年 号 | 西暦 | 事 項 | ||
厳島神主家藤原氏の時代 320年間 |
神主職の任命 神主の下向 国人領主化 |
承久 3年 | 1221 | 藤原親実幕府より厳島社神主職を任命される。 |
文暦 2年 5月 | 1235 | 神主親実安芸守護に補せられる。 | ||
永仁 2年 3月 | 1294 | 神主親宣幕府より神領桑原新庄、志路原、平良庄預所職、井原村の領地を安堵 される。 |
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永仁 6年12月 | 1298 | 神主親範幕府より厳島神主職、社領等、京都、六波羅、鎌倉の屋敷地を安堵され る。 |
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正慶 2年 正月 | 1333 | 神主親顕は足利尊氏に属し、天王寺にて楠木氏と戦う。 | ||
建武 2年 正月 | 1335 | 神主親顕は小幡合戦で討死する。 | ||
5月 | 足利尊氏は厳島造営料所として造果保700貫を寄進する。 | |||
文和 3年 | 1354 | 足利義詮より小泉氏平に造果保が給与され、神主家との間で争いが始まる。 | ||
応安 4年12月 | 1371 | 神主親直は今川了俊の九州制覇に大内弘世と共に従う。 | ||
応永 4年 3月 | 1397 | 神主親詮は少弐宗間討伐軍に従い豊前小倉で没する。 | ||
7月 | 神主親胤は武田信在と佐東郡内の神領地知行で争う。 | |||
応永 6年10月 | 1399 | 神主親胤は大内義弘に従い堺城で幕府方と戦う。 | ||
永享 7年頃 | 1435頃 | 安芸守護山名氏の指揮下で神主親藤は北九州に出陣する。 | ||
神領地を巡る争い (神主家と 武田氏の抗争) |
嘉吉元年 2月 | 1441 | 武田信賢は龍門山の戦いで一色氏を討ち、神領を含む地を賞賜し佐西郡に入郡 しようとしたが神官佐伯親春はこれを拒み桜尾城に立籠る。 |
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3月 | 武田信賢は桜尾城に押寄せ両陣互いに攻防をし、5月中頃に至り武田勢は敗退 する。 |
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文安 2年 | 1445 | 将軍義政は赤松氏追討の功により、神領を武田信賢に与えようとしたが、神主教 親これを拒む。 |
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宝徳 2年 4月 | 1450 | 神主教親は佐東、高田、賀茂各郡の神領が横領されており、社頭は大破し神殿 は雨露に侵されていると幕府に訴える。 |
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康正 2年 | 1456 | 将軍義政は神領を奪いこれを武田信賢に与えたので、神主教親はこれを拒み神 官、僧侶は桜尾城に立籠る。 |
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長禄元年 3月 | 1457 | 武田信賢は石道に城を築き神官佐伯親春と争い、親春は舅の大内教弘に支援を 請いこれを敗退させる。 |
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長享元年 | 1487 | 神主教親は龍文寺の高僧金岡用兼を招いて洞雲寺を建立する。 | ||
永正元年12月 | 1504 | 教親没し洞雲寺に葬る。 | ||
神主職継承争い (神主家の独立) |
5年12月 | 1508 | 大内義興に随従して上洛していた神主興親は京都において病死する。 | |
9年頃 | 1512頃 | 神主断絶の間友田興藤支持派は桜尾城に、小方加賀守支持派は藤懸城に立籠 って神主職の獲得を巡って争う。 |
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大永元年 | 1521 | 大内義興は桜尾城に初め島田越中守、後に大藤加賀守、毛利下野守を城番とし 置く。 |
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3年 4月 | 1523 | 友田興藤は武田光和、その他国衆の援助を請い桜尾城に入り神主を称す。 | ||
神主家と 大内氏の抗争 (藤原氏の滅亡) |
4年 7月 | 1524 | 大内義興、陶興房は桜尾城を取囲み攻撃する。激しい攻防戦にも落城せず吉見 氏の調停により興藤は引退し、藤太郎が神主となる。 |
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天文 9年 9月 | 1540 | 出雲の尼子氏が郡山城を攻めるとの報に、興藤と神主広就(藤太郎)は大内氏に 叛く。 |
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10年 3月 | 1541 | 大内義隆は七尾に陣を進め桜尾城を取り囲む。 | ||
4月 | 興藤は桜尾城に火を放ち自害し、神主広就は五日市城で切腹する。 | |||
大内氏支配時代 13年間 |
大内氏城番 陶氏城番 |
10月 | 杉隆真(景教)が神主に任命される。 | |
天文19年 8月 | 1550 | 陶隆房は主君義隆を廃し義尊を擁立することを企てる。毛利元就は桜尾城に使者 を派遣し、大内氏の家臣鷲頭氏に城を明渡させる。陶隆房は江良賢宣を桜尾城番 とし神領を支配させる。 |
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9月 | 陶隆房は大寧寺に主君義隆を討った。 | |||
毛利氏支配時代 46年間 |
桂 元澄 | 天文23年 5月 | 1554 | 元就は陶晴賢(隆房)と断絶する。元就は洞雲寺に入り桜尾城の江良賢宣、毛利 与三、新里式部少輔等を降ろし、桜尾城に桂元澄を置く。 |
6月 | 明石口、折敷畑山で毛利、陶両軍の合戦となり、陶勢は敗れ大将宮川甲斐守は 討たれる。 |
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天文24年 9月 | 1555 | 毛利、陶両軍は厳島で合戦となり陶晴賢は敗れ自刃する。元就は桜尾城で晴賢 の首実検をし洞雲寺に葬る。 |
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永禄12年 7月 | 1569 | 桜尾城主桂元澄は没し、毛利元清が城主となる。 | ||
毛利元清 | 天正10年 4月 | 1582 | 豊臣秀吉の誘いに応じ来島通昌が毛利氏を離反するとの噂が広まり、厳島が騒 然となり宝物を桜尾城に移す。 |
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15年 3月 | 1587 | 豊臣秀吉は島津討伐で桜尾城に立寄り厳島に社参する。 | ||
慶長2年 7月 | 1597 | 桜尾城主毛利元清は病没する。 | ||
毛利秀元 | 4年 6月 | 1599 | 毛利輝元は廿日市などを含む177,856石余を毛利秀元に分知し、秀元は長山 城(山口市)を居城とする。 |
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5年 | 1600 | 関ケ原合戦後毛利氏は防長に移封され、毛利秀元は長門櫛崎城に入り支藩長府 藩の祖となり桜尾城は廃城となる。 |
桜尾城
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小稿 『桜尾城とその時代』 年表より