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紫香楽宮址 宮町遺跡      滋賀県甲賀市信楽町宮町

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 668年 行基、誕生。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児(こんでい)」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」に入る。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

 

 

紫香楽宮址 宮町遺跡      滋賀県甲賀市信楽町宮町

 



【110】 「宮町」地区――見いだされた「聖地」の地形

 

 

 紫香楽の北半分:「宮町」地区の発掘調査は 1984年に始まりました。2020年までに 40次にわたる調査が行なわれ、中枢的な・いくつかの重要建物が検出されましたが、どの建物も全面的に発掘されたわけではありません。調査トレンチの外には、まだまだ何が眠っているか分からない状態です。

 

 建物遺構とともに出土した重要遺物は「木簡」とその「削り屑」です。「木簡」は、用済みになると表面を削って再利用されたので、削る前の文字が書かれた「削り屑」も重要なのです。とくに重要なのは「荷札木簡」で、「紫香楽宮」に運び込まれた諸國からの「庸」「調」に付けられていた荷札が、宮のわきの溝などに捨てられたものです。荷札には、品名、生産者のほか、納付の年月が記されているので、時期を特定できます。それによって、溝の埋立や造成など、工事の進展時期を知る手掛かりが得られます。

 

 荷札などの「木簡」によって、「宮町」地区が、天皇の宮殿を含む宮城であったことは確定的になりました。天皇・太上天皇に供える「贄(にえ)」の調理を示すものが多数発見されたからです。天皇専用の薬品の名を記した「墨書土器」も出ています。

 

 以下では、栄原永遠男氏の著書から、…調査・考証の過程は省略して…結論的な部分をひろってまとめておきたいと思います。

 

 まず、「宮町」地区の地形をおさらいしておきたいのですが、ここは地形上きわめて特徴のある場所です。前回の航空写真↓を再出しておきましょう。




 

 周りを山で囲まれています。そしてほぼ円形の平らな場所です。もともとは、「宮町」地区の中央には比較的広い・浅い谷間があったのですが、聖武天皇はその谷間を埋めて平地にしています。

 

 このような小盆地地形に、なにか特別な “聖地” の特徴を読んでいたのではないかと、私は思っています。

 

 やや脱線しますが、近代の詩人・宮澤賢治がやはり、こういう「山林で囲まれた小盆地」の地形に “聖地” を感じ取っています。「小岩井農場」のそういう場所を「der Heilige Punkt デア・ハイリゲ・プンクト〔独〕聖なる地点」と呼び、そこを通るたびに、天上の子どもたちの群れに出会ったり、「ユリア」「ペムペル」という妖精が現れて伴走したり、ジュラ紀の恐竜や巨大シダ林に迷い込んだりすると言っています。あるいは、地質調査の途上で遭遇した小盆地の村で、少年剣舞を見て感銘し、「原体剣舞(けんばい)」『種山ヶ原』などの作品を書いています。つまり、現代の若い人たちの用語でいえば「パワー・スポット」なのです。

 

 

岩手県奥州市江刺田原(旧原体村)の小盆地 「原体剣舞連」の発祥地

 

 

 おそらく、古代から現代までの日本人の中には、この種の小盆地地形に “聖地” を見出す人びとがいるのです。それが “聖地” なのかどうかを科学的に証明することはできませんが、そう感じる人が一定数いるということは、歴史的事実です。そして、聖武天皇はそのひとりだった――と私は考えています。聖武が「紫香楽宮」の造営と遷都に、異常ともいえる熱意で取り組んだ理由は、そこにあると思うのです。

 



【111】 「宮町遺跡」の発掘――

「北部中心建物」と「中心建物群」

 


 ↓これが、現在の「宮町」地区の景観です。埋め戻されているので、どこに遺跡があるやら、見ただけでは分かりませんが、主な建物の遺構は、この写真の範囲にあります。

 

 

 

 

 遺跡のありかを示した地図です↓。上の写真は、下図の「現在地」から撮影しています。

 

 

 

 

 

 

 年紀のある「荷札木簡」の出土場所を精査した結果、最初に建てられたのは「北部中心建物」であったことが明らかになっています。

 

 聖武天皇は、742年 8月末に「紫香楽宮」に最初の行幸を行なっています。天皇が来る以上、頓宮でも御在所でも何でもいいから、とにかく宿舎になる建物を造らねばならない。急遽造られたのが「北部中心建物」だったと考えられます。そうすると、「北部中心建物」の着工は 742年の初めか 741年末に遡ることになります。「恭仁京」からの「東北道」の開通に前後して、すでに紫香楽宮では宮殿の造営が始まっていたのです。

 

 「北部中心建物」が、小盆地の中心部ではなく、北寄り山沿いに建てられたのは、中心部ではまだ「中央谷」の起伏が埋められていなかったこと、またその南側では「中心建物群」の工事が始まっていて、完成を見とおせる状況ではなかったためと思われます。

 

 つぎに行われたのは、「中央谷」の埋め立てです。谷を埋めるのと並行して、「中心建物群」の建築が進行し、「西脇殿」とその左の2棟の小建物は、谷を埋め終ってから建設されました。地図では、「西脇殿」は中央谷から離れているように見えますが、じっさいには、建物は基壇を造ってその上に建てるので、谷地形のままでは「西脇殿」は建ちません。基壇は、谷を埋め固めた上に造成されているのです。

 

 「中央谷」の埋め立ては 743年を中心に進められ、「中心建物群」の建築は 743年に着工された可能性が高く(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.145-151)、「宮」全体の工事は、聖武天皇が「紫香楽」を離れて「平城京」に戻ったあとも 745年いっぱい続いていたと考えられます(op.cit.,pp.160-162)

 

 最近の大きなトピックスは、「中心建物群」の工事中に、その北部分――「正殿」の北側――の建築計画に変更があったことを示す痕跡が発見されたことです。初めの計画では、「正殿」の北側には、東西に長い四面廂(ひさし)の「後殿」を設ける予定でした。じっさいに「後殿」の基礎工事が行なわれています。ところが、「後殿」の南側の柱穴は二重になっており、しかも柱穴の列が東に長く伸びているのです↓。

 

 

 

 

『「後殿」の建設工事が進み、柱を立てるために柱掘形(はしらほりかた)〔柱を立てるために掘る穴〕を掘り上げたところで計画が変更され、「五間門」とその左右につづく塀が造られたのだ。

 

 〔…〕「後殿」の建設工事を途中でやめて、「五間門」と塀に変更したのだ。コの字型配置の建物群〔「正殿」「西脇殿」「東脇殿」――ギトン註〕の北側に、新たな区画を設け、その南側〔「コの字」との間――ギトン註〕を「五間門」と塀で区画したことを意味する。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.117-118. 

 

 

 そこで、この新たに設けられた北側区画を発掘したところ、東西2棟の二面廂の建物が検出されました(↑「西建物」と「東建物」)。つまり、コの字型の「中心建物群」のうち最北に設けようとした「後殿」の建築を取りやめて、そこに新たな区画を造り、2棟の建物を建てたのです。

 

 この東・西建物の配置は、「恭仁宮」に似ています。「恭仁宮」では、「大極殿」の北側に東・西2区画の「内裏」を設け、東区画が聖武天皇の内裏、西区画が元正太上天皇の内裏です。「紫香楽宮」も同様ならば、「東建物」は聖武天皇の御所、「西建物」は元正太上天皇のために建てた御所、ということになります。

 

 そのように考えると、この部分の計画変更は、『続日本紀』が記す政治史過程に符合してくるのです。744年2月26日に「難波宮」で「遷都宣言」をしたのですが、その「勅」は橘諸兄の代読。聖武天皇はその2日前に「難波宮」を抜け出して紫香楽に向かっていました。元正太上天皇は、「難波宮」に留まっています。諸兄が代読したのは、聖武ではなく元正太上天皇の「勅」だったとする説もあるほどです。

 

 しかし、聖武天皇は「難波遷都」などどこ吹く風、紫香楽に滞在して「新京」の造営指揮に余念がありません。その年 11月13日には、紫香楽の「甲賀寺」で、大仏の「体骨柱」棟上げ式を大々的に行ない、「新京」造営の進捗ぶりを逐一難波に報告させ、「紫香楽遷都」に向かって説得を続けます。

 

 こうして、さすがの元正太上天皇も根が尽きたか、聖武天皇の強情に折れて、「紫香楽宮」に移って来るのです。到着が 11月17日。翌 745年正月には、「紫香楽宮」の門に、皇宮のシンボルである「大楯と槍(ほこ)」が立ち、実質上の遷都が示されます。

 

 このようにして、聖武天皇が元正太上天皇を説得する過程で、元正を迎え入れるために、天皇の御所と太上天皇の御所を並べて建てる計画に変更したものと考えられます。上の経緯からすると、その変更と「東・西建物」の建築は、急遽行なわれたことになりますが、じっさい、その急ぎようは、発掘の結果からもうかがえます。↑上図を見ると、2つの建物の中心線の向きは少しずれています。位置もきれいに並んでいなくて、いかにも急ごしらえの印象を免れません。塀と「五間門」が「後殿」の柱穴を再利用しているのも、俄か普請と言わざるをえないのです。

 



【112】 「宮町遺跡」の発掘――造営費用の調達

 

 

 「宮町」地区から出土した「荷札木簡」は、諸國からの「庸・調」が紫香楽に運び込まれていることを示しています。大量の「庸・調」の搬入は、宮殿・寺院等の造営費用をまかなうためです。

 

 出土した「荷札」のうちもっとも早い年紀をもつものは、天平13年〔741年〕10月の「荒堅魚(あらかつお)」に付けられたものです。これは、「駿河國駿河郡鵜良郷」〔静岡県沼津市付近〕の「調」です。前節で見たように「北部中心建物」の着工が 741年末とすれば、そのための費用調達として符合することになります。

 

 つぎに、天平14年〔742年〕の「荷札」として、「鹿枚脯(しかのひらほじし)〔鹿の干し肉の平たいもの〕があります。荷札が丁寧に作られていることから、天皇の「贄(にえ)」に供されるための「調」と考えられます。

 

 これらの「調」は、いったん「恭仁京」に納入されたものが運ばれてきたと考えられます。

 

 

紫香楽宮・宮町遺跡 出土の荷札木簡 [A]駿河國駿河郡鵜良郷の

戸主・春日部小麻呂の戸の春日部若麻呂の調の荒カツオ7連1節

[B]駿河國有度郡(現・静岡市)……の煮カツオ8斤

[C]……龍麻呂の調の塩3斗 [D]……調の荒カツオ11斤10両

 

 

 743年になると、出土荷札の数が急増します。この年、「東海・東山・北陸三道廿五國の今年の庸調等の物」はすべて「紫香楽宮」に納入せよとの命令が出ています。「庸・調」の納入先として、東日本は「紫香楽宮」、西日本は「恭仁京」ということになったのです。

 

 744年。出土荷札の数が多いだけでなく、その発送元を見ると、東日本だけでなく「隠岐」「讃岐」があります。また、年紀不明の荷札には、「丹波」「播磨」「美作」「阿波」があります。そこで、『続日本紀』には記載がありませんが、744年分の全国の「庸調等」は「紫香楽宮」に納入された。栄原永遠男氏は、そう推測しています。

 

 744年11月の元正来臨とあいまって、「紫香楽宮」を実質上・日本の王都とする体勢が整えられたと言えます。

 

 しかし、翌 745年 5月には、聖武元正ともに紫香楽を離れ、「平城京」に復都してしまうのです。

 

 ところで、ちょっと問題になるのは、これらの「庸・調」から、工事費用をどうやってまかなったかです。「紫香楽宮」にしろ「甲賀寺」にしろ、建築材料の大部分は付近の山から調達できそうです。特別な製品として必要なのは、寺院の銅製品や、宮廷の高級な陶器、調度品などでしょう。銅製品は、「内裏野」と「宮町」の中間地点で、銅精錬所跡が発掘されています。陶器も、現地の窯で製造されたはずです。

 

 そうすると、費用として必要なのは、もっぱら労働力を調達するための「雇賃」や、労役夫を給養する食糧ということになります。たとえば、↑上記の「荒堅魚」などは高級な食材で、とてもそのまま労役夫に食べさせたとは思えません。他の「調」物品にしても、貴族の消費を予定した高級な品物が多かったはずです。じっさいに必要な粗食糧――粟、芋など――に、どこかで交換しなければなりません。

 

 紫香楽宮」で荷札がたくさん出土したということは、高級な品物のまま「紫香楽宮」に持ち込まれ、ここで交換されかつ消費されたということです。つまり、少なくとも荷札がたくさん出ている 743-744年には、おおぜいの貴族や高僧が紫香楽に移住し、ここで暮らしていたことになります。彼らが、「調」の払い下げを受けて消費し、交換に、労役夫の給養に必要な物品を出し、あるいは、自ら配下の者を労役夫として派出したのです。

 

 「紫香楽宮」には、多くの中央官司の分署が建てられ、それらの多くは、聖武天皇が去った後の 745年秋にもまだ活動していました(栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,pp.162,220f,260-261.)それらの官署で働くおおぜいの下級官吏は、現地に住んでいたはずです。また、現地の説明板によると、宮殿より小ぶりの・貴族の住居と思われる建物の遺構も検出されているそうです。

 

『紫香楽宮・甲賀寺の近辺には、宮や官司の建物だけでなく、貴族や上級の僧侶の建物も建っていたことになる。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,p.235. 

 

 

 「紫香楽宮」と「甲賀寺」の周辺には、貴族や高僧の住居も建てられ、彼らは、多くの従者とともに生活していました。聖武天皇は、文字どおり百官を率いて紫香楽に移住したのです。

 

 これに対して、荷札の出土が少ない 742年以前の状況を考えてみると、まだ貴族・高僧の移住は少なく、「調」の払い下げによる経費調達には限界があったと思われます。この初期に行なわれた・「甲賀寺」のための山地削平工事や「北部中心建物」建築工事には、「行基集団」が大きく寄与したと、私は考えるのです。

 



 

 

 

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