思い出のプロ野球選手、今回は池内 豊投手です 

 

1970年代初頭から80年代中盤まで阪神など4球団に在籍し、サイドスローからの中継ぎ投手として当時のリーグ最多登板を果たすなど、タフなリリーフ投手として活躍しました。

 

【池内 豊(いけうち・ゆたか)】

生年月日:1952(昭和27)年4月7日
入団:南海('70・ドラフト4位) 
経歴:志度商高-南海('71~'75)-阪神('76~'84)-大洋('85)-阪急('86)

通算成績:452試合 31勝31敗30S 782⅔投球回 1完投 0完封 461奪三振 防御率3.92

位置:投手 投打:右右 現役生活:16年

規定投球回到達:1回 ('78) 

主な記録:セ・リーグ最多登板('82)

 

 

 

個人的印象

阪神の中継ぎ投手、です。よく試合の途中から出ていました。

1980年前後の阪神において欠く事の出来ない「後ろ」を投げる投手で、中継ぎのイメージが強かったのですが、今回改めて成績を眺めてみるとセーブも結構挙げていて「抑え」もやっていたんだ!と今更感じました。

また、南海にいたのは後で知った事で、元々阪神の選手だと思っていました。その後大洋へ移ったのは知っていましたが、その後阪急に移ったのを知らないまま引退しており、これも後で知りました。

 

 

プロ入りまで

高校は香川県の志度商業高校(=現・志度高校)でした。

志度商といえば、香川では強豪校のイメージを勝手に持っていましたが、甲子園出場は春2回、夏3回のみなのですね。

自分が小学生の時に出ていてベスト8まで進んでいましたが、これは1981(昭和56)年の事で、この時実に34年ぶりの出場だったそうで、あまり出ていないのですね。

池内選手は高校時代は甲子園とは無縁でした。

3年夏の選手権大会は香川県大会の決勝まで出ながら坂出商に敗れましたが、1970(昭和45)年のドラフト会議で当時の南海ホークスから4位指名を受け入団しました。

 

 

初期キャリア

南海では背番号「55」が与えられますが、高卒1年目から一軍戦出場機会に恵まれ、1試合だけですが登板しています。

2年目1972(昭和47)年は3試合11㌄で0勝1敗防御率5.73、3年目1973(昭和48)年も3試合わずか5㌄で0勝0敗防御率3.60でした。

この年は現役生活16年間のうち唯一チームが優勝した年でしたが、ほとんど戦力になっていなかった為、実質的に無縁でした。

 

そしてその後の2年間、1974(昭和49)年と1975(昭和50)年は一軍登板ゼロに終わります。

 

 

転機の大型トレード

南海でのここまで5年間で一軍未勝利の通算7試合0勝1敗、17㌄を投げただけの実績でした。

そんな1976(昭和51)年の年明けに阪神との大型トレードが敢行されます。

阪神のエース・江夏豊投手を放出するというこのトレードは、2対4の大型のものとなり、江本孟紀島野育夫といった選手と共に阪神タイガースへ移籍となりました。この時は、心機一転できるという事で喜び勇んで阪神へやってきたといいます。
 

 

阪神で開花

南海で最後の2年間一軍出場のなかった池内投手ですが、移籍後の背番号は「33」となり、阪神時代を通してこの番号を着用し続けていました。すなわち彼が活躍した時の背番号でもあります。

当時の吉田義男監督に見いだされ、フォーム改造などに取り組みながら、3年ぶりの一軍戦出場を果たすや21試合に登板し、1勝1敗防御率4.83と6年目にしてプロ入り初勝利を記録しました。

 

翌1977(昭和52)年は36試合で2勝1敗防御率4.06で62㌄を投げました。

 

ここまででも阪神移籍は成功し、芽が出てきたといえますが、飛躍したのは1978(昭和53)年で、この年は先発として起用され、14試合先発を務めているという珍しいシーズンで、翌年も9試合先発していますが、この2年間以外はほとんど先発機会のない投手でした。

 

先発14を含む計42試合に登板し、9勝6敗防御率3.65をマークし、勝ち星はキャリアハイで、137⅔イニングを投げ現役生活で唯一、規定投球回数クリアを果たした年で、生涯唯一の「完投」を果たした年でもありました。

チームが史上初の最下位に沈む中、健闘していました。

 

 

守護神

1979(昭和54)年は先発に抑えに活躍し、54試合に登板し5勝5敗13S防御率3.67で84⅔イニングを投げました。この時期はそれまで抑えを担当していた山本和行投手が先発に回り、また抑え役でセーブを結構挙げていた安仁屋宗八投手は戦力にならずに翌年広島へ移籍する事となり、抑え役として指名された格好となりました。

2ケタセーブをあげたのはこの年だけでしたが、中継ぎや抑えなどの「後ろ」を投げる存在として確立していった訳で、この年以降では先発機会は引退までまったくありませんでした。

 

1980(昭和55)年は56試合で4勝4敗8S防御率4.02と、10Sはなりませんでしたが、チーム最多セーブを2年連続で記録し、特に前年とこの年の2年間は守護神的要素が強かったように思います。ただ防御率がいつも高く、中継ぎで多数投げてきましたが、結局2点台を記録したシーズンは一度もありませんでした。

 

 

タフネス中継ぎ時代

その後は抑えに特化せず、中継ぎを主戦場としたキャリアが続きます。

ロッテから移籍してきた福間納投手などと共に、中継ぎとしていつでもスタンバイするような状況となりました。

1981(昭和56)年は38試合で2勝2敗1S防御率3.57で、更なる転機が1982(昭和57)年で、安藤統男監督が就任し「何か記録に残ること」を期待され、その為かどうかは分かりませんが、シーズンの半分以上となる73試合に登板し、これは当時のセ・リーグ記録となりました。

4勝5敗4S防御率3.98で95⅓イニングを投げました。先発ゼロでこの数字は、今の時代から考えるとすごいと思います。これだけの試合数で、かつそれよりも多い㌄を投げ、つまり回またぎをしている訳で、今では考えられないと思います。

 

福間納投手の記事で触れましたが、とにかくほぼ全試合で「出るかもしれない」という緊張感がある中でやるのは、先発投手が投げている㌄以上に疲労度が高く、それこそ「休みなし」の状態で過ごしていたこの緊張感、疲労蓄積度は計り知れないものがあったと思います。

 

翌1983(昭和58)年も64試合に登板し2勝3敗3S防御率3.49で87⅔イニングを投げました。この2年間で実に137試合という1シーズンの試合数以上も登板していたというだけで、想像を絶する疲労度だったかと思います。

 

1984(昭和59)年は33試合で2勝2敗防御率3.41と、この年は福間投手が77試合と2年前池内投手が記録した73試合をさらに上回る登板を果たし、中継ぎの立ち位置がすっかり変わってしまった事が感じられました。

この頃くらいから、イメージする投球ができなくなり、打者にバットに芯で捉えられたり、凡打にできたものがそうならなくなってきたといいます。

 

 

渡り鳥の晩年

1985(昭和60)年は、長崎啓二選手とのトレードで大洋へ移籍しています。背番号は「13」を与えられ、プロ入り15年目にして初めて10番台の背番号を与えられました。

 

この年は阪神が日本一になった年で、「もう1年いたら…」といわれる事が多かったといいますが、大洋で首位打者を獲った大打者の長崎選手と1対1でトレード(同等扱い)というのが嬉しかったといいます。

ただ、阪神で優勝に貢献する活躍をする長崎選手に対して、池内投手はその後目立った活躍はできませんでした。大洋ではこの年23試合に登板はしましたが、0勝1敗防御率4.97で29㌄を投げたのみで、このオフには戦力外通告を受けています。

 

わずか1年で大洋から出され、阪神時代にフォーム矯正でつきっきりで付き合ってくれた片岡新之介選手の伝を頼り、阪急ブレーブスの入団テストを受け、なんとか通してもらったといいます。背番号は「28」とロッテへ移籍した藤城和明投手のつけていた番号を与えられました。ちなみにこの番号は池内投手の引退後、長年星野伸之投手がつける事となります。

その1986(昭和61)年は結局わずか5試合の登板に終わり、1Sはあげたものの防御率は15.75で、5月を最後に一軍に上がる事はなく、この年限り34歳で引退しています。

 

 

通算成績31勝31敗30Sとなっていますが、阪神だけで31勝29敗29Sとほとんどの記録を残しており、他の3球団では1勝もしておらず0勝2敗1Sとほぼ阪神で始まり阪神で終わった格好のキャリアとなりました。

 

 

引退後はそのまま阪急に残り、長年打撃投手やスコアラーを務め、オリックスの優勝した時期に二軍投手コーチを務めていました。2000年を過ぎてからは中日で投手コーチなどを務めました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 阪神での活躍を終え大洋へ移籍してきた時のものです。この後はあまり目立った活躍ができず、28試合0勝1敗を上積みしただけで、翌年阪急に移籍し引退しています。

ブランデー8杯ってかなり酒の強い方なのですね。

昭和の中継ぎは評価されなかったとはいえ、セットアッパー的なはしりの一人でもあり、当時の一流といわれた1,000万以上はもらっていたようです