勝山館(続日本100名城) 7 館の中枢部後編 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

5年前の更新を再UPしました。

 

前回の続きです。

今回は館の中枢部後編です。1475年の

勝山館の出来た頃は、日本が室町時代で

足利義政は将軍職を足利義尚に譲ります、 

しかし足利義政は、幕政の実権を手放す

ことはせず、「大御所」として政治に関

与し続けました。 晩年には京都・東山へ

移って隠居した足利義政は、「銀閣寺」

の造営などに尽力しています。

 

客殿から見た城代住居跡です。

下図に城代の住居とあります。

 

中枢部付近の復元図です。

 

中央通りから見た城代の

住居跡(正面)です。

 

解説板です。

 

城代住居の復元図と

発掘図です。

 

次は右上にある鍛冶工房です。

 

鍛冶工房跡です。

近づくと

 

鍛冶工房の跡です。

 

解説板です。

発掘でここから鎧修理に関する

遺物が発見されています。

 

鍛冶工房復元模型と

発掘で出た遺物です。

 

蠣崎氏の入婿となった武田信広は、

義父蠣崎季繁の没後、花沢館・勝山

館に居城し、蠣崎姓を名乗り、和人

居住北限地域にあって武威を張っ

ていましたが、1495年5月64歳

で没し、同地の医王山に葬られます。

この医王山は勝山館の背後にあっ

て、薬師如来を祀ったことから、

その名が付られたそうですが、後

にいたって、夷(えぞ)の王にもじ

って、夷王山と呼ばれるようにな

りました。

 

泊館は江差町にある館です。

 

信広の長男:光広は三十八歳で

蠣崎氏の家督を継ぎました。

1512年に再びアイヌとの戦い

が勃発します。

四月に東部の蝦夷が蜂起して、

箱館、志苔館、与倉前(共に函館

市)の三館を攻撃、三館主は共に

戦死し、この地域の和人の多く

は西部に逃れました。1513年

6月にアイヌ軍は蝦夷和人地の

中心地大館を攻撃し、道南の全

館を統括した、主将相原季胤・

副将村上政儀は自害、大館も落

城しています。

 

大舘は後の松前城の附近です。

 

1514年3月に空城となった、

大館に上ノ国館主蠣崎光広が、

長男:義広と共に、小舟180艘

に分乗して上ノ国から松前に

移ってきました。そして大館

を改修して徳山館と名付け、

ここを本拠とし、上ノ国には

同族を配置します。

光広は徳山館に入った理由

を書き、家臣に持たせて安藤

氏の了承を受けようとします。

二回にわたっても、安藤氏の

了承を得られず、紺備後とい

う能弁の浪人を使って交渉し、

ようやく了承を得、蠣崎氏は

道南で安藤氏の代官的地位 

を獲得し、道南全館の守護

的な立場になります。

 

今回はここまでで、次回に

続く

 

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