現代人ってのは「本性」ってのを常に暴きたいと思っている、そして清廉潔白な人に悪評がついた時に、それ見たことか騙されたヤツがいるぞとなり、いやオレは決して騙されていないぞと軽佻浮薄な物言いをされるのを嫌う節もあるのだが、これというのは全てカードが背中面を向けているがこれは表にひっくり返してみるまで中身はわからんのだぞと。Aかも知れないが3かもしれないしJかもしれん、しかしとりあえず確かなのは、このひっくり返っているカードが表面になった瞬間に全てが明らかになる、全ては明らかになるのだ、というような前提を我々は持たされすぎていないかということであって。そりゃあひっくり返っているカードが裏面から表面になるわけだから、隠れた面が明らかにはなりはする、そしてああ、全てが明らかになったねとこういう満足を持ちたがるものの、いやそれはトランプの場合であって、その例を引き合いに出して世界や人間を語りたいのはわかるが、そもそも人間というものが果たしてそんなに簡単な生き物だろうかということはあちらこちらで語られてきたはずなのにも関わらず、我々は現在進行形で生きているとついそういう目線で事態を暴きたがりはしないかと。そういう世界観であり価値観というのは非常にわかりやすい。誰だってそうで、清廉であれば裏を探りたくなってしまう。しかしそれはそれ以上に、世界にもっと単純で簡単であってもらいたいという願いのようなものなのではないか。世界は複雑でわかりにくすぎるがゆえに、単純でもっとわかりやすく、そして自分にわかりやすい切り方ですんなり切れてくれないかなという期待。そしてその願いがかなって期待通りに世界は見やすくわかりやすいように提供されるものの、それは単純で見やすくわかりやすいように提供されだけでもはや原型はとどめていないと。
そういう意味では、「蜘蛛の糸」の中で犍陀多(かんだた)っていうのが極悪非道で人殺しに窃盗、悪事ばかり働いてきたようなやつなんだが目の前の一匹の蜘蛛を見て「あーここで捻り潰して殺したら可哀想だ」と急に善人の極みみたいなことを言いだして、見ている人みんながおいおいこいつは一体何を言ってるんだろうと唖然とするような。そういう突拍子の無さというようなもの。そういうものをいちいち拾っていたら劇にならないようなものなんだが、しかし人という生き物のリアルというものを追求していくとそういうところに行き着いたりするのかもなあ、などとふと思ったという。
そういうわけで「本性」なんていうといかにもそれっぽいけど、本性どころか支離滅裂で前後の文脈に全く関係がないというようなものを気まぐれに始めたりするのが人間らしさだったりして。まあそういうのを取り上げ始めるとあまりにもわかりにくすぎて、物語としては破綻し始めるんだろうけど、そういう破綻と気まぐれ、脈絡のなさというのがある意味人間であり、生物らしさでもあるのかもしれない。そしてそういうのはトランプの表裏みたいな単純でわかりやすいものとは恐らく全く相容れないものなのだろう。
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