思い出のプロ野球選手、今回は「千藤 三樹男」選手です。
1970年代に東映末期から日本ハムに在籍し、前半は主力として、後半は控えとして活躍をしてきた選手で、一本足のダイナミックな打撃フォームが印象的でした。
【千藤 三樹男(せんどう・みきお)】
生年月日:1947(昭和22)年9月28日
入団:東映('71・ドラフト7位)
経歴:県岐阜商高-早大-北海道拓殖銀行-東映・日拓・日本ハム('72~'81)
通算成績:810試合 打率.271 617安打 42本塁打 252打点 16盗塁
オールスター出場 1回('78)
●個人的印象
日本ハムのベテラン選手、です。
「せんどう」という名字が印象的でした。
これ以外にあまり記憶はないですが、現役時代の記憶は一応あります。
●プロ入りまで
高校は岐阜の名門である県岐阜商でした。
県岐阜商は現時点で春、夏ともに30回ずつ甲子園に出場している常連校で、戦前は複数回優勝を果たすほどの強豪校でした。OBには高木守道氏や、アマ球界の重鎮・鍛治舎巧氏などがいます。
2年生の夏に甲子園に出場し、準決勝まで進出しましたが、3年生では出場できませんでした。
その後早大へ進学し、同期には安田猛、谷沢健一、小田義人、荒川堯…といった錚錚たる面々がいて、自身含め7人もプロに入ったという事です。ただしこの大卒時点での入団とはならず、さらに社会人の北海道拓殖銀行へと進み、ここで都市対抗に出て活躍し、1971(昭和46)年に当時の「東映フライヤーズ」にドラフト7位で指名され入団しました。
●初期キャリア
1972(昭和47)年に東映でルーキーイヤーを過ごしました。
この年、東映は最後の年となり、いわば「東映最後の新入団選手」でした。
1年目から開幕戦に先発出場(なんとダブルヘッダー!)し、その試合で初安打を放っています。ドラフト7位という下位指名にも関わらず、抜擢された格好でしょうか。25歳になる年という高齢入団でもありましたが。ただこの年のドラフト組はあまり一軍で活躍できた選手がおらず、4位の宇田東植投手が活躍したぐらいでした。
同じ早大同期の小田義人選手は、この翌年に入団しており、また法大卒の江本孟紀投手は既に南海へ移籍後でした。
結局1年目は半分の65試合に出場し、51安打で打率.280を記録、4本塁打24打点と即戦力の活躍を見せました。
2年目の1973(昭和48)年からレギュラーに定着し規定打席にも初めて到達し、打率.275、122安打で10本塁打57打点の活躍、安打・本塁打・打点はすべてこの年がキャリアハイとなりました。本塁打2ケタはこの年が唯一で、唯一のサヨナラ本塁打もこの年に打っています。
キャリアは前半がピークになってしまった訳ですが、この年は日拓唯一の年で、その中心選手として大いに活躍しました。三振が25と極端に少ないですが、現役生活一貫して三振は少なく、自分の持っていたイメージと違っていたのはこの点でした。こんなに三振の少ない打者とは思っていませんでした。
球団が「日本ハム」となった1974(昭和49)年もレギュラーとして活躍し打率.256、91安打となりましたが、6本塁打39打点を挙げ、翌1975(昭和50)年まで3年連続で規定打席に到達し、この年は108安打と2度目にして最後のシーズン100安打を記録し、打率は規定打席到達で最高の.281、5本塁打36打点を挙げ、プロ生活10年間のうち、2年目~4年目のみ規定打席に到達した事となり、前半にピークを迎えた格好となりました。
●現役後半
1976(昭和51)年以降は規定打席に到達しなくなりますが、この年は101試合に出て、306打席に立っていました。
1977(昭和52)年は故障で61試合の出場にとどまり、わずか29安打とプロ入り最低の成績に終わりましたが、翌1978(昭和53)年は103試合に出て330打席に立ち、規定打席には少し届きませんでしたが、打率は.305と唯一の3割を記録し、プロ生活で唯一「オールスター」に選出され出場しました。規定打席には届かなくなっていましたが、この時のオールスター出場は現役キャリアの中で大きな「花」であり「勲章」であったと思います。
1979(昭和54)年からは控えに回る事が増え、この年は16安打、翌1980(昭和55)年はやや増えて32安打を記録しましたが、安打・本塁打はこの年が最後となりました。冒頭の野球カードの写真はこの1980年の成績が載ったもので、また現役ラストイヤーのものでした。
日本ハムとしての初優勝を遂げた1981(昭和56)年はわずか9試合の出場で、8打数無安打に終わり、犠牲フライによる1打点こそ記録しましたが、この年34歳で引退しました。同期の(前回記事の)杉山知隆投手も同じ年に引退しています。
プロ10年目で初めてリーグ優勝を経験しましたが、残念ながら日本シリーズに出ることなく引退となりました。現役時代に幼い伊集院光氏が、千藤選手にサインを貰ったことで日本ハムのファンになったといいます。
最末期とはいえ東映で主力として活躍しながら、日本ハムで80年代まで在籍した数少ない選手で、東映から日拓、日本ハムになるにつれて、「東映カラーの一掃」という事で多くの主力選手が出た中、この球団一筋で10年間現役生活を送れた事は、彼にとっても勲章かもしれないな、と感じました。
1985年の名鑑より
コーチ4年目で38歳の頃です。
もうすぐ76歳になりますが、現役で解説者として活躍中で、これからも益々の御活躍をお祈りして記事を終了したいと思います。