マタイによる福音書
◆人を裁くな
7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、
どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
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NHK朝ドラでは珍しい日本で最初の女性裁判官、
三淵 嘉子さんの半生が描かれました。
裁判官はまさに人間が人間を裁くのですが、その根拠はその国の憲法です。
しかし、裁くことも神が裁くという基本的なことはNHKドラマでも
当然、ありません。
また、日本は唯一神がない国なので議論すらなされませんが、
世界はそうではありません。
神の裁きを取り扱う聖書を知らないと
裁きとは何か全く分からないのです。
中でも新約聖書では、中核ともいえる山上の説教は
そのことを真正面にとらえています。
そして山上の説教では、背後に終わりの日に
強烈な裁きのもとにさらけ出されることを前提にしているのです。
でなければここまで厳しい山上の説教に対して、
人間は耐えれるものでありません。
よくクリスチャンの世界であることですが、
この山上の説教によって「絶対、私は人を裁かない」という生活をして、
すべてに優先するのはキリストの愛だと実践する方がおられます。
しかし、それは大きな間違いなのです。
なぜなら本来、人間は裁くことを本能的にしてしまうのです。
人間的な戒めを守ろうとして裁いてはならないというを固守しても
もし何か信じられないことがある、
たとえばそれが敬虔なクリスチャンの妻であった場合、
夫が浮気していたことを知ったならば、修羅場になりましょう。
裁くなということを固守していたとすれば
なおさら惨憺たるものを味わうのです。
裁くの最後は終わりの日に神の前に出た時に問われるものです。
それをパウロはコリントの教会に書き送ったのです。
5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
ここで最後の裁きとは何かを次回に述べましょう。