彼はわくわく浮立ってくる心を抑えながら、裏庭につづく小川の橋をわたった。そこからは裏庭が一望のもとに広がっていた。
先ず彼の眼を電光のように捉えたのは、庭中で鶏に餌をやっている母と妻の姿であった。二人の足元で、二十羽あまりの鶏が忙しそうに餌を食べている。二人は何か話しながら、じっとそれを見ていた。
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- 2021/06/01(火) 10:06:35|
- 永遠の道 戸松登志子著
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母は横向きになっているが、二年前と少しも変らず、頑健そのもののように見える。だが妻の方は、十三、四の少女のようにほっそりと瘦せこけ俯いている青白い顔は別人のほうに生気を失っている。東京での妻の病気を聞いたときには大して気にも止めなかったが、いま現実にその瘦せ細った姿を見ては、激戦につぐ敗戦の二年余が、妻にとってもいかに苦痛なものであったかを、実感として受け止めずにはいられなかった。
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- 2021/06/02(水) 17:39:36|
- 永遠の道 戸松登志子著
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彼はゆっくりと二人に近付いて行った。こちらに向いている妻の方が、先ず人の気配を感ずるだろうと期待したが、一向に気付く様子もなかった。三、四メートルほどの間近に近付いたとき、二人は申し合わせたように顔をあげ、戸松の方をみた。
「あらっ」
「おおっ」
驚愕の声に、鶏が危険を感じてぱっと散っていった。二人の物の怪につかれたように、凝然として戸松を見つめていた。
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- 2021/06/03(木) 10:10:15|
- 永遠の道 戸松登志子著
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亡霊のように音もなく眼の前に現れた戸松に、母もわたくしも腰を抜かさんばかりに驚いたのであった。つい今し方まで、一体いつ帰ってくるのだろうか、東京で何日も何をしているのだろうか、と、鶏の世話をしながら語りあったばかりなのだ。人の気配にふと見ると、それが噂の主であった。
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- 2021/06/04(金) 14:15:59|
- 永遠の道 戸松登志子著
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しかしわたくしは、それが戸松であることを疑ってみたくなったほどだ。黒く日焼した顔はげっそりと肉が落ち、鼻下から顎にかけて、見なれぬ黒髭が岩海苔のように垂れ下っているではないか。そのうえ白茶けたカーキー色のシャツの袖からは筋張った手が枯枝のようにつき出し、雑嚢を背負った肩もV字型に露出した胸元も、ごつごつと骨張っている。わたくしの心像の戸松より、一回りも二回りも小さく更けてみえた。
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- 2021/06/05(土) 14:33:41|
- 永遠の道 戸松登志子著
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彼ははにかんだような笑いを浮べながら立っていた。
「ただいま」
彼はまごついている母とわたくしを促すように声をかけた。
「おお、帰ってきたか。ようくまあ帰れたこと(よく帰ってきたという感動の言葉)
「お帰りなさい。よくまあ御無事で……」
母とわたくしは、同時に思い思いの言葉を発した。
「電報で時間を知らせてくれればよかったものを。迎えにもいかないで……」
母がしきりに無念がるのを、戸松は笑って受け流し、すたすたと玄関の方へまわっていった。
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- 2021/06/06(日) 17:35:11|
- 永遠の道 戸松登志子著
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十数歩いったとき、彼は不意にふり返った。母はすでに背戸口から家の中に駆けこみ、わたくしはまだ信じられぬような思いで、呆然と彼の後姿を見ていた。彼の視線に促されて歩き出したわたくしを見て、彼は直ぐ向き直ったが、その二三秒の僅かの間、微かに笑いを浮かべた彼の顔が錬鉄のように冴え、瞳がちかっと光を発したのをわたくしは見た。彼の精神が充実し、満月のように曇りなく張り切っているときの光だ。
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- 2021/06/07(月) 13:11:13|
- 永遠の道 戸松登志子著
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わたくしは曾てこの光をどんなにか煙たがり、又どんなにかこの光に惹きつけられてきたことであろう。久しぶりにこの閃光に触れて、わたくしの心は飛びあがった。二年余の空白が一瞬の間に埋まり、病弱と孤独の日々にあれほど真剣に離別を考えてきたにも拘らず、彼の懐になんなく素直に引き戻されていく自分の心を感じた。
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- 2021/06/08(火) 14:50:56|
- 永遠の道 戸松登志子著
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翌日から戸松を中心に家中が廻転しはじめた。父の生前の座には彼が座り、父の死後荒れるに任せていた庭木の世話を彼は丹念にやりはじめた。昨日家に入ると真先に父の霊前に正座し、小半時の間身動ぎもせず、彼の為に分骨しておいた父の遺骨と対座していたが、幽明を隔てて父と何か語りあったものか、父の日々行なっていたことを彼も又行なっていた。
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- 2021/06/09(水) 15:49:58|
- 永遠の道 戸松登志子著
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ただ父と違う点は万事が改革的で、しかも徹底していることだ。彼は山から松の木を引き抜いてきて庭の模様替えをしたり、落畑や物置を移動させて玄関からの庭の眺めをよくしたり、畳をはいで根太の工合を直したり、川底を握って川を使いよくしたりした。南方戦線での工兵としての体験は、彼に大工仕事や土方仕事の自信を与えたようであった。
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- 2021/06/10(木) 17:11:39|
- 永遠の道 戸松登志子著
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この頃すでに次弟由紀男は就職が決まって能代市内に移住し、三弟貞夫も音楽を学ぶために出京し、末弟武男は鉄道職員となって活発化してきた労働組合で書記長として活躍していた。戸松が帰る一ヵ月前に、武男を残して上の二人の弟は潮が引くように一度に家から去っていったのである。兄が帰還するまでに早く身の方向を定めておかねばならないと、焦っていたものであろう。
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- 2021/06/11(金) 10:55:45|
- 永遠の道 戸松登志子著
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十日ほども経つと、上海時代のアジア同盟の同志から次々と手紙が舞い込んできた。戸松の帰還通知を受け取った彼らが、百万力を得たように喜び勇んでいるさまが眼に見えるようであった。
北秋田の鷹巣在の生家に帰っていた村上隆喜(第一編の村上青年)は、丁度彼の家に寄宿していた和田と一緒に駆け付けてきた。
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- 2021/06/12(土) 13:46:33|
- 永遠の道 戸松登志子著
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多感な村上は、戸松と対座するや、ぐっとこみ上げてきたのか涙を双眼に溢れさせ、声もなくはっとばかりに平伏した。村上が上海から引揚げてきたのは終戦の年の秋であったが、彼は生家に帰ると真先にこの家を訪れ、客間の遠い棚に飾られた戸松の写真の前で、やはりこのように平伏したものであった。
彼は上海から連れ帰った現地生れの妻が、彼の生家が貧弱だと不満ばかりいって困るといいながら、妻のあびせかける悪口雑言をさも面白そうにカラカラと笑いながら話して聞かせる屈託のない男であり、又彼の遠い先祖が城の主であったという云い伝えを、今でも立派な城の中に住んでいるように妻に思いこませたまま平気で連れ帰ったほどの荒く太い神経の持主でもあった。
そんな彼がどういうものか戸松に対してだけは、君主に仕える忠臣のように赤誠の塊になってみせるのであった。
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- 2021/06/13(日) 14:46:07|
- 永遠の道 戸松登志子著
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戸松は二人のために鶏を潰してきりたんぽを作るよう母に依頼し、縁側ちかく車座になって一別以来の話に熱中した。
「アジア同盟の運動はあれからどうしたかね」
「続けました。終戦までずっと。周仏海も熊剣東も物心両面で協力してくれました。我々がいくら運動しても、大勢はもうどうにもならない状態だったのですが、周も熊も断念するなというのです。
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- 2021/06/14(月) 16:16:18|
- 永遠の道 戸松登志子著
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歴史は個人のたえまざる努力によって創られるのだから、日中の未来のため、最後の最後まで、旗を下してはならんというのです。あの二人が、巨視的なアジア観に立って、日中の和平とアジアの共栄を考えていた事実は、中国の歴史が彼らのことを何んと記そうと我々が証明することができます」
「周や熊は戦後どうなったろうか」
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- 2021/06/15(火) 18:27:23|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「周仏海は重慶に反逆したというので国民党軍に逮捕されましたし(周は日支戦争中王精衛とともに重慶を脱出し、南京政府を樹立し行政院長(総理)になった。結果は彼らの真意に反し、日本の傀儡政権に堕してしまった)熊剣東は中共軍との戦闘で終戦直前に戦死しました。あ、それからあの藩三省ですね(第一編、南瓜政府に関係をもつ事業家、戸松に滬西の家を提供した人)彼もやはり国民党軍に逮捕されました。彼の秘書の施は日本に亡命しました。東京に居る筈です。南京政府派の中国人は、ほとんど亡命するか逮捕されたようです」
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- 2021/06/16(水) 17:02:09|
- 永遠の道 戸松登志子著
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村上は戸松が応召してから後のアジア同盟の運動経験や終戦時の居留民の混乱などを、思い出すままに感情をこめて語った。自分のいなくなったあと、村上を中心に若者たちが最後まで運動を続けてくれたことに、戸松は深い感動を憶えた。
村上の話は尚も続いた。
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- 2021/06/17(木) 18:48:27|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「滬西の家も国民党軍に接収され、僕と女房は最初の引揚船で帰ってきたんですが、日本文字で書いたものは一切持ち帰りを禁止されたものですから、先輩の本も書類も、掛軸なども、全部置いてきました。何しろ荷物二箇しか持ち帰れないのですから、蒲団や家具類なんかもそのまま置かざるを得ません。日本刀も拳銃もみんな国民党軍に取り上げられてしまいました。滬西の家を解散したあと、和田君たちは中国人に変装して延安に行きましてね……」
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- 2021/06/18(金) 14:38:15|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「ほう……」
戸松は、今まで微かな笑みを浮かべながら村上の話を聞いていた和田の方に視線を移した。村上も次は君の番だというように、笑顔を和田に向けながら、ズボンのポケットから煙管を取出し、配給の刻み煙草を詰めはじめた。
村上の陽気で激情的な喋り方に比べ、和田はねちねちと冷静な話ぶりであった。
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- 2021/06/19(土) 16:35:15|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「戦後共産党と人民解放軍の評判が高くなったものですからね、実情をこの眼でしっかり見ておきたいと思って出かけていったんですよ」
和田はにやにや笑いながら、幾分誇らしげに言った。
「延安に何ヵ月位いたのかね」
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- 2021/06/20(日) 15:54:19|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「いやいや、延安まではいかなかったんですよ。途中の解放地区をうろうろしてきただけですが、行ってみてよかったと思っております。中共に対する認識を一変しましたからね」
和田は上眼づかいに戸松を見た。戸松の反応を読みとろうとしたのであろうが、戸松は牡丹の木の下で砂浴びをしている鶏を見ながら「ふむ」と軽く相槌を打っただけであった。
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- 2021/06/23(水) 13:20:40|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「中共の人民解放軍は、国民党軍や日本軍とは比較にならない位立派なものです。彼らは民衆の友人であり、救い手であり、指導者であり、最も新しいタイプの革新者です。彼らがきびきびと適切に民衆を指導し、民衆も彼らを信頼し、互いに協力しあっているのを、この眼でしかと見てきました。我々は今まで共産主義を悪疫のように嫌い敵視してきましたが、これは大変な誤解であったと思います」
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- 2021/06/24(木) 16:02:20|
- 永遠の道 戸松登志子著
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はじめは遠慮がちに伏眼でかたっていた和田は、自分のことばに勇気づけられたのか、だんだん自信づいてきて、戸松の顔に真正面から視線をあてて話していた。戸松は相変らず無表情のまま聞いている。
「人民解放軍は農民や零細所得民を団結させて地主や金持を打倒させ、とりあげた土地や財産を平等に分配してやるのです。人間は平等に生きる権利をもっているのに、これまでの社会制度はあまりにも不平等だったのです。
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- 2021/06/25(金) 14:07:55|
- 永遠の道 戸松登志子著
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所有が偏り過ぎていたのです。これを是正し、貧苦から人間を解放して正しい社会をつくるには共産主義しかありません。共産主義こそもっとも進歩的なイデオロギーであり、もっとも近代性をもった平和の原理だと思います」
「……」
戸松も村上も腕を組んだまま黙って聞いている。戸松の顔が次第に緊張してくるのを、村上はじっと見詰めていた。彼は内心はらはらしていたのである。
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- 2021/06/26(土) 13:33:57|
- 永遠の道 戸松登志子著
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あれほど共産主義を嫌い、共産主義と闘ってきた和田が、中国共産党の目覚ましい活躍ぶりに眩惑され、一ヵ月足らずの現地潜入ですっかり洗脳され、別人のように変化したことを、戸松先輩はなんと見ているのか。反対意見には間髪を入れず応酬する先輩が、黙って聞いているところをみると、ひょっとしたら彼自身も思想的転換をしたのであろうか。まさかそんなことはあるまい。今に先輩の激論が、旋風のように猛然と巻き起こるに違いない。何れこういう事態になることは予想していたが、今日はまだ早かった――と彼は思っていたのである。
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- 2021/06/27(日) 14:29:11|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「日本は今まで天皇中心主義でやってきました。僕はここに日本の誤りと行き詰まりがあったと思う。天皇は資本主義体制における特権階級の擁護者であり、搾取の親玉であって、民衆の救済者ではなかった。日本は天皇のため金縛りになり、伝統の重みに民衆は圧し潰されそうになってきた。しかも天皇制下では無力で無気力な人間共が、伝統の傘下で胡座をかき、怠惰な生活を貪っている。この制度がある限り、日本民衆は永久に救われない。敗戦を機会に、日本民衆の邪魔者であるこの伝統という名の化物を打倒せねばならん。まず我々は天皇と神道をぶち倒すべきだと思います。これを葬らずして、日本の再建は絶対にありえない」
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- 2021/06/28(月) 15:15:51|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「日本を共産主義によって再建し、共産党によって統一された中国と手を結び、アジア全民衆の開放に立上ったならば、アジア同盟運動で掲げた我々の理想は、人類解放と進歩の名の下に達成することができます。僕は……」
「まてっ」
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- 2021/06/30(水) 17:46:13|
- 永遠の道 戸松登志子著
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