9/4(月)~6(水)にかけて、「青春18きっぷ」を使っての恒例「夏のお城巡り二泊三日の旅」に出かけました。今回は、富山県と石川県にある山城(中世城郭)と近世城郭巡りです。

※「松倉城」「富山城」「増山城」「高岡城」「金沢城」「福井城」(雨やトラブルの影響で「末森城」「大聖寺城」は断念、「高岡城」「福井城」は計画外で訪城)

 

9/5(火)の二城目は、「高岡」からレンタカーで続日本100名城の「増山城」(富山県砺波市)へ向かいました。

 

「高岡駅」に10時1分に到着して駅に出るともう既に雨が降りだしていました。レンタカーは今回初めての「ガッツレンタカー」。「ガッツ石松さん」をキャラクターにした格安レンタカーで売り出している会社です。何故そんなに格安なのかというと、中古車を使用しているかららしいです。また、従業員も店舗に一人の配置、ナビなどはオプションとなります。

 

私が手続きをしている間、雨がドンドンと激しくなってきて、乗車するときには傘をさしていても、私も担当のお姉さんもずぶ濡れでした。

 

ひとまず車に乗り、砺波市方向へ進むに連れて雨の勢いもマシになり、「増山城」の登城基地でもある「増山陣屋」に着いた頃にはカンカン照りの天気になっていました。「増山陣屋」とは、本当の陣屋があるのかと思いきや、登城者のベース基地となる建物で、「増山城」の解説、パンフレットやスタンプ等の設置がされていました。

 

登城前にまずは「増山城」の歴史と城主について触れておきます。

 

「増山城」の前身は「和田城」で、越中守護の「桃井直常」等の「桃井氏」の勢力下にありましたが、その後越中守護「畠山氏」の守護代であった「神保氏」が長く支配し、戦国時代に入ると「神保氏」が実質的な越中支配者となりました。

 

1560年に「上杉謙信」が越中に侵攻すると、「神保長職(ながもと)」は「富山城」を捨てて「増山城」に落ちのびます。1572年に「長職」は「一向一揆勢」と結びつき「一揆勢」が「増山城」に立てこもるようになります。

 

しかし1576年に、「謙信」が「増山城」を攻略して臣下の「吉江宗信」を入城させますと、1581年には「織田信長勢」の「佐々成政」が増山城を攻略して「増山城」を改修します。

 

「成政」が「豊臣秀吉」に降ると、「増山城」は「前田氏」に与えられますが、1615年の「一国一城の令」で廃城となりました。

 

増山城」の縄張りですが、現在はダム設置で「増山湖」となっている「和田川」の東側にある急峻な山を巧みに活かした山城です。

 

主郭である「ニノ丸」の西側には出丸的な「一ノ丸」を置き、南側には「南櫓台」「鐘撞堂」「K郭」等で防備し、後背には北側からの攻めに対しても「安室屋敷」「三ノ丸」を置いて「土塁」や「櫓台」で防備しています。

 

城内には、多くの「横堀」を通すとともに、「大堀切」を設けて敵の来週の分断を図っています。更に、北方向には「亀山城」「孫次山砦」等を配備しています。

 

「増山城」のパンフレットより↓

 

 

それでは、天気も良くなり暑い中での登城を開始します。

 

「増山湖」から水が放出される「ダム」の上を渡ると「冠木門」があり、そこが登城口となります。暫くは、登りが続く遊歩道となりますが、暫くすると解説板が立っていて「大堀切」とありました。

 

「冠木門」(推定復元した門、城近くの「千光寺」に16世紀初頭に建てられた門を参考に建造)↓

「冠木門」からの遊歩道↓

 

遊歩道の両方の山を鋭くカットした「V」字が目に止まります。この「大堀切」はまさに「大」であって大きさと共に長さも約310mも続いているそうです。そしてその少し上には「F郭(かく)」と呼ばれる小さな郭があり、その手前は「切岸」を施して、北側の湖方向から侵入してくる敵陣を阻止するように造られています。

 

大堀切 (東側から、全長305m)↓

「大堀切」 (西側から、全長305m)↓

「F郭(かく)」跡の「切岸」↓

「F郭(かく)」跡↓

 

遊歩道の突き当りは「一ノ丸」跡が迫り、右手へ廻り込みました。暫くすると城内で水が確保できる「又兵衛清水」が山道一段下にありましたので道から写真を撮り前進しました。

 

「一ノ丸」跡の先端↓

「又兵衛清水」↓

 

「二ノ丸」跡(実質の主郭)は最後に登城するとして、少し左手へ廻り込み「安室屋敷」跡へ進みますと、右手の「二ノ丸」跡と左手の「安室屋敷」跡の間にできた「横堀」のような長い「堀切」に出ました。

 

「二ノ丸」跡(右)と「安室屋敷」跡(左)の間にできた長い「堀切」↓

 

「安室屋敷」跡へは木でできた階段が付いていて本来は上がれるのですが、階段が腐っていたのか使用禁止となり跡地には上がることができませんでした。しかし、最後に「ニノ丸」跡の「鐘楼台」(櫓台)に上がった時に、そこから俯瞰ができたのでその写真をここで掲載しておきます。

 

使用禁止の「安室屋敷」跡への階段↓

「安室屋敷」跡、右手に「土塁」が見える(「ニノ丸」跡の「鐘楼台」(櫓台)から見下ろす↓

 

「安室屋敷」跡と「ニノ丸」跡と「三ノ丸」跡の各先端が迫って三叉路になった所に「馬洗池」がありましたが、水は無く草が繁茂しています。城内唯一の池で、山間の湧水を利用してできていて、馬の水を汲んだ場所だそうです。

 

「馬洗池」跡↓

 

そこから「三ノ丸」跡へは上がらないで、「三ノ丸」跡と北へ延びる「安室屋敷」跡の間の「横堀」を北方向へ進みます。左手の「安室屋敷」跡の北東隅にも「土塁」があるようで高さのある東面が迫ってきます。

 

「三ノ丸」跡(右)と北へ延びる「安室屋敷」跡(左)の間の「横堀」↓

 

更に続く「横堀」を右手(東)へ折れる「横堀」の方へ進みますと、今度は「三ノ丸」跡の北側にある「土塁」が郭の高さを増しています。

 

北へ延びる「安室屋敷」跡(左)沿いに「横堀」が伸びる、右の「土塁」を右手(東)へ折れる↓

右手前が「三ノ丸」北側の「横堀」↓

「三ノ丸」北側の「横堀」(北西方向)↓

 

「横堀」から上り道となった北東には「御殿山屋敷」跡があり、その真ん中を道が通りますが、両脇は木々が覆い全体像が良く分かりませんでした。ただ、その北側には「土塁」が西に向かって伸びているのが確認でき、そこから坂道になっているのが「竪堀」のようでした。

 

「御殿山屋敷」跡の真ん中を通る山道↓

「御殿山屋敷」跡北側の「土塁」↓

「御殿山屋敷」跡北側の「虎口」から「竪堀」に↓

「御殿山屋敷」跡北側の「竪堀虎口」(上記写真の反対側から)↓

 

そこから下っていくと竹藪のような所があり「足軽屋敷」跡と標記していて、北西に向かって伸びていました。下級の家臣団屋敷があったようで、その先端には「堀切」もあるようでしたが、中へ進むのをやめて、更に山道を進むと、大きな谷か堀切にむかって下り、再び上がった所が「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡で大きな広場がありました。

 

「足軽屋敷」跡(奥へ伸びる)↓

「足軽屋敷」跡から「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡へ(谷か堀切のような所を通る)↓

 

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡は東西に別れていて東側が主郭、西側が外郭となっているらしく、特に東側の主郭周囲には「土塁」が築かれていました。また、虎口も3箇所あるそうです。

 

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡の主郭部分↓

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡の「土塁」↓

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡の「土塁」↓

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡の「虎口」の一つ↓

「池ノ平等(いけのたいら)屋敷」跡の「虎口」の一つ↓

 

一方西側「外郭」入口付近には、「神保夫人入水井戸」という覗くと非常に深そうな井戸があります。ここは、元々「池ノ平等屋敷」の水源として使用されていた井戸でしたが、「上杉謙信」の侵攻で落城した際に、城主の夫人「神保政子」が神保家伝来の宝剣を抱いて入水したという伝説が残っています。

 

「神保夫人入水井戸」↓

 

この先にも多くの郭があり、それを通り抜けていくと、最初車を置いた「増山陣屋」へ出るようでしたが、ここで踵を返しもとの山道を戻り「増山城」の主郭「ニノ丸」跡を目指しました。

 

「増山城(前編)」は以上です。次回「増山城(後編)」では、いよいよ中心部分に迫ります。

 

 

 

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