子供の頃の話だ。
私がまだ小学生になるかどうか、多分、その前だと思う。
私の曾祖母が住んでいた所の近くに、結構な量の土管が転がされていた。
子供が勝手に土管と称していたが、今から考えるとヒューム管と言うのだろうか。
コンクリートで作った、直径が一メートル位の結構太い管だった。
それを何に使ったのか、今でも解らない。
当時は下水は殆どなく、上水に使うのにコンクリートで作った管では不自然だ。
多分、今の私の想像では、川から水を採り、その水を浄化させるまでの導水管ではなかったかと、思い当たるが事実は解らない。
もう、60年以上の前の事だ。
その場所は、今では上水管に使う、鋳鉄管を置くようになっていて、我々が子供の頃は、そこを水源地と呼んでいた。
逆円錐形の水を入れたのであろう大きなタンクがあったその場所に建物が建ち、鋳鉄管が置かれている。
その昔、子供の我々が土管と称していたヒューム管の中に、時々、私たち子共よりも少し年上の少女が入って座っているのを見かけていた。
その少女が入っていた菅は、日頃、人が通る道よりも、少しばかり引っ込んだ場所にあり、通行人では気がつかない。
日頃遊び場にしていた私が、雨が降って来たので、チョットと入ると、その管の反対側に座っていたのである。
私に気が付くと、彼女は口に手を当て、さも「シー」っとするような仕草をした。
それを私は、子供心に今喋るな、自分の存在を黙っていて、と、捉えてしまった。
だからその後も時々見かけても、話しかけず、また、誰にも言わなかった。
でも、目が合うと笑顔だけは交わすようになっていた。
ただ一度だけ、日頃小遣いなど貰えず無一文の私が、何故自分がお金を持っていたのか判らないが、近くに来る紙芝居の、自分はニッケを買い、その少女の分の水あめを買って渡したことがある。
彼女はニコッと笑って受け取り、美味しそうに少しずつ舌で舐めていた。
目が合うと、笑顔のままで、水あめを舐めている彼女は、また、ニコッとほほ笑んだ。
そして、秋が来てセイタカアワダチソウが黄色になって、やがて、その色が褪せるころに、彼女が「ありがとうね」と、私の頭を撫でて去って行った。
それきり会わないままだ。
痩せぎすで、余り清潔感のなかった彼女の後姿が、時々鮮明に脳裏に浮かんでくる。
子供の頃の記憶であれ、もう少し年上になった頃であれ、思春期であれ、何気ないどうでもよい事が、鮮やかな記憶として残っているのは一体何だろうと思ってしまう。
雨を見ていると、フト、子供の頃の記憶が戻ってきてしまって……。
私の五島列島のふるさとには、残念ながら小さな川はあったものの、思い出に残るような川ではない。
が、故郷とは言えないが、子供の頃の記憶では小倉の中心部を流れる紫川になる。
魚を釣ったり、川原で遊んだり、楽しい思い出がたくさんある。
この歌を聴くと、いや、紫川を見ると、つい、この曲が口を突いて出てきます。