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熊本から気ままに山と自転車のブログ

藪孤山の墓・霊犬の墓

藪孤山の墓・霊犬の墓
2023/7/5(水) 曇
今日は最高気温28°小雨交じりの曇天だったが、午後16時現在大雨の可能性はないようなので、傘を片手にウォーキングに出る。目的地は、熊本市営花園墓地の藪孤山の墓と霊犬の墓とする。

往路の道端に、ヒマワリの花(写真1参照)が咲いている。


墓地入口の正面の道(写真2参照)の突き当りを左に行けば藪孤山の墓方向、右に行けば霊犬の墓方向。


本妙寺本堂に出る道の中程に三名の名前を書いた標識(写真3参照)がある。「藪孤山の墓」へは、ここを右折する。


右折した道は左方向に曲がっているが、そこの分岐を真直ぐ墓地の中へ入り、直ぐ左のコンクリート階段(写真4参照)を上がる。


階段を上り詰める左側に「藪孤山の墓」の白い標柱(写真5参照)が見える。


墓石(写真6参照)は市街地方向を背に、山側を向いている。


標柱説明文(写真7参照)には、「享保二十年(1735)~享和二年(1802)、儒学者、第二代時習館教授。
幼くして経史詩文に通じ、藩侯の命で江戸、京都に遊学、時習館の訓導を経て第二代教授となる。約四十年間教育に尽くし、大塚退野と共に朱子学を振興した。
なお、森鴎外は「小倉日記」に孤山の墓を探したが見つからなかった事を記している。」とある。


来た道を下り入口正面道路に出て、分岐を左折して道を上がる。上り詰める少し手前に「霊犬の墓」の標柱(写真8参照)がある。


右側に下って直ぐ左折して奥に進むと墓石と白い標柱(写真9参照)がある。写真8の右側墓石群の中にも見えている。
標柱説明文には、「津崎五助は、細川忠利公が、日頃可愛がっていた犬の世話をしていました。忠利公の死に際して殉死しようとした五助は、死に場所に決めた光琳寺に犬とともにやってきました。五助は、持参の握り飯を犬の前におき、「自分と一緒に死にたいなら食べるな、生きていたかったら食べよ。」と話しかけましたが、犬は、五助を見つめたまま食べようともしません。それを見た五助は、お前も殿様のお供をしたいのかと犬を引き寄せ一刀に刺した後、自分も腹を切ったと伝えられています。この墓は戦後、光琳寺から移葬されたものです。」とある。ここを最後として帰途に就く。


明日は危険な暑さになるとテレビが報じている。
総所要時間2(実2)時間(ウォーキングの記事は1万歩以上)

自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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