今回も安室ちゃんから離れて
多分なんですが、ネガティブな感情を
吐き出すと、スッキリする代わりに
疲れも出まるかと。
なので、今日は休みだし、
一人でカフェでもしようと考えていたのに、
夜までずっと寝ていました
で、新たな気持ちになったので、
この勢いを鎮火させないためにも、
またもやネガティブなことを吐き出しました。
もうほんとね、
最悪なことを言われたのを思い出して、
ずっと抑えていたことが判明しました。
何かというと、
それは母を亡くし、お経を唱えたアイツ。
住職ともお坊さんとも言いたくない。
坊主
アイツはもう許せない。
母が亡くなった時、
みささんは海外にいました。
急いで帰国したのですが、
日程上、お葬式には参列できず。
骨になった後、遺影の母と再会しました。
なぜ、みささんが海外に行ったかというと、
母からの真夜中の電話攻撃、
そして、電話口からの暴言、
「ママが苦しいのに、
娘のあなたはなぜ助けないの?」
かと思えば、愛してるから、と
涙ながらに言ってくる
これがずっと続くと、
私の心も疲弊しました。
なので、私は父に話して、
母がすぐに私に連絡できない、
すぐに追いかけられない場所に
しばらく行きます。
逃げるように日本から脱出したのです。
父も「離れなさい」とのことでした。
もちろん、後ろ髪を引かれる思いでしたよ。
父と母は夫婦関係は解消したけど、
親子関係は変わらない。
だから仲良く2人で旅行をしたり
食事したりしましたから。
だけど、その差が激しすぎて、
何かあれば泣いて電話。
無視したら鬼電。
こういった事情で日本脱出だったのですが、
坊主は後先を見ずに、
私を‘母親を捨てた娘’のように
判断したのだと思います。
そういったことを言われました。
けど、遺影は私と母が一緒に
旅行した時のものなんですよ。
この旅行は私が提案して手配したものです。
海外に行ったことに対しても
「日本を顧みず、海外になんて。
だから、日本はダメになる。」
「結婚してないなんて、
常識的にどうなのか」
などなど、それはもう酷いものでした。
※当時、30歳にもなってなかったです。
一度、反論したことがあるのですが
途中で、母方の家族から止められ、
後で、
「お寺さんのお陰で葬式もできた。
トラブルを起こさないでくれ」
と言われました。
その気持ちは分かります。
けど、
「これからもお世話になるから
反論できなかった。
守れずにごめん、の一言も言えないんだ」
これまで、兄には話したことがありますが、
友人にはほとんど話したことはありません。
伝わらないんです。
理由は、年齢的に親族を
亡くしたことがないから。
※今の年齢なら理解してくれたと思いますが。
言っても無駄だ。
これを思い出して
ガンガン紙に書き出しました。
おい、坊主。
存在が気持ち悪い。
お前はどうでもいい。
家族が不幸になったらいいね。
それを見て苦しめ苦しめ!!
スラスラ書いてたので、
相当溜まってんだなと実感しました。
あの頃でも相当なクソジジィでしたから
今はこの世にはいない気がします。
(会う気がなかったので会ってません)
あ、どこのお寺かと言うと、
丹○市柏○町にあります。
もう公開処刑w
今はわかりませんが、当時、
すぐ隣にログハウスもありました。
あくまでも‘私にとって’を
前置きしますが、
最低最悪なお寺ですね。
※個人の感想なのでクレーム✖️
その言動に反論しない母方の親族にも
幻滅しました。
まぁ、坊主ほどの気持ちはないですけど。
ところでこのワークをした後、
ちょっと父のことでマイナスな
ことが起こりました。
兄は少し機嫌が悪くなった中、
「ま、仕方がないわ。
転んで歩けなくなるとかよりいいやろ?」
と言うと、
「どうしたん?
めっちゃ前向きやな」
と
きっと、この感情の解放からと思います。
解放され、心の引き出しに空間ができ、
ネガティブ要素を受け止める隙間が
できたからかもなぁ、と。
理由を話すと、兄も
「おー、坊主!!アレは酷かったなぁ!
当時は悲しみの方が強かったから、
言い返す気力なんてなかったけど、
今ならボロカスに言うわ。
ボッコボコしてるで。
けどもう、タヒんでるやろ」
と
兄は密かに辛らつ
このブログを読み、
気分を害された方も
いらっしゃるかもしれません。
しかしながら、我慢忍耐の解消をする
目的でも書いているので、
どうか、ご理解の程、お願い致します。
では、良い日曜日を!