思い出のプロ野球選手、今回は大矢 明彦選手です。 

 

【大矢 明彦(おおや・あきひこ)】

生年月日:1947(昭和22)年12月20日
入団:ヤクルト('69・ドラフト7位)
経歴:早実高-駒大-ヤクルト('70~'85)

通算成績:1,552試合 打率.245 1,144安打 93本塁打 479打点 41盗塁

表彰:ベストナイン 2回('78、'80)、Gグラブ賞 6回('72、'75~'78、'80)

節目の記録:出場-1,000試合出場('78.8.6)、1,500試合出場('84.7.27)

      安打-1,000本安打('81.7.25)

オールスター出場 7回('71、'72、'74、'75、'78~'80)

 

●個人的印象

ヤクルトの正捕手、です。

自分が野球を見始めた頃のヤクルトはこの大矢選手が正捕手で、八重樫幸雄選手、芦沢優選手…と控え捕手が続く状態でした。

 

●プロ入りまで

高校は名門・早稲田実業高校、「早実」です。王貞治選手の7年後輩にあたります。

高校同期には荒川堯選手がいました。

 

高校では甲子園に届かないまま、大学は駒澤大学へ進学しました。駒大では同じヤクルトに入ることになる内田順三選手がいて、1学年上に野村収投手がいました。

 

1969(昭和44)年のドラフト会議で当時のヤクルトアトムズからドラフト7位指名を受けて入団しました。同じ駒大同級生の内田順三選手は8位といずれも下位指名で、この年のドラフト1位は後にレギュラーを譲る事となる、高卒の八重樫幸雄選手でした。

 

●新人からの活躍

ルーキーイヤーは1970(昭和45)年ですが、この年のシーズン序盤にそれまで正捕手だった同学年の加藤俊夫選手が無免許運転で逮捕される(このオフには解雇)という事件が発生し、これに伴ってレギュラーを張るようになったといいます。結局この年は52安打打率は.204でしたが、6本塁打27打点とまずまずのルーキーイヤーとなりました。

 

●レギュラー定着

2年目1971(昭和46)年に初めて規定打席に到達し、ヤクルトのレギュラー捕手として定着していきます。

この年は初めてオールスターにも出場し、ヤクルトのみならずリーグの顔として台頭していこうという時期でした。

この年は打率.231で87安打、10本塁打を放ち40打点を挙げ、打率は高くないものの打撃面でも戦力となってきていました。

 

翌3年目の1972(昭和47)年は97安打と100安打間近のところまで伸ばし、打率は.269をマークし、本塁打は5にとどまりましたが打点は前年と同じ40を挙げています。

この年は2年連続でオールスターに出場し、初めてGグラブ賞を受賞しますが、特に肩の強さが武器で、キャリア前半の若手時代は何度もセ・リーグ最多の盗塁阻止率を記録し、5割以上を4度も記録しています。

 

●100安打を記録

1973(昭和48)年はレギュラー定着後初めて、ほんのわずかですが規定打席未達に終わり、打率も.189でした。

1974(昭和49)年には初の100安打越えで、2年ぶりに規定打席に到達し、また初めて130試合フル出場を果たしました。オールスターにも2年ぶりに出場し、またホームランはキャリアハイの13本を放っています。

1975(昭和50)年も再び2年連続オールスターに出場し、100安打以上130試合フル出場とも2年連続で記録しています。

この年には3年ぶりにGグラブ賞を受賞し、ここから4年連続で受賞する事となり、セ・リーグを代表する捕手としての地位を築いていくこととなります。

 

●初優勝へ

1970年の入団以来、ヤクルトは殆どがBクラスで1976(昭和51)年までの7年間でAクラスは1度(3位)だけという低空飛行状態でした。

そんな中で捕手としてレギュラーを張るようになった大矢選手、1977(昭和52)年は同期入団で同じ捕手の八重樫幸雄選手が台頭し、出番を奪われる形で4年ぶりに規定打席を割り込みました。チームは入団後初の2位に躍進し、優勝への機運は高まっていました。

 

そして1978(昭和53)年、遂に初めてのセ・リーグ優勝を成し遂げたヤクルトにあって、正捕手として活躍し、4年連続となるGグラブ賞に加えて、31歳になる年にして初の「ベストナイン」も受賞しました。また節目となる通算1,000試合出場も達成しています。ここが彼のひとつの頂点といっても過言ではないと思います。

 

1979(昭和54)年は、前年優勝から一転して最下位に転落した年で、大矢選手自身も規定打席を割り込み、この時期は隔年で規定打席到達/未達を繰り返していました。

 

最後の規定打席到達は1980(昭和55)年、チームが再び2位に躍進した年でした。規定ギリギリの404打席で、規定打席到達7回のうちで最も高率の打率.283をマークし、キャリアハイの50打点と、5年ぶりの100安打越え(104安打)、優勝した1978年同様、2度目の「ベストナイン」「Gグラブ賞」のダブル受賞となり、オールスターに出たのもこの年が最後で、最後の華々しい活躍となりました。

 

●現役晩年

1981(昭和56)年からは両膝に水がたまるようになり、八重樫選手等に出番を譲る機会が増えてきますが、この年は通算1,000安打を達成しました。

1983(昭和58)年から明確に八重樫選手にポジションを譲るようになり、現役生活を続けること自体が困難になりながら、1984(昭和59)年よりコーチ兼任となり、この年は通算1,500試合出場を達成し、これを花道にするかのように17試合の出場に終わった翌1985(昭和60)年、38歳になる年で引退しました。

 

その後は解説者を経て横浜の監督に2度就任しています。