山口泉「この“戦争”は『宗教戦争』でも『革命戦争』でもない」再録〔1/3〕 テレビ・大衆文化(第7信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために――


山口泉「この“戦争”は『宗教戦争』でも『革命戦争』でもない」再録〔1/3〕




 前回、私はまず某“真理教”事件をめぐって、それを巷間喧伝される、その額面どおりの「事件」として取り扱うことの危険性を、ある「仮説」の形をも伴って述べた。

 私のこの考えは「事件」発生以来、今日にいたるまで一貫して変わらない。
 このことを大前提とした上で、次に、目下のところ顕著な傾向として指摘できる点を中心に、「事件」をめぐって日本社会に生起している奇怪な事象について、さらに詳しく言及しておきたい。

 というのは、一連の経緯のどこをみても、この某“真理教教団”に対し、たとえばかつていわゆる「左翼」思想や「左翼」的運動家に対して向けられてきたような鬱屈した「憎悪」が感じられないことだ。戦前・戦中・戦後を通じ、一貫してこの国にはびこってきた、警察も司法もマスメディアも——いわば官民一体となった、あの「骨の髄からの憎悪」が。

 「左翼」一般に対する監視や取り締まりの執拗な厳しさ、逮捕後の言論封殺やマスメディアの峻烈な攻撃、保守的な市民社会からの排除、裁判における一方的な訴訟指揮……等等と、厳罰に比較したとき、某“真理教”信者たちへの、警察・司法その他の異様なまでの寛容さや、また報道機関の当初から現在にいたるまでの厚遇は、何を意味するのだろう? 
 何が、それを可能にしているのだろう? 
 拘置所の待遇に関する“教祖”の不満までが逐一、全国紙で報じられるようなことが、「公安」犯罪に限らない、たとえば総理大臣経験者の逮捕の場合にも、これまであったろうか。

 この類例を見ない特権性は、相対的に“教団”における位階が低いことによって「事件」総体への関与の度合いも低いはずだという先入観とともに眺められる“信徒”の場合には、いっそう顕著となる。

 個別の刑法該当条項の範囲における運用のしかた以上に、起訴事実の認定範囲の問題に由来するものと思われる量刑の軽さ。
 被告への、裁判長の諄諄(じゅんじゅん)たる説諭。慈愛溢れる督励。
 そして大新聞のキャンペーン記事やТVのワイドショーを通じ、いまだ個別の罪状も明らかにされていないうちから、早くも彼らの“更生”の心配がされ、“社会復帰”への道筋が情緒的に語られる光景は何だ? 

 ワイドショーのコメンテーターたちがいち早く「一般信者」たちの今後に心を砕くのは、単に彼らを取り上げる番組が高視聴率を見込めるという、それだけの打算にもとづくものではあるまい。視聴率というなら、1971年の連合赤軍による「あさま山荘」占拠事件は、ТV報道史上空前の視聴率を達成した。にもかかわらず、連合赤軍に対しては、日本社会からの重層的な「憎悪」が終始一貫して、ある。

 「あさま山荘」といえば、その終熄(しゅうそく)の宵、機動隊員に羽交い締めにされ「見ろ、これが人殺しの顔だ」と、サーチライトを浴びながら、報道陣のあいだを引き回された連合赤軍の容疑者たち(ちなみに、この時点では「リンチ殺人事件」はまだ知られていなかった)と、某教団“教祖”の鄭重極まりない逮捕・護送の情景との雲泥の差は、私の眼には、はなはだ印象深いものとして映った。
 端的に言えば、ここでそっくり欠落しているものは、警察の側からの「階級的憎悪」である。

 むろんそこには、このかんに報道の人権侵害に対する意識を高めようとする、心ある人びとの働きかけがあったことを考えに入れても。
 なぜなら、ТVや新聞、週刊誌の「犯罪報道」による人権侵害の度合は、総体としてはむしろ近年にいたっていっそう多様化し、強まってきていると思われるからだ。

 言うまでもなく、そもそもいかなる人間であろうとも、本来こうした形で人が名誉を毀損されてはならない。ただ、ほぼ4分の1世紀という時間の経過だけでは説明しきれない、あきらかに警察権力にとっての「憎悪」の度合の違いが、連合赤軍の「兵士」たちと、某“真理教教祖”とに対して、あったと私は受け取っている。

 そしてそれを可能にする、一般に「脱政治」化された事柄への、日本社会一般のこの寛容さ、鈍感さは何なのだろう? 
 逆に言えば、それがひとたび何らかの「政治性」を、いささかなりとも帯びたときの、試験紙が100万分の1㎖の成分にも瞬時に反応するような、あの苛烈で徹底した排斥や攻撃は、一体何なのだろう?
 この国の大衆の「アカ」「主義者」「左翼」に対しての憎悪を思うと、そうした集団の中からは、たとえば某“真理教”の元“広報部長”のような女子高生のアイドルは生まれそうもないことが判る。

 ここには、大衆社会からの好奇の眼はあっても、不思議なほど、憎悪はない。
 「階級的憎悪」のない“逮捕劇”と公判、そして“社会復帰”のキャンペーンが、来る日も来る日も無限に反復されているだけなのだ。
         
 そうした意味からも、某“真理教”を「革命」勢力だなどと規定することほど、笑止千万な茶番はない。
 彼らは「戦後」を名実ともに、本来あるべき方向ではなく、逆の方向に終焉させるために機能した、最も効果的な「反革命」部隊にほかならなかった。

 彼らが「革命」を企図した、などという言説がしたり顔で口にされ、罷(まか)り通っていること自体が、醜悪きわまりない喜劇である。
 某“教団”とその「事件」とは、それだけをとってみれば実に貧しい想像力とおぞましい権力欲との、惨憺たる交配物にすぎない。
                                    〔この項、続く〕







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by uzumi-chan | 2011-11-22 10:13 | テレビ・大衆文化

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