奈良県斑鳩町の法隆寺に鎮座される聖徳太子像

嘗て一万円札に描かれていた聖徳太子像とはかなり印象が違う。

こちらの方が目が鋭く、厳しい性格が窺われる。実像に近いのだろう。

 

 

 七世紀初頭に書かれた中国の歴史書『隋書』によると、当時の天皇=倭王は天足彦(アマタリシヒコ)と云う名の男王と記すのに対し、『日本書紀』は当時の大和朝廷は推古天皇と云う女帝が統治したと記しています。

 

 それに加え『隋書』は九州辺りに「秦王国」があったと記すが、『日本書紀』には「秦王国」の記載が一切ないので、もしも「秦王国」が本当に実在したのなら、どうやら『日本書紀』は「秦王国」を隠蔽したもようです。

 

 『隋書』を読んだ古田武彦氏は、アマタリシヒコとは『記・紀』が推古天皇の摂政をしていたと記す聖徳太子ではなく、『九州王朝』の王と解釈したようです。

 

 しかし私はアマタリシヒコとは古田氏の言うように『九州王朝』の王ではないとと考えています。『記・紀』は大和朝廷の王である聖徳太子アマタリシヒコを隠蔽したうえに、推古天皇と言う架空の女帝を捏造し、聖徳太子推古天皇の唯の摂政としているからです。

 

 しかし私は、当時の九州には『隋書』に記される「秦王国」が実際にあって、大和朝廷とは独立した政権を営んでいたと考えています。

 

 

 『隋書』は七世紀初頭に同時代の歴史を記したものですが、九州にあったとされる「秦王国」とは、いったい何時頃からあったかを考える必要があります。

 

 「秦王国」がその名のとおり秦の始皇帝と関係する国であれば、『魏志韓伝』によると卑弥呼時代の朝鮮半島には秦韓(辰韓)国がありました。

 

辰韓在馬韓之東 其耆老傳世自言 古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之

 「辰韓は馬韓の東に在り。古老が代々伝えて申すには、 古に秦の労役を避けて韓国に逃れてきた者たちに、馬韓が東の外れの土地を割いて与えたと。」

 即ち、弥生時代の韓国には辰韓と呼ばれる国があり、辰韓の民は、秦の始皇帝時代に強制労働から逃げてきた人々の末裔であり、当時の馬韓王は朝鮮半島南東部の土地を割いて与えられたらしいのである。

 

 つまり、北九州の「秦王国」は、辰韓から倭に渡来した人々が建立した国であり、聖徳太子時代に、大和王朝と異なる地方王権を形成していたことになります。

 この「秦王国」はどうやら聖徳太子時代辺りには、大和朝廷とは比較的平和に共存していたようだが、磐井の乱辺りには対立していたと考えられます。

 なぜなら磐井も「秦王国」とは同盟を築いていたらしいからです。

 

 しかしながら、大和朝廷は「秦王国」が東遷して出来た王朝そのものなのであり、 応神天皇は「秦王国」を北九州に建国した後、応神天皇自身は畿内に東征、籠坂王、押熊王を滅ぼして、大和朝廷を簒奪するが、北九州に残された「秦王国」は、同地に独自の文化を築いていたようです。

 

 

 

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