9/5(木)からスタートした今夏の2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2城目は「上山城」(山形県上山市)です。
「天童城」に登城後、中腹にある「織田信長」を祀る「建勲神社」に立寄って13時40分に出ました。
45分位で「上山城」に到着、2005年に訪城して以来です。まずは模擬「天守」が建つ「二の丸」跡に行きましたが、当日は閉館中で中を見ることができませんでした。
「上山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。
「最上家」一族の「里見満長」がこの地に入りお城を築きます。当地は、羽州街道と奥州街道との分岐点である交通の要所でもあったことから、戦国時代には「最上家」と「伊達家」との間で争奪戦が繰り広げられました。
「里見家」は、「関ケ原の合戦」の地方版「慶長出羽合戦」で「直江兼続」軍を撃退しますが、「最上義光」との対立で出奔したことから、「義光」の五男「光広」が入城します。
しかしながら、「最上家」がお家騒動で取り潰されたことから、1622年に「松平(能美)家」が4万石で入城します。更に「蒲生家」「土岐家」が城主となり、近世城郭として改築されて「三重天守」や「二重櫓」が築かれます。
「土岐家」の国替えにより一時「上山城」は廃城となりますが、「金森家」が入り復活、1697年に「松平(藤井)家」が3万石で入ってからは 10代続いて幕末・維新まで統治します。
1627年の朝幕間の対立から生じた「紫衣事件」で、幕府に反抗した高僧「沢庵」が流罪として「上山」に居住し、所縁の手植え桜が「本丸」跡に植わっています。
「沢庵桜」 ↓
「上山城」の縄張りは、「本丸」を中心に「内堀」と「二の丸」が囲み、北西から南西にかけて「侍屋敷」が置かれていました。「土岐家」の時代には、「本丸」南東側の虎口脇に「御三階櫓」が築かれ、南東隅と北西隅には「二重櫓」が置かれていたようです。
また、「本丸」と「二の丸」の間には3箇所門が置かれ、「二の丸」から「三の丸」への北西側虎口は「馬出」状、南東側は「出桝形」を構えていました。
このように「土岐家」が改築して造り上げた「上山城」は、美しい「御三階櫓(三重天守)」と「櫓門」と「白壁の城壁」によって「羽州の名城」と言われたようです。
しかし、3万石の小藩であるのに相応しくないとの幕府の意向が働き、「土岐家」が移封した後は「天守」等が破壊されましたので、「松平(藤井)家」が入城しても「二の丸」に居館を建てたのみで「天守」の再築を行うことはありませんでした。
縄張図(「余湖さんのコレクション」からお借りしました) ↓
摸擬「天守」の中に入ることができなかったので、犬山城天守を模したような三重四階の「望楼型天守」を周囲から眺めて写真に納めました。
摸擬「天守」(西下から) ↓
摸擬「天守」(北東下から) ↓
摸擬「天守」(月岡公園から、北東面) ↓
摸擬「天守」と模擬「櫓門」(北東下から) ↓
摸擬「天守」と模擬「櫓門」(「二の丸」跡から) ↓
摸擬「天守」へは、「櫓門」を潜って入館するようになっています。「天守」と「櫓門」に着く鯱はは「金鯱」でしたので太陽の光を浴びて輝いていました。
摸擬「櫓門」 ↓
「櫓門」に付く「金鯱」 ↓
「天守」の上の「金鯱」 ↓
「松平(藤井)家」の葵紋 ↓
「二の丸」跡から望む遠景 ↓
「櫓門」前の「二の丸広場」から石段を少し下りた所に立派な「土岐家由来の七層塔」が立ちます。これは「土岐家江戸上屋敷」にあったものを2003年に「土岐家所縁」の当城へ移設したようです。
「土岐家由来の七層塔」 ↓
この石段の下りた辺りが「出桝形」の門があったようですが道路が畝っているだけで遺構は無さそうでした。
「出桝形」の門があった辺り ↓
一方北側の「二の丸」跡は、「月岡公園」の広場になっていました。
北側の「二の丸」跡 ↓
「二の丸」跡と「月岡神社」の境内となっている「本丸」跡の間は、「空堀」となって残っていて、北側にかけて切通しのようになっていました。
「堀」跡? ↓
「空堀」に橋が架かっていたと思われる所を抜けて「本丸」跡に入りましたが、その両脇は「土塁」が築かれていて、現在「鐘楼」が築かれている「土壇」上に「御三階櫓」が建っていいたようです。
「二の丸」跡(手前)と「本丸」跡の間の「堀」跡 ↓
「二の丸」跡から「本丸」跡(奥)に橋が架かっていた場所 ↓
「御三階櫓」が建っていた土壇上に「鐘楼」が建つ ↓
その「土壇」から南西にかけて「土塁」が延びて、南西隅には「二重櫓」が築かれていたようです。現在、「月岡神社」の鳥居が立つ位置が「西門」跡のようで、更にその先も「土塁」が延びていました。
「本丸」跡東側の「土塁」 ↓
南西隅の「二重櫓」台 ↓
「本丸西門」跡 ↓
「本丸」跡の西側の「土塁」 ↓
「本丸」跡(「月岡神社」境内) ↓
「月岡神社」 ↓
「西門」跡の石段を下りると車道になっていて北に向かって下る坂道の右手に「西内堀」の水堀が一部残っているのが見られました。
「西内堀」の水堀 ↓
そして坂道を下って三叉路となった右手の道沿いは「武家屋敷通り」と名前が付けられていて、武家屋敷が4軒並んでいます。茅葺屋根のお宅や現在居住されているお宅もあって江戸時代の雰囲気を味わうことができました。
「上山藩武家屋敷案内図」 ↓
「森本家」(「松平家」の家臣70石)
「三輪家」(100石10人扶持、側用人を務めた) ↓
「山田家」(50石、藩主の随伴役やお側勤め) ↓
「旧曽我部家」(50石→100石、大目付を務めた) ↓
「上山城」下を15時10分に出発して、次は山形市内の「長谷堂城」へ向かいます。
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