この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。


第5回ノギザカッション小説コンテスト
エントリーNo1

「ありがとうございました」ではなくて。
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希望休に寛容な僕の会社は、その日「どうしても見たい舞台があるんです!!」という理由で出したシフト休みを、何の事も無く受け入れてくれた。もっとも、翌日の日曜日は「しっかり出勤しろよ」となったので、余韻に浸りながらのお酒を満喫することまでは叶わなさそうだが。

僕は決して熱心に彼女に会いに行っていたわけではない。なんだかんだ言って、彼女の目を見て話が出来たのは両手の数に余る程度である。海ひとつ隔てるこの街に来るのは容易だが、海を隔てない大都市に行くのはなかなかどうして容易ではない。その距離感が、そっくりそのまま彼女と自分の距離感だと何処かで感じるのは、流石に自意識過剰がすぎるとも思うが、そう思ってしまう何かが彼女にはある。

駅前のアーケードを極上のクロワッサンと40円にしては上出来すぎるオムレットをぶら下げ歩き、開場までの暇をどう潰すか思案していると、いつの間にかアーケードを外れて、真っ赤な24時間ラーメン屋に来てしまった。

狭いカウンターでラーメンをすすっていると、背後に気配がしたので、少しだけ前に出る。肩掛けカバンに少し当たってしまったその気配から、恐ろしく透き通った声で「ありがとうございます」と声がした。

その声の主に心当たりがなかったわけではない。

けれど、確証は持てない。

秘伝のたれを入れなかったのに、妙に汗をかいて店を出た。

拍手は鳴りやまなかった。

正確に言うと、鳴り止ませなかった。周りも、僕も、叩く手を止めなかったから。
けれど僕の視線は一点で止まったままだった。金髪も滅茶苦茶に可愛い彼女から目が離せなかった。

ふと、彼女がこちらを見据えた。
僕の方、ではなく、僕の肩掛けカバンの方をじっと見つめて、少し驚いた後に、微笑んでいた。
そのとき、僕の中で、あの恐ろしく透き通った声が、彼女の唇とリンクしていた。
「ありがとうございます」

そう言いたかったのは、僕の方だけれど。この瞬間も、今までも、そしてこれからも。
衛藤美彩さん、出逢ってくれて、ありがとうございます。

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