最近ヤフコメを見ていて(※一切書き込みはしていません)面白いやり取りがありました。自分は大嫌いな作品なのでアニメマンガ含めて作品自体は一切観て無いのですが、主人公について新しい能力紹介とその能力を持っている理由解説みたいな記事だったのですが、その能力というのが「想像すれば何でも実現する力?」みたいな良く分からない物で、それについてファンの方同士で喧々諤々と議論していた訳です。
それを読んでいて気付いたのですが、議論の約20件に一回くらいの高頻度の投稿割合で「マンガと現実の区別ついて無いな」「マンガの能力なんだから現実と区別しろよ」「マンガの事なんだから現実的に議論するなよ楽しめばいいじゃん」みたいな系統の「現実と区別しろよ類型」の書き込みがみられた事です。
おそらくそこに書き込みしていた投稿者の99、9%処じゃない、確実に100%の者がそのマンガの主人公は架空の人物で世界観も架空の物と理解してたはずです。その上で「一体想像しただけで実現する能力はアリかナシか」を議論していたという事でしょう。むしろそうした空間で「現実と区別しろよ」と言い出す人間の方が異質と言えると思います。
という訳で、今回は現代日本のアニメマンガ映画批判に頻出する「現実と区別ついて無いな類型」について書きたいと思います。
昔1「電車で大学生がまんが雑誌を読んでいた。非常に嘆かわしい」
昔2「大学生がアニメの映画を大挙して観ている。現実と区別が付いているのか?」
今では信じられない事だが、昔はこの様な批判が良く行われていた。つまり昔は平然と日本ではアニメマンガを見る事に対して差別が行われていた訳ですが、実は今アニメマンガを批判した時に頻出する「アニメマンガを批判するなんて現実と区別ついているのか?」という良く分からない反論の原点がここにある訳です。
つまりこの「現実と区別ついているのか類型」はアニメマンガ否定側、アニメマンガ肯定側も実は単純に相手を批判したいor批判をなんとかして封じ込めたいという意図から出た、攻撃性や侮辱の感情から出ている言葉であって、大半の場合は根拠も論拠も無い事が殆どです。
A昔の人「大学生がアニメやマンガなんて観て、ちゃんと現実と区別ついているのか?」
↑↓ 実は本質は同じ。論拠無し。
B今の人「アニメやマンガを真剣に批判なんてして、現実と区別ついているのか?」
この事を解説する為に分かりやすい例え話をします。
①例えば
Aという人が「東京に言葉を話す動物が人間の様にして住んでいる社会風刺アニメ」を観て「大変感動した」と友人Bに話すとします。
すると友人Bは「言葉を話す動物が東京に人間の様に住んでるアニメを観て感動するなんて、現実と区別ついていないのか?」と言ったらどう思いますか。
おそらくAという人は「いやいや東京に言葉を話す動物が住んでいない事はちゃんと理解した上で、そういう架空の設定の上に素晴らしい人間ドラマが描かれていたので感動したんだよ」等と言うのではないでしょうか。
最も今現代の日本に友人Bの様な事を言う人は少ないですが。
②では次に、
Aという人が「東京に言葉を話す動物が人間の様にして住んでいる社会風刺アニメ」を観て「動物によって黒人や白人の差別がメタファーとして肯定的に描かれていた、大変憤慨した」と友人Bに話すとします。
すると友人Bは「言葉を話す動物が東京に人間の様に住んでるアニメを観て憤慨するなんて、現実と区別ついていないのか?」と言ったらどう思いますか。
おそらくAという人は「いやいや東京に言葉を話す動物が住んでいない事はちゃんと理解した上で、そういう架空の設定の上に人種差別が肯定的に描かれていたので憤慨したんだよ」等と言うのではないでしょうか。
逆に、最初のヤフコメの例でも書いた様に、今②の友人Bの様な事を言う人は大変多いです。
つまり何が言いたいかと言えば、会話者Aさんは、物語が架空だとかSFだと理解した上で感動したり憤慨して、その上で「作者の意図」を現実問題と認識して話している訳です。
しかし逆に友人Bは肯定側否定側双方にして、感動する事も否定して憤慨する事も「現実と区別が付いておらず、極限すれば精神が病んでいる」と決め付けている訳です。
時代によって世論が一方通行に
恐らく昭和の時代の大半、先に書いた様に①の様な主張が大半でした。そうした中でアニメマンガ関係者は大変な差別と闘ってこられた訳です。
所が現代の日本社会では②のパターンが大勢を占め、どんなアニメマンガ批判にも「現実と区別ついていいないのか!」という反論が向けられます。
例えば確かに「本当に現実と作品の区別がついていないタイプの批判」というのはあります。昭和の昔で言えば薄幸の少女が継母とかにいじめられるなんていうタイプのドラマが多かった様ですが、そうしたTVドラマを観て「継母役の女優が許せない、不幸の手紙を送ってやる!!」みたいな事をしていた人が本当にいたようです。しかし現代はそうした例は本当にごく少数で、大半の場合作品と現実と区別をして批判している訳です。
所が昭和の昔では①が支配的だった物が、現在日本では②が支配的となり過ぎて、半ば大御所や国民的人気作品は完全に権威となり、どの様な批判も「現実と区別がついていないのか!」とレッテルを貼れば批判を完全に封じる事が出来るという様な一方通行な世論の雰囲気があると思っています。これは明らかにいびつな状態と言えるでしょう。
例えば自分は国民的人気作家である宮崎駿のアニメ作品の何割かは、「反天皇思想」「旧日本軍批判思想」「唯物史観および社会主義賛美思想」で出来ていると思っています。
しかしそうした事を書くとかなりの確率で「宮崎アニメを批判するなんて現実と区別ついていないのか!」という反論が返って来ます。
しかし繰り返しますが、自分は宮崎アニメは架空作品であるという事を念頭に置いた上で、彼のこれまでの過去発言や政治思想信条を考慮した上で、作品世界内で左翼思想が描かれていると判断している訳です。
さらに言えば、宮崎駿アニメ作品程の有名権威作品になれば、書店に行けば「宮崎アニメの哲学」みたいな本がズラっと実際に売っています。そこには「宮崎アニメにはエコロジジーが」「宮崎アニメには行き過ぎた工業化社会ガー」みたいな難しい事が沢山書かれているはずです。(自分はそういうのは左翼学者が書いた物と思うので一切読まないですが)所が、左翼側が最もらしく宮崎アニメを現実の社会学として論じる時は大丈夫なのに、「宮崎アニメの中に唯物史観や反天皇思想が描かれている」と指摘した途端に「現実と区別ついて無い!」と批判するのは反論としても手抜き過ぎでしょうと思うのですが。
支配者側が言う事の問題点
自分がさらに問題だと思うのが、昔の昭和の時代にアニメマンガ差別と闘ってこられた方々の時代と違い、現代の日本の問題点は明らかに大御所作品だとか国民的人気作品と言われる存在については、日本を支配している反日左翼マスコミと結託して、「支配者側からの弾圧」として「作品と現実が区別ついていない」と言い出し連呼している点です。
昔ソ連ではよく政敵を弾圧する口実として、「奴は精神を病んだので失脚させる」というのがあったのですが、今の日本のTV局やマスコミは平然とそれと同じ発想に陥っている訳です。自分達の意に沿わない主張=連中は精神を病んでいるぞ!と言いレッテルを貼るツールとして「作品と現実の区別がついていない」が使われているのです。
そうして弾圧的立場でいながら「自分達は弱い立場」「守られるべき立場」と宣伝して、絶対に自分達が批判されないという安全な立場から一方的に他者や保守派を批判し続けている、現代日本はそういう異常な状況な訳です。そうした異常な状況の一端が知れる言葉が「作品と現実の区別がついていないのか!」という安易で一方的なレッテル貼りの頻出だと思っています。
昭和の時代の様に電車でマンガ雑誌見ているだけで白い目で見られる・・・というのも異常ですが、宮崎アニメを批判したら「現実とアニメの区別がついていない」と精神異常者というレッテルを貼られるのも相当に異常な社会だと気付いて欲しいです。
↑宮崎駿ジブリ映画「もののけ姫」この映画では明らかに左翼唯物史観による天皇否定の思想が描かれているが、この映画をエコロジーや自然破壊の観点で論じる事は許可されても、宮崎が反天皇作家であるという事を大々的に書く事は絶対に許されない。そう書いた途端に「現実とアニメの区別がついていない」と精神を病んでいるレッテルが貼られる恐ろしい社会である。
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