ということで前回の半分続きのような話となるが。
まあいつもだがしばらく引きずるからこういう風になるのは仕方がないだろう。
・よく田舎で貰い物をして、その貰い物に対する返礼でモノをお返しするなんてのをやっていて、それを延々繰り返しているなんてことがよくある。あれは何を意味しているかって、これを踏まえてみるとよくわかる。つまり貰うものだけもらって得しておさらばしようなんていう「クズ」ではないという証明だということ。あるいは、貰い物をして挨拶もお礼もしないでそのままスルーする……つまり当然あるべきものをしない、そこにあるモノ、その意味が全く汲み取れない……つまり「バカ」でもないという意味での証明になるということ。こうしてクズでもバカでもありませんという共通理解を作り、相互間での信用を築き、その年数を大きく引き伸ばすことでこの社会におけるある種の基盤、共通基盤であり信用基盤であるようなものを作ろうという意思が見受けられるのではないかということ。そしてそれが互いのためにも非常に有効なものであるという認識というものがあった、あるいはそもそも認識はなく単に慣習に基づくものであり、めんどくせーなというものであったにしても、そのことによるプラスな影響というのは受けていたのではないかということ。理解や認識があろうがなかろうがそれは実際の恩恵とは一切関係がないということ。そしてそういう煩わしい慣習であり昔からある名残みたいなものが意外と重要な意味を持っていることがあり、そういう文化があることそのものが恩恵である場合があるということ。
そしてそういう流れの中で、バカとクズとはある意味致命的な意味合いを持っていたのではないかということ。貰い物をしました、やったーと喜んでいます、以上というような場合、ああこいつはバカだとなり話は終わる。まあある意味この人は愛すべき人ということでもあり、まあ喜んでもらえたならいいかという話になる。そこで話は終わらせられるだろう。
ところがクズという評価の意味はこれとは全く異なる。貰い物を受け取り、その返礼品を返す。そういう慣習があったものが、貰うだけもらって一切返礼をしない。それが非対称なものであることはわかっていながらも、そして返すという慣習があることを知っていながらも故意に返さない。それどころかそれを貰っておきながらも何一つしない。そういう場合にどうもこいつはクズらしいぞ?というような要注意の何かが点灯されることがある。つまりその慣習から大きく外れるような人間をチェックするために、あるいは付加的な形で後からくっついたものかもしれないが、そういう機能を持つに至ったと。
じゃあ結局は何かって、この奇妙な慣習であり今やっている人もなぜこんなめんどくさい慣習をやっているのかわからないようなこの慣習というのは、結局はバカ発見器、あるいはクズ発見器として(も)重要な意味合いを持っていたのではないかということ。何らかの形でそういうものを持ちたいと思った昔の人が考え出した合理的でしれっとそういうことができるある種の装置が、このモノを贈るとかモノを貰うという慣習だったのではないかということで。
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