マグダラのマリアが隠遁生活を送った
南仏サント・ボーム洞窟
そしてゴッホが過ごした
サン=レミ療養院を巡った日
夕方にはアヴィニョン市内(城壁の中)へ戻った。
夕方6時頃とはいえ御覧のようにまだ明るく
さすがにハードな1日で疲れていたが
街を散歩がてら夕食をどこかで摂りたいと思った。
このような堅牢な壁に囲われた街で暮らすのは
昔の人たちにとってどんな気分だったろうか。
壁はときには侵入者から守る盾にもなるが
逃げ場のない青天井の牢獄ともなる。
壁の代わりに海で四方八方囲まれている
日本という国もその例に漏れないのではないか。
城壁の門から延びる大通りを一歩横町へ入れば
物静かな昔の時代の佇まいに時を忘れそうになる。
その中のある路地を覗いてふと目に留まったのは
路地の突き当りにまるで私を迎えるように
立っている一体の彫像であった。
両手を広げ「おいでおいで」をしているように
少なくとも私には見えた。
私は教会の祭壇へ向かって
一歩一歩近付くように歩いていった。
もっと近くでその姿を眺めたいと思ったのだ。
性別や年齢を超えた柔和な顔立ちに
ー失礼ですが貴方はどなたでしょうか?
思わずそう尋ねてみたくなる。
しかし何と言っても印象的だったのは
こちらに差し出されたその両手の表情だ。
全てを包んでくれるような大らかさと力強さ。
これを書いている現在、ふとある本の表紙を
正確に言うと写真を思い浮かべた。
手に取ったのは大分前たが
一目見てじーんと胸が熱くなった記憶がある。
写真がいいのかお地蔵様の姿形がいいのか
自然と一体化したそれから溢れ出る
無言の祈りを聞いた気分になったのかもしれない。
(祈りについてこの本の内容から)
祈りというものはおおむね自己救済を目指すもの。
つまり人の持つ祈りというものは、
○○のために祈るという姿からは逃れようがない。
そこに尊さを感じながらも
人間の業の深さをも感じる。
たとえ世界平和のために祈るというものでも
時にリアリティを欠くものとなる。
まして御利益を求める祈りなど
卑俗でしかないと著者は語る。
藤原氏は祈りのかたちを模索しながら
祈らない四国遍路の旅を続けるが
ある時ひたすら無心に小さな仏像に
手を合わせる幼女の横顔に
畏怖を感じているような瞳に
はっと気付かされる。
「祈り」と「願い」とをセットとして考える
祈りというもののあり方を捨てること。
なにも願わない
そして無心に手を合わせること
そして写真のような雨風の中に佇む無名の
さまざまな表情を持った地蔵たちに出会うのだ。
それはおそらくは私たち一人一人の
分身ではないだろうか。
私vingt-sannはそう思うのだ。
著者である藤新新也はそこで新たに思う。
自分のために祈ること
「海のような自分になりたいー」と。
その意味は限りなく広く大きな心を持った
人間をイメージしてのものだろうか。
私もできればそうありたいと願ってはいるが……。
アヴィニョンの路地で私を招くように
両手を差し伸べてくれた
あの御方の全てを包んでくれるような
大らかさと力強さは
私がまさにそうありたいと願う
その姿を具現していた。
大通りへ戻りまっすぐ行くと広場があった。
市庁舎
道の両側は数多くのレストランで埋め尽くされ
ディナーの客で賑わっていた。
とにかくどこでもいいから座りたかった。
どうということのない店で
どうということのない夕食を摂った。
いや、本当言うと今まで食べた中では
いちばん最悪のガレットだったかもしれない。
どうりでほかの店に比べて
客が少なかったのも頷ける。
一見の観光客目当ての必死な争奪戦。
リピーターの客はたぶんあるまい。
だが海のように心の広い自分にとっては
ちっぽけな出来事に過ぎないと
何とか胃に流し込んで
ホテルへ早々に戻った。
これは滞在先ホテルの窓から見える風景
まさに城壁の街にふさわしい眺め!!
(この外に張り出した丸いスペースはなんだろう)
この街にいられるのもあとわずか1日。
明日は本格的な市内散策に繰り出す予定である。
ー続くー
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by vingt-sann
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