ローマ市Ⅶ区クヮルト・ミリオ付近に残るアッピア街道。古代ローマは、征服した

都市との間を石畳の軍道で繋いだ。「すべての道はローマに通ず」。

アッピアは、その最初に建設されたもの。©Wikimedia.

 

 

 


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【1】 交換様式《A》《D》,そして《U》

 


 小見出し↑のテーマは、まえに『力と交換様式』をレヴューしたときに、私がたいへん悩まされたものです。しかし、そのレヴューの末尾(⇒:(31・完)【90】)に記したように、柄谷氏自身が、私が苦労して到達したのと同じ結論を、別の著書ではハッキリと書いていたのでした。


 本書『帝国の構造』に収録された対談では、この《》《》《》の関係が、さらにわかりやすくまとめられているので、まずそこを見ておきたいと思います。



『柄谷行人 私は、交換様式を高次元で回復したものだと書きました。ただ、交換様式A(互酬性)は初めからあるわけではなく、〔…〕それ以前のものの回復です。〔…〕定住後に、蓄積が始まり階級分解が生じる危機があった。それを抑えたのが贈与の互酬性です。〔…〕それは、フロイトが言う「抑圧されたものの回帰」として、強迫的に到来したのです。

 

 では、何が抑圧されたのか。それを考えると、交換様式A以前に、原遊動性みたいなものを考えなければならない。私はそれを「」と呼ぶことにしました。〔…〕

 

 ラカンは、言語的な世界への参入を「象徴界」に入ると考えたのですが、その場合、レヴィ=ストロースの親族構造論を念頭においていた。私がいう交換様式Aは、その意味では「象徴界」だと言えます。そして、原遊動性は「現実界」である、と。それはけっして表象できないものですが、存在し続けている。そして、向こうから働きかけてくる。この原遊動性という概念を考えたとき、交換様式A交換様式Dが連関するしくみが見えてきた。〔…〕

 

 定住以前の遊動民と、それ以後の遊動民は異質です。遊牧民は定住民と異なるように見えるけれども、根は同じなのです。そもそも牧畜は、農耕と同じく原都市で創出されたものです。その後に、遊牧民は農耕民と離れたけれども、根本的に持ちつ持たれつの関係にあります。

 

佐藤優 イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』になるわけですよね。オアシスの定住民と周辺の牧畜民との支配の交代が起きてくるという。〔※〕

 

柄谷行人 そうです。

 

 そのような遊牧民の遊動性よりも根底的な・原遊動性がある。それに遡らないといけないのですが、〔…〕これは経験的に確かめることはできないので、抽象力〔思考実験や思弁による推論――ギトン註〕によってしか接近できない、〔…〕原遊動性は抽象力の問題だと思います。いまでも存在する遊動民から、かつてもこうだっただろうと推定することはできますが、実際にそうであったかはわからない。ただ、原遊動性を考えないと、それが回帰してくるものとして歴史を見るということができない。

 

 

イブン・ハルドゥーンの肖像を表した銀メダル。1979年、パリ発行。

 

 

 晩年のマルクスは、未来の共産主義を、氏族社会を高次元で回復するものと見ました。しかし、どうしてそれが不可避的に回帰してくるのかを説明できない。生産様式という観点で考えていると、社会の発展は説明できるが、回帰は説明できないのです。また、共産主義の必然性をいうことができない。〔…〕最晩年の廣松渉が目的論を導入してこざるをえなかったということも、そのせいですね。

 

佐藤優 どうしても外挿的になってしまいますね。

 

柄谷行人 交換様式という観点をとれば、そうする必要はない。交換様式Aが残存すること、そして回帰することは、別に不思議ではありません。交換様式Aは抑圧された「原遊動性」の回帰ですが、交換様式Dにおいて、原遊動性が再び回帰してきます。


 しかし、これは目的論的に歴史を見ることではありません。〔…〕回帰といっても、それは人間の意志・願望を超えた強迫的なものです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.346-349.  

 註※「オアシス定住民と周辺牧畜民との支配の交替」:  アサビーヤ(連帯意識)は、遊牧民において最も強く、文明化するにつれ衰退するので、結束力の強い勇猛な「田舎と砂漠」の集団、とりわけ遊牧民が王権を獲得するが、都市生活と奢侈になじんで弱化し、新たな・より勇猛で連帯意識盛んな集団に取って代わられる。〔イブン=ハルドゥーン,森本公誠・訳『歴史序説』,㈠,2001,岩波文庫,pp.322-331,364-374,402-403,444-449. 同,㈣,「解説」,pp.385f. ;wiki「歴史序説」「アサビーヤ」〕



 柄谷氏はここでは、「原遊動性」の時代の暮らしぶりは、直接の証拠が乏しいので「抽象力によってしか接近できない」としています。

 

 しかし、『力と交換様式』では若干触れられていたように、旧石器人類の考古学的手がかりや、骨格などの形質人類学的証拠があります。現存の民族のなかでは、遊牧民よりも、狩猟採集民の調査(フィールドワーク)から多くを得ることができます。理論的にも、進化人類学の成果を援用することで、それらの断片的な手がかりを解釈し体系化することが可能です。こうして、「原遊動性」の含む本源的な《自由・平等》は、たんなる理念ではなく、人類の「進化圧力(選択圧)」によって生物学的に基礎づけられるのでした(⇒:『力と交換様式』(15)【48】,(16)~)。柄谷氏はまた、それを「超自我」というフロイト心理学の論理によって理解する方途をも示していました。

 

 

ローマ市,アッピア・アンティカ州立公園に残るアッピア街道。©Wikimedia.

 

 

 

【2】 「《帝国》の原理」へ――

「主権国家」を超えるもの

 


 ところで、本書の中心は、《帝国》の原理にあります。ペルシャ帝国,モンゴル帝国、中国の諸王朝など、《帝国》とは、主にアジアの諸地域に生起したものです。ところが、ヨーロッパでは、ギリシャ・ローマの都市国家や中世封建制の諸王国など、東洋的な《帝国》とは異なる原理をもった社会が支配的でした。そのため西洋の人びとは、《帝国》というと、遅れた非民主的で頑迷な社会、自由・平等に反する社会だという偏見にとらわれてきました。マルクス主義の社会発展論も例外ではありません。マルクス主義の史的唯物論は、「奴隷制」「農奴制」「資本主義」という「継起的発展段階」を描きますが、「奴隷制」とは、実際にはギリシャとローマ帝国の一部にしかなかった生産様式です。

 

 そこで、その時代のアジアをどう考えるかが謎になってしまうので、マルクスは、「アジア的生産様式」だとか「総体的奴隷制」だとか、よくわからないことを書いています。アジアの《帝国》はみな「専制国家」で、皇帝以外の人間はみな「奴隷」だったと言うのです。これでは、アジアの社会がどう発展してきたのか明らかにならないし、ヨーロッパの社会も不十分にしか解明されません。それが重大な躓きとなって露呈するのは、資本主義から社会主義への「移行」が語られる場面においてです。

 

 柄谷氏は、ホッブズからヒントを得て、アジアの《帝国》とヨーロッパの絶対王政を、「服従と保護」(交換様式B)という原理によって理解しようと考えました。とはいっても、アジアの《帝国》は、絶対王政のような「主権国家」とは異なる原理に立っています。それは、ざっくり言えば、諸民族の宗教や内政に干渉することなく、それらを束ねて支配する原理です。その点が、「同化」圧力や異文化破壊を伴なうヨーロッパ流の「帝国主義」とは大きく異なっています。

 

 本書は、《帝国》の原理と、アジアにおけるその歴史的展開を主要テーマとしています。まずは、巻末の「対談」と「韓国語版への序文」から、導入となる記述を拾ってみることにします。

 


『私はマルクス主義者のなかには西洋中心主義があると思います。それが世界認識を妨げている。この偏見はヘーゲルから来るものですが、たとえばギリシャ・ローマを別格に扱う。マルクスはそれを「古典古代〔奴隷制――ギトン註〕」という歴史段階と見なしています。』

 

 しかし、『ローマ帝国はギリシャとは異質です。ローマ帝国はギリシャではなくペルシャ帝国を継承したものです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,p.333.  

 

 

 「ペルシャ帝国は、それまでにメソポタミアとエジプトの諸国家で達成された」制度・文化を吸収して成立しています。そのペルシャ帝国を征服して、その諸成果を継承したのが、アレクサンドロス大王の帝国です。アレクサンドロスは、遊牧民であったマケドニアの王家から出自していますが、「エジプトで神(ファラオ)と自称しています。」アレクサンドロス帝国に始まる「ヘレニズム」文化は、単なるギリシャの延長ではなく、ペルシャ帝国を通じてオリエント諸文化の影響を濃厚に受けています。その地盤の上に成立したのが、アレクサンドロスの後継諸国を征服したローマ帝国です。「ローマ帝国に始まったと考えられている諸制度は、ほとんど」すべてペルシャ帝国にあったものです。

 

 

パルミュラ遺跡,ベル神殿。パルミュラはシリア砂漠の中央にある隊商都市。

ベル(バール)神殿は、ヘレニズム時代から建築され、紀元1世紀に完成。

古代オリエント・ギリシャ両様式の統合を見せている。©Wikimedia.

 

 

『疑わしいのは、ローマ帝国がギリシャの延長であり、アジアと異質であるかのように見る考えである。ローマ帝国は〔…〕マケドニアの遊牧民アレクサンドロスが築いた帝国を受け継ぐものであった。そして、後者はエジプトとペルシャ、すなわち西アジアの帝国を受け継いだものである。そのことは万民法、貨幣制度、幹線道路網などにおいて顕著であるが、それらを貫徹するのは、多民族社会を平和裡に統治する「帝国の原理」である。〔…〕

 

 しかし、ローマ帝国の理念がヨーロッパ(ゲルマン社会)にうけつがれたと考えるなら、大きな錯覚である。ゲルマン民族はローマ帝国の周辺社会であって、そこでは部族間の抗争が絶え間なく、帝国が形成されることはついになかった。〔…〕

 

 近代〔ギトン註――ヨーロッパ〕の国家論は、フィレンツェ,オランダ,ジュネーヴのような都市国家にもとづいて考えられている。マキャベリ,スピノザ,ルソーなど〔…〕それらは主権国家を超えるものではなかった。つまり、戦争状態を超えるものではなかった。

 

 主権国家を超える思想は、都市国家にもとづく思想から生じることはなかった。〔…〕帝国の原理」を受け継ぐ思想から生まれたのである。それはアウグスティヌスの『神の国』に始まり、それを受け継いだ哲学者ライプニッツ、さらにカントの思想である。カントがいう「永遠平和」は「世界共和国」を形成することによって実現される。それは主権国家を揚棄することであるが、それはまた、別の観点から言えば、「帝国」を高次元で回復することである。

 

 具体的に帝国について考えるためには東アジア、特に中国を見なければならない。〔…〕中国ではそれ帝国――ギトン註〕が歴史として書き残され、且つ吟味されてきたからだ。さらに、諸子百家の書には、帝国をもたらした諸思想が記されている。〔…〕

 

 20世紀末に欧州連合(EU)が結成された時、それは近代の主権国家を超える企てだと言われた。〔…〕しかし、近代世界システムのもとで「帝国」が可能であろうか。それは事実上、帝国主義に帰結するほかない。実際、EUは単一貨幣による新自由主義の体制〔つまり「新帝国主義」――ギトン註〕であることが明白となった。このように新帝国主義が進展し世界戦争の危機が生じているとき、たんなる国民国家の原理によってそれに抵抗することはできない。われわれはあらためて「帝国の原理」という問題を考えてみる必要がある。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.353-358.  


 

 ↑上の末尾で柄谷氏は、近代の資本主義「主権国家」群による「新帝国主義」と世界戦争の危機に対して抵抗すべく、「われわれはあらためて《帝国の原理》を考えてみる必要がある」と言うのです。が、私は、本書を1回読み終わった段階ですが、この提言にはやはり疑問を抱かざるをえないのです。

 

 アジアの古い《帝国》は、そんなに良いものだったのか? 「永遠平和」を実現するカントの「世界共和国」は、《帝国》を「高次元で回復すること」だと言うのも、容易に受け入れがたい気がします。柄谷氏は、「多民族社会を平和裡に統治する《帝国の原理》」をとりあげて称賛するのですが、それは《帝国》の一面にすぎません。たとえば、多民族が複雑に混居する東欧の社会を支配したロシア帝国は、ポグロム(暴動的なユダヤ人迫害)を惹き起して、ユダヤ人を諸民族の不満のはけ口として利用したり、巧妙な差別待遇によって諸民族間の敵愾心を高めることに、つねに意を用いていました。「分割して統治せよ Divide et impera」は、ローマ帝国でもロシア帝国でも、「多民族社会を平和裡に統治する」ための要諦であったのです。

 

 

1881年キエフポグロム(ユダヤ人に対する一般市民の無差別刹戮)。ツァーリ・

アレクサンドルⅡ世の暗殺事件を機に、翌82年にかけてロシア帝国領内で

200件以上のポグロムが、事件(犯人はナロードニキ過激派で逮捕済み)

と無関係なユダヤ人を標的に引き起こされた。キエフ,オデッサ,ワルシャワで

とくに激しかった。ポグロムという言葉ができたのも、この時。©Wikimedia.

 

 

 そういうわけで、柄谷氏の主張を疑問なく受け入れるようなレヴューにはなりそうもありません。しかし、氏の描く「《帝国》-周辺-亜周辺」の歴史像は、世界史の巨視的展望として、たいへん斬新なスキームです。西洋中心の発展史観、あるいは、東洋/西洋の2つの発展経路を対比する史観、‥‥等々とは根底から異なる歴史の見方が、そこにはあります。私なりの問題意識は維持しつつ、この「《帝国》論」をひととおり追いかけてみたいと思います。

 

 なお、「東洋/西洋の2つの発展経路を対比する史観」については、中国史学者のグループによるプロジェクトの書評を準備していますので、柄谷氏の「《帝国》論」のあとには、そちらを比較のために紹介したいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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