親愛なるあの日のぼくらへ - eterna

親愛なるあの日のぼくらへ

「次の休日は朝から遊びに行こうか」

アルフレードがハインリヒにそう誘われたのが先週のこと。
いよいよ明日がその日だ、といつもよりも早い時間に鳴るようにアラームをセットして。
気分が高揚して寝付けないなんて子供のようだ、と笑って。
それでもいつもより早い時間に眠りについた。

そして、朝。
身支度を済ませて早々に家を出た2人は市内のカフェで軽い朝食をとり、「どこに行くの?」「まだ秘密だ」というやり取りを何度か繰り返しながらしばしのドライブを楽しんだ。
ハインリヒの運転する車は街の中心地から離れ、郊外へ。
ミュンヘンは元々美しい自然を持つ街だ。
古い建物の間に近代的なビルが建つ中心地から少し離れるだけで、車窓の向こうに大きな湖と森が見えてくる。
そこには自然保護区に指定されている湿地帯があり、独自の生態系を観察することができるということで観光名所にもなっている。

ミュンヘンはドイツで3番目に大きな都市であり、ハブ空港や世界的に評価の高い教育機関を持ち、大企業の本社が数多く置かれている経済の中心地のひとつだ。
その一方で、バイエルン文化を色濃く残し、歴史と伝統が今も息づいている。
工芸品や祭り、民族衣装、方言もそうだ。
それらは地元の人々の生活やアイデンティティに深く根付いており、ふとした瞬間にハインリヒの口からもこの地域特有の発音や語彙を聞くことがある。
そして、都心部から1時間ほど車を走らせるだけでアルプス山脈の麓に広がる豊かな自然に触れることができるのも魅力に数えられるだろう。
この辺りはハイキングやサイクリングの人気スポットとしても知られており、今日の予定はアウトドアアクティビティなのだろうか、と弾む心を隠し切れずに鼻歌を口遊んでいたアルフレードは、「着いたぞ」というハインリヒの声に身を乗り出した。

「ここ?」
「あぁ、今日のひとつ目の目的地だ」
「ひとつ目ってことは、まだ他にもあるの?」
「その話しはまた後でな」

茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせるハインリヒにくすくすと小さく笑い、アルフレードは車を降りた。
目の前にあるのは、ミュンヘン最大のスポーツ施設。
屋外にはテニスコートやラグビー場、陸上競技が行えるスタジアムがあり、屋内にはトレーニングルームやプール、多目的に利用できるホールまで揃っているもので。
日曜日ということもあり、どの施設もすでに賑わっている。
いくつかの建物の間は芝生が敷かれた広場として活用され、幼い子供たちが自由に走り回っている姿が見えた。
遠くから聞こえてくる歓声は練習試合を応援する者たちのものだろうか。

時刻はまだ9時になったばかりで、爽やかな朝の香りと突き抜けるような青空が眩しい。
そこに加わる快活な声は清々しいもので、アルフレードは今にも走り出しそうな幼子のようにソワソワと身体を揺らす。
それを横目に、運転用のサングラスを外したハインリヒはそれをダッシュボードに放り投げ、代わりにキャップを被る。

「ははっ、待ちきれない様子だな。行こうか」
「運動できる服でって言っていたのはこのため?」
「あぁ、たまにはいいだろう」

身体を動かすだけなら、マンションには専用のジムやプールがある。
最上階の住人の特権としてそれらや軽い運動ができるプレイルームも貸し切りにして自由に使うこともできる。
だが、それでは目的が変わってしまう、と内心でほくそ笑み、ハインリヒは「早く早く」と急かしてくるアルフレードの手を握って屋内施設が建ち並ぶエリアに足を向けた。
同じ建物のどこかで試合が行われるのか、エントランスの前には揃いのユニフォームを着た学生たちが集まっている。
高揚と緊張が表情や声音から伝わり、ハインリヒは口端を緩めた。

己の生きてきた世界とはあまりにもかけ離れている、日向の景色。
太陽の光の中で声を上げて笑い合う人々の姿は、分厚い隔たりの向こう側にあったもの。
しかし、こちら側と向こう側などはじめから存在しなかった。
そこには境界線などなく、たった1歩先にある当たり前の世界だった。
気付きもしないで、気付こうともしないで、勝手に他者のものだと決めつけて。
遠い昔に諦めたはずのその穏やかな時間の流れの中を、ゆっくりと歩く。

「建物にはインドアスポーツホールって書いてあったけど、ここで何をするの?」
「この奥にコートがある。まぁ、行けば分かる」
「そういえば、オレたち何も持って来ていないけど…」
「あぁ、必要なものはあいつらが持って来ている」
「え、誰か待っているの?」

首を傾げるアルフレードにハインリヒは答えずにニヤリと口角を上げるだけに留め、ホールへと促す。
観戦席のある競技場の前を通り過ぎ、建物の一番奥。
そこに人工芝が敷かれている広々とした空間が現れた。
内部はフェンスで区切られており、フットサルコートが6面並んでいる。
その1つの中ですでにボールと戯れている見知った顔の2人を見つけ、驚嘆の声を上げたアルフレードに気付いた彼らの視線が向けられた。

「フルアさんとグラースさんだ!」
「こんにちは、アル君」
「待っていましたよ、アルフレード君」
「ハイン!フルアさんとグラースさんだよ!?」
「ふっ、そうだな」
「え、え、お仕事は!?お休みなの!?」
「あぁ。遊ぶのなら、人数は多い方がいいだろう」

悪戯を成功させたように口角を上げて笑う3人にアルフレードはぱちくりと瞳を瞬かせた。
確かに、「遊びに行こう」と誘い出されたが。

玉座を守る役目を持つ彼らとハインリヒの休日が重なることはまずないと言ってもいい。
正確に言うならば、意図的に重ならないように調整されているのだ。
彼らにはCOOであるハインリヒの“専任”としての特別な権限が与えられており、名代として来客を迎えたり、あるいは相手の元に訪れることもある。
あくまで決定権はハインリヒにあるものの、ある程度の案件であれば彼らが采配を揮う。
ひっきりなしに送られてくる報告書やメールを選別し、必要となれば対応するのも彼らの役目だ。
ハインリヒの思考を誰よりも理解し、意図を汲み取り、手足とも目ともなれる彼らだからこそ。
そして何よりも、その判断や選択の正しさと同時にハインリヒのために正しいかを考えられる人たちだからこそ。
彼らにはそれだけの力が与えられ、文字通りハインリヒの留守を守るのだ。

だが、彼らの服装もスポーツに適したラフなもので。
普段はどれほど忙殺されそうな仕事量を抱えていても乱れることのない髪は随分とおざなりに整えられているだけで、彼らも完全にオフだということは問うまでもない。
つまり、彼らは意図して休日を重ね、この場所に集ったということ。
ハインリヒの言葉を使うならば、遊ぶために。

「では、準備運動から始めましょうか」
「え?」
「遊びとはいえ怪我予防は大事ですよ、アルフレード君」
「ほ、本当にただ遊ぶためにここに…?」
「えぇ、ボスに誘っていただきました」
「アルフレード君と遊べると聞いて浮かれた余り、約束の1時間前に到着してしまいましたよ」

グラースが脇に抱えているのはサッカーボール。
そして、ここはフットサルのコート。
何度かぱちくりと瞬いたアルフレードは、ぱぁっと大輪の花が開くように笑みを咲かせた。
そんな彼の無邪気な反応にハインリヒは声に出して笑う。

「ハイン!これって!今日ってもしかして!」
「気付いたか?」
「うん!うわぁ、どうしよう!嬉しい!」

子供のように全身ではしゃぐアルフレードの姿にフルアとグラースも相好を崩す。

きっかけは、何気ない会話だった。
いま進行しているプロジェクトの中に学生や若年層をターゲットにしたものがあり、自分たちの学生時代を思い返していたときだ。
ドイツの中等教育機関のひとつであるギムナジウムは大学進学を目的としたもので、一般的に10歳から18歳まで在籍する。
だが、そこで過ごした自分たちの記憶はあまりにも希薄だった。
飛び級制度を利用して大学に進学したハインリヒとフルアにとってはなお更で。
進学後も優秀が故に孤立し、教授陣からも持て余されていた。
CEOであるケイルに「己の後継者に」と見出された後はあらゆる知識と経験を積むために世界中を飛び回ることになり、キャンパスでの思い出も無いに等しい。
グラースは彼らほどではなかったものの、陸軍士官学校に進んだことで学友たちとの交流は卒業と同時に途絶えてしまった。
士官候補生教育を受けた後すぐにフランス陸軍の外人部隊に入隊しており、特殊な任務に就くこともあったため、ごく普通の青年とは全く違う環境で生きてきた。
揃いも揃って、一般的な学生生活を経験しておらず、言わば青春を知らないまま今に至ってしまったのだ。
そんな会話に耳を傾けていたアルフレードが、ぽつり、と。
本当に口端からまろび出た呟きだったが、彼の声を聞き逃すはずがない。
「オレもそういう思い出を持っていないなぁ」、と紡がれた声を。

その声に感傷はなく、ただただ純粋な感想だった。
しかし、胸の奥にある一番柔らかい場所に細くも鋭い針が突き刺さった。
それが与える痛みは日常生活に支障はなく、ともすれば忘れるほど小さなものだった。
だが、一度刺さってしまったそれはふとした瞬間に存在を主張した。
たとえば、彼が奪われた時間を誰かが笑顔で過ごしているのを見たとき。
たとえば、彼が懐かしむように過去を口にしたとき。
どうしたって取り戻せない、取り返すことのできないその時間を想う度に、チクチクとした痛みが苛んだ。

自分たちは自分たちの意思でそれを望まず、求めず、放棄した。
だが、彼は違う。
彼は他者に奪われたのだ。
望んで、望んで、どんなに願っても、取り戻せないほどに悉く、無残に。
だからこそ、与えたかった。
あくまでエゴだが、それでも。
取り戻せないのなら新しく与えればいい、と傲慢に割り切って。
「普通の学生生活を送っていたら何をして遊んだのかな」と純粋に問うた彼のその心の奥底にある寂しさに、寄り添いたかった。

「しかし、いかんせん俺たちも“普通”とは縁遠い」
「アル君もご存知の通りの学生時代でしたからね」
「俺はお2人ほどではないにしろ、経験の浅さは否めません。ですが、幸いにも俺たちにはデータがありました」
「データ…?」
「広告代理店の本領発揮というやつだな。部下にアンケートを取った」
「え!?」
「ボスに近しい者たちにだけですからご安心ください」
「ドクターも協力者の1人ですしね」
「先生まで!?」
「経緯を話したら呆れた顔をされたがな」

寝る時間すら費やしていた研修医時代でもお前たちよりはるかに遊んでいたぞ、と。
溜め息交じりに呟いたダイトの声は呆れよりも憐れみが強かったが。
それは言わずに、目を丸くしているアルフレードの幼い表情に肩を揺らす。

「まぁ、そういうわけでまずはここで遊ぶぞ」
「市内の学生は割引サービスがあるようで、よく利用するようですね」
「俺の部下は休日になると友人たちと集まって今もここを使っているそうです」

比較的アルフレードの歳に近い部下を選んでアンケートを取ったのだが、彼らの大半がこの施設の名前を挙げた。
学生の頃に休日になると友達と集まってプレイをしていた、と。
ドイツでサッカーやフットサルは国民的なスポーツだ。
ミュンヘンにはトップクラスのクラブもあり、サッカーよりも少人数でプレイできるフットサルは特に都市部での人気が高く、国内リーグも存在している。
幼い頃から親しんでいるスポーツと言っても過言ではなく、この場所が選ばれたのも納得ではあった。

イタリアも同様で、イタリア最高峰プロサッカーリーグのセリエAという名前は一度は耳にしたことがあるだろう。
ワールドカップでも4度の優勝を経験しているほどで、フットサルを基礎技術を養うためのトレーニングツールとして活用しているという。
そんなフットサルも公式のリーグがあり、強豪クラブを持つ地域が多い。
幼い頃から外で走り回るよりも室内で読書をしていることを好んでいたというアルフレードにとってはあまり縁の深いスポーツではないが、全く馴染みがないものでもない。
学生の気分で気軽に身体を動かして遊ぶことが目的ならばちょうどいいだろう、と言う部下たちに異論はなかった。

「本来のルールでは5対5で行うから、この人数ではミニゲームしかできないがな」
「ううん、十分だよ。うわぁ、どうしよう。ワクワクが止まらない」
「ははっ、それは何よりだ」

いそいそと準備体操を始めたアルフレードをすかさずグラースがサポートする。
彼はパーソナルトレーナーの資格を持っており、任せておけば安心だ、とハインリヒは足元に転がっていたもう1つのボールを爪先で軽くすくい上げた。
トウロールリフトと呼ばれる技術で、ふわりと空中に浮いたそれを今度は右足の甲で受け止める。
身体のバランスを崩さないように注意しながら、ボールが腰の高さを超えないようにコントロールして蹴り上げては受け止め、を繰り返す。
緊張して身体に変な力が入らないようにリラックスしながらもボールに集中し、自然な動きでリフティングを行うことは容易ではない。
だが、一度も不安定な動きになることなく一定のリズムで小気味良く跳ねるボールにフルアは感心しながら、ハインリヒに視線を送る。
それに気付いたハインリヒが薄く口角を上げたままそれを蹴り投げた。

随分と高い位置で放物線を描いたそれはフルアの頭上を軽々と飛び越えていくが、それよりも早く軽やかに後退した彼は胸で受け止め、リフティングを引き継ぐ。

「今のでよく取ったな」
「わざとやりましたね。いいでしょう、受けて立ちます」
「はいはい、フルアさんとボスだけで遊んでいないで、ミニゲーム始めますよー」
「フルアさーん、オレとチーム組みましょう」
「アル、そこは俺じゃないのか?」
「ハインとは後でね。フルアさんの次はグラースさんと組むから、そう簡単には負けてあげないよ」
「ちなみに、累計で負け点がトップの人には全員分のランチを奢ってもらいます」
「罰ゲームまであるのか…」

圧倒的に自分が不利なのでは、と思いつつも、たどたどしくボールを足で転がしているアルフレードの微笑ましい姿に肩を揺らす。
そして、自由に使える備品として置かれていた持ち運びのできるミニゴールを設置し、ジムを利用する際に使っている衝撃や水に強いデジタルの腕時計でタイマーをセットする。

1ゲームの制限時間は5分。
特に厳密なルールはなく、攻守の交代も自由の“2v2”。
要は、本来のコートよりも小さな範囲を使い2対2対で行うミニゲーム。
それぞれのチームに分かれ、ハインリヒが合図を出す。
ボールを持っていたアルフレードが勢いよく蹴り出し、それを3人が追う。
逃げるアルフレードがフルアにパスを出そうとするが、素早くハインリヒがカットし、それをグラースへとつなげた。
3人の中では最も子供らしい時間を過ごした記憶を持つ彼は、幼い頃にも士官学校時代にも友人や仲間とサッカーに興じたことがあるようで。
軽快な足さばきにアルフレードが感嘆の声を上げるが、それがフルアの対抗心に火を着けた。
シュートを狙うグラースから華麗にボールを奪い去る。

「行きますよ、アル君!」
「はい!」
「グラース、ディフェンスだ!」
「うわ、フルアさん上手すぎませんか!?」
「お、アルもナイスカットだ。やるな」

かわし、かわされ、奪い、奪われて。
4人の間を飛び交うボールは徐々にゴールに近付いていく。
インドアな遊びを好んでいただけで運動神経が悪いわけではないアルフレードも慣れてきたのか、絶妙なタイミングでパスを回していく。
相手が初心者だろうが上司だろうが何だろうが、肩書きは関係ないと言わんばかりの遠慮のない攻防。
本気で楽しんでいるからこそ、熱が入る。
グラースとフルアの奪い合いは後者に軍配が上がり、アルフレードにボールが帰って行く。
ゴールはすでに目の前だ。
シュートを阻止しようとハインリヒは踏み込んだが、それよりも早くアルフレードが蹴り上げた。
真っ直ぐに飛んで行ったボールは見事なほどゴールの真ん中に吸い込まれていき、純粋な驚きと感嘆が零れる。
と、同時に5分を告げるアラームが鳴った。

「やりましたね、アル君!」
「はい、やりました!」

満開の笑顔でハイタッチを交わしているアルフレードとフルアを見て悔しがっているグラースの姿の対比が妙に可笑しく、それ以上に微笑ましく、ハインリヒはコートの端まで転がっていったボールを回収しながら口端を緩めた。

アルフレードが奪われた時間はあまりにも多い。
そして、重たく、大きい。
それを自分たちが与えようだなどとおこがましいことは承知の上だ。
ここはアルフレードが本来掴むはずだった未来ではないのだから、疑似体験をさせているに過ぎない。
しかし、それでもあの青年は「あなたたちと出逢うためだったのなら、過去を許したいと思えるようになった」と言って笑う。
もしあの忌まわしい過去を無かったことにできるとしても、その代償としてあなたたちと出逢ったことまで無かったことになってしまうのは寂しい、と。
出逢わないことになってしまうのは哀しい、と言うのだ。

(そんなアルに俺たちが出来ることがあるのなら注ぎ尽くしたいと思うのをエゴではなく、愛情と言ってもいいのだろうか)

過剰で過激な感情だという自覚はある。
他者から見れば滑稽に見えるだろう。
しかし、それが何だ、と笑って言い返せるほど強く、決して揺るぐことのない感情だ。
その他大勢にとって間違っているからと言って、彼にとって正しいという自信があるのなら貫くことが覚悟の証明。

正義の、正しさの真ん中に居るのはいつだってアルフレードで。
その彼が笑っているのだから、躊躇も迷いも悩みも必要ない。
堂々と愛を注げばいいだけ。

(アルが与えてくれる愛情に返すには、それでもまだ足りないくらいなのだから)

ぶんぶんと手を振ってボールを待っているアルフレードに向かってパスを出す。
辛うじて彼の元に届く程度の力で蹴り上げたそれは緩やかな弧を描き、見様見真似で胸で受け止めようとする彼にフルアがタイミングを合図し、万が一に備えてグラースが彼の背後に回る。
だが、自分たちの危惧など必要なかったようで、バランスを崩すことなくアルフレードはそれを受け止めて見せた。

「出来た!」
「すごいじゃないか。リフティングも何回か練習をしたらマスターしそうだな」
「アル君は動体視力が良いのでしょうね。ゲーム中もボールをしっかりと追えていましたし」
「テニスやクリケットも向いてそうですね」
「次はレオナルトたちも連れて来ましょうか」

スポーツ大会でも開くつもりなのか、と思わず口を挟めば、イベントとしては悪くないかもしれないと2人の部下が頷き合う。
社員たちは日常的にラウンジを活用して所属部署に関わらず積極的に交流をしている。
大規模なプロジェクトとなれば年単位を各部署から集まったチームで過ごすことも多く、それがきっかけとなって自ら部署の移動を申し出る場合や逆に引き抜きが行われることも少なくない。
頻繁にイベントを企画している部署もあるようで、比較的風通しが良いのが社風のひとつともなっている。

しかし、幹部ともなると経営業務に直結する立場にある者が多く、交流と言っても公的なものばかりになってしまう。
幹部のみが利用できるサロンもあるが、そこでもやはり会話の軸になるのは堅苦しいテーマだ。
確かにこんな風にあらゆる柵を忘れて自由に駆け回るのも悪くないかもしれない、と思いながら、アルフレードにねだられるままリフティングをする。

「コツはあるの?」
「姿勢を保って、ボールの中心を蹴る…くらいだろうか」
「アル君、もう1つボールがありますからこれを使ってください」
「姿勢はそのままで、ボールを真上に上げるイメージです。あ、受け止めるときも力を入れないで」

余っていたボールを使って練習をするアルフレードを微笑ましく見守りながら、今まで味わったことのないしっとりとした優しい感情を噛み締める。

「与えているつもりになっているだけで、俺たちはアルに与えられてばかりだな」

彼と出逢わなけば知らなかった感情が。
知りようのなかった景色が。
知ろうともしなかった想いが、あまりにも多い。
今もまた、彼が奪われた“青春”を疑似体験させようとしている自分たちの方がそれを取り戻したような感動が肩を叩く。
その優しい手つきは、労わるようで。
慰めるようでもあり、称えるようでもあった。

所詮はこの程度の世界だ、と唾棄し、見ようともしなかった美しさを知ったから。
彼が笑ってくれるのなら、彼が望んでくれるのなら、彼が諦めない限りは、この世界すらも愛したいと思えるようになったから。
生きる理由、それそのものである人と共に在れる己を過去の己が「いずれ報われるのか」と穏やかな目で見ている。

「ハイン!見て!リフティングちょっとだけできるようになったよ!」
「あぁ、上手いぞ。アルは器用だな」
「アルフレード君、次は俺とチームですね。ボスをコテンパンにしましょうね」
「はい!」
「おい、目的が変わっていないか?」
「それはそうですよ、ランチが賭かっていますから」

ちなみにおやつはじゃんけんで負けた者が驕ることになっています、とニヤリと笑って見せるフルアにぽかんと口を開けてしまう。
しかし、彼もまた己と同じだったな、と思い至り、ハインリヒは親しい友人同士でじゃれ合うように彼の肩を小突いた。

「そうとなれば手加減はできないな」
「元よりそのつもりですよ」
「次は同じチームなのにそこで競い合ってどうするんですか、お2人とも…」
「ふふ、仲良しですねぇ」
「俺たちも負けていられませんね、アルフレード君。シュート練習してから第二ゲームにしましょうか」
「さっきグラースさんがやっていたドリブルカットも教えてください」
「もちろんです」

15分ほど練習して、少し休憩を挟んでから次のゲームにしましょう、とグラースが投げてよこして来たボールを受け取り、好戦的な笑みで返す。
そうして、友人同士というよりは年の離れた兄弟が戯れているように見える2人をしばし見つめる。
普段は1歩斜め後ろに立つフルアが隣に並ぶ。
この距離感を心地良いと思うようになったのもアルフレードと出逢ったからだなと内心でほくそ笑む。
多くの言葉を交わさずとも不思議と意思の疎通ができてしまうフルアにはそれが伝わったようで、それと分かるには十分過ぎる微笑を口端に乗せている。

心が弾む。
それを「楽しい」と呼ぶのだと今は知っている。
それが、「嬉しい」ということも。

「今のうちにドリンクを用意しておくか」
「違いますよ、ボス。それは休憩時間に皆で買いに行くものです」
「ははっ、お前が言うか」
「グラースに釘を刺されてしまいました」
「なるほどな、そういうものなのか」
「えぇ、そういうものだそうです」

知らなかったな、知りませんでしたね、と声が重なり思わず同時に小さく噴き出す。

そうしている間にもアルフレードは見る見るうちに上達し、自販機で買った飲み物で渇きを潤してから始めた第二ゲーム。
アルフレードに対しては怪我をさせないように立ち回りつつも、すっかり熱が入ってしまったフルアとグラースが激しくボールを奪い合う。
しかし、アルフレードの身軽さが活き、2人の間からするりとそれを奪うとあっという間にゴールを決めたことでまたも彼のチームが勝利する。
続いての第三ゲーム。
アルフレードとハインリヒの呼吸は見事に重なり、開始早々に最初のゴールを手に入れる。
だが、そこからはフルアとグラースによって点数を根こそぎ奪われた。

その後もこまめに休憩を挟みながら1対1の攻守に分かれるミニゲームや人数は少ないもののルールに則った試合を楽しんで、時刻はあっという間に正午。
アルフレードの腹の虫が騒ぎ始めたのを理由に、「ランチにしようか」と彼らは街に向かった。

郊外ということもあり、中心地のような賑わいは少ない。
だが、郊外だからこそ観光客ではなく地元に根差したスタンドタイプのインビスが数多く並んでいる。
都心で見かけるものは屋台らしく立食形式が主だが、広い道や広場を活かしたテーブル席やベンチが置かれているインビスが多いのもならではと言えるだろう。
有名な観光地からも離れており、牧歌的な雰囲気が喧騒や忙しなさを忘れさせて心を落ち着かせる。

インビスの定番であるプレッツェルやフライドポテト、焼きソーセージにカリーヴルスト。
ケバブの店からは焼きたての肉の芳ばしい香りが漂ってくる。
アルフレードの鳶色の瞳は一層キラキラと輝き、どれにしようかと楽しそうに見回している姿が愛らしく、ハインリヒは彼の丸い後頭部を掌で包み込むように撫でた。

「迷ったときは、全部にすればいい」
「え!?た、食べ切れないよ!?」
「アル君、1人では無理でもここにはあと3人いますよ」
「そうそう、分ければいいんですよ」
「ここはレストランではないからな。行儀の悪さを咎められることもない」

手分けをして買い込んだら広場に並んでいるテーブルで食べよう、とハインリヒが指し示した先。
小さな子供を連れた家族や若いカップルや休憩中と思われる会社員たちが自由に過ごしている。
中でも大学生のグループはテーブルいっぱいにインビスの食べ物を広げ、瓶ビールを片手に笑い合っている。

イタリアでは14歳で義務教育を終えた後、多くの人が多様な選択肢が用意されている高等教育に進学する。
基本的には5年間のプログラムで、テクニカルスクールには経済や経営、工学や情報技術などを学ぶコースがある。
職業教育に重点を置いた訓練校もあり、そこでは具体的で実践的なトレーニングが行われ、調理や建築、ファッションや美容の道に進みたい者たちが選ぶ。
一般的な学問も総合的に教育するのではなく特化していることが特徴で、美術やアート、音楽や舞踊、科学や数学、外国語など細かく分けられている。
アルフレードはその中でもリセオ・クラシコと呼ばれる、ラテン語や文学、哲学や歴史に重点を置いた教育が行われる学校を選んだ。
それも、聖職者を目指していたアルフレードは神学校の附属の高等学校へと。

神学校とは司祭としての能力を育成することを目的とした場所で。
より専門的で伝統的なカトリック神学教育に基づいたものであり、そこで司祭職への強い召命と信仰心を養う。
そして、卒業までに所属教区の司教や司祭からの推薦状を得られた者だけが面接や適性試験を経て、司祭の道へと踏み出す。

厳密に言えば、神学の理解を深めるため論理学や形而上学などの哲学を約2年間学び、そこから更に聖書学や教会史、典礼学など司祭として必要な知識を習得するまでに4年を費やす。
この中で実践的な牧会訓練や宣教活動も行い、病院や学校などで実務経験を積んでいくのだ。
そうしておよそ6年から7年をかけて黙想や祈りの生活を送り、全課程を修了した者だけが司祭に叙階されて正式にカトリック司祭として任命される。

アルフレードは成績も優秀で、素行も人格も申し分なく、教師たちから今後の成長を期待されていた。
基礎知識も十分で、上級生のカリキュラムやボランティア活動に誘われることも多く、叙階は約束されているとも囁かれていた。
その道はたった16歳のときに踏み躙られたが、もしも。
もしも、何事もなく10代後半から20代前半の時間をその場所で過ごせていたとして。
そうだったとしたなら、自分もまたハインリヒたちのように世間一般的な“青春”とはかけ離れた生活をしていただろう、とアルフレードは思う。
多くのものを理不尽に奪われたが、それははじめから自分が得るものではなかった、とも冷静に思うのだ。
アルバイトや異性とのデートや親しい友人たちとのパーティーに、と忙しなく走り回る日常は自分のものではない。
いま、テーブルいっぱいに食べ物を広げて、瓶ビールを片手に陽気に歌い笑い話す日常は聖職者を目指していた己が他者のために祈るべきものであって、己が手に入れたいと望むべきものではない。
そう分かってはいるが、羨ましいと思う感情があるのも事実で。
恐らくハインリヒらはそれも理解した上で、「それでも」とこの時間を与えようとしているのだろう。

(こういう人たちなんだもんなぁ。何度だって出逢いたいって思うのは当然だよね)

ただ無条件に甘やかすのではない。
彼らのそれは、深く、際限がなく、過剰で過激で。
しかし、誰よりも想いやって寄り添ってくれる。
理解、共感、尊重、敬意、正直さや誠実さが根底にしっかりと根付いている。
躓いたからとただ手を取って引き起こすのではなく、自分がどうしたいかをまず優先してくれる。
挫ければ励ましてくれるが、そこに至った結果だけではなく過程に目を向け、自分に非があれば彼らは真剣に諭してくれる。
言葉だけではなく、行動で持ってその誠実さを証明してくれる。
彼らとは全く違う価値観を持っているが、彼らはそれを決して否定せず、彼ら自身のそれを押し付けることもなく、まず1人の人間として向き合ってくれる。
必要であれば厳しい言葉を口にし、残酷な真実も告げる。
何かを言い訳に、理由にして侮ることは決してしない。
それどころか、些細なことでも耳を傾けてくれる。

彼らの過保護は自他共に認めるものだが、だからこそ彼らは簡単には甘やかさない。
傷付かないようにと安全な籠の中に閉じ込めるのではなく、いつでも駆け付けられるように見守りはするが、自由に羽ばたきなさいと望んでくれる。
傷付いたなら一緒に哀しみ苦しんで乗り越えられるように背中を支えるから、空の青さを忘れるな、と。

短期的な、その場限りの優しさではなく。
彼らのそれは、長期的で、幸せや成長を何よりも考えてくれるもので。
大切にされているという実感は、上辺だけのものではない。
アルフレードという人間に対して、彼らは惜しみなく愛情を注いでくれるのだ。

「アル、俺たちはヴルストとケバブを買いに行くぞ」
「私たちは飲み物とプレッツェルを」
「あそこのパラソルが立っているテーブルで集合でいいですか」
「あぁ、分かった。行こうか、アル」

たった一言で求めるものが手元に届けられる立場にありながら、インビスの列に加わるハインリヒが妙に可笑しく、アルフレードはくすくすと小さく笑う。

「ハインが大企業のCOOさんだって知ったらみんな驚くだろうね。あ、現金持ってる?」
「グラースに両替された」
「ふふ、インビスで200ユーロ札を出されたら困るもんね」
「それもあるが、今回は所持金が決められたんだ。カードも使用禁止だと」
「え?なにそれ、どういうこと?」
「友人と遊ぶときに使う平均金額から割り出したらしい」

普段はマネークリップでまとめている高額な紙幣もカードもフルアに取り上げられ、グラースからは小額の紙幣や硬貨を渡された。
友人との買い物で600ユーロを超える時計やスーツを贈ることはない、500ユーロのディナーにも行かない、と。
たった100ユーロを渡されたときは一体何ができるのだと思いもしたが、確かに十分事足りる金額だったな、とメニューに書かれている価格を見てハインリヒは肩を竦める。
2~3ユーロあれば足りてしまうものばかりなのだ。
この後は市内に戻って街を散策する予定になっているが、ショッピングもカフェに立ち寄る余裕も十分ある。

「忙しさにかまけて日常を疎かにしていた代償を痛感している」
「ハインたちの金銭感覚は“生活”とかけ離れているもんね」

普段扱っている数字がとんでもないのだから感覚が麻痺してしまうことは仕方がないのだろう。
だが、マネークリップでまとめられた200ユーロ札の束がボトムのポケットから出てきたときはさすがに呆気に取られたものだ。
飛行機をタクシーのような感覚で使い、時差も国境も彼らの前では何でもないもので。
たった一声で白を黒にすることも容易い力を持つ人たちで。
世間一般的な、所謂“平均”から逸脱してしまった彼らにとってはむしろそれが普通で。
価値観は置かれている環境でも変わるものなのだから、と思いつつも、地に足を付け、身の丈に合う分だけがあればいいという自分にはやはり別次元で。
何度も驚かされたが、こういう驚かされ方もあるのか、とクスクスと笑う。

「ふふ、まさかそこまでこだわってくれているなんてね」
「やるなら徹底的にやるべきだろう?」
「何気なく呟いた一言でこんなことになるなんて思ってもいなかったよ」
「アルのためだったんだがな、俺たちも楽しんでしまっている」
「オレはそっちの方が嬉しいよ。みんなで…みんなとだから、楽しい。嬉しい」
「アル…」
「この後は市内に戻るって言っていたけど、何をするの?」
「旧市街の古本屋とショッピングモールに行く予定だ。探している本があるのだろう?」
「一緒に探してくれるの?」
「もちろんだ。ついでと言っては何だが、フルアがアルに娯楽小説を選んでもらいたいそうだ」

どうしても自分で選ぶと仕事に関係するものばかりになってしまう、と。
グラースは私服を選んでもらいたい、と言っていた。
ラフなものばかり選んでしまい、同じような色とデザインになってしまうから、と。

「ちなみに俺はエプロンを選んでもらいたい」
「今使っているやつは、この前盛大にソースを飛ばしてシミになっちゃったもんね」
「アルと揃いで色違いのやつがいいな」
「ふふ、任せて。ハインに似合う可愛いの選んであげるね」

何やら自分には似つかわしくない単語が聞こえた気がしたが、注文の順番が回ってきてしまう。
にこやかな店員といくつかの言葉を交わしながら手際よく注文していくアルフレードに手招かれる。

「罰ゲームだもんね。お会計、お願いします」

悪戯っぽく笑うアルフレードにつられながら会計を済ませ、両手に焼きたてのヴルストとケバブを持って広場のテーブルに足を向ければ。
そこにはすでにフルアとグラースが座っており、グラースがこちらに向かって大きく手を振っている。
テーブルの上には炭酸のジュースの瓶と大きなプレッツェル。

自分たちの姿を見た第三者はどう思うだろう。
親しい友人たちと休日を過ごしているように見えているのだろうか。
それとも、友人に向けるものとは全く違う濃厚な感情に気付くだろうか。
他者からどう見えたとしても、アルフレードを中心にして集っていることに変わりはない。
アルフレードが陽だまりの真中で微笑んでくれるのなら、それだけでいいのだ。
それが何よりも大切なのだから。

「そういえば、お2人の時間はいつまで大丈夫なんですか?出来れば、夜ご飯も一緒がいいなぁって」
「本当にアル君は可愛いことを言ってくれますね」
「夜までご一緒してもいいんですか?」
「えっと、もしよかったらなんですけど…やってみたいことがあって」

もごもごと口ごもらせるアルフレードの目元はほのかに朱に染まっており、照れくさそうな様子に揃って首を傾げる。
しかし、彼の表情よりも彼が自ら要求を口にしたことの驚きが勝ってしまう。
遠慮深いと言うべきか、自らの判断や意思を他人に任せることはしないが、わがままを知らずに育ってしまった彼は自身の利益のために何かを他者に求めることを良しとしない。
子供であれた時間があまりにも短く、聡明過ぎたが故に。
そんな彼が気恥ずかしそうに「実は、」と切り出すものだから、揃って身を乗り出してしまう。

「何だ、言ってみろ」
「遠慮はいりません」
「とことんお付き合いさせてください」
「ありがとうございます。えっと、実は、みんなでデリバリーのピザを食べてみたくて…」
「ピ、ピザ?」
「CMでよく見るお店の…」
「デリバリーのピザのことですか?」
「あのチェーン店のやつですか?」
「そうです。映画観ながらピザやポップコーンやアイスを食べてみたいんです」

ピザの本場であるイタリアにも宅配サービスを行っている世界的に有名なチェーン店は存在するが、主流ではない。
伝統的なピザの味や品質を重視することが多く、地元の個人が営むピッツェリアで購入して持ち帰ることが多いのだ。
対してドイツでは宅配ピザは人気が高く、全土に多くのチェーン店が展開している。
ファミリーイベントやパーティー、スポーツ観戦などで手軽に食べられるピザは特に人気があり、近年ではオンラインプラットフォームを通じて簡単に注文できることから幅広い層に利用されている。
しかし、自分は利用する機会がないままで。
昔から憧れていた、と気恥ずかしそうに続けたアルフレードにハインリヒは額を押さえて空を仰いだ。
フルアとグラースもまた微笑ましさといじらしさが綯い交ぜになった複雑な表情をしている。

彼の地に足を付けた堅実な価値観も金銭感覚も理解はしているが、おずおずとねだったものが、宅配ピザ。
単純にそれが食べてみたい気持ちもあるのだろうが、それ以上に。
その環境を望んで、だ。

「はぁ、可愛いが過ぎる…」

飲み込み切れなかった呟きが零れ落ちるが、アルフレードはそれどころではないようで。
近くのスーパーに売っている大きなバケツのアイスと電子レンジで簡単に作れるポップコーンも食べてみたい、と熱心に語っている。
あぁ、いくらでも与えてやる、と3人の心の声が重なる。

食文化を重んじるイタリアではやはり地元に根付いた個人の店が強く、ファーストフードや量販品はやや劣勢だ。
わざわざスーパーで買わずとも街の至るところにジェラテリアがあり、みな幼い頃から通っている馴染みの店というものを持っているという。
アルフレードが幼少期を過ごした教会の近くにも老夫婦が営む小さなバールがあり、親代わりとなったレナート司教と通ったと言っていたのはいつだったか。
彼の父親だと公言しているダイトの料理の腕は言うまでもなく、今でもアルフレードにはより栄養バランスや素材にこだわり抜いたものを与えている。
そして、自分もまた。
大型のスーパーに彼と訪れたとき、カップタイプのジェラートをカゴに入れようとしたのを止めて国際ホテルのレストランから取り寄せた記憶は新しい。
となれば、彼がそういったものに触れる機会がないのは必然で。

「帰る前にアイスとポップコーンとジュースを買い込むぞ」
「えぇ、一番大きいサイズにしましょう」
「冷凍のポテトも欲しいところですね」

紙製の皿とプラスチックの使い捨てができるカップも買って。
バケツのアイスも各々好きなようにスプーンで掬って。
行儀が悪いと咎める者は居ないのだから、ラグの上に座り込んで。
ソファに寝転がってもいい。
映画は何がいいだろうか。
コメディか、アクションか、ホラーか。
誰にも咎められないことをいいことに、夜更かしをするのもいいだろう。
食べて、笑って、寝落ちて。
気付けば朝だった、という自堕落な時間の使い方をしたっていい。

「お前たち、泊る用意も持って来ているのだろう?」
「えぇ」
「実は期待していました」

ニヤリ、とハインリヒがよく見せる悪戯を成功させたかのような悪い笑みにアルフレードはぱちくりと目を瞬かせた後、肩を震わせて笑い出す。
上司と部下のやりとりには見えないだろう。
だが、信頼があるからこそのこの気安さが心地良い。
家族のようなこの距離感に安心する。

失ったものは多い。
奪われたものはもっと多い。
けれど、それを数えるよりも、手に入れたものを大事にしたい。
勝ち取ったものを、与えられたものを、真摯に愛したい。

「ハイン、ありがとう。フルアさんとグラースさんも、ありがとうございます」
「あぁ、その笑顔が見たかったんだ。明日も楽しみにしておけよ」
「明日もお祝いしてくれるの?」
「おいおい、何を言っているんだ?アルの誕生日は明日だろうが。今日は前夜祭だ」
「そうですよ、アル君。明日はとびきりのごちそうを用意していますからね」
「朝からドクターがうちに来て準備をするそうだ」
「え、ダイト先生も来てくれるの!?」
「今日も誘ったんだが、保護者同伴で遊ぶ奴があるかと叱られた」
「明日はアルフレード君の好きなメニューばかり作ってくれるそうですよ」

ぱっと表情を綻ぼさせたアルフレードにハインリヒが堪らずといった様子で手を伸ばし、陽光を食んで一層煌めく金糸の髪をくしゃくしゃっと撫で回す。
フルアとグラースも代わるがわるアルフレードを撫でてから、テーブルに広げたヴルストやプレッツェルを彼の前に集めた。
木製のフォークとナイフで器用に切り分けていき、アルフレードの前にはこんもりと盛られたワンプレートが出来上がった。

今日は彼を構い倒さないように、と言い出したのはフルアとグラースだというのに。
やはりこうなるか、と口端に微苦笑を乗せ、ハインリヒもまた具がたっぷり挟まっているケバブを半分に分け、アルフレードの口許に差し出す。
何の躊躇もなくぱくりと食らいついてきた反応に笑いながら、口端に付いたソースを指の腹を使って拭う。

光の轍の中。
分厚い隔たりの向こう側にしかなかったはずのものの真中に立つ。

「この世界に産まれてきて良かったと言い切れるように愛してやりたいな」
「もう言い切れるくらい愛してもらっているよ」
「もっとだ。アルを大切に想う全ての者が文句なしと認めるほどに」

愛されるために生を受けた我が子は正しく愛されている、と。
お前たちが居るのなら大丈夫だ、と。
我が子が出逢ったのがお前たちで良かった、と。
そう言わせられるくらいに。

朝露のようなしっとりとした優しさが滲む眼差しに見つめられ、アルフレードは面映ゆさにはにかんだ。
こんなにも、一片の疑う余地もないほど、あまりにも完璧に愛されているというのに。
彼らは「まだ」「もっと」と言うのだ。
そう言ってくれるのだ。
嬉しい、幸せ、と心が叫ぶ。

「産まれてきたことを祝福してくれる人たちが居て、一緒に過ごせて、こんなに嬉しいことはないね」

何度でも出逢いたい人たち。
この人たちと出逢うためだったのなら、過去を許したいと思えるようになった。
ほんの少しだけれど、理不尽や不条理を許せるようになった。
生きていて良かった、と思わせてくれる人たちなのだ。
エゴでも自己満足でも、他者に嗤われたとしても。
それが何だと言い放って、自分が望むまま寄り添ってくれる人たちなのだ。

はじめから天秤にかけられるものではないが、もし、そうしなければならなくなったとして。
どちらが重いとか大きいとか価値があるかではなく。
今の自分を構成する必要不可欠な存在として、彼らを選ぶ。
そういう人たちに愛されているんです、と青空の遥か向こう、白薔薇が咲き誇っているというその国の住人となった大切な人たちに内心で語りかける。
頬を撫でた優しい風は母の手の温もりを思い出させ、背中に触れた穏やかな陽光は父の眼差しと重なる。
髪を梳くハインリヒたちの柔らかな感触は司教の声を蘇らせた。

「何度だって、何があったって、こんなに大切な人たちが居るんだもん。オレはこの世界を愛せるよ」

愛したい、と続ければ。
3人の眼差しがそれぞれ蕩ける。
気恥ずかしくなるほど穏やかで優しいそれに応えるように、アルフレードもまた満開の花を咲かせるように笑んだ。


 これからのすべての日々で報いて見せると約束を添えて、君をここで待っているよ。今のぼくより。


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***
翌日譚↓

妙な静けさに首を傾げながらリビングに足を踏み入れたダイトは目を瞠り、次いでニヤリと口角を上げたかと思えば腕を腰に当て、息を大きく吸った。
そして、床に転がっている大きな息子たちに向かって大声を叩き落とした。

「起きろ!悪ガキども!!」

いち早く身体を起こしたのはグラースで、次いでフルアが起き抜けでありながらハインリヒとアルフレードを庇うように腕を広げる。
その呼吸よりも自然な無駄のない動きに関心しながらも、彼らに近付いたダイトは盛大な溜め息を落とした。
アルフレードを抱きしめたまま目を覚ましたハインリヒと目が合う。
一瞬驚いたような表情を見せたが、悪戯が見つかった子供のようにバツが悪そうな顔に変わる。

「こーら!お前たちなぁ、こんなところで寝ていたら風邪を引くだろうが」
「ドクター…」
「朝の挨拶はどうした?ん?」
「…おはようございます」
「はい、おはようさん。ったく、ブランケットも掛けずにこんなところで寝落ちたのか」
「も、申し訳ない…」
「一体何時まで遊んでいたんだ?」

深夜3時を過ぎたところまでは記憶がある、と歯切れ悪く答えたハインリヒの頭を軽く小突き、まだ彼の腕の中ですやすやと心地良さそうに寝息を立てているアルフレードの髪を撫でる。

「宅配ピザにバケツサイズのアイス、そっちはフライドポテトか」
「……」
「フライドポテトがあるのになんでポテトチップスまで開けているんだ。しかも、メーカー違いで3つも!」
「……」
「この悪ガキ共め」

ローテーブルの上に広がるのは、あまりにもジャンクが過ぎると叱責されても致し方ない光景で。
それぞれ気まずそうに明後日の方向を見る。

そんな男たちは子供扱いするには随分と成長している。
その中の1人は肩書きも申し分ないもので、巨大な組織を統べる男。
凛と背筋を伸ばして先導する姿しか知らない者がまだ眠たそうな顔をしている彼を見たなら口を開けて驚いただろう。
普段は一分の隙も見せない2人の男も随分と気が抜けた顔をしている。
寝癖を見つけ、ダイトはそっと口端を緩めた。
彼らは肩書きも立場も立派なものだが、自分にとっては「息子」なのだ。
血の繋がりはなく、子と呼ぶには相応しくないかもしれない。
しかし、それでも。
無条件の愛情を注ぐに足る存在。
ダイトは大きな掌でいささか乱暴にハインリヒの頭をわしわしと撫で回した。

「ありがとうな、ハインリヒ」
「ドクター…」
「フルア、グラース、お前さんたちも。こういうのは、“親”にはできないからな」

幸せそうな顔で寝ているな、とアルフレードを見つめて微笑むダイトの声音は柔らかいもので。
面映ゆさを感じながらも、妙な誇らしさが胸に宿る。
アルフレードの気付いた心に全力で寄り添い、地位も名誉も全て投げうって彼を想い続けているダイトに認められたのだ。
自然と口許が綻ぶ。

「朝食を作ってやるから、その間にシャワーを浴びてきなさい」
「俺はアルが起きたら入るから、お前たち先に行ってこい」
「では、お言葉に甘えて」
「ゲストルームにもあるから、好きな方を使え」

勝手知ったる上司の家だ。
必要なものがどこにあるかも把握しているだろう2人が自宅のように寛いだ様子でシャワールームに向かうのを横目で見送り、ハインリヒはぐっすりと眠っているアルフレードの頬に指の背で触れた。
普段は心配になるほど少食な彼だが、周りにいた自分たちのペースにつられたのか、いつもとは違う雰囲気がそうさせたのか随分と食べてくれた。
彼が選んだアニメーション映画は古いものだったが、コミカルな動きやシュールな台詞は今でも人気があることに納得のもので。
その後にフルアが選んだホラー映画はグロテスクさよりもじっとりとした陰湿な不気味さがあり、大きな効果音がする度にグラースとアルフレードが同時に飛び跳ねる様子は可笑しかった。
トッピングを山盛りにしたピザはかなりのボリュームで、食べ切れるだろうかと思ったものの気付けば箱は空になっていた。
あえて紙皿と紙コップを使ったが、その妙に癖になるチープさに、たまにはいいなと皆と顔を見合わせて笑った。

「楽しかったか?」
「はい、とても」

考えるよりも先に口が動き驚くが、ダイトにくしゃりと頭を撫でられ、「楽しかったです」と重ねた。

「アルのためだったんですがね」
「だからこそ、お前たちも楽しまなければ意味がない。アルフレードは喜んでいただろう?」
「…えぇ」
「俺の息子たちは手のかかる奴ばかりだな。だが、そういう子ほど可愛いってもんだ」

寂しいも哀しいも上手く言葉にできずに飲み込むばかりで。
甘え方を知らず、頼り方も分からない不器用者で。
けれどそれを人に気付かれないように装うことは巧く、要らない器用さばかり身に着けて。
やきもきさせられることも心配することも多い。
けれど、それは愛しいから。
大切な存在で、可愛いと思っているから。

アルフレードが笑顔であることが何よりもの願いだ。
それは昔も今も、これからも変わらない。
光溢れた道を歩み、時には挫けながらも悲観することなく“あした”を望めますように、と。
だが、そのためには彼らの存在が最低条件であって、必要不可欠なのだ。
彼が今日も明日もその先の“あした”も、幸せだと笑うためには、彼らが笑顔でなければいけない。
彼らにも、笑顔でいて欲しい。

「親ってのはそう思うんだぜ。子が何歳だろうとどんなに地位があろうとな」
「……」
「なんて、さすがに照れくさいな。キッチン借りるぜ」
「はい、お願いします」
「そこは息子らしく、自分の分はブラックオリーブ抜きでってねだってもいいんだぞ?」
「実の親にもそんなこと言ったことがありませんよ」
「じゃぁ、入れてもいいよな?」
「…抜きで」
「残念、好き嫌いは許しません。量は減らしてやるから、頑張って食え」

ポンポン、と頭を軽く叩かれる。
こうも自分を明け透けなく子供扱いするのはダイトだけだ。
しかし、悪くはない、と苦笑を深くし、ハインリヒはアルフレードの額にかかる前髪を指で払った。
望まれ、愛されるために産まれてきた命。
この綺麗な命のためならば、何だってできる。
何だってしてみせる、と強く思う。

小さく身じろいだアルフレードの頬に掌を宛がい、ハインリヒは彼の名前を呼ぶ。
彼の両親が彼に最初に贈ったそれを、噛み締めるように、胸に刻み込むように。
頬に影を作るほど長い金糸色の睫毛が微かに震え、鳶色の瞳が姿を現す。
その美しさに心が揺さぶられ、声が震える。
しかし、彼が目覚めたら最初に伝えようと用意していた言葉を、ゆっくりと唇に乗せた。

「産まれてきてくれてありがとう、アルフレード」



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