被葬者:陽成天皇(第57代天皇)
陵 名:神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)
陵 形:八角墳
所在地:京都府京都市左京区浄土寺
最寄駅:蹴上駅(京都市営地下鉄東西線)
探訪日:平成15年(2003年)12月2日、他数回
蹴上駅の北方、真如堂(浄土寺)の西側にあります。また、近くには後一条天皇陵があります。
なお、左京区の大体の陵墓の最寄駅を蹴上駅と書いているのですが、これは地図上で見たパッと見の距離であるため実際はバス等を利用した方がはるかに近いと思います。(京都はバスの本数多いですし縦横無尽に走ってますからね。)
ちなみに、私は京都市内の平地の陵墓は大体自転車で回っていたため、最寄りのバス停といわれても「?」となります・・・。
陽成天皇
・第57代天皇
・御 名:貞明親王(さだあきら)
・生没年:貞観10(869)年~天暦3(949)年
・在 位:貞観18(876)年~元慶8(884)年
・続 柄:(父)清和天皇、(母)女御藤原高子
3歳で立太子、9歳の時に父清和天皇の譲位を受けて即位した。
即位後間もなくは父上皇、母高子、摂政藤原基経が共同で政治を見ていたが、父上皇が崩御すると基経と天皇は不和となったらしく、基経は朝廷への出仕を拒否し続けた。ただ、これは天皇と基経の直接の不和ではなく、背景には母高子と基経の対立があったとされる。
そのような中、天皇の乳母紀全子の子である源益が何者かに殴打され撲殺されるという事件が起きた。宮中での撲殺事件など前代未聞の事態であったため、天皇は基経に退位を進められ、2ヶ月後に大叔父の時康親王(光孝天皇)に譲位した。
上皇となってからは、歌会等を開きながら政治にかかわることなく長い余生を過ごした。また光孝天皇の皇子である宇多天皇や、その皇子の醍醐天皇が即位すると「あれは以前我に侍従として仕えていたものではないか」と皮肉をもらしたという(宇多天皇は即位前は臣籍降下し源貞省と名乗っており、醍醐天皇も生まれたころは源氏)。
在位8年、上皇年数65年、宝算80歳。
この天皇は、暴君伝承があり若い時から性格が苛烈であったみたいです。三種の神器の天叢雲剣を抜いてみたり、小動物を殺したり、乳母を平手打ちににしたり、宮中で馬を乗り回したりと・・・。そのため上記の源益撲殺事件に関与しているのではと噂が立ったほど。
しかし、これは次代の光孝天皇系を正当化させるために歴史書(三代実録等)にそのように記したという説もあり実際のところはどうであったかは疑問の残る所ではあります。古代の継体天皇系を正当化させるために仁徳天皇系最後の武烈天皇を暴君として記している例もありますからね。
ちなみに上皇年数65年というのは歴代天皇(上皇)の中で最長の記録であり、また宝算80歳というのも歴代天皇3位(存命中の今上陛下を除く)のかなり長寿の天皇だったんですね。
マップ
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陵 名:神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)
陵 形:八角墳
所在地:京都府京都市左京区浄土寺
最寄駅:蹴上駅(京都市営地下鉄東西線)
探訪日:平成15年(2003年)12月2日、他数回
蹴上駅の北方、真如堂(浄土寺)の西側にあります。また、近くには後一条天皇陵があります。
なお、左京区の大体の陵墓の最寄駅を蹴上駅と書いているのですが、これは地図上で見たパッと見の距離であるため実際はバス等を利用した方がはるかに近いと思います。(京都はバスの本数多いですし縦横無尽に走ってますからね。)
ちなみに、私は京都市内の平地の陵墓は大体自転車で回っていたため、最寄りのバス停といわれても「?」となります・・・。
陽成天皇
・第57代天皇
・御 名:貞明親王(さだあきら)
・生没年:貞観10(869)年~天暦3(949)年
・在 位:貞観18(876)年~元慶8(884)年
・続 柄:(父)清和天皇、(母)女御藤原高子
3歳で立太子、9歳の時に父清和天皇の譲位を受けて即位した。
即位後間もなくは父上皇、母高子、摂政藤原基経が共同で政治を見ていたが、父上皇が崩御すると基経と天皇は不和となったらしく、基経は朝廷への出仕を拒否し続けた。ただ、これは天皇と基経の直接の不和ではなく、背景には母高子と基経の対立があったとされる。
そのような中、天皇の乳母紀全子の子である源益が何者かに殴打され撲殺されるという事件が起きた。宮中での撲殺事件など前代未聞の事態であったため、天皇は基経に退位を進められ、2ヶ月後に大叔父の時康親王(光孝天皇)に譲位した。
上皇となってからは、歌会等を開きながら政治にかかわることなく長い余生を過ごした。また光孝天皇の皇子である宇多天皇や、その皇子の醍醐天皇が即位すると「あれは以前我に侍従として仕えていたものではないか」と皮肉をもらしたという(宇多天皇は即位前は臣籍降下し源貞省と名乗っており、醍醐天皇も生まれたころは源氏)。
在位8年、上皇年数65年、宝算80歳。
この天皇は、暴君伝承があり若い時から性格が苛烈であったみたいです。三種の神器の天叢雲剣を抜いてみたり、小動物を殺したり、乳母を平手打ちににしたり、宮中で馬を乗り回したりと・・・。そのため上記の源益撲殺事件に関与しているのではと噂が立ったほど。
しかし、これは次代の光孝天皇系を正当化させるために歴史書(三代実録等)にそのように記したという説もあり実際のところはどうであったかは疑問の残る所ではあります。古代の継体天皇系を正当化させるために仁徳天皇系最後の武烈天皇を暴君として記している例もありますからね。
ちなみに上皇年数65年というのは歴代天皇(上皇)の中で最長の記録であり、また宝算80歳というのも歴代天皇3位(存命中の今上陛下を除く)のかなり長寿の天皇だったんですね。
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