思い出のプロ野球選手、今回は「藤沢 公也」投手です。
1979(昭和54)年に中日に入団し、新人王を獲得した投手で、プロでの実働はわずか6年に終わりましたが、ドラフトに5回指名され、4回拒否したという日本記録の持ち主です。
【藤沢公也(ふじさわ・きみや)】
生年月日:1951(昭和26)年11月29日
入団:中日('77・ドラフト1位)
経歴:八幡浜高-日鉱佐賀関-中日('79~'84)
通算成績:163試合 27勝35敗1S 532投球回 6完投 3完封 316奪三振 防御率4.23
位置:投手 投打:右右 現役生活:6年
タイトル:最高勝率 1回('79)
表彰:新人王('79)、
規定投球回到達:1回 ('79)
オールスター出場:1回('79)
個人的印象
中日の先発投手、のイメージがあります。
背番号19をつけて主力級かな、と思っていましたが、成績を見ると新人の年に大活躍して、その後はかなり落ちたようですね。もっと活躍していた印象がありましたが…。
1984(昭和59)年に引退していますが、その時も結構見かけていたので、まさかこの年に引退したとは…という感じでいつの間にかいなくなっていました。
プロ入りまで
プロに入るまでドラフトに5回かかり、4回拒否しているという「記録男」で、その事は後で知りましたが、そんな事は知らずに中日の投手として見ていました。
高校は愛媛県の八幡浜高校で、同じ市内の八幡浜工業高校には同級生に河埜和正選手がいました。
残念ながら甲子園には無縁でしたが、高校3年生の1969(昭和44)年にロッテからドラフト3位にて指名されました。「プロでやっていける自信がない」として拒否していますが、これは何度も拒否することになる初めてのものにすぎませんでした。
高校卒業後は、社会人の日鉱佐賀関へと進みました。ちなみに佐賀関(さがのせき)は大分市にあります。
社会人に進んでもドラフト指名を受け、
1971(昭和46)年ヤクルトアトムズから11位
1973(昭和48)年近鉄から4位
1976(昭和51)年日本ハムから2位
と、なんと3度も指名を受けますが、すべて入団拒否しています。
ここまでで通算4度のドラフト指名を受け、すべて拒否しこの時点で25歳、4度目の時は一旦は入団を承諾するも交渉で揉めて結局拒否しています。
その後も社会人チームで活躍を続け、翌1977(昭和52)年に実に5度目のドラフト指名を受け、中日でドラフト1位で遂に入団を決意しました。
この時実に26歳、5度目にして初の1位指名を受け、当初はなかった自信が、社会人での活躍を続けるうちにプロで挑戦してみたくなった、といいます。
ここまでの時点で社会人で8年目と、直近の記事でお送りしました仁科時成、福間納という同級生投手もすべて社会人で長く活躍した上で入団した選手が、偶々ですが続きました。
ドラフト1位で指名はされましたが、そのまま入団せず、翌1978(昭和53)年のオフになってようやく入団するという、高校を卒業してから実に8年以上も後に入団し、9年後に現役生活をスタートする事となります。
華々しい活躍
という事で1年目は1979(昭和54)年となりました。
1977年ドラフトの同期入団には小松辰雄投手がいますが、高卒ルーキーで快速球を投げる事に驚き、またその彼が一軍でなかなか出番がない事にも驚き、プロでやっていけるのか…となったそうです。
背番号は「19」とドラフト1位、即戦力に相応な番号が与えられました。
1979年に1年目といえば、あの巨人・江川卓投手と同じで、この年は新戦力として2年目のやはり投手も台頭してきた年でもありました。
大洋・遠藤一彦投手や、同じ中日で同期入団にあたり高卒2年目を迎えていた小松辰雄投手も大活躍をして、江川投手も6月からの登板で9勝10敗の成績を残しています。
そんな中で、藤沢投手は33試合に登板し185⅓㌄を投げ、13勝5敗防御率2.82の堂々の成績で、数多くの投手のライバルを押しのけて「新人王」を獲得し、更には最高勝率のタイトルを手にしています。
入団後にパームボールを覚えた事が大きいと言われ、彼自身の代名詞的な球種ともなりました。
数多くの入団拒否を経て、5度目のドラフトで初の1位指名を受け、1年後に入団というかなりの回り道をしましたが、28歳になる年での新人王という形で結実しました。
2年目のジンクス
大きな期待のもと、華々しく活躍をした1年目でしたが、2年目1980(昭和55)年は他球団からかなり研究をされた事や、1年目から度重なる足の故障を発生するなども重なり2年目の大きな壁にぶち当たりました。
前年の活躍を受け、栄えある開幕投手に指名されましたが開幕から9連敗で、0勝9敗の状態で、6月にようやく初白星をあげますが、結局この1勝のみで、実に1勝15敗防御率5.27に終わり、111⅓㌄と規定投球回にも達せず、以後到達することはなく、規定投球回到達は新人の年の1回限りとなりました。
3年目から
3年目1981(昭和56)年には早くも30歳を迎える年となりましたが、ここから3年間はほぼ同等の成績で、先発の比重がそれまでより下がりながら、毎年60㌄前後を投げ、3、4勝をあげ、1982(昭和57)年は現役唯一のセーブをあげ、また完投・完封もこの年の1度が現役最後のものとなりました。
また、短い現役生活の中で1982年に唯一、セ・リーグ優勝を経験しています。
引退
1984(昭和59)年も24試合に登板していましたが、先発は1試合のみで投球回は39⅓㌄とそれまでより減り、2勝2敗防御率4.58の成績で、結局この年限り33歳で引退しました。
数多くのドラフト拒否を経ての高齢入団で、わずか6年の短い現役生活でしたが、1年目に大活躍して新人王を獲得でき、その名を刻んだことはやはり大きいものがあったと思います。
引退後は会社員となり、球界とは一線を画する形となっています。