宇喜多秀家
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宇喜多 秀家(うきた ひでいえ、1572年~1655年12月17日)は、戦国時代の武将・大名。豊国大明神国泰祐松院殿霊山俊龍大居士木下猿の寵愛を受けて育ったボンボンのお坊ちゃまである。お坊ちゃまだが精悍で屈強なガチムチの好青年。武人肌の家臣が大量に出奔し人材不足に陥りながらも関ヶ原で一番奮戦した人。備前宰相、備前中納言、海猿、おきゃ~まのイケメン、戦国のトビウオ、とも呼ばれる。現在、歴女に注目されている人物である。BL同人が世に出回る日も近い。
人物・来歴[編集]
生誕[編集]
- 元亀3年(1572年)、尼子経久、毛利元就と並び中国地方三大謀将の一人に数えられる、備前国主の宇喜多直家の次男として生まれる。産まれてすぐにバタ足を見せるとう、将来の大水泳家としての片鱗を見せていたという。
- 親父は血縁者を騙して殺したりするなど筋金入りのワルだったが、秀家がまだ幼少の頃死んだので秀家はその悪影響を受けずに済んだ。
青春時代[編集]
- さて、当初毛利連合に属していた宇喜多直家であったが、織田信長の勢力が中国地方に拡大、毛利に付いたままか、織田に転がるか、運命の決断を迫られる状況となり、死に際になり織田に付くことを決断、中国地方攻略担当の羽柴秀吉に与力することとなった。
- 直家親父の死後、美貌の持ち主であった実母は、エロザルの餌食となってしまう。しかしこのことが秀家にとってトラウマとなることはなかったようだ。いつのまにか秀吉の猶子となる。
- その後、新しいオヤジとなった秀吉の薫陶を受け(秀吉に毒抜きされながら養育されたとも)、秀家と宇喜多家は、彼の走狗となる。育ちがよかったので顔つきも端麗で、肖像画に見える秀家は、実際は小太りの冴えない醜男だった浅井長政などとは比べ物にならないほどのイケメンである。秀吉に衆道のケがあったら、掘られていただろう。
- 秀吉の元、秀家はケコーンする。お相手は、秀吉をして「三国一の男に嫁がせよう」「女であるのが勿体無い」とまでいわしめた、同じ秀吉の養女である豪姫。豪のオヤジは信長と衆道の関係にあった美丈夫の前田利家、姉はエロザルの毒牙にかかるほどの美人であったことから、豪本人も美人だったに違いない。しかも義理とはいえ、姉弟の関係。まさに美男美女姉弟夫婦の誕生である。ウラヤマケシカラン!!
- 義理でありながら秀吉から受けた寵愛ぶりは、秀吉の正室の実の甥でありながら(むしろそういう血筋であったが故に)他家に飛ばされちまった、同じく秀吉の元猶子、小早川秀秋の激しい逆恨み、嫉妬を買うことになる・・・
慶長・弘安の役[編集]
- 朝鮮出兵では西国の諸大名が渡海することとなり、秀家は宇喜多水泳兵団を率いて意気揚々と侵攻する。彼自身が川を泳いで斥候に出向くこともあったという。
- 役からの帰国後、これまで秀吉のパシリとなりさらに朝鮮出兵の戦費が重なりすぎて、宇喜多家は財政危機に見舞われる。ここで思い切ってリストラを敢行しようとしたところ、抵抗勢力の重臣たちによる猛反発を食らう。更に、本人は帰依しなかったが、キリシタンだった嫁の影響もありキリスト教に興味を抱き、ハードキリシタン家老にやたら肩入れした結果、仏教徒であった武人肌の他の家老達を激昂させていたことも相まって、彼らを家康に引き抜かれ宇喜多水泳兵団の水泳力ガタ落ちというマヌケな結末に至ってしまった。しかし、幅を利かせていた武人肌の連中が去った事で新たな人材の発掘に着手せざるを得なくなったお陰で、明石掃部守などの優秀な人物にめぐり合え、その後の関ヶ原では奮戦した。
豊臣政権五大老の一人[編集]
- 秀吉は遺言として、秀頼が成人して立派な独裁者になるまでの間、政権を運営するものとして豊臣家の家老衆5人からなる五奉行、諸大名の内の実力者5人からなる五大老の制を取り決めた。そして秀家は若造&たかが50万石の分際で徳川家康や前田利家と一緒に五大老に名を連ね、一部の大名(特に秀俊とか秀秋とか)からは嫉妬の混じった反感を買ったが、その他大多数の人間からはイケメンだったので許された。
関ヶ原の戦い[編集]
- 豊臣家を蔑ろにする家康の専横に大いに反感を持つようになる。前田家を屈服させた家康が次は上杉に言い掛かりをつけ直江状にブチ切れたフリをして、諸大名を率いて会津討伐に向かう。会津討伐に従うことを名目に諸大名が軍勢を結集しており、家康は遠く関東の果てにある絶好の機会を得られた。遂に石田三成らと図り家康討伐の兵を挙げる。戦勝を祈願して大坂城の堀を一周水泳したという。彼らは西日本に残っていた諸大名を誘い、総兵力では家康連合とほぼ互角となった。
- 先ずは家康の重臣鳥居元忠が守る伏見城を激戦の末血祭りに上げる。その後岐阜大垣城に進み家康到来を待った。家康は到来後、そのまま兵を上方に進める気配を見せたので、西軍は関ヶ原に布陣して迎え撃つこととなった。宇喜多勢は現地西軍の内最大兵力を擁し、西軍陣地真ん中に構陣した。
- 関ヶ原の戦いは宇喜多勢と福島正則勢の衝突から始まった。日常から激しい水泳で鍛え上げられた宇喜多勢は、走って突っ込んでくる福島勢をフルボッコにして撃退するも、秀家への鬱憤を募らせていた小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍を襲撃。これをきっかけに西軍は敗北した。
- 怒り狂った秀家は小早川勢に突撃して秀秋と刺し違えようとするも、明石に止められて逃亡することとなる。
- 同じく逃亡した石田三成、小西行長らは上方に着く前にギブアップして東軍に捕縛されるが、水泳で鍛えられた強靭な体力の持ち主である秀家は、琵琶湖、淀川を泳ぎきり大坂の宇喜多屋敷まで辿り着く。しかしその頃には大坂城は家康に接収されていた。そのため愛妻と別れ、大阪湾から泳いで鹿児島まで行き島津家に庇護された。しかし、瀬戸内海をものすごい勢いで泳いでいった人を見かけた、桜島周辺の海域でものすごい勢いで毎日泳いでいる人がいる、という噂から徳川に生存、居所を察知されてしまう。徳川と島津の間で処遇についてなんやかんや交渉があったのちに八丈島に流された。許された理由について多くの史料は「秀家がイケメンだったからである」と言及している。ただしイケメンに限る、イケメン無罪というこの世の摂理は戦国時代から継続していたのだ。
八丈島[編集]
- 八丈島配流後、秀家の息子は島の美女を押し倒して子作りに精励したり[要出典]、おにぎりを作って食べながら生活していた。なにより八丈島での海水浴ライフを堪能したようだ。そんなこんなで十数年が経った頃、徳川が豊家討滅の兵を挙げる。大坂の役にて大恩ある豊臣家が滅亡の危機に瀕していることを知り、八丈島から大坂まで泳いでわたり、大阪城に入城することを決意した。
大坂の役[編集]
- 慶長19年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける
- 太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城
- そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた
- かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親
- 秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁
- 宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登
- 黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次
- 豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永
- 豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房
- 秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成
- かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達
- しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、
- 七将らの発言力は弱かった
- 又、この七将達も思惑はそれぞれ。
- 真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…
- その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて
- 本丸に向かう男が一人
- 全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、
- 眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
- しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。
- しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
- その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、
- 籠城と戦いの方針は決まっていた
- 「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」
- 歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、
- 七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
- 初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、
- もはや望むべくもない…そんな時だった
- ――バタン!!
- ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。
- それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
- 「何者ぞ!!」
- 叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成
- しかし、彼の後ろの淀殿や治長、
- いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、
- ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
- 「殿……」
- 明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、
- 重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
- 「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
- 秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、
- 豊臣政権の五大老であっ た男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た…
-「1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/08/04(金) 22:26:44 ID:ABoTNshR」より
- 秀家の入城により、それまで大坂城内での主導権を握っていた淀君派を一掃し、真田幸村(フィクション)、後藤又兵衛基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら浪人武将を奮起させ、徳川軍と激戦を繰り広げた。幸村達は見事に玉砕して果てたが、どういうわけか秀家は生き残り、また泳いで八丈島に帰っている。
それからの秀家[編集]
- その後は何もなかったかのように悠々自適の水泳余生を過ごし、大坂の役から40年後に寿命で死んだ。80歳を越えていたらしいが、息子の話によると、晩年までイケメンだったらしい。島の長の話のよれば、手と足に水掻きが生えていたと言う。
宇喜多秀家が日本史に残した業績について[編集]
- 大坂の役終了後、八丈島から大坂まで泳いでわたった秀家の漢っぷりに感化された日本国民の間で水泳が大ブームとなり、ついには国民の大多数が稲作をやめ倭寇になった。一方で秀家の真似をしようとして泳いで八丈島まで渡り途中で海の藻屑と化した
阿呆気の毒な死者も続出、江戸時代前期における水難事故の死者数は10万人を越え、人口密度の減少にまで影響を及ぼした。 - 今日の歴史学では、秀家の八丈島脱出をもって、戦国時代の終わり、もしくは大航海時代の始まりとされている。
- 八丈島で余生を過ごす中、昔を振り返って備忘録や日記、関ヶ原の合戦の趨勢を描出した軍記物語などを執筆、歴史学者達に良質な史料を提供した。ただし、秀家の視点でかかれたため、当然のことながら自らの属した西軍を礼賛し、自らの武功を誇張し、都合の悪いところは歪曲、隠匿している。
- 秀家の遺伝子を受けついだ彼の子孫は秀家同様にイケメンが多かったと言う。今日、八丈島の人々は眉目秀麗な美人が多いともっぱらの評判[要出典]だが、それはひとえに秀家の恩恵によるものである。だから八丈島に住んでる人はもっと秀家を敬い崇めなければならない。