思い出のプロ野球選手、今回は金城 基泰投手です 

 

1970年代前半から80年代中盤まで広島や南海などに在籍し、広島では20勝を挙げて最多勝利に輝き、広島のリーグ初優勝にも貢献し、南海では主にリリーフエースとして最優秀救援に輝くなど、セ・パ両リーグでタイトルを獲得する活躍をしました。

球史に残る美しいフォームのサブマリン投手として、現在でも話題にあがることの多い投手でもあります。

 

【金城 基泰(かねしろ・もとやす)】

生年月日:1952(昭和27)年10月16日
入団:広島('76・ドラフト5位) 
経歴:此花商高-広島('71~'76)-南海('77~'84)-巨人('85)

通算成績:461試合 68勝71敗92S 1,162投球回 11完投 2完封 919奪三振 防御率3.33 ※日本でのキャリアのみ

位置:投手 投打:右右 現役生活:15年

規定投球回到達:3回('73、'74、’77) 

タイトル:最多勝 1回('74)、最優秀救援 2回('79、'80)、最多奪三振 1回('74)※当時表彰なし

オールスター出場:3回('74、'77、'82)

その他記録:0球でセーブ('80.10.2)

 

 

個人的印象

南海のリリーフエースで、この写真の通り極端なアンダースローが印象的でした。

当時まだ「抑え投手」が各球団に一人いたかどうか?という中で、いちはやく抑え投手として定着した存在と感じていました。

逆に当初の広島時代をリアルでは知らず、先発投手として活躍していた頃も全然知らなかったので、後から知った時それはそれで新鮮でした。

巨人へ移籍してきた時、当時抑えの角三男投手が絶対性を失ないつつあり、鹿取義隆投手も中継ぎの要素が強くて…というところで抑えの座に加わる事を少し期待していましたが、その頃は見ててもう駄目だったのかな?という印象もありました。

 

プロ入りまで

高校は大阪市の此花商業高校で、この学校は彼の卒業後すぐに此花学院高校と改称し、現在は大阪偕星学園高校へと改称し現在に至ります。プロ野球OBは他にほとんどいませんが近鉄に入った米崎薫臣選手などがいます。

後にチームメイトとなる新井宏昌選手と一緒に法政大学へ進学予定でしたが、スカウトの熱心な勧誘により1970(昭和45)年のドラフト会議で広島から5位指名を受け入団しました。ちなみにこの年の1位は地元・広島の広陵高校・佐伯和司投手で「広島の星」ともてはやされました。また2位も同じ広島・盈進高校・永本裕章投手で、この高卒ルーキー3名はいずれもパ・リーグにも在籍し2ケタ勝利を挙げるなど活躍しました。

 

 

初期キャリア

ルーキーイヤーは1971(昭和46)年、背番号はそれまで山本浩二(当時:山本「浩司」)選手のつけていた「27」を与えられました。

高卒1年目では一軍戦出場がなく、初めて一軍戦に出たのは2年目の1972(昭和47)年の事でした。

この年は27試合に登板、7試合に先発し3勝3敗防御率3.93で70⅔㌄を投げました。完投も2回記録し、ドラフト下位入団ながら高卒2年目で戦力として出てきました。

 

 

最高の栄誉

戦力として花開いたのが3年目1973(昭和48)年で、一気に2ケタ勝利を挙げ、40試合で10勝6敗防御率2.54の成績をあげ131⅓㌄という規定投球回ギリギリでしたがクリアし、初完封を含む2完封を記録しました。

同級生で同期入団のドラ1・佐伯投手も初の2ケタ勝利でしたが、こちらは19勝と最多勝を狙えるレベルまで台頭し、チーム成績はともかく共に21歳になる年でヤング・カープの時代が来たと言えました。
 

そして「頂点」といえる年が1974(昭和49)年でした。

初めてオールスターに出場し、最終的に20勝を挙げて松本幸行投手(中日)と共に最多勝に輝き、また当時タイトル認定こそありませんでしたが207奪三振でリーグ最多奪三振も記録しています。44試合で20勝15敗防御率3.64の成績で、規定投球回のほぼ倍にあたる252㌄を投げました。

この年、チームは3年連続で最下位に沈み、同級生でチーム内ライバルでもある佐伯投手は前年19勝から大不振に陥りわずか2勝止まり、同じく同級生で後から入団した実質新人の池谷公二郎投手も2勝で、2ケタ勝利は外木場義郎投手の18勝と2人だけでした。

最下位チームでの最多勝投手は当時史上2人目でした。

 

全盛から暗転

こうして4年目22歳になる年に20勝を挙げた金城投手は、将来を大いに嘱望され、まさにこれから全盛期を築いていく…はずでした。

 

しかしながら、この年オフに大分・湯布院で知人の車に乗った際に交通事故に遭い、あわや失明の危機に見舞われる重傷を負いました。

フロントガラスの破片が飛び散って両眼をやられたといい、プロ野球生活はおろか日常生活も危機に陥る状況で、球団オーナーから「せめて社会復帰はできるように」と大号令が飛んで、奇跡的な回復を見せたといいます。

 

奇跡の復活で胴上げ投手に

6ヶ月の入院生活を経て、チームはそれまでの3年連続の最下位から一転、監督は古葉竹識氏に代わっており、球団史上初のリーグ優勝を狙えるところまで来ており、8月から戦列に復帰するという驚異の回復ぶりを見せ「ほとんど見えてなかった」という目の状態をものともせず、16試合に登板し27㌄を投げ1勝0敗4S防御率2.67の成績を残し「救世主」となりました。

10月15日巨人戦で広島は悲願のセ・リーグ初優勝を決め、カープ史上初の胴上げ投手にもなりました。

尚、この年巨人は長嶋茂雄氏が新監督に就任するも史上初の最下位となり、実に対照的でした。

この1975年は強いカープ時代の幕開けでしたが、阪急との日本シリーズでも活躍し、1試合には先発し計4試合に登板しました。

しかし日本での現役生活15年間での優勝経験は、この年のみに終わりました。

 

その後は球団に対する不信感が芽生え、自身の成績もパッとしたものとならず、1976(昭和51)年は43試合で2勝9敗4S防御率4.85に終わると、松原明夫(後の福士敬章)投手らとのトレードで南海ホークスへ移籍する事となりました。古葉監督がかつて南海のコーチを務めており、野村監督の部下でもあった為のトレード成立となり、後に古葉氏は「ノムさんだから金城を渡した」と語っています。

 

この時期、広島の新人だった小林誠二投手が「自軍の投手が投げている時に、どう思って見てる?」と金城投手に訊かれ「がんばれ、抑えろ」的な事を言ったら「打たれろ、負けろ!と思って、見るんだよ!」と言われたのが衝撃だったと述懐しています。自軍のチームメイトもライバルであり、まずこれらに勝たなければならない、という事なのですね。昭和らしいエピソードですが。

 

南海へ

という事で1977(昭和52)年から南海に在籍することになった金城投手。

背番号は「21」を与えられ、個人的には金城投手で真っ先にイメージする番号はこの「21」でした。

移籍初年は先発を務め31試合で10勝11敗1S防御率2.51の好成績を挙げ、見事に先発投手として復活を果たしました。

2ケタ勝利、そして規定投球回数クリアも3年ぶり3度目(いずれもこの年が最後)で、オールスターにも3年ぶり2度目に出場しました。

 

しかし先発投手としてのキャリアは1977年限りとなり、オフに野村監督解任騒動があり、彼を心酔する抑えの守護神・江夏豊投手が広島へ移籍するなど騒動は発展しました。

結局、野村氏の1つ年下でこの年限りの現役引退を決めていた大ベテラン広瀬叔功選手が引退し監督に就任(前年9月に就任)した1978(昭和53)年からはリリーフに回り、以後日本球界退団まで先発機会は1度もありませんでした。

この年は出番が少なく19試合で30⅓㌄のみで0勝4敗3S防御率4.20に終わり、チームでもほとんどセーブをあげる投手がおらず、金城投手の3Sが最多タイという状況でした。

 

両リーグでタイトル

1979(昭和54)年はチームはなんとか最下位を免れた程度の成績ながら53試合に登板し4勝5敗16S防御率3.31で98⅓㌄を投げました。4勝16Sの20セーブポイントで南海移籍後初のタイトルとなる最優秀救援を獲得しました。

広島では先発として最多勝を獲得し、南海では抑えとして最優秀救援を獲得するという、両リーグでそれぞれ違う立場でタイトルを獲得する稀有な例となりました。

このあたりから南海の守護神=金城という図式が出来上がっていったと思います。

 

翌1980(昭和55)年もチームは最下位ながらも31試合で6勝4敗13S防御率3.63で56⅔㌄を投げ、19セーブポイントで2年連続で最優秀救援に輝き、パ・リーグを代表するリリーフエースの座に定着しました。

当時は分業制が未確立で、チームに抑え投手がいる球団と先発投手がリリーフを兼ねる球団とがあり、南海は前者であり、どのチームも抑え投手の必要性を感じながら、後者のようなまだ確立されていない球団もありました。

この年、0球でセーブをあげる離れ業を演じ、登板して1球も投げないうちに牽制球でアウトにして試合終了となった訳です。しかもそのランナーは「世界の盗塁王」福本豊選手でした。この牽制をめぐってはボークの疑いとしてクレームがつき、ゲームセットが宣告されたのが約1時間後という、いわくつきの試合となりました。

 

1981(昭和56)年は防御率こそ1.80と素晴らしかったですが、30㌄のみで23試合2勝0敗7Sに終わり、その後は1982(昭和57)年6勝21Sを挙げ、27SPを獲得(最優秀救援のタイトルは日本ハムとしてパ・リーグに戻ってきた自身の南海での先輩守護神となる江夏豊投手が獲得)し、唯一の20S以上となりました。

1983(昭和)年は4勝15Sで19SPと弱体チームにあって守護神として奮闘を続けていました。

 

チーム順位の話として、金城投手は一軍デビューした1972年から南海最後の1984年までの13年間で優勝は1975年の1度だけですが、Aクラスも1975~77年の3度だけで、他の10回はすべて5位か6位というほぼ毎年最下位争いの中でキャリアを重ねていました。彼のリリーバーとしての存在がなかったら、チーム成績はもっと悲惨なものになっていたのかもしれません。

 

しかし1984(昭和59)年は少し歯車が狂ってきた感があり、20試合で0勝1敗8S防御率3.86に終わりました。これ以降日本で白星を挙げることがなくなりました。

 

巨人へ

トレードで巨人への移籍が決まり1985(昭和60)年に移籍した金城投手。

背番号は、同級生で同じアンダースローだった小林繁選手のつけていた「19」になりました。

それまで近鉄や阪神へのトレード話があったそうですが「(南海と同じ)関西で活躍された困る」として立ち消えになっていたそうです。

しかし、初の東日本での球団で、全国ネットの巨人で注目されながら、全盛がとうに過ぎていた事や水が合わなかった事もあってか、一軍の試合には出るものの中継ぎの勝負どころではない場面でよく起用されていました。

これでは実績も上がらないだろうと思って見ていましたが、南海の守護神としてオーラが既になく、ただ淡々と投げているだけのように見えました、あくまで個人の感想ですが。

結局17試合20⅓㌄で0勝0敗防御率4.87という成績に終わり、33歳で引退…ではなく日本球界を去る事となりました。

 

 

通算68勝71敗92S、後半は勝敗よりセーブ数だったと思いますが、通算100Sまであと8Sを残して日本球界での区切りとなりました。

 

 

巨人退団後は、かつての師である野村克也監督の勧めで韓国球界へ渡り、2年間で通算16勝19敗5Sを挙げますが、1987(昭和62)年に35歳で引退し、その後は韓国を拠点に活動していた時期もありましたが、現在は大阪で少年野球指導をしているとありました。

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 巨人へ移籍し、結果的に日本での最終年となりました。勝敗Sの( )内の通算成績そのままで17試合を上積みするのみにとどまりました。

独身だったようで、当時の選手名鑑は独身者の場合は好みの女性のタイプが記されていました。

 

      

 

 

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