思い出のプロ野球選手、今回は谷村 智啓投手です。 

 

1970年代は阪神で、80年代では阪急と共に関西の球団で活躍し、その変則的な投球フォームでも話題になった投手です。

 

【谷村 智啓(たにむら・ともひろ)】

生年月日:1947(昭和22)年8月3日

経歴:報徳学園高-関学大-鐘淵化学-阪神('71~'79)-阪急('80~'85)

通算成績:393試合 72勝82敗5S 1,489投球回 43完投 9完封 512奪三振 防御率4.12

入団:阪神('70 ドラフト1位)

オールスター出場 1回('72)

 

 

 

●個人的印象

阪急のいぶし銀投手、です。

最後の数年ぐらいしか見ていませんが、1984(昭和59)年37歳になる年に先発でなんとか1勝を挙げた時には嬉しかったものです。

この年阪急は6年ぶりにリーグ優勝を成し遂げましたが、勝ち星は山田久志、今井雄太郎、佐藤義則投手の3本柱と、突如ブレイクし8勝を挙げた宮本四郎投手、そして抑えの山沖之彦投手によるものがほとんどで、逆に他の投手が殆ど勝てていなかった状況だったので、当時現役末期であった谷村投手が1勝を挙げたのは阪急ファンとして嬉しいものでした。

 

ちなみに彼の存在を初めて知る事となったのは、王貞治選手が世界新記録となる756号本塁打を達成した後の新聞記事でした。その記事は達成時の1977(昭和52)年の9月に出たものと思いますが、自分がそれを見たのが1979(昭和54)年頃でした。

それは王選手の1号から756号までの全記録が年ごとに載っていたもので、日付や対戦球団、相手投手、カウント、打点等々全本塁打の記録が延々と756本分連ねられていたもので「これが王者の軌跡」などと新聞の大見出しにあった覚えがあります。

そこでは節目の本塁打ごとに写真が載っていて、600号本塁打を放った際に、打たれた谷村投手(当時:阪神)の背中が映っていました。その谷村投手と、阪急にいたベテランの谷村投手が同一人物と知ったのは1984年開幕の頃でした。

 

●プロ入りまで

高校は兵庫の名門・報徳学園高校でした。基満男選手はひとつ上の先輩になります。

 

高校では2年の春に控えで、3年の夏はエースでそれぞれ甲子園に出場しました。

2年3年とも夏の県予選で、ライバルとして立ちはだかったのが、後に300勝投手になる鈴木啓示投手でした。彼と投げ合って勝つか負けるかで甲子園出場が決まるようなものでした。

その後、関西学院大学へ進みました。「関学」はプロ入りした選手があまり多くなく、彼の上下ともに10歳以上ひらきがあり、昭和20年代生まれでは彼ただ一人で、30年代生まれは一人もおらず、次にプロ入りしたのはオリックスに入った田口壮選手と20歳以上年下の選手でした。

関西六大学リークでは防御率1.67という素晴らしい数字を残しながら通算20勝25敗と負け越していたそうです。

高校でも大学でも活躍しながら、更に社会人・鐘淵化学へと進みました。

ここでは都市対抗で活躍し、1年間の社会人生活を経て、1970(昭和45)年のドラフト会議で、阪神から1位指名を受け入団しました。

 

 

●阪神のエースナンバー

華々しくドラフト1位で入団した谷村投手、当初は谷村智「博」でした。

そして入団した阪神ではエースナンバーである背番号「18」が与えられました。

即戦力の期待の表れですね。

 

1年目の1971(昭和46)年は、4月には一軍デビューを果たし、24試合登板で先発も5試合経験し、1勝2敗の成績でしたが、9月末になってようやくロングリリーフでのプロ初勝利を挙げたのでした。

 

ちなみに当初は足を上げた時に、手を下ろさずに上げたまんまで投げる「タコ踊り」といわれる投法で話題になっていたといいます。投げる時に手も足も上がっている状態ですね。検索すれば写真が出てきますが、すごい投げ方でした(笑)

 

 

●2年目の飛躍

1年目は様子見のような成績でしたが、2年目1972(昭和47)年にはブレイクします。

191㌄を投げ、44試合で11勝11敗、防御率2.26の素晴らしい成績で投球回と防御率、完投数などがキャリアハイで、この年現役生活で唯一の「オールスター」に出場しました。

タイトル等特になかった谷村投手にとっては、これは大きな「勲章」であったと思います。

 

 

●阪神の主力として活躍

2年目がキャリアハイになってしまいましたが、3年目1973(昭和48)年は7勝12敗と成績を落としましたが、防御率は2.722年連続規定投球回クリアかつ防御率2点台の素晴らしい成績を残しています。

この年の終盤、V9のかかった巨人とのシーソーゲームで登板し、You Tubeで彼の勇姿を見ることができましたが、この時には巨人・柳田真宏選手から同点ホームランを浴びています。

 

翌4年目の1974(昭和49)年はシーズン途中に名前を智博から「智啓」へ改名していました。この年は現役を引退してコーチになったばかりの頃の小山正明氏のもとでパームボールを習得しています。

結果には反映せず5勝13敗1Sの成績で、防御率は4.59と激増しました。

 

しかし1975(昭和50)年には持ち直し、3年ぶりの2ケタ勝利を挙げ11勝9敗1S防御率3.45と向上しました。

つづく1976(昭和51)年には初の2年連続2ケタ勝利となる12勝を挙げ、これがキャリアハイとなり、3度目にして最後の2ケタ勝利となりました。この時29歳で、3度の2ケタ勝利はすべて20代の時に挙げたものでした。また完封勝利もこの年挙げたのが最後となりました。

 

●30代以降

30歳を迎えた1977(昭和52)年は7勝7敗と2ケタには届きませんでしたが、156⅔㌄を投げ規定投球回には届いていました。

1978(昭和53)年は1勝4敗に終わってしまい、防御率はナント7.11とかつてない大きなものでした。当然のように規定投球回には達せず、2年目1972年から続いていた規定投球回クリアは6年連続で途切れてしまいました。

翌1979(昭和54)年は1勝0敗1Sで、わずか8試合の登板、10㌄にも満たない投球回でほぼ戦力にならず、当時32歳でしたが、このオフにトレードで阪急へ移籍する事となりました。ちなみにトレード相手は鈴木弘規という190㎝を越える球界随一の長身投手でした。

 

●阪急時代

1980(昭和55)年に阪急へ移籍しプレーすることになった谷村投手、同じ年に同級生の松本幸行投手が中日から移籍してきましたが、共に移籍先で初年度にあたるこの年に活躍しました。谷村投手は7勝7敗2Sを挙げ、140⅓イニングを投げて3年ぶりに規定投球回に到達し、これが最後の規定投球回クリアとなりました。この年は野村克也選手(当時:西武)に現役最後のホームランを打たれ、「王の600号と野村の最後のホームラン」を献上した投手、となりました。

 

1981(昭和56)年からは活躍が限定的になり、50㌄以上を投げることがなくなり、渋い働きを見せて生き延びる事となります。

必ず1勝以上は挙げていますが、晩年では1983(昭和58)年に4勝を挙げたのが少し光った形となり、1985(昭和60)年現役最後の登板で先発し、現役最後の勝ち星が完投勝利という見事な幕引きとなり、現役生活15年、38歳で引退しました。

 

現役生活前半の阪神時代が派手に活躍した時期で通算72勝82敗で2ケタ勝利3回、規定投球回到達7回という紛れもなく主力として活躍した投手でしたが、タイトルには無縁でした。

 

 

▼1985(昭和60)年引退する年の選手名鑑です。

 成績は1984年のものと累計とですが、何とか一軍で投げて何とか1勝したという感じで、1勝挙げられたのでもう1年やってみよう、という感じだったのでしょうか。

 その後現役最後のこの年にもう1勝を上積みしました。

 38歳になる年、投手では最年長で、山田久志、今井雄太郎といった当時の主軸よりも年上でした。

 「勇者」とあるのは阪急「ブレーブス」が勇者を表す意である事に由来します。

 あだ名が「おとぼけタニさん」には当時笑いました。