三吉慎蔵は世紀の改まった明治34年(1901)に71歳で長府で永眠した。
慶應2年(1865)正月の龍馬と生死を共にした寺田屋遭難から35年後になり、今年は没後122年目になる。
明治11年末の慎蔵
慎蔵の晩年の日記は、字がミミズがのたくったかの様な筆で極めて読みにくい。
年を取るに従い、筆力が弱くなったかようだ。
晩年の日記には、家族の中では孫の梅子の事がよく出てくる。
梅子の母友子は前年33年に病死しており、父の玉樹は東京にて大村家に奉職している。
長府で一緒に暮らしている慎蔵・伊予夫妻には、孫の梅子が生きがいになっているかのようだ。
親戚巡りやイベントなどによく連れ出し、
たとえば、明治33年には、4月7日梅子の小学校の入校式があり、慎蔵が付き添っている。
ただ僕の祖母になる梅子は体が弱く、しばしば松岡医師(元藩医)の世話になり、学校もよく休んでいる。
正月の日記は1日5行ほどの記述があるが、2月に入ると極めて少なくなる。
正月31日より気分を害し、松岡医師の来診が始まる。
謹厳実直な慎蔵は2月7日まで用達所(長府毛利家事務所)へ出勤していたが、この日を以て止めている。
体調が良くないのは、毎日書いている日記で8日、9日、10日、11日と、松岡医師の来診の記述が続くことでわかる。
以下に最後の2月の日記をあげておこう。
2月1日小雨 49
同2日雪 32
同3日雪 31
同4日雪 32
○一松岡来診あり
同5日小雪 38
一ふとう酒三本かし一個
右清末公より内藤金次郎御使を以
御二方様より御内々御持被下候事
一用達所へ出頭す三島家扶御免
江良家扶被仰付候事
同6日晴 4
同7日雪風 39
一用達所へ出頭す記事なし
同8日陰小雪 39
○一松岡来診薬用す
同9日陰 38
○一松岡来診
同10日陰 39
○一松岡来診
同11日陰雪 4
○一松岡来診
一式あり出校す梅子
(欄外)
御祭日休
同12日小雪 36
同13日雪 4
○一松岡来診あり
2月7日で長府毛利家への出勤も止め、自宅療養していたが、
13日で日記は終っており、16日まで筆も持てない危篤状態になったと思われる。
慎蔵の死去はすぐに関係者に報知されるが、
なかでも家族同志で親しく交流していた東京の乃木希典には、
長府毛利家家扶・三嶋盛二より、病症や死去の様子が書簡で詳細に伝えられた。
とりあえず祥月命日の今日は、好きだったであろうお酒を供えておいた。