思い出のプロ野球選手、今回は 「安田 猛」 投手です。
1970年代を中心にヤクルトで活躍した左腕投手で、カーブを武器に通算93勝を挙げ、ヤクルトの初優勝にも大きく貢献した投手です。
【安田 猛(やすだ・たけし)】
生年月日:1947(昭和22)年4月25日
没年月日:2021(令和3)年2月20日(73歳没)
経歴:小倉高-早大-大昭和製紙-ヤクルト('72~'81)
通算成績:358試合 93勝80敗17S 1,508 ⅓投球回 59完投 13完封 655奪三振 防御率3.26
入団:ヤクルト('71 ドラフト6位)
タイトル:新人王('72)、最優秀防御率 2回('72、'73) ※新人から2年連続
オールスター出場 3回('73、'75、'77)
個人的印象
ヤクルトの左腕投手で、タフそうな風貌、もみあげの印象もあります(笑)
エース松岡弘投手に続く主力投手、のイメージがあります。
そして「がんばれ!!タブチくん!!」の「ヤスダくん」のモデルです。この当時はいしいひさいちさんの漫画が複数アニメ化され、テレビでは「おじゃまんが山田君」が放送され、OPテーマの歌詞では「○田くん」が多数登場しますが、その中に「ヤスダくん」も出てきます。その当時に活躍していた選手だからこそ、こうやって出ていたわけですね。
プロ入りまで
高校は福岡県の小倉高校で、3年春の選抜大会で甲子園に出場しています(1回戦敗退)
。
その後大学は早稲田大学へ進学しました。明治大学へ進学するつもりが、早慶戦を観戦した事により早大へ進学することになったといいます。
当時の早大には、錚錚たる面々が在籍し、同級生に谷沢健一、小田義人、荒川堯などの後にプロ入りするメンバーがいました。
大学では故障の影響もあり、あまり実績を残せず、社会人の大昭和製紙へと進みますが、ここでは大学からの同級生である小田義人選手と共に入社しました。
社会人では、故障により速球が投げられないことを逆手に、遅い球の投げ方を習得し、都市対抗で活躍し、本人も「野球人生のターニングポイント」とコメントするほど、重要な時期であったといいます。
ヤクルト入団
1971(昭和46)年のドラフト会議で当時のヤクルトアトムズから6位指名を受け入団しました。
勝手なイメージでしたが、大卒でドラフト上位のエリート入団かと思っていたら、社会人経由で、ドラフト下位の6位入団だったのは意外でした。
ルーキーイヤーは1972(昭和47)年で、ドラフト6位で25歳になる安田投手でしたが、プロで通用しないと言われながらも、蓋を開ければ50試合登板で、7勝5敗の成績をあげ、168⅔㌄を投げ、防御率2.08の素晴らしい成績で新人王を受賞しました。
先発は12試合で3完投2完封を記録し、派手な成績ではないものの、新人から最優秀防御率のタイトルを獲得するという快挙を達成しており、大車輪の活躍でした。
ヤクルトの主軸として活躍
続く2年目1973(昭和48)年も53試合に登板し、2年間で通算100試合を越えました。この年には初めてオールスターに出場を果たしました。
先発は14試合と前年並みで、先発主体ではありませんでしたが、初の2ケタ10勝を挙げ10勝12敗とし、投球回は200を越え208⅔㌄となりました。
防御率は2.02と前年2.08より更に上げ、勝敗の成績には結びついていませんが、安定感のある数字をキープし、2年目のジンクスにはまることなく、ナント新人から2年連続の最優秀防御率を獲得する偉業を達成、この記録は彼と稲尾和久氏の2人しか達成していない快記録です。
3年目1974(昭和49)年は9勝に終わりましたが、130⅓㌄でギリギリ規定投球回に到達し、キャリア前半ではこの年が投球回最少でした。
1975(昭和50)年は44試合に登板し、うち27試合に先発、初めて20試合以上先発し、16勝12敗4Sと初セーブも含め大車輪の活躍で、投球回はキャリアハイの243⅔㌄を記録し、3完封でリーグ最多を記録するなど、更に一段と主力投手としての活躍を見せました。また1973年以来2年ぶり2度目のオールスター出場を果たしています。
以後この年含めて4年連続で勝敗数とも2ケタかつセーブを記録しているという、文字通り大車輪の活躍を続けていく事となます。
1976(昭和51)年は14勝13敗2S、そして30歳のシーズンとなる1977(昭和52)年にはキャリアハイとなる勝ち星で17勝16敗6Sを記録し、再び2年ぶり3度目にして最後のオールスター出場を果たしました。
ちなみにこの1977年は、王貞治選手がヤクルト戦で鈴木康二朗投手から世界記録となる通算756号本塁打を達成しますが、その翌日に王選手に通算757号本塁打となるホームランを自身が献上しています。彼にとって王選手は特別な存在であり、殊に王選手を抑える対策を練り、また王選手にとって苦手な投手となりました。
この2ケタ勝利を続けていた間の1976年から防御率が急速に悪化し、3点台後半を切ることがなくなってしまっていました。
大勝ちがなく、必ず2ケタ敗戦はしていたものの、負け越す事もなく、チームに貢献していました。
優勝の美酒
31歳のシーズンとなる1978(昭和53)年、開幕投手を務め、遂にヤクルトは悲願のリーグ初優勝を遂げました。このシーズンで15勝10敗4Sの成績で初優勝に大きく貢献しました。
阪急との日本シリーズでは自身は勝ち星を挙げることができませんでしたが、チームは疑惑の本塁打判定の猛抗議を挟みながら、シリーズも制し、見事に日本一に輝きました。安田投手にとっては、これが唯一のリーグ優勝と日本一の経験となりました。
現役晩年
日本一の美酒に酔いしれた1978年でしたが、これが終わると力を使い果たしたかのように出番が減り成績が下降していきました。
前年オフにヤクルトはV2を目指すべくトレードを画策し、近鉄とのトレードをもくろみ、実際にマニエル選手は近鉄へ放出されていますが、この時のトレード要員に安田選手が入っていたといいます。しかしこれを断固拒否し、そのままヤクルトのユニフォームを着続けました。
1979(昭和54)年は19試合で1勝4敗、防御率6.26へと降下し、4年連続2ケタ勝利と新人から7年連続で達成していた規定投球回到達が途切れてしまい、キャリア前半と後半で成績が明らかに違っていて、前半に実績が集中してしまっていますが、特に現役晩年は膝の故障によるところが大きく、いつの間にかあまり出てこなくなったな、という漠然とした印象が当時からありました。
1980(昭和55)年は22試合で4勝3敗1Sとやや持ち直し、この年はシーズン2完投でしたが、これを共に完封で飾り、この2完封目が現役最後の完投かつ完封となりました。
またこの年の4勝目も現役最後の勝ち星ともなりました。
1981(昭和56)年には両膝が悪化し、6試合で0勝0敗、7㌄に投げただけで、34歳で引退しました。
引退後はヤクルトに残ってコーチを務め、その後スカウトを経てスコアラーとなり、1995年のオリックスとの日本シリーズでは「イチロー封じ」に大きく貢献したといいます。
2017(平成29)年に母校である小倉高校のコーチに就任しましたが、就任直後にがんの告知を受け、治療をしながら母校のコーチを続けていました。
2021(令和3)年2月20日、73歳で亡くなられました。