廿日市の中世城跡
   
城 名 城 主 等 現 況 備考
桜尾城  厳島神主家の時代約320年間大内氏・陶氏支配時代約13年間、毛利氏支配時代約46年間在城    桂公園 消滅
 藤掛尾城   小方加賀守が居城したといわれる。また、大内勢の弥冨依重が陣取り桜尾城を攻めた。  藤掛団地及び道路用地  消滅
越峠尾城    藤掛団地及び道路用地 消滅
谷宗尾城  小幡上総守が居城したといわれる。  上水道配水地 消滅
宗高尾城  神領衆の糸賀平左衛門宣棟が居城したといわれる。  陽光台団地 消滅
岩戸尾城  大内勢の陶尾張守興房が陣取り桜尾城を攻めた。  山陽女学園 消滅
篠尾城  大内勢の吉見三河守頼興・杉・内藤氏が陣取り桜尾城を攻めた。  天満宮・正覚院 消滅
嶽尾城  毛利勢の遠藤美作守が居城したといわれる。  用地 消滅
丹渡尾城  陽光台団地 消滅
星ケ城  立野主膳が居城したといわれる。  山林 現存
七尾について
中世の七尾  戦国時代の桜尾城の攻防で、大永4年(1524)6月大内義興は武田氏の支援により神主となった友田興藤を攻撃するため安芸に入り、大内方の杉兵庫助、弥富依重などが七尾に在陣した。その後興藤は大内氏に降り従っていたが天文10年(1541)1月大内氏と絶った。
 大内義隆は興藤を討つために来攻して桜尾城の偵察のため
七尾(大内義隆感状に藤掛陣、内藤家系譜に藤掛山とある)に派遣させたが桜尾勢に襲われ10人ばかりの大内勢が討死した。義隆は3月七尾に陣を寄せ桜尾城を攻撃して4月興藤は腹を切り桜尾城は陥落した。神主広就も五日市城で腹を切り、首は大内方弘中三州に渡され七尾で首実検を行ない桜尾城で勝閲式を行なった。
 4月11日大内義隆は
七尾の陣に棚守房顕を招致して厳島社参について指示し、18日社参して19日に大元より船で七尾の陣に帰った。5月7日には七尾より外宮に参詣し、24日には藤懸七尾より佐東銀山城に移陣した。
 これらから七尾は特定の場所を指していることがわかり、海に面していた藤掛尾城と堀切りで隔絶されていた尾根続きの越峠尾城一帯を七尾と呼称していたものと思われる。
俗説 七尾城  江戸時代に入り戦国時代の七尾は忘れられ場所も不明となった。寛保2年(1742)に作成されたといわれる山陽道行程記によると「藤掛尾城、桜尾城、海老尾城、エビカ尾城(草津城)、上ノ尾城、笹尾城、岩戸尾城」を七ツ尾というとあり、また、文政2年(1819)の国郡志御用に付郡辻書出帳には「桜尾城、藤掛尾城、越峠尾城、谷宗尾城、宗高尾城、岩戸尾城、篠尾城」を七ツ尾としている。文政8年(1825)の広島藩地誌芸藩通志には「桜尾城、藤掛尾城、越峠尾城、谷宗尾城、宗高尾城、岩戸尾城、篠尾城」を七尾城としておりこれにより俗説が定着した。
 このように時代とともに伝承の変化があり、本来の七尾とは異なった俗説が流布し多くの人達がこれを引用しており史的事実ではない。

桜尾城
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