この頃、わたくしは病弱の上に酷い貧血症状に悩んでいた。人の世話どころか、自分の身一つさえ持て余していたのだ。
「こんな生活、体力的にもこれ以上続けそうにもないわ」
わたくしは涙ぐんで言った。
「嫌だと思っていたら、健康な者でも病気になってしまうよ。苦も楽もすべて気の持ちようだ。連中の犠牲になっていると考えるから、いよいよ身体が悪くなるのだ。
進んで人のため世のため犠牲になろうと心掛ければ、そのうち健康も運命も変ってくるさ。人のため世のため犠牲になるということは、自分自身を鍛え完成させる一番大きな働きだよ。辛いだろうが、人の為であると同時に自分のためでもあるんだから、我慢してくれ」
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- 2022/09/02(金) 14:30:15|
- 永遠の道 戸松登志子著
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彼は精いっぱい優しく慰め励ましたつもりであった。
わたくしは自分の健康よりも、家庭経済の方に一段と心をとらわれていた。わたくしは夫の優しさに調子づいて言った。
「私、今まで毎月着物を売ってきましたの。でも今月は売らなくてすむわ。母に話したら同情して自分のお小遣いを恵んでくれましたの」
戸松の顔がみるみる青ざめ、神経がぴりぴり痙攣しはじめたようであった。わたくしが「あっ」と心の中で叫び声を上げた時、彼の口が裂け、百雷が鳴り響いた。
「母娘で俺を侮辱するのかっ」
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- 2022/09/03(土) 11:24:44|
- 永遠の道 戸松登志子著
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彼は自分の怒声に刺激されていよいよ怒りを募らせ、わたくしがいかに家計の遣りくりが下手であるかを痛罵しつづけた。
彼は日頃、心の中では妻に苦労を掛けることを気の毒に思っているのであるが、今はその思いやりが逆転して不満と憎しみに変っていた。
「女房の母親に養われて喜ぶような俺だと思っているのかっ。俺は女房の着物を売って食わしてもらうのは真平だぞっ。」
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- 2022/09/04(日) 15:37:28|
- 永遠の道 戸松登志子著
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戸松の考え方を分からぬわけではない。妻の実家に負担をかけることは男の恥である。殊に金銭上の負担は罪悪であると考えている人である。だから自分の言葉が夫の誇りを傷つけ、屈辱の深手を負わせたことは気付いていたが、これまでの善意と苦労が激しい怒りによって報いられたということは、何んとしても無念であった。
善意にしろ悪意にしろ、所詮、人間は自我の殻に籠った動物に過ぎない。わたくしはわたくしで、彼が現実の苦闘を認めようとしないならば、もはや苦労する張合いがないと感じていた。感情は激動していたが、言葉だけは穏やかに言った。
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- 2022/09/05(月) 22:29:00|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「私のような女房は、あなたに迷惑をかけるばかりです。あなたの理想にも、あなたの性格にも、生活そのものにも、私は到底ついてはいけません。もう我慢の限度が来ました。もうこれまでです。実家へ帰らせてもらいます。今すぐ帰らせてもらいます」
真実と衝動的な感情の入りまじった台詞が、涙の筋とともに滔々と流れ出した。
かく断言した以上は、最早この家に居ることは出来なかった。わたくしは台所で顔を洗い、三畳の更衣室に入って日用品と衣類を風呂敷に包んだ。
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- 2022/09/06(火) 17:14:14|
- 永遠の道 戸松登志子著
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「荷物は坂上に送らせる」
彼も追い打ちをかけるように云った。
わたくしは裏口から外に出、茶の木の並ぶ露地を、急ぎ足に下っていった。
もう二度とこの家には帰るまい。上海時代といい江古田時代といい、結婚生活とは一体何であったのか。彼をとりまく若者達の女中であったに過ぎないではないか……。
わたくしの考えも感情も、石のように凝結し、恐ろしく自己中心的になっていた。
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- 2022/09/08(木) 14:22:25|
- 永遠の道 戸松登志子著
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夫 婦 喧 嘩
「お母さん、今度こそ私、戸松と別れる決意をして帰ってきたの」
「いったい何です。出しぬけに……」
縁側で縫物をしていた母は、手を止めて、青白く興奮した娘の顔を眼鏡ごしに見上げた。
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- 2022/09/09(金) 16:11:24|
- 永遠の道 戸松登志子著
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大泉の兄の家に着くや縁側に母の姿を認めると、わたくしは庭を横切って縁先に立ち、いきなり右の宣言をしたのであった。
「そこからでいいから、まあ上ってよく話してごらん」
母は兄の丹前らしい細かい横縞の銘仙を横に押しやり、ゆっくりと眼鏡を外した。
こういう事には馴れきっているらしい老いの余裕が、心頭を焦している娘の感情を、何気なく緩和させようとしていることが直感的に理解された。
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- 2022/09/10(土) 16:33:34|
- 永遠の道 戸松登志子著
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江古田からの半時あまりの間、ずっと思いつめてきたわたくしは、最大の理解者であり味方であるはずの母に、軽く裏切られたような気がした。わたくしは母が、到々お前も本気で怒ったのか、と共感の表情をもって迎え入れてくれるものとばかり思っていたのである。
というのは、母が戸松の前途多難な社会運動と、居候宿泊者を大勢かかえこんだ窮迫生活に、手厳しい批判を下していたことは前途のとおりで、娘がそれに甘んじていることを酷く歯痒がっていることを、よく知っていたからである。
だが、今日の母は、わざとらしい程平然として表情を崩さず、むしろわたくしの激昻を冷却させることに意識を強めているように見えた。
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- 2022/09/12(月) 15:15:53|
- 永遠の道 戸松登志子著
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機先をさり気なく封じられて、張合い抜けした思いがしないでもなかったが、わたくしは縁側に腰を下ろすと、母に背を向けたまま、
「戸松は、ちっとも私の苦しみを分かってくれないの」
涙声で言うと、一しきり声を詰らせたまま、涙の流れ落ちるにまかせた。
母は依然として冷静を装っているらしく、背後からは何の反応もなかった。
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- 2022/09/13(火) 13:22:34|
- 永遠の道 戸松登志子著
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やがて、心を静めて振りかえったとき、そこには母の困惑しきった暗い瞳が沈んでいた。この自負心のつよい娘が、しみじみと涙をこぼす程ならば、よほど深刻な事態がおきたに違いない、と、母は内心おどおどしていたのである。
母娘の感情が一つの場に寄りあったとき、わたくしの内部に不思議な変化が起きてきた。
戸松に対する怒りが萎えて、一切の責任を自分自身に向け始めたのである。それは潜在的意識が忽然と甦り心を支配し始めたのに似ていた。
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- 2022/09/14(水) 16:44:24|
- 永遠の道 戸松登志子著
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わたくしは今朝の事件のあらましを語ったあと、突上げてくる心情を切々として訴えはじめた。
「戸松のような国士的運動家の妻には、私のように固い蕾のような女は向かないのよ。彼の妻であることは、多くの同志の姉であり寮母であることです。そんな厚みのある人間性を私に求めても無理だわ。上海にいる時も、自分の力量不足にどんなに悩んだか知れません。
結婚は人間対人間、一対一の結びつきだというけれど、そんなこと嘘よ。一対一の結合は動物のものです。人間の結婚は、仕事とか背景とかを含んだ全体的な結合でなければならないわ。
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- 2022/09/16(金) 15:37:07|
- 永遠の道 戸松登志子著
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私は人間的に自由に育ちすぎて、苦労が足りない。戸松のように険峻な道を行く人の寸助にもなれはしません。
それに、戸松のように野生的で粘り強く強靭な人間と一体になって生きるには、丈夫な身体と太い神経が必要です。
こんな弱い身体と細い神経では、あの渦巻くような世界には、とてもついて行けないわ。彼の重荷になり、疲労させ、いらいらさせて、能力を減退させるだけです。
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- 2022/09/17(土) 13:32:30|
- 永遠の道 戸松登志子著
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ね、お母さん、そうでしょう。私、この頃そういう事がやっと分かったのよ。
妻の座の重みというものが、結婚いらい日々心の底に圧縮されていて、今日のようなとき、ああもう駄目だっ、と噴き上がってくるの。
お母さん、結婚失格者の行く道は、尼僧にでもなるか、綺麗に死んでいくより外ないわね」
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- 2022/09/18(日) 13:53:25|
- 永遠の道 戸松登志子著
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母は或時は真面目な顔で、ある時は呆れ顔で、又ある時は困惑を浮べた面影で、無言のまま聞いていた。
心の中では、どう処置したものかと思案しつづけていたのであった。
母はこれまで、娘夫婦の険岨な将来と生活の不安定を愚痴ることはあっても、離別を考えたことはなかった。
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- 2022/09/19(月) 17:31:36|
- 永遠の道 戸松登志子著
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戸松は妻の母に馴れ親しんだり機嫌を取ったりするような婿ではなく、むしろ預けておいたものを受け取ったかのように、結婚後直ちに遠慮会釈もなく妻の再教育を強行する男である。
あっぱれな夫振りとは認めながらも、自分の秘蔵品にケチをつけられたような不満が心のしこりになっていて、その上に戸松の仕事に対する不平や生活の貧窮に対する不安を積上げて、生木を燃やすようにぶすぶすと愚痴の煙を立てていたのである。
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- 2022/09/20(火) 13:55:22|
- 永遠の道 戸松登志子著
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夫婦喧嘩をして娘が帰ってきた時は、とうとうやったか、と言うような面白半分の気持もあったが涙を零されたり悲痛な絶望の声を聞かされたり、生か死かの思いつめた言葉まで訴えられると、自ら今までの我見や我執がするりと落ち去り、親としての情理と責任だけが光を発しはじめたのである。
「軽率なことを言うもんじゃありません。そんな大事な問題は、簡単に決められるもんじゃありませんよ。いよいよ拗れてしまえば、媒妁の安倍先生にもお話しなければならんが、まあ、肇の意見もよく聞いて、一月でも二月でもゆっくり考えてごらん。
お前だけがそう決めても、向こうでどう考えているか分からんじゃないか。十日位たったら一応、私が向うへ行ってきましょう。万事その上のことです。それまで静かにしていなさい」
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- 2022/09/23(金) 11:10:28|
- 永遠の道 戸松登志子著
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母の言葉は、これまでになく慎重であった。
夕方兄が帰ってくると、食卓を囲んで昼間の話が再燃した。母とわたくしが交々話している間、兄は眼鏡を外して襦袢の袖で丹念にレンズを拭きながら、上眼づかいに頻りにわたくしの顔を伺い見ていた。合槌を打つわけでもなければ、意見を挿むわけでもない。むっつりとした表情で聞いているだけだ。とうとうこの夜は、わたくしの心情吐露と母の情理論で終り、兄は一言も意見らしいことを云わなかった。
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- 2022/09/26(月) 23:24:43|
- 永遠の道 戸松登志子著
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五日経ち、六日経ち、七日目となった。後から荷物を送ると言ったにもかかわらず、戸松からは何の音沙汰もなかった。日一日と断絶の溝が深まり広がっていくような焦燥感に、わたくしは捕らわれていった。
荷物を送る金がないのだろうか。もはや去った妻のことなど、念頭にないのであろうか。配給物や食事はどういう風にしているのだろうか。母の縫物を手伝いながら、思念を支配するものは戸松のことだけであった。
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- 2022/09/27(火) 13:51:40|
- 永遠の道 戸松登志子著
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卓袱台兼用のテーブルに向って、一心に書き物をしている彼の横顔、テーブルを押しまくっていきそうな力のこもったその姿勢。
わたくしがうっかり漏らした軽薄な失言の倫理性を追求してくるときのあの真剣さ、そして、不注意な言動の精神的根底を抉りだしてみせてくれるあの鋭さ。
かと思えば、慈父のように労ってくれる優しさ。幼児のような底抜けの無邪気さ。
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- 2022/09/28(水) 15:33:11|
- 永遠の道 戸松登志子著
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