人物記念館

2016年6月20日 (月)

伊豆と駿河の重なる風土・井上靖文学館/人物記念館(3)

井上靖は、1907年(明治40年)5月6日、軍医・井上隼雄と八重の長男として、北海道旭川市に生まれた。
井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家で、隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり、井上家の婿であった。
父が韓国に従軍したので伊豆湯ヶ島に戻り、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられた。

湯ヶ島尋常小学校に入学の後、浜松尋常高等小学校に編入学した。
1921年(大正10年)、 静岡県立浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学、1922年(大正11年)、 静岡県立沼津中学校(現在の静岡県立沼津東高等学校)に転入した。
1927年(昭和2年) 、金沢市の旧制第四高等学校理科に入学した。
1930年(昭和5年)、九州帝国大学法文学部英文科へ入学するが、1932年(昭和7年)、九州帝大を中退して、京都帝国大学文学部哲学科へ入学した。

1936年(昭和11年)、京都帝大を卒業し毎日新聞社に入社した。
1950年(昭和25年)、『闘牛』で第22回芥川賞を受賞し、1951年(昭和26年)、毎日新聞社を退社して、作家専業となった。

作品は、現代を舞台とする『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』等、自伝的色彩の強い『あすなろ物語』、『しろばんば』等、歴史に取材したものと幅広い。
歴史小説は、『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』等戦国時代が多く、中国では西域を題材にした『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』等が多くのファンを獲得した。
スローリーテリングな構成と詩情豊かな作風で、映画・ドラマ・舞台化されたものも多い。

井上靖文学館は、北に秀峰富士、南に紺碧に輝く駿河湾を望む長泉町クレマチスの丘に建てられている。
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この地は、『あすなろ物語』で「寒月ガ カカレバ キミヲシノブカナ  愛鷹山ノフモトニ住マウ」
とうたわれてる。
文学館は沼津中学後輩の岡野喜一郎(スルガ銀行元頭取)が、1973年に設立、開館した。

竹林を主体とした閑静な森の一角にある。
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沼津中学時代には、文学へ目覚めるきっかけとなる友人たちと出会った。
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その頃を描いた『夏草冬濤』は、私の愛読書の一つである。
井上靖のアイデンティティは、伊豆と駿河の交わる沼津の風土が多分に寄与していると言えよう。

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2015年10月 2日 (金)

光治良と戦争展@芹沢光治良記念館/人物記念館(2)

沼津市我入道というところに芹沢光治良記念館がある。
松林の中の閑静な場所で、菊竹清訓氏の初期の作品である。
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菊竹清訓は、メタボリズム運動の旗手として、「か・かた・かたちの三段階論」を提唱して大きな影響を与えたが、2011年12月に亡くなった。
⇒2013年8月13日 (火):三段階論という方法②菊竹清訓の設計の論理/知的生産の方法(72)
⇒2012年1月 6日 (金):菊竹清訓氏と設計の論理/追悼(19)

光治良は、明治29(1896)年5月4日、静岡県駿東郡楊原村我入道一番地(現在の沼津市我入道)に生まれた。
小学校入学以前から孔子の『論語』を暗唱できるほどの頭の良さから神童といわれ、県立沼津中学校(現在の県立沼津東高等学校)時代に、文芸雑誌『白樺』を読み、フランス文化に憧れるようになった。
旧制第一高等学校をへて、東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部経済学科に入学、卒業後、農商務省(現在の農林水産省、経済産業省)に入省した。
29歳のときに結婚、貨幣論の研究のため、新妻を伴ってフランスのパリ大学に留学した。
フランス滞在3年間に、三木清、佐伯祐三、ジュール・ロマン、ケッセル、ルイ・ジューベ、マリー・ベル、デュラン、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー等、多くの学者、作家、俳優や画家といった文化人と広く交流し、帰国後、作家としてデビューした。
代表作に、結核罹患体験を基にした『巴里に死す』(昭和17年)、天理教教祖に関する『教祖様』(昭和34年)、自身の生い立ちにそって時代背景を描いた大河小説『人間の運命』(昭和37年~昭和43年)などがある。

現在、1階展示室で戦後70年連動企画展として、「光治良と戦争展(第1回)」をやっている。
光治良の戦時体験を基に書いた作品等を紹介し、併せて初出資料となる当時の日記等を展示している。
第1回は、主に太平洋戦争前から戦中までである。
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配付資料の中に『私の憲法観』という文章があった。
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次のような文章で始まっている。

憲法の條文が公に問題になる時は、國家に、不幸な暗雲がおそいかかる前兆のような気がしてならない

現在のことのように錯覚しそうだが、「世界」の昭和29年8月号に載ったものだ。
昭和29(1954)年は、以下のような出来事があった年である。
3月 第五福竜丸事件
6月 ソ連で史上初の原子力発電所が稼働
9月 洞爺丸事故
11月 「ゴジラ」第1作劇場公開

光治良の文章は、7月1日に発足した自衛隊が憲法で許されるのかどうか、という議論があったことを踏まえている。
自衛隊は、以下のような任務を行う実力組織である。

自衛隊法第3条第1項により「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ものとされ、人命救助などの災害派遣や国連PKOへの派遣などの国際平和協力活動を副次的任務とする。
Wikipedia

憲法第9条第2項にいう「戦力」に該当するか否かが問題とされたが、政府見解は「戦力」にあたらない組織とされてきた。
この解釈が定着してきたわけであるが、集団的自衛権(つまり他衛)の行使ということになると、事情は異なるのではないだろうか。

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2014年11月 4日 (火)

磐田市旧赤松家記念館/人物記念館(1)

磐田市にある赤松則良の旧邸。
赤松は、日本の造船学の黎明期の中心人物である。
⇒2014年9月19日 (金):もし「沼津兵学校」が現存していれば・・・/知的生産の方法(103)

赤松が晩年を過ごした磐田市の見付にある。
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近くの見付学校は、明治5(1872)年の学制発布を受け、翌年8月に仮校舎で開校した。
新校舎は、明治8(1875)年に落成し、開校式が行われた。
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赤松は、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した。
明治20年代に建てられた門・塀・土蔵は県・市の指定文化財となっている。
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敷地内に入ると、則良の胸像があり、りっぱな庭園が広がる。
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旧邸の赤松家記念館には、旧赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料等が展示してある。
咸臨丸の模型があったが、こんな船で太平洋を横断したのかと思うような小さな帆船である。
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経歴と系図は参考資料として有用だろう。
赤松の娘登志子が森林太郎(鴎外)と結婚している。
津和野出身同士の西周の仲介か?
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