新潟青陵大学大学院教授(社会心理学)/スクールカウンセラー 碓井真史氏の富岡八幡宮殺人事件に纏わるコメントより引用(2017/12/15(金))
□自分の意見は絶対に正しく、過激な行動(犯罪行為等)も、自分の主張や要求もきっと通るだろうという妄想に近いような歪んだ信念を感じます。死を覚悟した複数殺人者の多くが 、次のように人です。本来優秀ですが強い疎外感、被害者意識、不公平感を持ち、その結果として判断力がゆがみ、人生は生きる価値がないと考え、他人を殺し、自分も死にます。遠因には、現代社会の人間関係のもろさがあるでしょう。
拒絶・追放・絶縁を良しとするやり方の弱点はこれなんだよね。
「行動に対するブレーキとなる他人がいなくなる」「実際に当人の意見が絶対に正しくなり、過激な行動も、当人の主張や要求も実際に通るようになりかねない」という。
「富岡八幡宮殺人事件」のケースの場合、その結果、誰も犯人の行動を止める人が居なくなり、犯人の敵がすべて世界から消えた上で物語は完結したわけだから。
問題があったり、迷惑行為をしているから、ルールやマナーを守らないからと言って、つまはじきにするというのは、更正・教育・矯正と真逆のやり方をするからこそ、行動に対するブレーキがなくなってしまって、とうとうあんな結果になったというのが目に見えて…いえ、目で見る必要すらないがごとくわかってしまいます。
この事件は実際に犯人の過激な行動も、主張も要求も通ってしまっている。行為や結果の上では、全部計画通りなわけだから。
生路としては犯人は自分の死後の神社への影響までを見越して「有言実行」したのではないだろうかと思う。
刑罰で止める事も難しいわけだから、犯行前に心の健康と柔軟性の回復させないといけないと思うのは本当…同感…。
『「見張る」のではなく「見守る」が必要』『犯罪予備軍の人を、周囲が見守る』…その通りだと思う。たとえ、社会的なルールやマナーを守らない人や、幾度も注意しても改めないような人であったとしても…同じことは言える。
はっきり言って、例え向こうが最低限の社会的なルールやマナーを守れないのだとしても、縁を切るとか、話そうとしないとか、そういう矯正しようとする事や、見守る事を放棄する事をしたら、私刑と同じですね。
何故なら、殺意を持っている人に実際に殺人を犯させるにはどうしたらいいかと言うと、だれもその人に話しかけなければいいんだから。…いや、他の犯罪や、ネット上での荒らし行為にも同じことは言えますね。
たぶん…体罰の副作用と限界ってのは…そのまま私刑行為にも当てはまる。
ぶっちゃけ生路としては、要求通り宮司の座を差し出すとまではいかずとも…と思うぐらい、犯人の方にも同情してしまう。
「神社の近隣住民からは冷ややかな反応があった」…明らかに被害者側の父親や姉からの、加害者の放蕩弟に対する村八分めいたやり方に失望されているのもあるよね…これ。
犯人は父や姉の自分という家族を大事に出来ない心の中の鬼に付けいり、犯行を成し遂げたのではないでしょうか?と生路は思います。
世間的には犯罪を犯したら負けとされるけれど「仮に犯罪を犯す者に勝ちと呼べそうな結果があるとすれば何か?その勝ちに導くカギは何か?」そう考えてみれば何処に犯罪の温床・遠因があるのか、どうやってそれを解決すれば良いのか一番解りやすくもある。
つまりは発想を逆転させないと何処に犯罪の温床・遠因があるのか、どうやってそれを解決すれば良いのか気付くのが難しいと思います。
この生路の考察が何か間違っていると思う事があるのでしたら、この記事を見てくださった皆様の方のリアル知人にも相談してみてください。生路にはこの事象からはこれ以上の考察は出来ませんので。
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□自分の意見は絶対に正しく、過激な行動(犯罪行為等)も、自分の主張や要求もきっと通るだろうという妄想に近いような歪んだ信念を感じます。死を覚悟した複数殺人者の多くが 、次のように人です。本来優秀ですが強い疎外感、被害者意識、不公平感を持ち、その結果として判断力がゆがみ、人生は生きる価値がないと考え、他人を殺し、自分も死にます。遠因には、現代社会の人間関係のもろさがあるでしょう。
拒絶・追放・絶縁を良しとするやり方の弱点はこれなんだよね。
「行動に対するブレーキとなる他人がいなくなる」「実際に当人の意見が絶対に正しくなり、過激な行動も、当人の主張や要求も実際に通るようになりかねない」という。
「富岡八幡宮殺人事件」のケースの場合、その結果、誰も犯人の行動を止める人が居なくなり、犯人の敵がすべて世界から消えた上で物語は完結したわけだから。
問題があったり、迷惑行為をしているから、ルールやマナーを守らないからと言って、つまはじきにするというのは、更正・教育・矯正と真逆のやり方をするからこそ、行動に対するブレーキがなくなってしまって、とうとうあんな結果になったというのが目に見えて…いえ、目で見る必要すらないがごとくわかってしまいます。
自分の都合から見て迷惑という観点からではなく、相手の気持ちに沿う事が必要と私は考えています。
それをしていれば未然に防げたと感じたり、それと真逆の対応をしたからこそ残念なことになったと感じる事件の良い例です。(「社会的絆」で検索した結果も参照)
『強い思いから「周到な計画」を立てることもある。ただそれはどこかゲーム的で、行為の実行までは計画的でも、その後の自分の人生など考えていないことも多い。』…だが…
その結果「怨霊となりたたり続ける」という彼の宣言通り、参拝客も周辺住民からの評判も大幅に下がる事となってしまっている。『強い思いから「周到な計画」を立てることもある。ただそれはどこかゲーム的で、行為の実行までは計画的でも、その後の自分の人生など考えていないことも多い。』…だが…
この事件は実際に犯人の過激な行動も、主張も要求も通ってしまっている。行為や結果の上では、全部計画通りなわけだから。
生路としては犯人は自分の死後の神社への影響までを見越して「有言実行」したのではないだろうかと思う。
刑罰で止める事も難しいわけだから、犯行前に心の健康と柔軟性の回復させないといけないと思うのは本当…同感…。
『「見張る」のではなく「見守る」が必要』『犯罪予備軍の人を、周囲が見守る』…その通りだと思う。たとえ、社会的なルールやマナーを守らない人や、幾度も注意しても改めないような人であったとしても…同じことは言える。
はっきり言って、例え向こうが最低限の社会的なルールやマナーを守れないのだとしても、縁を切るとか、話そうとしないとか、そういう矯正しようとする事や、見守る事を放棄する事をしたら、私刑と同じですね。
何故なら、殺意を持っている人に実際に殺人を犯させるにはどうしたらいいかと言うと、だれもその人に話しかけなければいいんだから。…いや、他の犯罪や、ネット上での荒らし行為にも同じことは言えますね。
たぶん…体罰の副作用と限界ってのは…そのまま私刑行為にも当てはまる。
ぶっちゃけ生路としては、要求通り宮司の座を差し出すとまではいかずとも…と思うぐらい、犯人の方にも同情してしまう。
「神社の近隣住民からは冷ややかな反応があった」…明らかに被害者側の父親や姉からの、加害者の放蕩弟に対する村八分めいたやり方に失望されているのもあるよね…これ。
犯人は父や姉の自分という家族を大事に出来ない心の中の鬼に付けいり、犯行を成し遂げたのではないでしょうか?と生路は思います。
世間的には犯罪を犯したら負けとされるけれど「仮に犯罪を犯す者に勝ちと呼べそうな結果があるとすれば何か?その勝ちに導くカギは何か?」そう考えてみれば何処に犯罪の温床・遠因があるのか、どうやってそれを解決すれば良いのか一番解りやすくもある。
つまりは発想を逆転させないと何処に犯罪の温床・遠因があるのか、どうやってそれを解決すれば良いのか気付くのが難しいと思います。
この生路の考察が何か間違っていると思う事があるのでしたら、この記事を見てくださった皆様の方のリアル知人にも相談してみてください。生路にはこの事象からはこれ以上の考察は出来ませんので。
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