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ザラスシュトラ(ゾロアスター)は、大天使に導かれ、隠遁生活を共に

した動物たちを伴って、アフラ・マズダから受け取った法の表を人の間に

もたらすため、山から降りてくる。©Meisterdrucke.jp 981682.

 

 

 

 


 

【70】 「交換様式D」の先駆者たち

――ゾロアスターと「選択の自由」

 


ゾロアスターは、草原の住人で、遊牧と半定住生活を営む小さな部族の出であった。伝承によれば、7歳から口伝えによって祭司となるための修業をし、15歳で祭司〔…〕になった。〔…〕彼はそれに満足できず、各地を放浪して過ごし、30歳でついに啓示を受けたという。すなわち、“預言者” となった。このとき彼は、賢明で慈悲深い存在である最高神、アフラ・マズダーを見いだしたのである。

 

 ゾロアスターがもたらしたのは、世界とその歴史を、善と悪という倫理から見る見方である。その場合、善と悪は自由な選択の問題である。悪を選んだ者は地獄に行き、善を選んだ者は天国に行く。〔…〕重要なのは、それらが自由な選択によって決まるということだ。神もまた、各人の自由な選択の問題である。〔…〕

 

 預言者〔ゾロアスター――ギトン註〕は、ダエーワ〔悪魔,悪神――ギトン註〕たちが滅ぼされ、義者が悪者に勝利することを疑ってはいない。しかし、世界を根本から更新するこの善の勝利は、一体いつ訪れるのだろうか。〔…〕

 

 彼〔ゾロアスター――ギトン註〕は、終末には火と溶けた金属による審判があると宣言するが、それは悪者への罰であり、また存在の再生〔世界の更新・再生――ギトン註〕でもある。〔…〕預言者が、〔…〕アフラ・マズダーによって決定され、実現されるさし迫った不可避的な終末 エスカトン を主張したと結論できるであろう。

 

 要するに、ザラスシュトラ〔ゾロアスター――ギトン註〕の教えの出発点は、アフラ・マズダーの全能性,神聖性,善性の啓示なのである。

 

 預言者は啓示を主〔アフラ――ギトン註〕から直接に受けるが、それは一神教とならない。ザラスシュトラが唱え〔…〕るのは、神と他の神的諸存在の選択である。アフラ・マズダーを選ぶことにより、マズダー教徒は悪よりも善を、ダエーワの宗教よりも真の宗教を選ぶことになる。

 

 したがって、すべてのマズダー教徒は悪と戦わねばならない。ダエーワとして化身した悪魔の力に対しては、いささかの寛容も許されない。この緊張関係は、ほどなく二元論を生み出す。世界は善と悪に分かれ』るが、『もうひとつ、かろうじて示唆されている対立もあり、〔…〕精神と物質、思惟と「骨の世界」の対立が〔…〕その後のイランでの思弁に大きな役割を担うことになる。〔ミルチア・エリアーデ,松村一男・訳『世界宗教史』,2,ちくま学芸文庫,2000,pp.206-209.〕

 

 ゾロアスター教ではこのように、世界観は倫理的な「選択」と直結し、実践の問題と相即する。〔…〕選択においてのみ「自由」がもたらされるというのだ。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.164-165.  

 註※ れいによって、柄谷氏の引用の前後を含めて引用しています。以下同様。


 

アケメネス朝ペルシャ、ペルセポリス中央殿の東口にレリーフされたアフラ・

マズダー神。©Britanica; ダレイオス1世〔c.550-486 BC〕が建設した

ペルセポリスは、王宮でも政治的首都でもなく、新年祭を祝うための神殿

都市ないし聖都だった(エリアーデ『世界宗教史』文庫版2,pp.216-217)

 

 

 「選択の自由」と聞くと、私たちは、何か、運命の拘束から解放された・幸福な状態を思い浮かべがちです。しかし、エリアーデによれば、ゾロアスター教において「善」を選んだ者は、「悪と戦わねばならない。〔…〕悪魔の力に対しては、いささかの寛容も許されない」。それは、人間にとってもっとも厳しい「自由」なのです。

 

 「選択においてのみ自由がもたらされる」という言い方で柄谷氏が指摘するのも、ゾロアスターがはじめて明らかにした・「自由」のそのような厳しさです。勇気をもって自ら「選択」する――そして、選択した以上そのいっさいの帰結を引き受けることになる――以外に、人間が「自由」になる方法はないのです。

 

 「氏族社会」の交換様式Aのもとで、人びとは原初の「自由・平等」をなお辛 かろ うじて保持していましたが、穀物耕作への移行、貧富差の拡大、「首長・祭司」層の力と権威の増大とともに、伝統は崩れつつありました。「超自我」が命ずるような理想を貫くことは難しく、内外の矛盾に圧迫されて、ますますより多くの妥協を強いられるようになっていたのです。にもかかわらず、「自由・平等」の理想じたい、明確に意識されてはいませんでした。

 

 このような状況のなかで、集団の平均値から多少とも外れる脱中心的素質をもった者は、成人の年齢を迎えた時、孤独な深淵の前に立たされることとなります。ゾロアスターは、そのような少年だったと考えられます。

 

 「祭司」の地位がなお世襲でない段階の「氏族社会」(身近な例では、樺太のアイヌ,ニヴヒ等の諸種族)では、「祭司」はどのようにして選ばれるのか? ‥他の子と違うエキセントリックな少年、たとえば、いつのまにか一人でどこかに行ってしまい、しばらくすると、ひとりでに戻って来て、何事もなかったかのようにしている、そういう少年を見つけると、村びとたちは、彼を「霊感がある」と認め、儀式の道具を与えてシャーマンに弟子入りさせるのです。

 

 しかし、ゾロアスターは、1部族の「祭司」の地位に満足していることはできなかった。彼は「主 アフラ」にたいして、宇宙創造の秘密を教えてほしい、世界の未来を見せてほしい、迫害する者たちとすべての悪者たちのたどる運命を教えてほしい、と懇願しています。この世で義なる者が不義の者を征服するのは、いつのことなのか? 今すぐに、ではないのか? と烈しく問いかけてもいるのです。(エリアーデ,2,pp.197-198)

 

 これに対して、ゾロアスターが、長い彷徨のすえにアフラ・マズダーから与えられた「啓示」とは:

 

 「私を選んで善の側で戦うか? それとも、悪を選んで無為平穏に悪とともに滅びるか? 二つに一つを選べ!」

 

 という極限的な回答だったのです。

 

 

 

 

 しかし、ゾロアスターの救済の対象は、人間だけに限定されてはいません。この点が、ユダヤ/キリスト教思想と大きく異なっており、仏教に近いと言えます。


 

『神〔アフラ・マズダー――ギトン註〕との最初の対話を含めて、以後 10年間に、ゾロアスターは7回にわたる啓示を受ける。〔…〕2回目以後の啓示において』『6大天使の各々』『自らの守護する被造物に関する教令を、ゾロアスターに授ける。〔…〕6大天使は、被造物の6種の領域の各々を司る守護神である。〔…〕このようにして、ゾロアスターが7回の啓示を授かったことは、〔…〕被造物すべての教導者であり救済者であることを意味した。

 

 つまり『ゾロアスターの宗教は、人間にだけ幸福をもたらすものではなく、動物や植物、さらにそれらが生きる自然環境』をも “救済” する『ものであった。

 

 ゾロアスター教では動物の虐待を禁じ、荒地を灌漑して種子を播くことを勧める。海や川を汚染する者を罰し、樹を枯らすのは悪魔の仕業と考える。〔…〕ゾロアスターは、古代にあって稀なる動物愛護者であり、エコロジストであったと言えよう。〔…〕

 

 『アヴェスター』の最古層に属す「ヤスナ」29章では、牛の魂がアフラ・マズダーに、悲惨な現状を嘆き救済を求める。これに対してアフラ・マズダーは、牛は人間のために創造されたのであり、その人間に家畜を酷使することなく牧養することを教えるのが、ゾロアスターであると説く。〔岡田明憲『ゾロアスターの神秘思想』,1988,講談社現代新書,pp.32-33,14-15.〕

 

 ゾロアスターは、動植物だけでなく、火も水もまた他者として尊重した。〔…〕そのとき、彼は、人間と自然の「交通」という観点をもたらしたと言える。それは呪術的態度とは異質である。

柄谷行人『力と交換様式』,p.166.  

 

 

 たとえば、日本の仏教には、「山川草木、悉有仏性」という考え方があり、インド仏教よりもさらに「自然」のほうを向いていると言えます。しかし、冬には生命が枯れ尽し、春になると再生する、という「世界の、年ごとの」循環的な「更新」を基層に据える……この、日本文化に顕著な傾向は、「狩猟採集社会」の伝統的な「交換様式A」に基いていると言えます。つまり「呪術的態度」にほかなりません。こうした考え方は、毎年同じように移り行くことに拘るようになり、変化を嫌う保守的態度に流れがちです。

 

 ゾロアスターは、こうした循環的意味での「周期的に更新される宇宙的サイクルというアルカイックな」シナリオを、むしろ否定し、それに代えて、「一度きりの・根本的で決定的な変容」、つまり神の審判による「終末」を主張したのです。(エリアーデ,2,p.208)

 

 ゾロアスター教の自然観は、「火」「水」などの思弁的対立を考える点で、むしろ「元素論」に近いと言えます。日本文化のような「無常」ではなく、むしろギリシャの自然哲学に発展していく芽を宿しています。氏族社会の「呪術的態度」への埋没とは異なるのです。

 

 柄谷氏は、「」とは「高次元での回復」だと述べていましたが、その「高次元」――生産力・生産関係の問題ではない――とは、こうした文化的な高度化(狩猟採集社会の「野生の科学」とは違ったものになる)をふくむのではないかと思います。もちろん、自然哲学(→原子論→近代科学)への発展だけが「高次元」化の唯一の可能性ではないはずですが、「無常感」程度では、とても、「氏族社会」の観念を脱して高度化したとは言えないでしょう。


 

ギリシャ自然哲学の祖、タレス〔c.624-c.546 BC〕。

 

 

 もっとも、仏教のなかでも、「弥勒」信仰は例外的に、ゾロアスター教の影響を受けて、弥勒仏の降臨による地上世界のユートピア的革新を主張していました。しかしながら、日本では、数ある仏教諸派が流れ込み、また生まれ出たなかで、「弥勒教」だけは定着することがなかったのです。

 

 

メアリー・ボイスは言う。』ゾロアスター『《すべての下層民は死後地下に行くものと定めた貴族や祭司たちの伝統を絶ち切った〔…〕ゾロアスターは、天国で救済される望みを卑賎な者にも及ぼした〔…〕権力者であっても、不正な行ないをすれば、地獄へ行き、究極的には〔ギトン註――「最後の審判」で〕消滅するという恐怖を与えた。このような死後の世界に関する教理は、二重に権力者を怒らせた》〔山本由美子・訳『ゾロアスター教――3500年の歴史』,2010,講談社学術文庫,p.75.〕

 

 このような教えを受け入れたのが、ペルシャの王キュロス〔Ⅱ世。550-529 BC――ギトン註〕である。〔…〕キュロスはそれを “選択” することによって、これまでになかったような国家を創り出した〔…〕事実、それによって、ペルシャはそれまでの領域国家を越えた「帝国」となりえた、〔…〕

 

 この帝国は、一神教的なゾロアスター教を奉じながら、人々の信仰を強制しなかった。たとえば、キュロス王は、多数の神々を祀る万神殿(パンテオン)を造った。また、ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放し、パレスティナに帰還してエルサレムに神殿を造ることを許した。このようなやり方が、その後、〔…〕アレクサンダー大王からローマ帝国、さらにはモンゴル帝国に至るまで、帝国の範例となったのである。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.166-167.

 

 

アケメネス朝ペルシャの創建者キュロスⅡ世の墓。パサルガタエ,イラン。

 

 

 

【71】 「交換様式D」の先駆者たち

――モーセと「誓約共同体」


 

 「創世記」「出エジプト記」など、『旧約聖書』にまとめられたユダヤの諸文書は、古くモーセダヴィデの時代に書かれた体裁をとっています。が、じっさいのところは、ペルシャ帝国・キュロス王による「バビロン捕囚」からの解放の後、エルサレムに帰ってきた人びとがヤハヴェ神殿を再建したあとに編纂されたものです。『旧約』に収録された「エズラ記」などには、そのことが確かに記録されています。モーセ以来の言い伝えはあったものの、それらが文書化されて教義の形をとったのは比較的新しく、「ゾロアスター教」よりも後なのです。(柄谷,p.167.)

 

 そして、『旧約』のユダヤ教は、ペルシャ帝国を通じて、「ゾロアスター教」から強い影響を受けています。ユダヤの祭司たちは、「捕囚」の身から解放してくれたペルシャ帝国とその宗教に対して、おおいに好意を抱き、積極的にその影響を吸収したことが考えられます。

 

 ペルシャ帝国の広大な版図拡大によって、『ゾロアスターの根本的な教義の多くは、しだいにエジプトから黒海までの全地域に伝播するようになった。

 

 すなわち、創造主である至高神がいること・彼と対立』する『悪の力が存在』し、『この悪の力との戦いを助けるために、多くの下位の神々が創られたこと・この世界は目的があって創造されたこと・〔…〕この世界〔…〕の終末は宇宙の救世主が予告し、彼がその完遂を助けること・』それまでの『間には天国と地獄が存在し、個々の魂』『タヒんだ時に〔…〕個別の裁判があること・時の終り〔世界の終末――ギトン註〕には、タヒ者の甦りと最後の審判があり、邪悪なものは消滅すること・その後神の王国が地上に来って、正しい者は〔…〕この王国に入り、そこで神の前で永遠に魂と同様肉体も不タヒとなって幸せになること、などである。

 

 これらの教義はすべて、捕囚後のユダヤ教のさまざまな学派に受け入れられるようになった。というのも、ユダヤ人は』帝国内の『少数派として自らの信仰を忠実に守る一方、恩人であるペルシャ人を讃え、その信仰に自分たちの信仰に似た要素を発見した。〔…〕臣従民族としての敬意が、この一致を強調し、ゾロアスター教の教義の影響を受け入れたのであろう。

メアリー・ボイス,山本由美子・訳『ゾロアスター教――3500年の歴史』,2010,講談社学術文庫,pp.157-158.  



ヤーコプ・ヨルダーンス「岩から水を湧き出させるモーセ」1618年頃。

渇水の荒野をさまようユダヤの民。モーセが岩を杖で打つと、水が迸り出た。



ウェーバーによれば、ヘブライ語聖書〔『旧約聖書』の大部分――ギトン註〕の根幹をなすのは「出エジプト」の物語である。〔…〕ウェーバーによれば、モーセの神ヤハウェとは、部族連合体の神である。《政治的な集団形成が、一個の集団神への服従を条件とすることは、普遍的な現象である。》〔『宗教社会学』〕イスラエル民族は、遊牧民の諸部族(12部族)の誓約共同体として始まった。「出エジプト記」で語られているのは、そのような部族連合体の成立過程にほかならない。そして、これは、特にイスラエル民族に限られることではない。ギリシャ人もそうであったが、どこでも、遊牧民たちが部族連合体や都市国家を形成するときは、新たな神の下での盟約によってそうしたのである。

 

 ウェーバーはまた、これらの伝承が、モーセの率いる集団が、〔…〕国家を否定する観念を保持したとしていることに注目した。そもそも彼らは、遊牧民とはいっても、〔…〕自ら国家を形成するようなタイプではなかった。イスラエルの民は、小家畜飼育と簡単な天水農業を行なう遊牧民で〔内田芳明・訳『古代ユダヤ教』,下,岩波文庫〕、軍事的でもあったが、農耕民国家の周辺あるいは間にとどまり、盟約共同体を維持しようとした。聖書では、彼らがエジプトとそのタヒ者崇拝〔=先祖崇拝――ギトン註〕を忌み嫌ったことが強調されている。この場合のエジプトとは、いわば、国家と定住〔穀物定住⇒徴税国家――ギトン註〕の象徴である。


 しかし、実際には、モーセの率いた盟約共同体は、農耕可能な「約束の地」に入ると、変貌してしまった。すなわち、ヤハウェ教を棄てて、農耕神バールを奉じて偶像崇拝〔※〕を行なうに至ったのである。そして、その地で実現された社会は、メソポタミアの専制国家と類似したものとなった。たとえば「サムエル記」には、イスラエル部族連合体が王政国家に移行する様子が描かれている。ソロモン王〔在位:970-c.930 BC〕に至って、この王国は、メソポタミアの諸国家に類似した専制国家となった〔「列王記」〕。そこに生じた王権と社会的不平等、宗教的堕落を批判したのが、預言者たちである。彼らは、遊牧民として荒野にいたころの純粋さに戻るよう警告した。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.168-170.  

 註※「偶像崇拝」: 「私の考えでは、[偶像崇拝の禁止]は、定住の禁止に集約されうる。神を眼に見える造形物として崇拝することだけが偶像崇拝なのではない。〔…〕たとえば、国家,民族,共同体を崇拝すること〔も「偶像崇拝」〕である。偶像崇拝の禁止〔の本質〕とは、定住共同体を拒むところにある。」(柄谷,pp.403-404(4))


 

 この節と次の節では、古代ユダヤ教(『旧約聖書』の宗教)について、柄谷氏の「交換様式」の観点からどう把えられるか、ということが論じられています。そこで問題になっているのは「交換様式A」と「」なのですが、やや議論が錯綜しているので、ここで整理しておきたいと思います。前回に私が述べた:「交換様式」は、「の回復」というより「原遊動U」の/への回帰ではないか、――ということが関係してきます。

 

 

クリスティアン・ロールフス:「約束の地を眺めるモーセ」1912年。

 

 

 モーセの時代のユダヤ教は、全体として「交換様式A」だったと言ってよいと思います。エジプト「国家」のもとで、ユダヤの民は「氏族社会」の原理を守って抵抗していました。そこから脱出した後の遊動生活では、「原遊動」に近い「」本来の在り方に、部分的にであれ回帰していたでしょう。とはいえ、すでに氏族ごとに「首長」がいて、「祭司」層も存在する。彼らと、部族全体で盟約されたヤハウェ神の唯一性を強調するモーセとのあいだで、しばしば紛争になりかねない矛盾が起きています。しかし、そのモーセにしてもやはり「」です。「国家」形成に向かいかねない動きに対しては、「」本来の氏族的結束を主張しているのです。

 

 「盟約共同体 Eidgenossenschaft」は、「交換様式A」が卓越する社会に特徴的な集団形成です。それは、遊動時代のイスラエルだけでなく、ポリス集住時代のギリシャ、またそれらを範型とする西欧中世都市の社会組織原理として、永い生命を保ったのです。

 

 しかし、モーセのタヒ後、カナンに定住したイスラエルの民(ユダヤ人)は「穀物定住」に移行し、しだいに「不平等」と、共同体的緊縛による「不自由」が大勢 たいせい を占めるようになりました。人びとは、原初の「自由・自立」を捨てて、服従すべきカリスマ的な「王」を求めるようになるのです。交換様式B・Cが抬頭し、「」の風化とともに、古い遊牧民の信仰は廃れていきます。

 

 ここでイスラエルの社会に出現した「預言者」たち:――彼ら自身は、古い信仰、すなわち「交換様式A」の復古を呼びかけていました。しかし、すでに「」が廃れ、「」による王国(徴税国家)が成立した段階での「」復帰の呼びかけは、社会の常識を覆す過激な、反体制的な性格を帯びざるを得ません。すなわち、「預言者」たちの活動を通して、彼らの意図を超えて、「交換様式」が出現した――と柄谷氏は言うのです。その説明は、次節で述べられることになります。

 

 ここでは、さしあたって、「出エジプト記」に関するウェーバー柄谷の評価を見ておくこととしましょう。彼らによれば、「出エジプト記」が描く「イスラエルの民」は、基本的に、国家に対抗する「」を有する部族社会の人びとです。彼らは、部族の掟に縛られていますし、モーセの “教え” も、それを十分に考慮して、集団の枠からはみ出した者に対する「石打ち」刑など、部族の慣習法を取り入れています。戒律の一部に、「原遊動性U」と「平等・自立」の精神が見られるとしても、それらは、「バビロン捕囚」からの帰還後に、「交換様式」として発祥した「ゾロアスター教」の影響を受けて成立した部分だ、というのが、ウェーバー柄谷の評価であるようです。

 

 この・アケメネス朝帝国の国教となった段階では、「ゾロアスター教」そのものがもはや純粋な「」ではなく、アフラ・マズダーの「啓示」以前にあったの諸要素を復活させるとともに、B・Cの影響を受けて変質していたのです。


 

ウェーバーは、ソロモン王のころの “エジプト” とは「専制貢納国家」の典型を示すものであり、ゆえに “出エジプト” とは、エジプト的な専制国家に転化しつつあった状態からの脱出を象徴的に意味する、という説を紹介している〔上原専禄・他訳『古代社会経済史』,下,東洋経済新報社〕。つまり、“出エジプト” は、イスラエルの民のエジプトからの脱出という出来事を指すだけではなく、イスラエルの民がパレスティナで王国として隆盛していた時期を批判的に見る隠喩でもある。したがって、「出エジプト記」には、原遊動性を保持していた民が、エジプト的な専制国家になってしまったことへの批判がこめられている、といってよい。

 

 聖書〔…〕がどの程度史実であったのか、〔…〕われわれには分からない。しかし、イスラエル〔ギトン註――の民と預言者〕に、荒野で遊動していた時代、そしてその記憶をとどめていた半定住時代への衝迫、そして平等性と自立性の追求、国家への批判があったことは確かだろう。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.170-171.  

 

 

ラファエロ・サンツィオ:「預言者イザヤ」1511-12. フレスコ画

バシリカ・ディ・サンタゴスティーノ教会、ローマ。©Wikimedia.

 

 

 

【72】 「交換様式D」の先駆者たち

――預言者と、「原遊動U」への回帰

 


 エジプト脱出から荒野の彷徨までの遊動時代がもつ意義は、後世のカナンの地に出現した預言者に見いだすことができる。〔…〕先ず、預言者は予言者と区別されるべきである。予言者は呪術師あるいは祭司(神官)である。それに対して、

 

 預言者はほとんどが国家に従属しないし、いわゆる予言、先見を専門にする人たちではなかった。その意味で、予言者ではなかった。ウェーバーは言う。《アモスからエゼキエルに至る捕囚前の預言者たちは、局外の同時代人の眼に映じたところでは、なかんずく政治的民衆扇動家、また場合によっては政治的弾劾文筆家であった。》〔『古代ユダヤ教』,下,p.648.〕たしかにそう見える。しかし、それは彼ら自身が意図したことではなく、むしろ自らの意志に反して、そうしたのである。

 

 《心理学的に見れば、捕囚前の大多数の預言者〔…〕ホセアやイザヤやエレミアやエゼキエルたちは疑いなく恍惚師であった〔…〕彼らはその私的生活行状からしてすでに〔…〕奇人のそれであった。》〔『古代ユダヤ教』,下,pp.689-690.〕ただし、このことは一般に、霊媒的な予言者にも共通する〔…〕イスラエルの預言者たちがそれと異なるのは、〔…〕彼らがそのような預言を行なうのは職業的な任務からではないし、またそのような修練を積んでいたからではない。彼らは預言に対する報酬も受け取っていなかった。〔…〕彼らは意図せずしてエクスタシー状態になるのであり、むしろそのことに自ら異和を感じている。ウェーバーも、この強迫性に注目した。

 

 彼らは、とくにエゼキエルに見られるように、自己睡眠の状態を経験する。強制された行為や、なかんずく強制された演説が現れる。エレミヤは、2つのわれの間に引き裂かれるのを感ずる。彼は、語らねばならぬのを免除してくれと神に嘆願する。彼は欲しない、しかも語らねばならぬ、自分に吹き込まれたものと感じ、自分じしんから来るのではない〔…〕言わねばならぬのは恐るべき運命の廻り合わせだと彼が感ずる事柄を〔エレミヤ 17:16〕語らざれば、その時は恐るべき苛責に悩まされ、烈火のごとき激情が彼をとらえ、〔…〕ただ語る以外にはすべがないのである〔エレミヤ 20:7-9〕〔…〕かかる強制からではなくて「己が腹から」語る者は、エレミヤにとっては断じて預言者ではないのである。〔『古代ユダヤ教』,下,pp.692-693.〕

 

 

ラファエロ・サンツィオ:「預言者エゼキエルの幻視」1518年. 

「私が見ていると、北から激風が大いなる雲を巻き起こし、火と光を放ちつつ

吹いてきた。…火の中に4つの生き物の姿があった。各々が4つの顔と4つの

翼を持っていた。…生き物の頭上の大空に、サファイアのような王座の形の

ものがあり、その上方高く、人間の姿をしたものがあった。光を放つ様は

雨後の虹に見えた。それが主の栄光の姿であった 」〔エゼキエル 1:4-28〕

 

 

 預言者は聴衆から理解されないし、嫌われる。〔…〕だから、そんなことを言いたくはないのだが、「神の命令」に従わざるを得ない。では、なぜそれが強迫的な「力」をもつのか。また、それはどこから来るのか。〔…〕私の考えでは、この強迫的な「力」は、まさに交換様式Dにかかわる問題である。

 

 それはつぎのようなことを意味する。モーセの神ヤハウェは、遊牧民の諸部族の誓約共同体の神であり、成員の平等性独立性を促す存在だった。しかし、人々が遊動生活をやめてカナンに定住して農耕生活になった時、多くは神を捨て農耕神バールに走った。交換様式でいえば、それまでの交換様式Aから生じる力にかわって、交換様式から生じる力〔国家へのソンタク服従をうながす力――ギトン註〕に支配されるようになったことを示している。またそこに残っていた交換様式Aも、氏族社会から専制国家(祭司・官僚制と農耕共同体)への移行のなかで、変形されたのである。そのような状態でを回復しようとしても、それはもはや、“低次元での” 回復にしかならない。つまり、国家に従属する共同体の縛りを強化することになるだけだ。

 

 モーセは自らが率いていた民に刹されたという説があるが、〔…〕象徴的な意味ではモーセは “刹された” のである。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.171-174.

 

 

「エルサレムはバビロニア軍に占領され、我々は剣,疫病,飢饉でタヒぬ」という

エレミヤの演説に怒った役人らはエレミヤを水溜めに投げ込んだ。王が彼を引き

上げるよう命ずると、役人らはエレミヤを吊るし上げた〔エレミヤ 38:1-13〕 

 

 

『しかし、その一方で、に対抗しつつ、を “高次元で” 回復しようとする動きが生じた。つまり、イスラエルの預言者たちは、国家すなわち交換様式Bの支配下で失われた原遊動性を、回復しようとしたのだ。そのときが出現した、といってよい。

 

 しかし、彼らはそのことを “意識” して行なったのではない。むしろ、は彼らの意志に反して現れた。〔ギトン註――それを体現する者の〕自己から発するのではなく、強迫的に到来するがゆえに、見通すことも理解することもできない。旧約聖書では、預言者たちがしばしば、自分がしていることの意義がまったく分からず、苦しんだり途方にくれたり逃げ出そうと〔…〕する姿が描かれている。〔…〕預言者とはまさにそのような人たちである。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.174. 

 

 

 「国家」の下で優勢になった「交換様式B」に従属しながらなお残存している「交換様式A」に、なお固執して維持していこうとするだけならば、単なる「保守」です。そうした復古的な “お説教” が、支配者から悪く見られることはありません。しかし、「」の始原にある「原遊動」も含めて、それらが人間の本来的在り方だと確信して、そこへの「復帰」を求めるとき、その主張は、現存社会を否定するもの、あるいは「神の審判」による世界の刷新を予告するものとならざるをえないのです。

 

 いや、より正確に言えば、「確信して」ではありません。というのは、そのとき預言者たちを動かしているのは、前意識領域の「超自我」だからです。彼らは主観的には、何か得体の知れぬ “霊” に突き動かされて、自ら望んでもいない行動をし、自分のものでない言葉を口走ってしまうのです。それが「」の強迫的到来であり、「原遊動」の強迫的回帰です。

 

 こうして、「交換様式A」が崩れはじめた後の世界には、「」という特異現象が繰り返し現れることになります。それは、おかしな気質を持った個人の単なる錯乱ではなく、偶然的な例外現象でもない。「交換様式」という構造的根拠に基いて、必然的に勃発する “事件” なのです。

 

 

 

 

 

 

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