宇和島城(愛媛県宇和島市丸の内)

 *鳥瞰図の作成に際しては「正保城絵図」を参考にした。

 宇和島城はれっきとした近世城郭、しかも築城の名手藤堂高虎によって築かれた城であるが、城そのものは、近世城郭としてはわりと地味な印象を受ける。というのも、城そのものが、中世城郭の平山城をむりやり近世城郭化したかのような構造をしているからである。

 比高50mほどの城山にはそれほど広い郭はなく、手狭な空間ばかりである。「正保城絵図」には、城内の建物も描かれているのだが、山城部分にはほとんど居住に関するような建物は描かれてはいない。それでもそれぞれの郭に石垣を部分的に築き、櫓を載せ、登城道には複雑な折れを入れ、いくつもの関門を通らないと城の主要部には入れないようになっている。その辺りの複雑さが藤堂高虎築城の妙ということであろうか。本丸には台所という建物が一棟建っているが、藩主は平素は三の丸の御殿に住み、山上の部分は居住用には使用されていなかった感じである。

 城内にはかなりの数の櫓が建てられているが、特徴的なのは、塁上にL字型に曲がった形態のものが多くあるということである。普通の城には、こういう櫓はそれほど見かけないが、宇和島城ではやたらとその数が多い。藤堂高虎が差配した城に必ずしもこの形態の櫓が多いわけでもないので、たまたまこの城の作事を担当した人の好みであったのであろうか。また、城内の櫓には下見板張りを用いたものが多い。天守が白壁構造であることと比較してみると、ちょっと違和感を感じる部分である。

 城山は、海に面する島状の地形にあり、東と南側の二方向が海に出張っているような構造をしていた。(ただし現在では埋め立てが進んだために南側には市街地が迫ってきている。) 海に面した部分に2ヶ所ほど、凹形に窪んだ部分が見られるが、これが舟入であったろうか。特に御厩の脇の「黒門」は、船から直接城門に着いて、城内に進入できるようになっていた。

 北側と東側の三方向が陸続きであったので、そちらを海水を取り込んだ堀で区画している。下の以前の記述にもあるように、城全体は五角形をしているが、実際に歩いてみると、四角形と見間違うような微妙な形態でもある。

 絵図を見ると、南側にのみ城塁が描かれておらず、この方向は自然の土手だけだったように表現されている。これではこの方向の守りがあまりにも脆弱なように見える。もともとはこちら側にも塀などが存在していたのであろうか。

 宇和島城は、全体に近世城郭としては小ぶりな感じがする、といってはみても、そこはそれ、やはり近世城郭である。しかも現存天守を残している城でもある。そういう意味では宇和島城はおとずれて損な城ではない、といっておく。

天守をバックに撮影。こうしてみると、おもちゃみたいに小さな建物に見える。デザインは凝っているがちゃちな天守だなあと思いながら接近してみると・・・・・。 いやあ〜、意外と大きいんだなあ、これが。ちょっとびっくりである。
(以前の記述)
 藤堂高虎によって築かれた宇和島城は、小規模ながら四国の名城の1つだ。城全体の縄張りは五角形をしており、それは敵が四方から攻めてきたときに、一つの方向に死角を造るためだという。そんなばかな、と思ってしまうが、江戸時代に幕府の隠密が調査し、提出した見取り図では全体の形が(五角形ではなく)四角形になっていたというから、うーん、あなどれない。

 現存天守は、藤堂高虎によるものではなく、寛文5年(1665)伊達宗利によって建てられたものだという。車寄せが着いていたりして、なかなか瀟洒な造りだ。細かい細工が多いので、写真で見ると一見小さく箱庭のように見えるのだが実際に近づいてみると案外と大きいのでびっくりしてしまうのであった。

2010年12月、25年ぶりに宇和島城を再訪して来たので、写真を追加しておく。 

城のすぐ近くの宇和島第一ホテルに宿泊したので、そばの道路からライトアップされた天守がよく見えていた。 翌日朝、一番に宇和島城を訪れた。昨夜と同じアングルからである。
今回は搦め手に回り込んで現存上り立ち門の所から登城してみた。現存薬医門としては最大級のものであり、慶長年間の建造の可能性のある門である。 登り始めるとすぐに式部丸の石垣が目前に迫ってくる。宇和島城の鳥瞰図が置かれていた。
この辺りの石垣。苔が生えていて、とってもいい雰囲気である。 もう一枚、苔むした石垣。
代右衛門丸の石垣。かなり高い。 代右衛門丸。これから整備するらしいが、現在はまだ荒れている。
代右衛門丸から下の式部丸を見下ろしたところ。 次に公園化されている長門丸へ。写真は長門丸先端の折れのある石垣。
長門丸から藤兵衛丸へ。 藤兵衛丸への石段と石垣。
途中にあった櫓門の跡。 藤兵衛丸にあった長屋門。法学者として活躍した穂積陳重・八束兄弟の生家の長屋門を移築したもので、城の遺構ではない。
同じく藤兵衛丸に移築された山里倉庫。弘化2年(1845)に建てられた武器庫で、現在は郷土資料館となっている。無料なので、ぜひ入ってみよう。 山里倉庫の内部。郷土資料が展示されている。
山里倉庫に展示されていた古写真。現在は失われてしまった山麓の大手門である。 同じく古写真。現在は埋め立てられてしまっているが、かつて城の北西側が海に面していた様子がよく分かる。
続いて本丸を目指す。藤兵衛丸から直接は登れず、いったん下がってから本丸方向に登っていく。すると、本丸の石垣が見えてきた。 二ノ丸の登り口から見る天守。
二ノ丸から見た本丸の虎口。 天守。小さいながらも、瀟洒なデザインである。特に車寄せがデザインを引き締めている。ただし、石段の上のこの位置では、実際には車は寄せられない。
天守を下から見上げたところ。 いよいよ天守内部へ。以前来た時は週二日しか開館してなくて入れなかったのだが、現在では年中無休である。入場料は200円。
天守一階内部。障子張りで、生活できそうな造りになっている。 一階に展示してあった天守の木組み模型。
天守二階。どこの天守もそうだが、階段は非常に急である。 二階の回廊部分。
三階内部。眺めはよいのだが、この日は風がとても冷たかった(xx)。 天守から本丸と宇和島港を遠望したところ。
天守台の犬走り。 最後に天守をもう一枚。
帰りは北側登城道方向に降りていく。途中にあった井戸。 北側登城道から見える石垣。
北側登り口の石段。 北側登り口にある長屋門。城の遺構ではなく、家老桑折家屋敷地に残されていたものを、昭和27年桑折家より譲渡を受け、現位置に移築したものであるという。




吉田藩陣屋(宇和島市吉田町御殿内)

*鳥瞰図の作成に際しては『日本城郭体系』を参考にした。

 吉田藩陣屋は伊予吉田駅の北西1kmほどの所にある。国道56号線(宇和島街道)を北上していくと、道路のすぐ脇に、いかにも御殿風の建物が見えてくるのですぐにそれと知ることができる。

 実はこの陣屋、当初の訪城予定には入っていなかった。しかし、この街道を走っていると「三万石の城下町」と書かれた看板が目に入ってきた。ナビを見ると「伊予吉田駅」の近くである。

 「そういえば、吉田陣屋っていうのがあったような気がするなあ」などと、かすかな記憶をたどっていると、道路脇に御殿風の建物が見えてきた。地名も「御殿」である。これはまさに陣屋の建造物に違いない!

 ナビの地図を見ると、近くに吉田公園というのがあり、そこに折れを伴った水堀らしきラインが描かれている。「そこが陣屋跡にちがいない!」と思って当の吉田公園に行ってみたのだが、勘は大外れで、そこは陣屋跡などではなく、水堀状に見えたのはただの水路にしかすぎなかった・・・・。

 実際の陣屋跡は、北側の御殿山の山麓にあったようである。現存御殿かと思ったのは、実の所、現存建造物ではなく、昭和63年に国土庁のモデル事業の指定を受け図書館を核とする付近一帯の歴史的景観を整えた際のものであるという。模擬御殿とでもいうべきであろうか。図書館にしては非常に瀟洒な建造物であり、このような風流な図書館は全国でもめずらしいのではないかと思う。

 陣屋の背後の御殿山には、中世の石(せき)城という城があった。『城郭体系』の図面を見ると、石垣をそなえた山城であったようで、機会があったら登ってみたいものだ。



 吉田藩は、明暦3(1657)年7月に、宇和島藩主伊達秀宗の五男宗純は、10万石のうちから3万石を分知されたのに始まる。宗純は吉田藩を創立、居館を吉田の地に定めた。

 同4年1月、宗純は国安什太夫を総奉行として陣屋町の造成にとりくんだが、陣屋の建設は尾川孫左衛門の縄張りによって工事を開始、翌万治2(1659)年7月には早くも一部建築を完工して宇和島より移転した。

 (宇和島市ホームページより)












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