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高倉寺宝積院   堺市南区高倉台2丁

行基を開祖とする「大修恵院」(705年起工)にはじまる。

後白河院政期に高倉天皇に保護され、「高倉寺」の号を

賜る。応仁の乱、信長の焼討ち、明治の廃仏で多くを

失い、現在は江戸初期再建の本坊と宝積院のみ残す。


 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に仏閣を設け「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、陶邑に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始?
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。

 

 

高倉寺 本 坊  堺市南区高倉台2丁

左:宝起菩薩堂。右:金 堂

 

 

 

【34】 過激な異端派経典――『三階経』

 

 

 ここで行基にもどります。24歳で晴れて比丘〔正式僧侶〕となり、葛木山の山林修行と飛鳥寺の「唯識」研学に明け暮れているうち、10年あまりの年月はあっというまに過ぎていました。ある日、いつものように飛鳥寺・東南禅院の書棚の奥に潜りこんで経書を渉猟していた行基は、見覚えのない 20冊ほどの典籍に眼がとまりました。

 

 その一群の書は、録外経〔異端偽経として、唐朝廷の仏典目録から排除された経典――ギトン註〕に分類されていましたが、誰もあえて近づかず埃をかぶった偽経の棚で、そこだけは、誰かが借り出して書写した形跡がありました。「その経典とは、山林修業の価値を否定し、集落における活動を奨励する三階宗の教籍であった」(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,p.31.)

 

 「三階宗」は、北斉・隋信行〔540-594〕が開いた宗派で、「三階」とは、「正法」を第一階、「像法」を第二階とする第三階、つまり「末法」の世のことです。その特質は、

 

 

『①末法の世の仏法を標榜し、最初の宗派組織を作った。②〔…〕経宗〔華厳宗←華厳経;天台宗,日蓮宗←法華経 のように「経」に基く宗派――ギトン註〕であり、反省実行の行教であった。③自宗自派の正統性を主張し、他宗を徹底的に批判誹謗したという。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.32-33. 

 

 

 つまり、中国で最初に、大衆に布教して信者を集め、教団組織を作った仏教宗派でした。信行の伝記を見ると、その布教・修業方法は、道路に出て托鉢乞食(こつじき)を行ない、道行く人びとを、僧俗男女の別なく「仏性仏(ぶっしょうぶつ)〔仏性[仏になれる素質]を具えた人〕と崇めて礼拝し、もっぱら集落・街頭で活動した。また、「具足戒」を捨てて労役に従い、得たものを貧民・病人・仏僧に施したといいます。

 

 信行は晩年に煬帝に招かれて長安の「化度寺」に入り、ここで没しています。代になると、弟子の信義が「化度寺」に設けた「無尽蔵院」には、銭帛が数知れず寄付されて溢れるほどであったので、天下の諸寺に分け与えて伽藍修築の資とし、飢餓貧民の救済にもあてたといいます。しかしながら‥‥
 

 

『他宗他法を徹底的に批判誹謗し、堕地獄の教えとする論は、当然に仏教各派との軋轢をうんだから、〔ギトン註――隋・唐王朝〕政府は社会的騒動を起こす危険性を認めたようで、』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.33. 

 

 

 ‥‥信行の死後まもなく 600年には、最初の布教禁止令が出されています。この禁令は効果がなかったようで、代に入ると教勢ますます盛んで、積み上がった寄付の使いみちに困るほどだったことは、上で述べたとおりです。

 

 695年には、正統仏教を重んじた則天武后(そくてんぶこう)のもとで、「三階宗」経典・全44巻は「偽経」と判定されて仏籍から削除され、つづいて 699年、「三階宗」徒に対する迫害が始まります。713年には「無尽蔵院」を廃止、所蔵の銭帛は没収され、京域の諸寺に分配されました。

 

 その後、800年には、偽経とされていた 44巻全部が「大蔵経」〔漢訳仏典の集大成〕に戻されて、名誉回復がなされますが、「三階宗」徒はすでに消滅状態で、回復することはありませんでした。

 

 ちなみに、日本から来ていた留学僧・道昭は、「偽経判定」以前の660年に帰国しているので、「三階宗」経典のうち 18巻以上を、禁令に触れることなく日本に持ち帰っています。

 

 

『当時長安を含め北中国において三階宗は盛行しており、則天武后の三階宗禁圧以前であったから、道昭が三階宗経典を持ち帰ることは容易であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.34. 

 

 

奈良時代中期の集落  滋賀県守山市 服部遺跡 (同HP)

野洲川琵琶湖にそそぐ河口部デルタ上に立地する服部遺跡

には、奈良時代中期~平安時代の合計約60棟の掘立柱建物

検出されている。条里の方向に沿って整然と並び、壁のある

しっかりした構造で、大きな建物は庇(ひさし)付き。

 

 

 

【35】 『三階経』の衝撃――

集落にいる「下等な愚衆」こそ仏性仏である

 

 

 「三階宗」が、正統仏教諸派から異端として排斥されたにもかかわらず、大衆の支持を集めて隆盛した秘密は、その特異な教義にあります。それは、中国で成立した「如来蔵」思想を、極端にまで尖鋭化したものだったと言えます。「如来蔵」とは、人間、ないし動物まで含めて、すべての衆生(しゅじょう)が、如来を蔵している。つまり、「ほとけ」となる素質をそなえているという考え方です。

 

 

『三階宗は山林修行を否定し集落に活動の場を求めた宗派であった。宗祖信行は徹底した街頭の活動家であった。

 

 宗書『対根起行法』に、末法時の衆生は「ただ聚落に在るを得て、山林閑静に在るべからず」といい、その理由として、〔…〕資質が下根〔性格の根本が下等なこと――ギトン註〕である衆生は、仏になりえる仏性(ぶっしょう)をそなえた・如来蔵仏と親縁があるため、そうした如来蔵仏のいる集落にいるべきであるという。同書は繰り返し末法時の衆生は聚落にいるべきであるという。「ただ聚落に在りて山林に在るべからず。」』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.35-36. 

 

 

 つまり、末法の世には、集落は下等な人間であふれているので、人は、集落を避けて「山林」に入って仏に近づこうとするが、それは逆である。末法の世の衆生は、下等であるからこそ、仏になりえる素質「仏性」をそなえており、仏になろうとする覚者〔仏性に目覚めた者と親縁がある。だから、教えを授ける者も、受ける者も、集落から離れてはならない。集落にこそ、如来蔵の衆生が集まっているのだからである――と説くのです。

 

 のちの時代の日本仏教で説かれた「善人なをもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」という声が聞こえてこないでしょうか?……あるいは、聖徳太子が『法華経』「安楽行品」の「常に坐禅を好み、閑処に在りて其の心を摂(おさ)むることを修(なら)へ」を註して、常に坐禅を好む小乗の禅師に近づいてはならない、と、まったく逆の意味に説明していたことを思い出さないでしょうか?(⇒:蘇我馬子と聖徳太子(13)【33】)「三階宗」のテーゼには、どこか、この島国の民の心奥をゆさぶるものがあるようです。

 

 

『「唯だ聚落に在りて、山林に在るべからず。唯だ多伴を藉(か)〔おおぜいの仲間の力を借りるべきである〕。喩(たと)えば破車に多くの縄木を籍り、須(すべか)らく牢として繋縛し始めて物を載す可(べ)し。何を以ての故にといえば、〔…〕唯だ強伴〔強固に結束した仲間〕を得て始めて成り行くを得べし」。

 

 即ち、戒見倶破の下根の衆生〔戒律を何もかも破っているような下等な者、つまり末法の世の人間――ギトン註〕が聚落にあるべき理由は、破車であっても縄木で補強すれば使用できるように、聚落に住む多くの伴侶と助け合う必要があるためであるとする。聚落に住む同朋の力を得て、下根の身ながら出世法〔世から脱出する方法、つまり解脱・開悟――ギトン註〕を解するようになるという。

 

 ここには山林仏教に対する不信とは裏腹に、聚落における同信者結合に対する深い信頼感があらわれている。たとい根機は下根であっても、多く集まればそれは強い伴侶になりうるのであって、〔…〕そうした衆生の聚落における共助活動に多大の信頼を置いているのである。

 

 6世紀の中国において、〔…〕山林仏教を否定する三階宗の所説は、正統に対するアンチテーゼとして、刮目すべきものであった。〔…〕

 

 行基が見たのはこのような三階宗の教籍であり、そこで彼は十有余年にわたる山林修行の価値を否定する論に出会ったのである。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.77-78.  

 

『山林修行の否定は行基の前半生の否定を意味している。強い疑惑にとらわれた行基は、山林を出て生地の和泉國に帰り、一時故郷で静養することになった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.36. 

 

 

家 原 寺   本 堂   堺市西区家原寺町

 

家 原 寺   本 堂   堺市西区家原寺町

本堂西側(写真手前)の発掘調査で「」の基壇が検出され、

本堂の位置に「金堂」、その西に「」のあったことが確認されて

行基年譜』の記事の信ぴょう性が裏付けられた。

 

 

 

【36】 「山林の聖者」、故郷に帰る。

 

 

『ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう』 

マタイ伝 28:10.   

 

 

 ‥‥故郷の人びとにとっては、行基の心中の疑惑と迷いは、まったく察するよしもなく、彼らは 22年ぶりに帰郷した蜂田の息子を、「山林修行」によって神通力を得たスーパーマンとして迎えたのでした。

 

 704年、帰郷した行基が、まず着手したのは、荒れ果てていた生家を整えて、そこに仏堂を建てることでした。(6)【16】で述べたように、それが現在の「家原寺(えばらじ)」です。

 

 『行基年譜』「行年卅七歳」条に「堂一宇(一間四面)、塔一宇(三重)」とあるのは、この創建時の「家原寺」伽藍と思われます。小金堂・三重塔各1宇からなる小さな寺とはいえ、堂々たる瓦葺き礎石建物の威容だったことがわかります。一族中はじめての法師の帰還とあって、眷属近隣から多大の寄付が集まったのでしょう。

 

 さらに翌年には、近隣・南方の現・南区泉ヶ丘に「大修恵(すえ)」を起工しています。

 

 

『故郷の人々は帰って来た行基を偉大な行者引導者と見たのであろう。彼らは行基のまわりに蝟集して行基を静養させなかった。それは『年譜』に翌慶雲2年(705)10月、大修恵院(高蔵寺)が起工されたという記事をあげていることから察せられる。大修恵院は、〔…〕堺市高倉台 3丁の地がこれにあたり、〔…〕大須恵院高蔵寺は、今でも堂々たる伽藍を備えて、1200余年の法灯を伝えている。行基の生家家原寺からここまで、直線距離にしてわずか 6.5㌔ほどにすぎない。〔…〕

 

 泉北ニュータウン泉ヶ丘地区に位置し、〔…〕寺地は明治〔…〕の町村制では大鳥郡西陶器村大字高蔵寺村字陶山とよばれており、崇神紀にみえる「茅渟(ちぬ)陶邑(すえむら)」に該当する地である。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.85-86.  

 

 

 「大修恵院」が建てられたのは、古代「須恵器(すえき)」の大生産地であった「陶邑(すえむら)」の中心部だったのです。

 

 「須恵器」は、古墳時代中期(5世紀)に朝鮮半島・伽耶諸国から伝わった・轆轤(ろくろ)成形・登り窯焼成の新製法による硬質土器で、青灰色の緻密な材質が特徴です。密閉された窯で、1100℃以上の高温で焼成されるため、一酸化炭素・水素の還元作用によって粘土中の第2鉄(赤褐色)が第1鉄(黒青色)に変化し、硬く溶結するのです。(第2鉄は赤さび=ぼろぼろ。第1鉄は黒さび=南部鉄)

 

 「須恵器」よりも古くから生産されていたのは、弥生式土器の流れをくむ「土師器(はじき)」で、赤褐色をしています。古墳のハニワも「土師器」の一種です。「土師器」はロクロを使わないため形はややいびつ、「野焼き」などの低温焼成のため脆くて透水性がありました。

 

 

須 恵 器    堺市埋蔵文化財センター

第Ⅳ期(8世紀,奈良時代)。「陶邑」で生産されたもの。

 

 

 「陶邑窯跡群(すえむら・かまあと・ぐん)」は、大阪府南部の丘陵地帯(堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市)に位置する日本最大規模の「須恵器」生産地です。東西約15㎞、南北約9㎞の範囲に1000基以上の窯が構築され、古墳時代中期から平安時代まで 5世紀にわたり、「須恵器」を生産しました。

 

 「埋蔵文化財センター」の方のお話では、「陶邑」の生産の盛期はやはり古墳時代で、白鳳~奈良時代になると、生産技術が各地に伝播するので、この地方は主生産地の地位を奪われ、斜陽に向ってゆくそうです。


 

『大修恵院が起工された 705年当時、〔…〕須恵器の工人らは生業の斜陽化におののいていたはずである。かれら工人らが頼りにした陶荒田(すえあらた)神社〔↓下の写真参照――ギトン註〕は、〔…〕生業の不安のなかで〔…〕影響力を失い、工人らに精神的活力を与えることのできる新たな力が求められていた。行基が大村里〔「大修恵院」の場所――ギトン註〕に招かれる背景には右のような事情があった。〔…〕行基の 14年にわたる山林における苦修錬業の生活は、悩める人々に加持祈祷をし霊験をあらわす験者として認識させるに充分であった。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.38-39.

 

 

陶荒田神社   堺市中区上之

高倉寺の北方約 2km にある。5世紀以来、「須恵器」生産地「陶邑

の産土神として鎮座してきた。旧東・西陶器村全域を氏地とする。

須恵器生産時代には、工人たちの信仰の中心であった。

 

 

「陶邑」窯跡群 高蔵寺73号窯跡 堺市南区宮山台

「須恵器」を焼成する「登り窯」は、このように、

斜面に穴を掘って造られている。

 

「陶邑」窯跡群 栂61号窯跡(レプリカ) 堺市南区「大蓮公園」内

登り窯」の内部構造が分かるように、上部を削って展示している。

窯の中は傾斜して、上昇する高熱ガスが通るように造られている。

 


 

【37】 護国大寺と、行基の「四十九院」

 

 

 当時、日本に建てられていた寺院はすべて、国家の「護国大寺」か、さもなければ有力な氏族が自分たちの繁栄を願うための氏寺でした。「大寺」における寺院と僧侶の使命はもっぱら「鎮護国家」を祈ることであり、この使命から外れる活動、寺院の外に出て民衆とつながるような活動は、厳しく規制されたのです。僧尼の修業は、「鎮護国家」を祈る能力を磨くためであって、そうである以上、修業はもっぱら、寺院の中に閉じこもってすべきものであったのです。

 

 ところが、行基がその後半生に建立したとされる「四十九院」は、それらとは異なる目的――民衆信者のための施設という特質をもっていました。そして、「四十九院」のなかで最初に建てられた「大修恵院」は、すでにこの特質をそなえていたといえます。

 


『高倉寺の周辺は標高 80㍍から 120㍍の丘陵をなし、縦横に谷がはいりこんで複雑な景観をなしている。〔…〕当時の工業〔…〕は農業とは完全に分離していなかったから、工人たちは〔ギトン註――低地の〕陶荒田社を中心とする村々において緩傾斜面を開いて農業をなし、自家食料の生産をなしていたものと考えられる。ところが、高倉寺周辺は全くの農業不適地であって、ただ薪炭材の採地であったが〔燃料・陶土の採取と「登り窯」の造成には適地であって――ギトン註〕、工人たちの居住する平地の村々に近接していたから、〔…〕須恵器生産の場として、実は最も適していた。〔…〕この地区は須恵器生産の只中にあった。〔…〕

 

 大修恵院が起工された 8世紀初めの陶邑〔…〕須恵器工人は生業の斜陽化におののいていたのである。〔…〕

 

 とは垣をもった建物のことで寺院とは異なる〔…〕、大修恵は説法の場であり須恵器工人の治療・休息の場であり、また葬儀の場であった〔…〕大修恵院は、生家家原寺とちがってとよばれる簡素な建物であり、そこには民衆の為の施設という意味を感じることができる。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.86-88.  

 

大修恵院は、生業の斜陽化におののく須恵器工人らのため、衰退化する産業に不安を抱く地域住民のための施設であったから、この院は人々の不安を鎮め、愉悦をもたらす施設でなければならなかった。〔…〕

 

 大村里に〔…〕行基を招いたのは、親族の大村直(おおむら・の・あたい)氏であった。〔…〕大村直氏が大修恵院創立時の有力な檀越であった〔…〕が、院名は特定氏族の名を含まないから、その背景には名も知れぬ多数の工人・住民の支援があったことが推察できる。大須恵院は、須恵器生産に関与する人々、大村里の人々のための施設であり、広く開放された施設であった。

 

 行基は院や諸施設を造営し命名する際、つねに特定の氏族を連想するような名称を避けたのは、〔…〕施設は基本的に広く地域住民の福利を追求するという目的を忘れないためであった。〔…〕

 

 行基が〔…〕地域住民と最初に接触した場所が、産業・生業の衰退化しつつある地区であったことに注目しておきたい。生業の安定なくして人間の幸福はありえない。生業の安定・産業の振興と仏教の問題について、行基は初めて考える機会をもったのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.39-41.

 

 

古墳時代の須恵器製造(登り窯    堺市埋蔵文化財センター

 

 

 

 

 

 

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