼のせいで――。

「あーすか!」

 突然話しかけられ、我に返る。

 視線を前に向けると、クラスメイトの和田まあやが立っていた。

「みなみと話終わった?」
「え? ああ……うん」
「みなみ、これないんだ。バイシクウゥ」

 沈んだ声の和田に、飛鳥は小さく頷く。

「まだわからないけど……きっとこないかな」

 わたしがいるから、と心で付け加える。

「そっか……」

 和田は暗い顔をしたが、すぐにぱっと明るくなる。

「それじゃわたしが誘ってみるよ。うん。わたしが誘えばだいじょうぶ! だってわたしはまあやだからー!」

 そう言って、和田は廊下を走り出す。飛鳥が止める間もなく、すでにその姿は屋上の階段へと消えていった。

「ほんと嵐みたいな子ね……」

 でも、ストレートな感情をぶつけたほうが、今のみなみには良いのかもしれない。

「あれ」

 ふと、疑問がよぎる。

 和田の言葉。


 ――みなみ、これないんだ。

 
 なんで断定できたんだろう。まるで、最初からみなみの答えがわかっているようだった。

 確かに飛鳥の性格を考えれば、みなみを誘ったところで、断られる可能性は高い。互いが互いを嫌っているのは周知の事実であり、加えてふたりとも意地っ張りだ。

 でも和田は、そこまで考えられるのだろうか。

 良くも悪くも天然で、底抜けに人が良い。疑うことを知らない。仲の良い樋口は、「まあやは悪い人に騙されそうだよね」といつも心配している。

 そんな和田がもし、「これないんだ」と沈むなら、それは事実を知っているからだ。もし知らなかったら、「これるよね!」「一緒に行けるよね!」と前向きな言葉を発するはず。はじめから断定でネガティブなことは口にしない。

 和田はどこまでも素直だ。ありのままの事実に、ありのままの感情を吐露する。

 だから、あの暗い表情をした和田から導かれる結論は――。

「まあやは、わたしたちの会話を知っていた……」

 あり得ない。そう、それはあり得ない。だってあそこに和田はいなかったのだから。

 飛鳥は和田の消えた階段を見つめる。その階段を上れば、屋上の入り口。

 背中がざわつく。

 今ごろ、みなみとまあやは何を話しているのだろう。あの上級生の二人組もそこにいるはずだ。

 
 別にみなみとまあやがどんな会話をしたって、自分には関係ない。

 だってみなみは、わたしを嫌いだって。

 わたしもみなみを嫌い――。

 
「――またそうやって」

 飛鳥は自嘲気味に笑い、拳を心臓の位置へぶつける。

 鬼なんかに、負けるか。

 異次元への入り口のように待ち構える階段へと、飛鳥は一歩を踏み出した。
 




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