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2024.09/05 [Thu]
小倉百人一首を編纂した藤原定家ゆかりの嵯峨野(4) 中院山荘跡
清涼寺から西に約5分、二尊院門前北中院町の通り沿いに、地蔵尊が祀られており、その横に「中院山荘跡」の駒札があります。
鎌倉時代のはじめ、僧・蓮生の中院山荘がありました。
蓮生の出家前の名は、宇都宮頼綱といい、歌人としても著名で、藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築きました。
『英雄百首』(歌川貞秀画)
宇都宮頼綱
鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に連座して配流されるがまもなく許され,若くして鎌倉幕府有力御家人宇都宮氏の当主となり,北条時政の女婿となった。しかし,元久2(1205)年,時政の後妻牧の方の平賀朝雅将軍擁立事件の際嫌疑を受けたため出家,異心なきを示し許された。こののち浄土教に帰依,弟の信生(塩谷朝業)と共に法然の高弟証空の弟子となり,西山教団と深くかかわる。宇都宮氏の財力を背景に往生院の再興や法然の遺骨護持などに尽力,一方幕府による寺院造営にも加わるが,主として京に住む。藤原定家と結び,その娘は定家の嫡男為家の室となるなど,御子左家と連携。嵯峨中院に山荘を営みその障子和歌を定家に依頼したものが,いわゆる百人一首かとされる。その八十賀には為家らが詠進。蓮生,信生らのこのような京都歌壇とのかかわりが,宇都宮歌壇という特異な文化圏の形成をもたらした。自身も『新勅撰集』以下の勅撰集に39首入集。宇都宮歌壇の『新和歌集』入集数は集中最多。定家の『明月記』にその子宇都宮泰綱の「厳父」とある(コトバンクより)
鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。
蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(このとき郎党60余人も同様に出家した。)後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子・為家に嫁いでいる。
嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。
京都市
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蓮生の出家前の名は、宇都宮頼綱といい、歌人としても著名で、藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築きました。
『英雄百首』(歌川貞秀画)
宇都宮頼綱
鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に連座して配流されるがまもなく許され,若くして鎌倉幕府有力御家人宇都宮氏の当主となり,北条時政の女婿となった。しかし,元久2(1205)年,時政の後妻牧の方の平賀朝雅将軍擁立事件の際嫌疑を受けたため出家,異心なきを示し許された。こののち浄土教に帰依,弟の信生(塩谷朝業)と共に法然の高弟証空の弟子となり,西山教団と深くかかわる。宇都宮氏の財力を背景に往生院の再興や法然の遺骨護持などに尽力,一方幕府による寺院造営にも加わるが,主として京に住む。藤原定家と結び,その娘は定家の嫡男為家の室となるなど,御子左家と連携。嵯峨中院に山荘を営みその障子和歌を定家に依頼したものが,いわゆる百人一首かとされる。その八十賀には為家らが詠進。蓮生,信生らのこのような京都歌壇とのかかわりが,宇都宮歌壇という特異な文化圏の形成をもたらした。自身も『新勅撰集』以下の勅撰集に39首入集。宇都宮歌壇の『新和歌集』入集数は集中最多。定家の『明月記』にその子宇都宮泰綱の「厳父」とある(コトバンクより)
鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生の中院山荘があった。
蓮生は、俗名を宇都宮頼綱といい、下野国(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の有力な御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗った。(このとき郎党60余人も同様に出家した。)後に上洛し、法然上人、次いで善恵上人証空に師事し、この地に山荘を営んだ。
蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の娘が定家の子・為家に嫁いでいる。
嘉禎元年(1235)5月、定家は蓮生が山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに快く応じ、色紙の一枚一枚に天智天皇以来の名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の作品を加えるなどの補訂を施して完成したものといわれている。
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